自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

2.26事件/近現代史を振り返るーあとがき

2018-12-04 | 近現代史

1936.7.12 磯部、村中を除く15士処刑 8.7 「国策の基準」決定 大陸・南方海洋への進出方針 8.11北支処理要綱決定 華北5省の防共親日満地帯建設を企図 11.25日独防共協定 12.12張学良による蒋介石監禁 国共合作の端緒

1937.7.7 北京郊外盧溝橋で日支両軍衝突 7.28日本軍、華北で総攻撃開始 8.15対華全面戦争開始(華中-上海で激戦) 8.19北・西田・磯部・村中処刑 8.21 中ソ不可侵条約調印 紅軍、八路軍(国民革命軍)に改編へ 事実上の国共合作成立

2.26の首魁たちは、満洲国容認、華北侵略反対、対米戦回避、対ソ戦警戒であった。北以下4名は刑死の前に日中戦争という亡国の事態を知り得ただろうか? 
わたしの近現代史への関心は菊地章典先生に薦められて石光真清の手記4部作を読むことから始まった。真清は10歳で熊本城下で西南戦争をまじかに見た。私は真清の足跡を追いながら日清戦争(台湾掃討) 対露諜報、日露戦争、シベリア出兵、韓国義兵闘争と韓国併合、関東大震災に筆を進めた。大正デモクラシーと国際協調路線をはさんで、治安維持法と大陸積極政策、満洲事変、国内動乱を研究した。そして回りまわって西郷の西南戦争に舞い戻った。
たくさん書いたが、田中上奏文*が偽書を装った巧妙な情報秘匿策であることを発見したことと樺美智子さんの死の真実を突き止めたことは、自負に値すると思っている。
田中義一首相が提起した「対支政策要綱」の基礎資料である東方会議の秘密議定書「満蒙における積極政策」である。その後の張作霖爆殺、満州事変、満洲建国の伏線となった。ソ連、英米が反対しても満鉄を核とする満蒙の開発と大陸の経済資源で国富を増強すれば十分排撃できる、という新国防思想の根拠となった。国際連盟も極東裁判も巧妙なセキューリティ・トリック(漏洩しても偽書とみなされる仕掛け)にはまってその歴史的重要性(ヒットラー『わが闘争』を想起させる)を見逃してしまった。
対中国戦争、対米戦争については対象化する気はない。これまでの考察、なかでもシベリア戦争の考察から、日本の対華戦争が謀略と先制攻撃で電撃的にはじまり独断専行で戦線を拡大し、戦争に付き物の略奪、強姦、虐殺が欧米で広く宣伝され、大義なき戦争で国際的に行き詰まる、強大な連合軍と戦った太平洋戦争に至っても勝利が見込めないままずるずると戦争を続ける成り行きが想像できて研究する意欲がわかないからである。
かわりに自分史にかかわるエピソード、ニュースのトピックは戦時ものも積極的に取り上げるつもりである。

国境の接地を接壌という。この間たびたび目にしたなじみのないこの言葉がずっと気になっていた。
敗軍の将を痛罵する表現に、彼は地球儀(または世界地図)を見ながら戦略を立てた、というのがある。世界地図だけで戦略を考える軍略家がいないのと同様に世界地図を見ないで国防を論じる者もいない。だから私も日本を中心にした世界地図を観ながらこれまで対象としてきた日本の国防論、戦争の歴史を振り返って後書きとしたい。
本格的な地政学(地理政治学)のなかった幕末、吉田松陰はオホーツク、日本海を内海とみなしたうえ、朝鮮・琉球の朝貢を主張し「北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋[ルソン]諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記している。
山県有朋は欧州視察の経験から一歩踏み込んで主導線[国境]・利益線[朝鮮半島]なる概念で国防を論じ、後日田中義一に帝国国防方針(既述)を立案させた。
当時よく使われた接壌という用語は欧米起源の地政学の中には見当たらない。狭い意味では国境に接する地帯、軍人たちの共通理解では国境の両側の国防上警戒すべき、できれば担保したい地帯である、と私は理解している。砕いて例えて言えばセクハラ・ゾーンである。手を出したいが出したら平和を破る微妙なゾーンである。

具体的には千島、樺太、沿海州、朝鮮、満洲、台湾である。ロシアを意識したこの区域設定については、西郷も青年将校も、はたまた武官として欧米を視察して地政学を学んだ一夕会中心の将官佐官からなる軍首脳と中央幕僚も同一見解であっただろう。

さて、環太平洋の地図に目を移して見よう。出典は23年前の「日本の侵略展」北摂実行委員会パンフレットである。私が引いた〇の内側を見て欲しい。



日本の「生命線」満州国を建国すると華北があらたな接壌になる。そこを侵略すればもはや踏みとどまることができない。接壌国防論は、戦争の原因ではないが開戦の引き金になる。アメリカが内庭を侵されたと怒って米ソ核戦争手前まで行ったキューバ危機をあげるだけで余計な説明はいらないだろう。また国民を煽って排外的に国論を統一する手段にもなる。
荒らしてはならないその接壌-華北でたちまち旧帝都北京を占領した。8月には国際都市上海で激戦を開始、11月に占領、12月13日首都南京を陥落させた。中国は広くて人口が多い。白旗を上げるはずの蒋介石は首都を奥地の重慶に移して徹底抗戦を宣言した。このときナポレオンがロシアでみた悪夢を一瞬でも想起した将官はいただろうか。長期戦になれば接壌論はお役御免になる。


