自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

憲兵隊による世直しテロ/大杉栄夫妻と甥虐殺/大正社会運動の扼殺

2017-07-23 | 近現代史 大正時代の戦前

2009年09月15日 大杉栄のお墓参りと大杉栄の甥の橘宗一墓前祭
BLOG記事   by hisako kuroiwa

1f1f3766.jpg 大きな自然石の碑銘の表には、上に「Born in Portoland Ore. 12th 4. U.S.A.」、下には縦書きで、「吾人は須らく愛に生くべし、愛は神なればなり 橘宗一」という文字が彫られている。
 だが、衝撃的なのは、墓碑の裏側に刻まれた文字だ。
 碑文は以下の通り(写真参照)。
「宗一(八才)ハ、再渡日中、東京大震災ノサイ、大正十二(一九二三)年九月十六日夜、大杉栄 野枝ト共ニ犬共ニ虐殺サル Build at 12th 4. 1927 by S. Tachibana 那でし子を 夜半の嵐にた折られて あやめもわか奴 毛のとなり希里 橘惣三郎」
「犬共ニ虐殺」……。可愛がっていた一人息子を殺された父の無念さが、この5文字から、長い時を隔てても伝わってくる。その碑文を、しばらく無言で見つめていることしかできなかった。[筆者黒岩比佐子は翌年『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』を遺して惜しまれつつ早逝した歴史作家である]

宗一は満で6歳、大杉栄の甥(末妹あやめの子)、米国生まれのため自動的に二重国籍となった。父と母は暗号めいた折句で加害者に怒りをぶつけた。「文目も分かぬ=思慮分別がない」奴によって「毛のとなり希里=モノとなりけり」
3人は路上から連行され麹町区大手町にあった憲兵司令部=東京憲兵隊本部=麹町憲兵分隊のどこかで絞殺され衣服を剥がれて古井戸にゴミ・ガラクタといっしょに埋められた。大杉には胸部を強打された暴行の跡があった。
この件では田中陸相の対応は迅速であった。福田戒厳司令官更迭、小泉憲兵司令官と小山東京憲兵隊長定職処分、軍法会議公開を発表した。陸軍の威信を傷つけないための軍事法廷だから真相は藪の中である。甘粕大尉と森曹長が禁固刑になったが実際の服役期間はそれぞれ3年と1年ちょいだった。
上司の命令、黙認があったかどうか不明のままであるが憲兵隊は社会主義者を敵視する思想集団でもある。本部もふくめて憲兵隊には主義者の親玉(大杉、堺利彦、山川均、吉野作造、大山郁夫等)を生かしておけないという空気がみなぎっていた。
早大建設者同盟の浅沼稲次郎が卒業を待たずに社会運動に飛び込み、関東大震災の時大学裏にあった避難先の「農民運動社」から近衞騎兵連隊に連行された事件は、どうして軍隊が名のしれていない農民運動社を狙えたのか、という疑問を提示する。内務省警保局と警視庁官房が労働争議だけでなく小作争議*にも神経をとがらせていたことが伺える。
1922年結成の日本農民組合の指導の下小作争議はまもなく大正革新運動の一翼として最高潮に達する。同じころ部落民も水平社の下に団結して官憲および国粋会ときには村民と衝突する。
米国籍6歳児虐殺と華工排斥・王希天事件は、それぞれ米国における日本人移民排斥、中国の日貨ボイコット・反帝国主義運動を募らせた*。それぞれの背景に日本を見据えたフィリピン米国植民地防衛問題、中国・満州をめぐる中日米市場・国益問題が姿を現しつつあった。
1924年 排日条項ふくむ米国新移民法可決 
 1925年 上海、青島の日本紡績工場でストライキ続発 青島虐殺事件(駆逐艦2隻派遣)および上海共同租界虐殺5.30事件(鎮圧のため日英米等陸戦隊上陸) 事件は広州、香港に波及、労働者のゼネスト長期化 総称5.
30運動は国共合作下の反帝運動史上画期的な事件
 
大震災の国内における影響は、民衆の中では排外主義と国粋主義、軍部では威信と失地回復の流れが勢いづいたことである。平和、革新、デモクラシーという三大キーワード(神崎 清)で象徴される大正ルネサンスの流れは大震災を境に枯渇に向かう。大震災は歴史の転換点となった。

