自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

樺さん死の真相/仮説A トラックを背に首を押さえつけられ警棒で胸を一突き

2015-05-29 | 体験>知識


6.15 突入寸前  樺さんは黒丸の真ん中にいた 写真

複数の写真を見比べて各警備車の配置と移動を確認できた。
写真㋑ 車両は全部で8台、放水車2台②⑧、トラック6台①③④⑤⑥⑦内2台④⑤が工作隊に曳き出されたから,残ったトラックは4台①③⑥⑦このあとトラックと警備車は、やや後退移動、扇状再配置により、以下の写真とイラストが示す位置取りになる。
これは、警官隊の戦術的後退と連動していて、学生先頭部隊の侵入を容易にした。
樺さんたちは⑥⑦よりもっと左にながれて①②③と関わる。
通用門の幅はトラック④⑤が並んで通れるぐらいしかない。
トラック③の左にカメラマンたちが上がっている衛視BOX・Pがみえる。
その左は茂みと樹木。



移動、再配置を終えた阻止車   写真㋺   
右門柱正面20m付近 第2阻止線上のとトラック⑥⑦と放水車⑧

④⑤が曳き出された直後、車輌①②③は後方への移動、再配置された。
80名ほどの先頭集団は袋小路のような阻止線(写真はその一部)を避けてアメーバ状に左へ広がった。
20名余りの最前列集団が流れて旧議員面会所と広報車[写真に写ってない]⑨との狭い間を抜けて前へ進んだ。そのため後列の樺さんたちも警官隊と対峙する状態になってしまった。
先頭集団が扇状に広がった直後に、かれらは、4機の急襲を受け機動隊に背をむけて圧出された。
門からは後続の学生400名ほどが押し寄せたため、かれらは逃げるに逃げられず警棒の餌食になり後送、逮捕された。

もっとも危険な状態は、下記図面でいえばCとE地点であるが「人なだれ」の映像は一つもない。
写真㋑でも確認できるが、衛視BOX・Pの屋根の上、警備車の上、建物の高い所から報道、警察の数十台のカメラが無数の映像を撮ったが「人なだれ」の写真は1枚もない。
樺さんの最期のスポットと状況を目撃した情報はなく、いくつか仮説を立てるが推測の域を出ない。

仮説A 樺さんは警官の手で首をトラック①に押え付けられながら警棒か拳で胸を突かれトラック下に落下した。
極論すれば、警官は殺意があって窒息死させた。
樺さんは、11.27羽田闘争で逮捕された時から警官にも知られており、当日クリーム色のカーディガンで眼を付けられやすかった


『聖少女伝説』によれば「彼女が倒れていたのは、5台あったトラックの内南門入口から見て旧議員面会所の右手に配置されていた7トン車①の下、右前輪近くである。
これを明治大学生でブント活動家の関勇が他の学生と協力して車の下から引きだした。
戦闘帽姿の関が抱きかかえて移動していく様子がのちに公表された写真に何枚も残っている。[中略]まもなく救急車で警察病院に運ばれたがすでに息絶えていた。」
*出典三田英一「樺美智子  死の5分間」(『現代の眼』1968年8月号)

この狭い所なら、スクラムはバラバラになり、目撃者がいなくても不思議ではない。

樺さんはF地点に倒れていた。
以下、『現代の眼』にしたがって記述する。
工作隊の関勇が「着衣か何かが引っかかって出てこない。そこで、数人で車体をゆさぶり、その隙に引き出した。」 
写真㋩  F地点  右下隅にトラック右前輪フェンダーが写っている。



ちなみに 左が木村愛二氏、右が関勇氏。二人とも工作隊員。

どういう状況か不明だが泥のつき具合から樺さんは右半身を下にしてたと考えられる。

なおM地点で16日早朝樺さんの定期入れが警察によって半ば泥の中から発見された。
M地点は舗装から約60cmはずれた植え込み地帯で5人以上のカメラマンが上がっていた衛視BOX・Pの150cm左斜め上に位置する。
そこでも「人なだれ」はなかった。

樺さんの父俊雄さんのコメント「落ちていたからといって、返してくれたんですがね、この定期入れが、ぜんぜん、いたんでいない。ちゃんとしたままなんです。いわれたような場所に、ほんとうに落としたのだったら、あれだけ大勢の学生に、かならず踏みつけられてくしゃくしゃになっているはずですよ」
F地点で抜き取ったのなら、警察は直後に氏名と現場を知り得る立場にあり世論工作を準備する時間に大きなアドヴァンテージを得たことになる。