上掲地図で南方は置いといて華北、満洲、朝鮮、台湾を含めた日本の「領土」と領海を見て欲しい。これを見て日本が極東の一島国から一大大陸・海洋国家に大きく成長したとうぬぼれない国民がいただろうか。神州不滅、大和魂の忠君愛国の教育で世界がみえない国民が戦争に熱狂するのは当然であるが、大学出のエリート軍人と官僚が日満の統一した計画経済と自給自足で戦争を遂行できる、戦争で戦争をまかないつつ、石油等足らない物資は南方に求めればよい、海軍軍縮の首枷が取れたからには巨艦を建造して太平洋の制海権を掌握できる、と踏んだのはいただけない。
かれらはスマートだから情報処理能力が高い。都合の良い知識と情報をつまみ食いして目先の戦術をたちどころに立案し、すぐれた執行能力を発揮する。だが精神主義と技術的、行政的側面にとらわれて戦略的思考のレベルが低い。蒋介石の臥薪嘗胆の策と巧みな外交戦略、毛沢東の「持久戦論」と根拠地ゲリラ戦術に完敗した。

最後に言いたいのは、排外主義をかきたてて来た接壌論を(できれば地政学も)世界情勢を考える上で有効利用、つまり平和のために逆用してほしいということである。次の戦争熱にかからない予防薬-ワクチンとして。中国、米国、ロシア、日本の今日の接壌はどこか。台湾、沖縄、尖閣、北方四島は関係国にとって接壌である。うっかりすると、日本そのものが米中ロの接壌にされるかもしれない。

 

 

 


5.15事件/藤井斉海軍中尉/陸軍士官学校生

2018-06-26 | 近現代史

本稿では3人のカリスマ的教祖(北一輝、権藤成卿、井上日召)とその信奉者藤井斉中尉を主として取り上げて彼らの思想と立ち位置、影響力が透けて見えるようにしたい。時期的には多少前後にはみ出ることもあるが1931年の出来事である。

北の家は佐渡の代々造り酒屋、権藤の家は久留米の藩医・東洋古制度学、日召の家は群馬の村医者で、三人とも素封家の出である。アカデミーのエリートコースには進まず、それぞれ洋書、漢籍、修行で当代最高の教養を修めて、いわゆる昭和維新のそれぞれの事件に教祖としてかかわった。
当然三人三様、思想に異同がある。相容れない点だけ挙げておく。北は洋学を基礎とする近代主義者、国家主義者。日本主義を利用の対象と考えている。権藤は漢学(支那学)を修めた郷土自治主義者。アンチ官治中央集権、反資本である。日召は反外来思想、純粋日本主義者である。二項対立を前提としている弁証法的思考はとらない。
それぞれ西洋、東洋、日本の伝統と思想を揺籃とする三思想家は互いに敬意を表しているが自己の主義を枉げることはない。当然事件との関わりにも濃淡が出て来る。北は2.26の、権藤は5.15の教祖的存在となった。
5.15事件の実行部隊の司令官は藤井斉海軍中尉である。かれは事件の数ヶ月前に戦死するから、5.15事件を準備した革命家とすべきであろう。かれは平戸の産で、正月の餅代にも困るような、その日暮らしの炭鉱労働の家庭に生まれた。よくあるケースだが彼も養家から学校に行かしてもらった。軍職についてからは老齢の父と生計を支える妹に仕送りを続けた。
だから彼のめざす革命は、自分の家族の衣食住、一家団欒、ムラの自給自足と相互扶助を担保するものでなければ革命ではなかった。そこに、彼が権藤の自治民範を革命の聖典とする原点があった。彼は、北の国体論の影響もあったと思うが、みずからの天皇観を確立し、起爆では日召に呼応し、建設案では権藤を教科書とし北を参考とした。

彼は1931年正月からほぼ1年間の日記を遺した。「此の日誌は遺言也 同志諸君、実現を頼む」
1月10日 雪 土 「(前略)荒木六師[団司令官]は覚悟十分、鹿児島は菅波の配下、栗原少尉大丈夫、・・・」  日召が四元義隆を伴って九州に来て佐世保で藤井と情報交換した日の記録。
藤井は、同志を求めて鹿児島から青森まで、脈のある尉官クラスの軍人にアタリをつけ、値踏みをした。革命について理解を深めることを期待して権藤著『自治民範』を手渡した。一般に文書を渡すのはオルグの常套手段である。
5月下旬には決起の全体構想に目鼻がついた。
民間日召一統=起爆、海軍藤井一統も起爆、軍部(主として陸軍)は炸薬 
日召一統のための軍資金と短銃の手配
ただし、坊主は殺すな。「此の人は革命諸人物を纏めること。革命後の堕落を防ぐ為に是非必要の人物なればなり」 昭和維新は明治維新堕落の轍は踏まないぞという決意
「北氏等軍部との提携、その動かす力は如何」 北、西田の道念を信頼
「参謀本部[ロシア班長橋本欣五郎大佐]系統は大川派」 似非革命、頼むに足らず
「只頼むべきは青年革命家のみ。菅波[三郎陸軍中尉、在鹿児島]、大岸[頼好陸軍中尉、在青森]の両兄への信頼益々盛なり」 
藤井は海軍青年将校を固めながら、革命成否の要と考えた陸軍にたいするオルグ活動に精力を傾けた。
5月24日、日召は、久留米で藤井、三上、菅波、大岸と会談して上記の決起の構想と覚悟を確認しあった。30日、日召と藤井は佐世保の待合?「群枝」[日誌中初見である]で祝杯を上げた。三グループの同盟が成り革命が成就する確信を得たことに安心立命して日召は柄にもなく「今や溶けて大空へ帰せるが如く感じ」浮かれた。こう記す藤井もまた気持ちが高揚していた。
次の日の車中師弟対話。大村湾に映る月美し。
和尚曰く。北は天才、智と情を有す。しかれども革命御前会議において権藤翁と対立するかも・・・。
藤井はいう。「北の言正しからば之を護るべし、しからずして独裁専横あらば殺すべし、権藤翁又しかり」