1923年11月10日 国民精神作興ニ関スル詔書
国民は富国強兵のスローガンのもとに一致団結して艱難辛苦を乗り越えてロシアの脅威をはねのけたばかりでなく大正期に列強の仲間入りを果たした。当然一枚岩にまとまった国民精神がゆるみ国際情勢と世界の多様な主義、思潮、流行の影響を受ける。それが大正ルネサンスである。
為政者はそれに我慢ならず大震災を機に皇国精神の引き締めを始めた。
天皇の名において曰く「浮華放縦」の風俗をただし「質実剛健」におもむけ。曰く「軽佻詭激」[浅はかな詭弁過激な民本主義、共産主義]をためて「醇厚中正」[皇国主義]にかえれ。この動きは国体明徴運動、国民精神総動員につながる。

1923年12月27日 難波大助、皇太子(のちの昭和天皇)をステッキ仕込み銃で狙撃 虎の門事件
  中原静子『難波大助・虎ノ門事件』(2002年)影書房

24歳青年のおこした大逆事件である。大震災時に軍警が労働運動指導者と社会主義者を虐殺した。革命家たちは、幸徳秋水が処刑された時もそうであったが、その間なんら革命行動を起こさなかった。それに憤慨して、明治の道徳(忠実・忠義)から抜け出しきれなかった難波大助が、帝政ロシアのテロリストに倣っておこした個人テロだった。
決行前日書いた新聞社への手紙でこう宣言した。天皇一族の存在は革命の「最大妨害物」につき我々共産主義者は「死を決して天皇一族鏖殺の為に力を尽くすべき事を宣す」 明日の銃声こそ「惰眠を貪れる社会革命家への警告であり、反動の暴力の前にびくつける組合労働者への奮起の合図である」