検察は樺さんの遭難現場を地点をふくむゾーンとして死因を「人なだれ」による圧死と断定、早々に不起訴処分を発表した。
その後に上記のごとく「救出」現場の写真、状況が判明し、検事の主張が大きくくずれ、死因の追及が今日まで続いている。


樺さん死の真相/偽名証言と7社共同宣言/どんでん返し

2015-05-22 | 体験>知識


 
  丸木俊画 「犠牲者」 

自分の体験を時間軸に沿って追体験していくBLOGの性格上ある
テーマの資料を総覧した上で一巻すべてを書き上げているわけで
はない。

本稿もいくつかの資料を閲覧して順次結論を出し次の関連資料で
新規投稿の記事を書いている。

「樺さんの死の真相」を突き止めた、と内心満足感をいだきながら、
次のように結論した。

①樺さんは先頭集団10列目のあたりにいて集団は障害物の警備
車間の隘路をさけてアメーバ状に左へはみだし流れた。

②旧議員面会所正面あたりで機動隊の急襲を受けて胸部に警棒
の一突きを受けて倒れた。

ほかに学生が折り重なって倒れていた可能性もある。
警察には分断した戦闘部隊を全員検挙するマニュアルがあった。
機動隊と私服が取り囲み警棒か足でめちゃくちゃ無力化した。
重傷者は議員面会所地下に運ばれ私服が氏名を確認して回った。
死相が著しかった樺さんは地下には運ばれず取り囲み5分後に
「解放」された。

この5分間の包囲拘束が気絶した樺さんに窒息死をもたらした。
未必の殺人か傷害致死である。
③この先頭集団が人なだれを起こした映像も証言もない。

この稿を書くにあたってウラをとる必要からWEBであちこち検索し
ていたら江刺祥子『樺美智子 聖少女伝説』の広告が眼にはいった。

運動から離れて久しく樺さんがどこかで書名のように今なお偶像視
されているとはつゆ知らなかったからタイトルに違和感を抱きながら
本を買った。

前稿を書き上げた達成感もあってブント創立のところから一気に
読んだ。

そして、ニセ証言で「圧死」報道、の小見出しをみてアッと驚いた。
ウラをとりたかった学生の名前が明大生森田幸雄と出ているでは
ないか?!

しかも元記事は、6.16の朝日新聞朝刊にあった。
ずいぶん早いインタヴィユーだ。
警察、検事は警察病院で死後1時間以内に遺体の氏名をつかん
でいた。
部外関係者として最初に遺体と対面したのは現場で救援活動を
していた前出坂本Dr(参議院議員)たちである。
「警察当局が1月の羽田事件[樺さん逮捕]に関係した伊藤検事と
共に既に到着していて、写真数枚を撮影していたことは誠に意外
というほど迅速な措置だった」(坂本Dr)
ラジオの臨時ニュースが氏名を報じたのは深夜である。
警察病院はガードされていて誰も入れない。
新聞記者や通信社記者がインタヴィユーできるはずがない。

証言の前半は前掲した6.29の『女性自身』記事と同内容だが後
半部分はまったく違う。
「足もとはドロの海。隣の女子学生がつまずいた。
ほかの学生たちも何人かころんだ。
倒れた女子学生の上を学生のドログツが踏みにじり、そのあと巻
き返しに出た警官たちがまた乗り越えた。
そのとき〈女が死んでいる〉とだれかが叫んだが、手のほどこしよう
がなかった」
ドロの海、ドロ靴にしては、
遺体の顔の右と上半身から腰部にかけ
て衣服の右側だけ泥がひどかったという証言と写真が示す事実の
いずれにも合致しない。
しかも偽名だった。
森田某の証言は毎日新聞朝刊にも載っており本人は警察病院に
入院中とある。
珍しく重傷者が自分の負傷の顛末を語っていない。
樺さんの目撃談は詳細をきわめる。
「森田君が検挙されて中庭にすわらされたとき、さっきの樺さんらし
いのがうずくまってうめいていた。クリーム色のカーディガンに黒の
スラックス*をはいていたが、まもなく内出血らしいというので救急車
で運ばれていった。」  
   *衣服はまちがいなく樺さんさんを認めたという証になる。