藤井斉の伝記はまだないと思う。かれの思想と人となりを示すエピソードを日誌(抄録)から拾っておきたい。
とにかく思考がしなやかで懐が広く深い。民族、階級、官位、主
義、履歴を問わず誰であれ何か革命に生かせる才能があれば役割をもたせる、「夜郎自大、己の才芸力能を誇り之を発揮せむが為に事を好むの輩たち」は排撃する、というスタンスである。
日本主義者、無産政党、共産党から有為の人物をリクルートすることを構想にふくめた。中でも共産党員の「その名声に淡く生命を顧みざる行動」(弾圧下の地下活動)に敬意をはらって学ぶ対象とした。ソ連共産党綱領を取り寄せて筆写した。もちろん天皇制を否定する綱領には真っ向敵対してのことだ。「彼らの思想、主義は時、処、位に偏執せるが」それを正せば「公同自治の大道」に立たせることができる。
「西欧の学、人為にして自然力を知らず、之れ欠陥なり」
「東洋、特に日本人の特性は綜合力と生命を其の儘に直感し得るの力と自由無碍、光風霽月[雨上がりの空のように澄み切った心境]の思想にあり。・・・何ぞ頑迷固陋なる、何ぞ騒々偏狭なる、共に不可」
藤井にとって国体は社稷にほかならない。社稷はアジアに共通の普遍的な祭祀と自治の伝統である。全人類の生活が拠るべきものである。ここから彼の大陸躍進と世界革命の願望が出て来る。「ああ、革命は時空に極限せらるべきものにあらず、革命は永久なるべきものなり」 
かれは支那の民族的抵抗を利己的だとして認めず、権藤の書に刺激されて100万人による満蒙屯田開発を空想した。空想はやがて革命後に出現が予想される不平浪人の活用という彼の「建設」策の一課題となった。この空想と青写真が関東軍により満州国で実現した
ことを歴史は教えている。
藤井=日召同盟が陸軍一統と違って内憂払拭、内治革命を優先し、外治には反応しないことを善しとしていることも指摘しておきたい。このままの体制で大陸に進出すれば「必ず失敗する」と言い切っている予見、先見のほうを重く受け止めたい。
藤井は、日召もそうだが、
陸軍を革命の主力に措定したが軍部独裁の恐れがあることをひと時も忘れていない。両者は自己革命、自己犠牲という厳しいフィルターを設けて同志を募った。その結果ほかの事情もあって実行部隊はそれぞれ海軍6名と陸軍12名の少数精鋭となった。力量不足を陸軍士官学校組が埋めている。
最後に藤井のプライヴェートの一面も紹介したい。藤井は木石でない。盟約が成った頃から佐世保の会合、宿泊の場所として「ともえ[群枝]」が頻繁に出て来る。何度か一緒に行楽に出かけている。同志二人(内一人は日誌中もっとも頻繁に出て来る東陸軍中尉)と「ともえ」の連中四人で舟を二艘借りて舟遊している。女性は内儀(資女、実に偉い女)、房子、千代香、米千代か? そして房子と恋に落ちた。大連に拳銃を求めに行った折ヒスイを買って帰った。「花柳の悠々完全に近し、呵々」(1年の回顧から)


藤井の期待を背負って陸軍士官学校生のオルグに当たったのは菅波三郎陸軍中尉である。その期待の大きさは1年の回顧のつぎの記述に見られる。「特に菅波を得し事は維新史上に特筆すべき事なり」 皮肉なことに、その菅波は陸軍の統制から抜け出さず5.15には関与しなかった。