山本権兵衛内閣は総辞職した。田中陸相、平沼司法相は下野し、警視総監湯浅倉平、同官房主事兼警務部長正力松太郎は懲戒免官になった。世論はあらためて「主義者」を恐怖し警戒するようになった。
難波青年の個人史をたどれば明治と大正の精神史が分かるような事件だった。祖父は長州藩維新の志士、父は家父長の典型そのもの、厳格で一汁一菜、質素倹約にやかましい独裁者、周防村では年貢で小作を泣かす殿様とよばれた大地主、さらに皇室尊崇の県会議員、兄達は東大、京大卒で久原、三菱財閥のエリート社員、つまり大助は名家の家柄に生を受けた皇国青年だった。 
厳父との確執にたまらず東京に飛び出した大助は貧窮を味わうも大正デモクラシーの感化を受ける。勉強もそこそこに窮民街(深川・富川町の人夫宿)に泊まり人夫仕事をする中で細民、娼婦の「貧乏物語」を直にかつ書物で知る。同郷の河上肇の随筆「断片」で帝政ロシアにおけるテロリストの孤独な戦いと妙齢の女性が従容と刑死するさまに深く感銘を受ける。
折から小遣い銭をおしむほど締まり屋の父が大金を注ぎ込んで志もなく只名誉のために衆議院議員になった。自分も国民も騙されていたのではないか? 
選挙前に傍聴した帝国議会に大助は深く失望した。本会議に上程された普通選挙法修正案は原敬首相の声明(普選は国体の基礎を危うくする、選挙で民意を問う)と衆議院解散の詔勅によって審議もされずに流された。そのとき日比谷公園には普選を熱望する群衆が参集していた。選挙権のない民衆である。
無産者に選挙権がないのはなぜか? 組合の自由、言論の自由がないのはどうしてか? 政治集会が立ちどころに官憲によって蹴散らされてよいものか。彼の政治的覚醒が急速に進む。反財閥、反皇室、反政府・・・無産者共産革命。
彼の特異な点は徒党を組まないところである。当時の数少ない主義者並みにその方面にかんする内外の情勢と思想に詳しいが主義者の友人は居らず読書と体験から得たものである。大逆罪だから幾人かは共謀、予備の罪をでっち上げられるところだが為政上の理由で翌年単独処刑された。懐柔(昭和の言葉でいえば転向)を拒否して判決直後傍聴席に向き直って、日本無産労働者・共産党、ソヴィエト・ロシア、コミンテルンのために3度万歳を叫んだという。
中原静子『難波大助・虎ノ門事件 愛を求めたテロリスト』(2002年)は本格的な研究書である。大助の長文の父宛の遺書と唯一の親友Uへの折々の手紙が収録されていて読み応えがあ
る。難波大助が勤皇のメッカ長州出身だから起きた、明治の精神と大正デモクラシーの自由の精神がぶつかりあった事件である感を深くした。テロリズムを抜きにすれば大助の個人主義的思想は戦後昭和の思潮に近い。
虎ノ門事件は国民の国体意識を揺さぶり、為政者の国民精神作興運動の普及を助けた。大助の意図とは反対の結果つまり反動を招く一要因となった。
1924年3月 日本共産党解党決議
1924年4月 大川周明「行地社」結成 日本精神、アジア主義鼓舞
1924年5月 司法界の帝王・平沼騏一郎「国本社」設立 国粋主義を掲げ国体思想宣伝 
1924年5月 護憲3派総選挙大勝 
1924年9月 アナキスト和田久太郎、戒厳司令官福田大将狙撃失敗
震災一周年記念日に背後から射撃、厚着のため弾がポロリと落ちたと昔読んだ書物には書いてあった。虐殺は「福田戒厳司令官及び時の警視庁官房主事正力松太郎の使嗾に出づ」との認識に基づく行動だった。
当時のアナキスト、ニヒリストは社会通念にも法律にも縛られない自由人なので、することなすこと破天荒で面白い。これまた記憶が定かでないが関連事件で死刑になる中浜哲(だと思う)が、しかつめらしい裁判官をハメる無邪気な悪戯を一つ。外套を着て出廷し判事に促されて脱いだらスッポンポンだった。
1925年3月 議会で治安維持法と普通選挙法可決
一見すれば飴と鞭の抱き合わせを想わせるが、長期的に見れば大正期内外事件史の結節点であったことはこれまでの論述で明らかにできたと思う。
皮肉にも3年前過激社会運動取締法案に反対した護憲派が政権につくや大した反対運動も受けず成立させてしまった。
法案 第一条 モシクハヲ変革シ又ハ私有財產制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス 
委員会の質疑応答は先だっての共謀罪審議と似たり寄ったりで歴史は繰り返すと想わざるを得ない。いくつか注目すべき議論を記録して
おく。
最初の発言者は与党の自由主義者星島二郎君。我が国の法文に初登場の「国体」、それから「政体」と「私有財産の制限」という概念はいかようにも解釈できる。「もし司法当局が裁判官が狭く広く此文字を自由自在に使はれた際に於いては、お互は非常な脅威を感ぜざるを得ないのであります」
万一「反動内閣」が天下を取ったら言論を圧迫して、自分なら、「大部分の結社を踏み潰すことができる」
成文では「政体」は削られたが歴史は星島議員の恐れた方向に向かった。誤解だ、ごうも考えていない、という政府答弁は昔も今も空文句と嘘で何の担保にもならない。
委員会審議で出た懸念もすべて同様の歴史をたどった。学問研究の自由、労働・農民組合の自由、集会出版表現の自由、思想信条信教の自由・・・。
法案審議の委員会には前回過激法案時の反対委員が巧妙に外されていたため議論が低調かつ僅少だった。前回は法の執行が「警察官検察官及び司法官万能主義」によるから否という厳しい批判があったが今回は現場警察官が法律を誤用する恐れがあるという不安が述べられただけであった。
だが治安維持法の背景にはすでに国粋主義で結びついた平沼閥と思想検事の跋扈があった。幸徳大逆事件では平沼騏一郎検事、小山松吉検事が辣腕を振るった。幸徳ら12名処刑の翌年から20年間鈴木喜三郎を挟んで3人で検事総長職を独占した。

天皇主権に触れることを回避した大正デモクラシーは、自由平等を基調に自由民権主義、自然主義、科学主義、立憲主義、民本主義、組合主義、社会主義、自由主義、無政府主義、虚無主義・・・と虹の7色のごとく百花繚乱の思想を配列していた。極端は共産主義でそのロシア型がボルシェヴィズムである。日本の主義者はそれを輸入した。難波大助は「極端の極端」を誇りにした。
他方個人主義の対局にある国家主義は、自由国権主義、国家社会主義、アジア主義、国粋主義、極端は天皇を神格化した全体主義である。
天皇教全体主義の淵源は明治維新である。王政復古で種を撒かれ明治憲法で弾け(ジェルミナール)、日露戦争、第一次世界大戦で根を張り、大震災で勢いづき治安維持法という究極的武器を得た。
政党議会政治と市民的自由が、最初は真綿でやがて細紐でついには麻縄で喉首を絞められていくが、結果を知っているからこういえるわけで当時の人々は例外はあるだろうが誰も予見できなかった。