『女性自身』に出ているもう一人の東大生山中啓二も偽名で正体不
明である。
樺さんの両側で腕を組んでいた東大生さえ樺さんを見失う混乱の渦
中で正体不明の二人が樺さんとの親密さを強調する余裕があること
に不自然さと作為を感じる。
朝日と毎日に記事が載っていることから森田某は放免されて病院か
ら出て来たところでインタヴィユーを受けたと想像できる。
先頭集団は自分を護ることに必死だった。
だからこそ樺さんの最期に関わる目撃証言が一件もないのだ。

記事は、編集デスクが各所から上がって来る電話草稿をつぎはぎし
て森田某の目撃談に仕上げた、いや、でっちあげたものである。

疑惑だらけのこの朝日新聞の記事は特別号外にも載っている。

[見出し]  倒れた上にドロぐつ
   樺さん  あっという間に死ぬ
警察を免罪し学生のせいにして安保闘争を終結させる意図が見え
みえではないか? 
「あっという間に死ぬ」  警察は接触すらしていない、とにおわせて
いる。
翌17日朝日新聞社笠信太郎論説主幹*主導で出された7社共同
宣言が安保闘争の燃え盛る炎に冷水を浴びせた。

「暴力を排除し議会主義を守れ」
機動隊の暴力には眼をつむり学生の暴力を非難した。
死因は政局を動かす。
新聞は時局の決定的な瞬間に御用を果たした。
佐藤栄作蔵相コメント「これで新聞もこっちのものになった」
中曽根科技庁長官も記者を冷やかした。「あれは自民党に対する
ワビ状かネ」 (『新聞労連』 1960年)

七社(やがて全国48社が同調)宣言は新聞の死を意味した。

*笠信太郎 ウイキペディアによると、1943年10月中立国スイス、
その地に滞在中の情報機関OSS(CIAの前身)の欧州総局長アレ
ン・ダレス(安保闘争時のCIA長官)と和平について密談。
戦後は1948年2月帰社。同12月東京本社論説主幹。大朝日の顔。




樺さん死の真相/福田さんの証言/包囲・無力化・拘束

2015-05-15 | 体験>知識

イメージ 1
 
図面写真は、1960年6月15日時点での国会構内および周辺の地図である。福田瑞江証人が「6・15」裁判での証言で活用するべく1968年11月14日付で図面制作し、東京地裁に提出したものを本稿筆者の梅本が必要な部分を書き写して撮影し、掲載した。
 
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
「横浜日記」(214)その3 2013年6月2日 梅本浩志
<樺美智子学友・福田瑞江の法廷証言=「6・15」国会デモ>
 
      警官隊が突然攻撃
 
 倉田弁護人 それでどうなりましたか。
 福田証人 それは一瞬であっという間に警官の方が私たちの方に・・・。つまり(1)に来て、圧力がなくなったわけですけれども、そのとき女子が前にいては危ないからということで、私は1列目から2列くらいあとに退がって、それとほとんど同時に警官が襲いかかってきました*。
阻止車と議員面会所の間を通り抜けた直後に、出会い頭に、機動隊の急襲を受けた。 
 福田証人 逃げるヒマがなかったんです。それで左の額(ひたい)の所をやられたんです。

 福田証人 この次に証人に出る人[榎本さん]ですけれども、その人が隣でスクラムを組んでいたんで、頭を打たれたんです。それでみんな逃げ出した混乱で倒れたあと、後頭部、肩と腰、全部で8カ所くらい殴られました。
 倉田弁護人 つまずいたんですか。押し倒されたんですか。
 福田証人 押し倒されました。
 倉田弁護人 あなたの周りに学生はおりましたか。
 福田証人 おりました。
 倉田弁護人 その学生はどうされておりましたか。
 福田証人 男の学生は両手を取られて、頭などを殴られているのを見ました。[・・・]私の周りの人全部がそういう目に遭ったということは断言できます。
 倉田弁護人 あなたは負傷して構外に出られましたか。
 福田証人 なにしろ前の方へいたもんで、ごぼう抜きにあいまして、警官の輪の中に放り出されたんです。
 倉田弁護人 警官と学生が遭遇している所よりも後ろの方に・・・。[図面(3)]
 
 福田証人 そうです。警官は私を後ろの方にぽんと放り出して、前の方に行きました。
 
  福田証人 その頃、南通用門の内側で集会をやっていて、学生がシュプレヒコールとか、歌声が聞こえたんです。それを(3)で聞いておったわけです。そこに30分か1時間ぐらいは閉じ込められていたように思います。
 