菅波の影響は米津三郎→後藤映範→池松武志等へと広がった。士官学校生は菅波が薦めた北と権藤の著作を中心に右から左まで広く多読して短期間に国家改造から社会変革までみずからの天皇観、社会観に立って雄弁に語れるまでに成長した。3人の思想的到達点を以下に掲げる。三様に北あるいは権藤との異同が観られる。
十月事件前から菅波と接触のあった米津三郎から始めよう。米津は「宣言及綱領」を執筆して学内で配布しようとして危険思想保持者として退学になった。
米津の「宣言」はマルクス『資本論』中の白眉、ドキュメント的な工場論を想わせる農村破壊論である。「歴史は農民が発現過程である。或いは階級闘争となり或いは政権の争奪となる。[一行略]政権にしろ階級にしろ或いは文化にしろ、即ち歴史は農民の基礎の上を生産力によって推進される社会の流れである」に始まり資本主義に至る歴史と現状*を要約叙述して「農村の破壊はブルジョアージ[ママ]自身の自殺である。 ・・・哀しき晩鐘は鳴を[鳴り]革命の前夜を告げる」と宣言した。
*時代区分:豪族社会、大化の改新と貴族社会、武家社会、明治維新と資本主義勃興時代、欧州大戦と資本主義高度発展時代。
資本主義による農村の「都市プロレタリアート化」、都市・農村の困窮をもたらす収奪、搾取のからくりを原稿用紙8枚ほどに小気味よくまとめた米津の洞察力、表現力に私は感服した。額に入れて飾り時々朗読したいほどだ。前出匂坂資料Ⅲ‐647~650
青年将校がイメージする国家改造には、北一輝の改造論もそうだが、地主-小作制と国防のための徴兵、徴税が凶作飢饉の素因になっているという認識が乏しく、凶作飢饉の救済を強調するばかりである。戦前の農村は全国どこをとっても慢性的貧窮状態で豊作飢餓という言葉があったほどだ。米津だけが大地主と小作料を「正に怪物である」とこの上ない痛烈な言葉で批判した。
そして、世界市場の争奪戦たる帝国主義戦争なるものが始められ、「農村より又都市労働者より、而も彼ら純情なるもの達は、国家の為にの美名に幻惑されて喜び勇んで死地に就くのだ」「満州事変を一大画期として世界は一大転換を試みるであろう」と結んだ。
マルクスたちの共産党宣言は一世を風靡したが、米津の宣言は退学後の足跡同様空しく消えた。
米津の「綱領」も詳しく紹介したいが章別のタイトルをいくつか掲げておくだけにする。
①「大日本帝国は天皇之が統治権を使行す」「統治権の所在は国家にして、天皇は国民の一人なることを明白ならしむ。天皇の尊厳は其の血族にあらず、人格にあらず、統治権の代行権そのものにあり。即ち華族は勿論、皇族の特権階級としての存在は意義をなさぬ」 北一輝の国体論(というより国家論)そのままである。
②「生産資本の単位は農村及都市自治体とす」 権藤成卿、橘孝三郎の農本自治主義、地方分権主義、アンチ消費都市と軌を一にしている。
③「各自治体は農村又は都市機能に於いて有機的国家を構成す」 国家の管轄は、大都市の統括、外務、軍務、金融、交通、通信、高等教育に限られる。
④「自治体は統治機関を設け管理者を選任するものとす。選挙法は統制による」
⑦「議会は一院制とし、議員は自治体により推薦せられ県に於いて選定するものとす。選挙権はニ十才、被選挙権は二十五才以上とす」
⑧「革命政府は遷都を行ひ、1年間戦時給付を実行す。此の間消費都市の農村或は都市への解散を強制す」  前述ポルポトが実行して大惨事を招いた極端政策を連想させずにはおかない項目である。学術書『自治民範』ですら極端化すれば暴政の素になる。もって自戒すべし。
⑨「革命政府は朝鮮を半自治体とし満州を併合し、満洲には文化的施設を俟て半自治たらしむ」  併合は戦争に至らないという楽観的観測と、過渡期の不平等(半自治)を弁解するコメントあり。

つぎに後藤映範の予審尋問調書から引用する。[省スペースのため引用符合省略 文言は原文どおり]
後藤は最も菅波中尉に傾倒していたため菅波とほぼ同じ考えである。本人も認めている通り菅波の受け売りが多い。北と権藤の思想が陸軍青年将校と士官候補の間でどう消化されたか、何が消化不良になったか、異同を考える上で役立つ標準的文書である。
◇国体
君臣有機体説(天皇は頭首、臣民は股肱)にもとづく君民一体観 皇位は永久に万世一系 日本主義を基調とする 天皇は国民の人格向上に貢献 物格から明治維新の四民平等を経て昭和維新により完全なる平等人格へ向わねばならない(菅波の説)
◇政治 
君民一体 財閥=政党が君臣離間と国富壟断を招いた 金権によらない正しき議会政治必要 大改革の当初では民意を基礎とする正義の国士[彼らは西郷愛で結ばれていた]による独裁的形体も現憲法のもと一時的便法として可 直訳的共産主義・社会主義・ファシズム排撃
◇経済
統制ある自由の精神、農本主義にもとづき個人的営利主義的現資本主義経済機構を改革 大生産業、金融の国家統制 生産的各省設立 生産各部門の自治[大改革案となるとどの立案者も北一輝もふくめて改革音痴をさらす。GHQの農地改革の足元にも寄り付けない。資本主義を発展させた農地改革は農本主義そのものをも洗い流した]
◇大陸発展膨張政策
神武建国の詔勅「八紘[天の下]をおおいて宇[家]となす」を標榜する 国内で個人の正義を主張するように国際間でも国家の正義を主張すべし 満蒙、東部シベリア等の領有で人口兼食糧問題解決 全国民対外的(日露、日米)大戦争を覚悟、準備すべし [これは既述1907年に山県有朋元帥の命で田中義一中佐が作成した帝国国防方針草案(シベリアからフィリッピンまでを国防圏とする)の踏襲であり、職業軍人が普通に考えていたことだった。北一輝も同一の主張であるが、改革を経ない現体制で実行に踏み切ればドイツ帝国の二の舞になると警鐘を鳴らしている]
後藤は首相襲撃に参加して4年の禁固刑を言い渡された。

つぎに池松武志の「飛躍後の組織大綱」を紹介する。池松は米津に「宣言及綱領」の謄写刷りを頼まれた。その際自分の考えを反駁文として執筆した。これらの行為により不穏思想を抱く者として退学になった。
◇天皇
「天皇たるの位置、即ち皇位は血統的に継承されなければならない」 しかし「我々の指導者並びに我々の代表者としての尊厳」はあくまでも血統、肉体、人格ではなく「継承されたる皇位そのものに依存すべきである」[皇位だけ? 元首、統治権総覧は?]  これは巷で進められている天皇崇拝、貴種崇拝の批判である。池波ほど北一輝の天皇観に真面目に向き合って思索した軍人はいない。
天皇の人格と国民の人格の間に「皇族、家族の特権的存在」を許すべきでない。私的生活では天皇も国民同様サラリーにより生活すべし。
莫大な皇室財産を返上すべし、とまでは述べていないが、言外に真意が漏れている。天皇の人格論は「天皇サラリーマン説」と揶揄されるが、天皇と国民の間に距離のない国体を可視化するうえで欠かすことのできない拡大鏡であった。池波は反論している、「彼の観念論的な国体論者の、口には君民一致を唱へ、現実には国民との離隔を策するものとは同日に論ぜらるべきではない」
◇国民
「国民は完全なる人格的存在として直接各自治体及国家に連鎖する」 以下 実現すべき社会主義的な権利と義務がるる述べられている。項目だけ挙げておく。「個人的雇用関係は絶対に許されない」  各機関に参与する権利 労働対価を受け取る権利 居住権 「遺産相続は絶対に許されない」 必要な場合前払いで将来労働の対価を受け取る権利 25歳以上の男子参政権 教育費無償 衛生機関を利用する権利 生活保護を受ける権利 「婦人人権保護」に法的顧慮
矛盾打開後の組織[「飛躍後」同様用心深い表現の一例]
最大限拡張した地方自治を基礎とし、その統制と対外的団結のためにある程度の中央集権を有する[国家]組織

つぎに予審訊問調書から池波の変革思想を拾いまとめる。予審終結が事件から1年後だから公判はさらにその後になる。その公判で池波は当局幹部連中が傍聴に駆け付けるほど評判になった弁論を行ったが公判記録が陽の目をみていないため参照できない。「獄中記」もあるようだが見ていない。
◇国体の進化すべき方向
池波は、
一君万民の国体と「君民共治の自治制度」を目的とする昭和維新を説く。理想は「君を中心にして一国団欒」である。これは権藤成卿→藤井斉の考えそのものである。
◇政治機構
「天皇の統治権は神聖」であり統帥権は絶対である。政党政治の否定、政体の変更を目的とせず。 議会は二院制をとり、議員は職業別もしくは自治体代表とする。地方自治はその権限を拡張し、植民地及満州でも、教育を普及させて、将来内地並みにすべきである。池波は植民地差別を見聞しているだけにできるだけ速やかに撤廃することを願った。
◇経済機構[研究中]
私有財産額、営利会社資本額の制限(各百万、一千万) 土地の国有化もしくは自治体管理化 生産・分配・価格の政府統制 [北と権藤のコピー]

◇大陸発展膨張政策 
池波は国内人口食糧問題の解決を、友誼的に、拒まれたら強行的に、満洲を基点にした大陸に求める天賦の権利、平等なる生存権を留保している。北一輝同様、平等主義哲学の外交、大陸政策への布衍である。激越だった菅沼の扇動「王道宣布の聖戦」にくらべるとおとなしい。

池波は士官学校組の指導者として共同謀議と内大臣官邸襲撃に参加して15年の懲役刑を宣告された。


5.15事件/国体論/復古(神格)から革新(人格)へ

2018-05-15 | 近現代史

[ご報告] 前立腺オペの術後、出血と血塊による再閉尿で一時救急処置を受けましたが、その後は経過良好で平癒を迎えました。盛年の頃の機能にもどりました。PVPの実力が能書きどおりであったことをドクターと共に喜んでいます。

  匂坂資料全4巻(1989~1991)角川書店

932年 「血盟団」事件 2.9前蔵相井上準之助暗殺 3.5三井財閥総帥団琢磨暗殺
1932年  5.15事件 海軍青年将校と陸軍士官学校生ら首相官邸等襲撃、犬養首相を射殺
1936年  2.26事件 皇道派将校反乱、国家改造クーデター失敗  

5.15事件は「血盟団」事件のやり残しを仕上げたものである。実行者は上海事件による軍の移動と足止めで井上日召大洗グループの決起に間に合わなかった海軍青年将校6名(戦死した藤井斉大尉の盟友・古賀清志中尉が首謀)と橘孝三郎が主宰する自営的農村勤労学校・愛郷塾グループ7名(塾幹事後藤国彦首謀)、それに陸軍青年将校の不決断に愛想をつかした陸軍士官候補生12名(元士官候補生・池松武志=首謀者を含む)である。
青年将校と士官候補生からなる一組は犬養首相を官邸で襲い、問答無用射殺した。反抗的態度の巡査1名が殉職し、1名が負傷した。大洗グループが果たせなかったメインターゲット「首相」暗殺に成功したことにより「血盟団」所期の目的が完遂された。日召グループは困難だが「連続的に総理大臣を」やれば政府は倒壊する、と考えていた。
犬養首相に特別恨みがあったわけではない。「起爆薬」として「首相」暗殺が最大の効果をあげる(池松武志:反省の響を最大にする)と考えて当時の犬養首相を選んだに過ぎない。犬養首相はかつて「憲政の神様」と謳われたが、総理になってからはやむなく軍部に追随して関東軍の満州制圧、上海事件に師団派遣・増派を容認し、満蒙独立方針要綱を閣議決定した。これと、陸相に希望の星・荒木中将、参謀次長に真崎中将、内閣書記官長に満蒙積極外交の森恪が就任したことに満足して、陸軍側と北一派、大川一派はクーデターの意欲を失った。かれらの言い分は「時期尚早」である。
北一輝の同志西田税が陸軍側の「裏切り」を画作したとして大洗グループの残党川崎長光が西田を自宅で拳銃で襲って瀕死の重傷を負わせた。5.15事件の同志たちは西田を革命のブローカー視していた。
農本自治主義・愛郷塾が東京府内外の変電所6カ所を手榴弾で襲撃して首都のブラックアウトを狙った。その魂胆は治安の混乱を起こして戒厳令を誘発することだった。投擲爆発2か所、不発2か所、投擲に至らず2か所。文明と都市の象徴である電力を狙ったところに農本主義のアンチ資本主義、アンチ中央集権、反文明思想が表れている。
そのほかの襲撃行為(タクシーで乗り付けた)は以下のとおりである。
牧野伸顕内大臣官邸襲撃 玄関前に手榴弾投擲 破片で玄関付近損傷  門前の警察官1名銃撃で負傷 その後警視庁に向かい玄関に向かって拳銃を乱射 警視庁書記と読売記者重傷
首相襲撃組も警視庁に向かうが空振り 後続の一部は乱入し硝子戸を蹴破る等狼藉 ついで予定になかった日本銀行に向かい正面玄関に手榴弾投擲 破片で付近損傷
立憲政友会本部襲撃 手榴弾投擲 玄関付近損傷 続いて警視庁に向かい手榴弾投擲 庁前電柱電線と窓ガラス破損
◇「血盟団」明大生奥田秀夫、三菱銀行構内に手榴弾投擲 外壁等損傷
それぞれの行動が腰が引けているように見えるのは戦術選択(威嚇と宣伝目的)のせいである。
最後に警視庁で落ち合い非常͡呼集の警官隊と「決戦」を想定していたが警官がいなくて空振りに終わった。

実行者たちは大洗グループほどではないが日本主義(天皇親政+農本自治)と国体(万世一系の君民一体国家)について固い信念を持つ直接行動の確信犯であった。天皇観、時勢観、行動について共通理解で結ばれ、その表現は画一的で紋切り型である。たとえば行動のターゲットでは「君側の奸」と君民一体を離隔する財閥・政党・特権階級、手段では「直接行動」(暗殺テロと要所襲撃)、意義では「桜田門」(井伊大老暗殺事件による隠喩)、「捨て石」、「前衛的破壊」、といった具合だ。
荒木陸相と大角海相が被告の行動に理解を示した。軍の後押し、在郷軍人会の組織的な活動がきっかけで全国的な減刑嘆願署名運動が起こった。新聞は被告たちの法廷での熱のこもった宣伝演説を逐一感情的に報道し、その動機の青年らしい「純粋さ」を強調して世論の軍国熱を煽った。
軍人は軍法会議で民間人は裁判所で裁かれ、橘孝三郎を例外として最長15年の刑(三上卓中尉、古賀清志中尉/元陸軍池波武志/愛郷塾後藤国彦)が言い渡され、特赦で6年後には出所した。ただ一人無期懲役を宣告された橘は8年後の出所となった。首謀者と首相を殺害した軍人が15年で民間人の思想=実践指導者・橘孝三郎が無期なのは戦前の通例通りにしてもいちじるしく平衡を欠いている。

後継首相選びで満州事変の事態拡大を憂慮していた天皇は「ファッショに近いものは絶対に不可」と重臣に希望を述べた。天皇の念頭にあったのは、十月事件で首相に擬せられた荒木貞一陸相(陸軍革新派が推していた)、満州事変で全軍出動を許可した関東軍本庄繁司令官、朝鮮軍を勝手に越境させた林銑十郎司令官等戦線拡大派だったと私は想像する。
仮にファッショを全体主義と言い替えると国粋主義「国本社」トップの平沼騏一郎(陸軍実権派と森恪が推していた)と鈴木喜三郎(政友会総裁:憲政の常道に従うなら最有力の首相候補)の名をあげることができるが、国粋主義はファシズムではない。日本主義の国体はファシズムと絶対に相いれない。ファッショのみならず
〇〇ファシズムのような安易な使い方は厳に慎むべきである。それはすべてを説明するが何も証明できない。
戦後、5.15事件は「軍ファシズム」(後述するように正しい名辞は軍主導全体主義もしくは石原莞爾のいう軍主導国家)の先駆のように論評されて来た。自由、保守、革新、左右の立場を越えて、学会、論壇でそのように今も論じられている。
まず「軍ファシズム」論について・・・。
全体主義・軍主導国家運動の本流、本命は現人神天皇をかつぐ軍部であり、独伊のように民間結社ではないのだから、外来名辞を転用した「軍ファシズム」なる合成語は分かったようで意味が分からないばかりか真相解明に役立たない。軍主導全体主義とすべきだ。天皇を神に祭り上げた日本の極端な軍国主義は全体主義の一つである。
つぎに「先駆論」について・・・。
5.15事件を軍主導全体主義の先駆と言い切ってよいのだろうか? たしかに5.15事件は、事後政党内閣制が終焉を迎え、本来統制されるべき軍部が逆に内閣を統制する本末転倒、軍主導国家が始まる一つのきっかけとなった。しかし軍主導国家は、軍部が天皇の神格化を推進しながら天皇の権威を借りたから、また5.15事件で勢いを増した世論の軍国熱を利用したから、できたことだった。また軍部内部で満蒙支配に積極的な佐官級将校が軍政、軍令の要職を押さえて実権をにぎり軍事の舵取りをしていたことを忘れてはならない。軍官僚が暴力的直接行動に組するわけがない。
軍主導国家は5.15事件当事者が望んだ事態ではなかった。それどころか、かれらの天皇観には神格化の流れを忌避したい願望が刻印されている。またかれらは必ずしも政体の変更(政党内閣制廃止と軍事政権)を望んでいたわけでもない。そのことを次稿で明らかにしたい。本稿では手始めに国体論の動揺(国体明徴運動の原因となった)を明らかにしたい。

国体について今回初めて調べてようやく少し分かった気になった。国体は国柄といえば分かりやすい。お国柄、家柄、人柄と同心円を絞っていくと人体という中心点に達する。郷土、家族、人体はそれぞれ国体論の基本モデルになりうる。

とくに家族=家父長制共同体は儒教思想とあいまって国民に分かりやすく国のかたちの比喩として広く喧伝され深く浸透した。これだけなら天皇は国の家父長でありヒト=人格である。家父長的天皇観をベースに神権的天皇観が優勢になると「天皇の赤子」という表現が普通のこととなった。

郷土をモデルにして国体を論じた思想家を私は知らない。逆に古代中国の国体を模範にして農本自治を国家改造の基本に据え、疲弊し困窮を極める郷土、ひいては国土を楽土にしようと考えた思想家を取り上げたい。その学者権藤成卿は中国
古代の氏族共同体と王朝の理想的帝王像をモデルにして社稷[しゃしょく]国体論を唱道した。根底にある愛郷主義もまた理屈抜きで民衆に受け入れられやすい。橘孝三郎は自営的農業学校を開校するにあたって愛郷塾と命名するほどに権藤の漢学に精通した学殖と社稷国体論に敬服して親交を深めた。
社稷国体論は
5.15事件の各グループが共有した北一輝の国家改造論の弱点を埋める制度設計計画と見ることができる。北一輝の改造論を剣(破壊計画)にたとえるなら権藤の社稷論は鍬(建設計画)であろう。建設は破壊より困難で青年将校たちも自らはイメージをもてず在り合わせの権藤の社稷国体論に飛びついた感じがする。だがそれだけではない。その社会改造策が日本の自然、風土に根をおろした愛郷主義、愛国主義ナショナリズムに裏打ちされていなかったら青年将校に熱狂的に歓迎されることはなかっただろう。
ここでは社稷について簡単に説明するだけにしたい。古代中国では集落ごとに土地神(社)と五穀神(稷)をまつった祭壇=社稷と氏神を祭った小祠があった。王朝も交代ごとにそれぞれ社稷と宗廟を新たにし五穀神と祖神の祭祀をおこなって天命による革命を宣言し権威の正当性を誇示した。かくて社稷は国体と同義語になった。日本にも神社と寺院、大嘗祭と靖国神社があり血気盛んな軍人インテリが受け入れやすい素地があった。来年改元時の国家祭礼行事を社稷の観点から観たい。
易姓革命の中国と皇統万世一系の日本では国体がまったく異なるが、そんな違いはものともせず、青年将校、愛郷塾生、大洗グループは、北一輝の改造政策の構造が国家主義、中央集権であり、精神が西欧的合理主義、文明開化主義、一言でいえばエリートが発する国家資本主義であることを感じとって、権藤が唱道した人民主体の農本自治と君民共治に共感して一つにまとまった。

幕末わが国の国体を概念化した水戸学の大成者・会沢正志斎はその著『新論』で人体モデルの国体論を構築して尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。「それ、四体そなわらざれば、もって人たるべからず、国にして体なきときは、何をもって国たらんや」 人体の各パーツとそのグループがそれぞれ役割パートを担い互いに交通し統一した全体つまりヒトを形づくっている。全情報が頭脳に集中し指令が発せられるが脳も器官の一つであり器官と器官の間に上下関係、権力と隷属、権利と義務の関係があるわけではない。脳を天皇にそのほかの器官を国民に擬すれば、君民一体のユートピア像が出来上がる。素朴な天皇器官説である。
国家を実存する生命体に擬した国家有機体説の意義は大きい。論理的に発展性があり説得力がある。軍人勅諭は天皇を大元帥、頭首とし臣下を股肱とした。明治憲法で天皇は元首と明記された。

人体の頭脳に擬せられた天皇はその発生、誕生を問われる。天皇は人格か神格か?
幕末から明治にかけて列強に対抗する統一国家造りの必要性が神話をモデルにした天孫降臨、天皇神権説を浮上させた。万世一系の現人神信仰である。天皇は現人のまま神にされた。聖書のキリスト降誕物語を想わせるところが創作者たちにとってミソであろう。
明治政府が発布した「大日本帝国憲法」は、日本の低い国際的地位を反映して、列強に学び追い付く立場上、近代的立憲主義に合わせようと苦心して古い価値観による表現を抑えている。字面だけは近代的で西洋に対して対面が保たれた。明治憲法には、神武天皇は例外として神話とか神道の文言がない。それによれば、天皇は神武天皇を皇祖とし万世一系である。天皇は神聖にして侵すべからず。国家を統治する天皇の大権は皇祖皇宗より受け継ぎ、子孫へと伝えていくものである。
天皇が神であれば万世にわたって永久に革命はできない。若き北一輝は、この明治憲法が規定する天皇の神格に異議を唱える内容の『国体論と純正社会主義』(明治末の1906年)を自費出版して即発売禁止をくらった。
天皇が神であるなら過ちを犯さない。しかるに国家を統治する現実の天皇は絶対に過失を犯さないとは言えない。天皇に大権があるなら天皇は神ではない。神話の天孫血族説も万世一系の皇統も嘘っぽい。文字の無かった一千年は歴史が空白[このことは権藤も認めるところ]である。祭政一致は未開社会の遺物である。国史の実態は集団間の生存競争、優勝劣敗の権力闘争である。こんな思いで神権的国体論と家父長的天皇観を「科学的」社会進化論でもって論破したところに北一輝の独創性が光っている。

北の考える国体では天皇は人格を持つ国民の一人になった。国家は天皇と国民で構成されるが、天皇が常に人格者とは限らない。そこで実在する国家に人格をもたせた。国民の統合のためには国家が至高の人格として忠誠の対象とならねばならない。軍部と政府の首脳、民間の国粋主義者が軍人勅諭、教育勅語等で必死になって浸透させている忠君愛国の思想はひっくり返さねばならない。
そうなるためには国家を進化させねばならない。進化の着地点と手段が「純正社会主義」であり、それの教化啓蒙
である。これで北一輝の明治憲法に向けた異議申し立てが憲法改定ではなく憲法の枠内で国家を「進化」させることを目的にしていることがわかる。

次にユートピア思想と実政治の峻別を考察する。
国体論はユートピア思想もしくは崇高な夢を核心とする。また革命には平和革命であれ暴力革命であれユートピアもしくは信仰が不可欠である。私も学生時代革命志向と安保反対、打倒日米帝国主義の旗幟だけで活動していたわけではない。初期マルクスが描いた社会主義のユートピア(労働が生計の手段から自由で創造的な芸術活動になる牧歌的な夢)に元気をもらっていた。
北が描くユートピアでは、天皇は国民の天皇であり、天皇と国民は国家へ自らを同化し、国家のために働くことが生きがいになり自己と国家の活力を増幅させる。人類である天皇と国民はみずから自己を改造して人格を進化させてついに「神類」になる。逆説的だが、これはユートピアであってユートピアではない。戦後毛沢東国家が出現し世界を驚かせた。私はそれを好意的にみていたが「6億の蟻」(全体主義国家)と評する見方も有力であり根拠があった。
蟻は社会を作るまでに進化した種もあるから北の社会有機体説は蟻社会モデルと皮肉ることも可能だ。中南米にいる葉切蟻の社会では女王、兵、労働の役割があり立体工場で集団労働で集めた木の葉からキノコを栽培している。横つながりで情報を共有し役割に応じた共同行為を営むが縦の階級はない。
現実のヒトはユートピアないし信仰なしでは生きられないところが蟻とは類的に異なる。信仰ありき、である。聖書では、最初にコトバありき、コトバは神だった、とある。だから神話をふくめて「どこにもない」クニの像、社会像を描くことを、全体主義思想の先駆、全体主義運動の酵母として否定することは人類史に目をつぶることである。
ナチズム、スターリニズム、文化大革命、ポルポト政権による都市・貨幣廃滅と百数十万人虐殺(カンボジア)の教訓は、特定のユートピア思想を実現可能なものとして極端化して、その実現を政治課題として政策化し実行してはならない、ということである。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教は今日に至るまで無数の虐殺を行ってきた。それでもこの4大宗教を排斥することは愚かである。非難すべきはその信仰にあらず、そこから派生した極端主義(原理主義を自称する)である。

現実の政治過程と国体論に戻ろう。明治憲法はゴムひものように伸び縮みし民本主義と国粋主義による二様の相反する解釈を招いた。大正デモクラシーに対抗して神話を絶対視した神権的国体論と家父長的天皇観が浸透してゆく。天皇も軍高官も常識として認めていた天皇機関説にその矛先が向けられてゆく。国体明徴運動のはじまりである。ついには全体主義国家になる日本もドイツ同様、憲法改定運動は起こらず、解釈の大転換で立憲主義が葬られたことは示唆的である。

5.15事件は「血盟団」事件(日召の国体観+藤井斉の暴力的直接行動論に基づく合作事件)を仕上げた海軍青年将校のいわば出遅れ事件だった。駒不足の海軍青年将校が直前になって陸軍士官学校グループを引き入れたことにより事件は、日召事件完結の意義を越えて、陸軍の2.26事件とつながった。これをもって先駆けと言うのは空疎な論である。士官候補生の思想と行動の独自性が消えてしまい国家改造計画の歴史が単純化され平面的になってしまう。
藤井大尉の遺志を継ぐ陸軍青年将校・菅原三郎中尉が北一輝の国体論と天皇観、権藤成卿の農本自治・君民共治論でもってオルグして士官学校グループをつくった。村中、大蔵、安藤、相澤各中尉も士官候補生と接触があり合同懇談会で同席している。菅原中尉と彼らはみな後継事件にかかわり事件記録に名を残すことになる。
次稿で士官学校グループの国体観、天皇観を検討する。北一輝の思想の何が受け入れられ何がスルーされたかも考えたい。また権藤の思想がどのグループにも感動感銘をもって迎えられた様子を伝えたい。