 内田弁護人 あなたが(3)の地点で警察官の輪に囲まれていた所から、社会党の秘書団や議員の方々がけが人を出せということを警察に言って、それで白衣の人があなたを救い出したわけですか。

 福田証人 はい、引きずり出したわけです。
 内田弁護人 引きずり出したというのは、どういうわけなんですか。
 福田証人 つまり警官は出さないと言ったわけです。
 内田弁護人 白衣の人が・・・。
 福田証人 その人たちだけではないんですけれども、大勢でむりやり出してくれたんです。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上が機動隊と私服警官による先頭学生群の無力化・囲い込み・検挙と長時間拘束の実態を明らかにした福田証言である。
いっしょにスクラムを組んでいた樺さんのことは不明である。
 

樺さん死の真相/二人の目撃者証言

2015-05-10 | 体験>知識

 



時差写真  mainichi.jp/graph/2012/05/02  検挙優先
 
新議員面会所入り口を警官隊が固め、中で私服が書類片手に名前を聞きまわっていた。
重傷者数十人は22:00近くから手錠をはめられて救急車に収容されだしたが、大部分は
16日0時まで放置されていた。
前掲朝日ジャーナル7.3号 

40年後2000年5月18日フリージャーナリスト秋山久氏がご自身
のHP『ジャーナル「Q」』
第25号に「60年安保と樺美智子さんの死」
を掲載した。そのままコピペする

  ●学友らの目撃証言  

 NHKニュ-スが「女子学生死亡」を伝えたのは午後7時の
ニュ-ス後の座談会の途中だった。
現場では死者多数のうわさが流れ、異様な空気が漂っていた。
遠くから様子を見ていた私も戦慄を覚えたのを思い出す。
死亡したのは一人で、それが樺美智子さん(当時22歳・東大文
学部4年)とわかったのは翌日の朝だった。
*現場でも死者が樺さんだという声はなかった。
  別人を樺さんと誤認したドキュメントはいくつもある。

週刊誌『女性自身』(1960・6・29)は、樺さんと左右の腕を組
んでいたM君(23=明治大学文学部4年=記事は実名)とY君
(20=東大文学部3年=記事は実名)ら目撃者たちの話をまとめ
ている。
それによると、学生が国会に突入した時、樺さんは先頭から3
列目のスクラムに加わっていたらしい。
「突入した瞬間は、警官隊が案外もろかったので、うまくいく
かもしれないと思った。
けれど、数十メートル突っ込んだとき、おびただしい数の警官
が国会のビルのかげに並んでいるのが見えた。
それでもぼくらはその群に向かって前進した。

同時に警官隊もこっちへ進んできた。両方とも無言だった。
やがて、正面からぶつかった。
ぼくらの武器は、スクラムだけなのに、警棒をめちゃくちゃに
ふるった。
樺さんは髪を乱しながら頭を下げた。
ぼくらも頭を縮めた。
うしろからデモ隊が押して来て、ものすごいもみ合いになり、
彼女は両方から押されて動けなくなったところを、警棒の一撃
を浴び、悲鳴を上げて倒れた。
その上に学生が何人か折り重なって倒れ、さらに警察官が殺到
して、それっきり、とうとう起き上がれなかったのだ。

もちろん、ぼくらは夢中になって助けだそうとしたが、警官隊
には通じない。
彼らは倒れた仲間たちを、容赦なく踏みつづけ、やっと彼女を
抱き上げたときは、倒れてから5分くらいもたっていた。

社会党の秘書団が現場から運び出してくれたのだが、顔は真っ
青だし、血とドロにまみれた両手、両足はだらんと下がったま
ま、仮診療所(新館地下の議員面会所)*に寝かせたときには、
もう一言も発しなかった。
彼女が死んだなんてまだ信じられない」
*死相が顕著だったため直接警察病院に運ばれた(19:30 警察
病院調べ)と考えられる。

現場の状況がつかめてきた。
①樺さんは頭[傷なし]ではなく胸に[も傷なし」警棒の一突き
  を浴び失神した。
  その一撃で膵臓頭部が損傷出血した。
②その上に数人の学生が折り重なって倒れ、警官
が殺到して
 《取り囲み》容赦なく踏み続けた。
③何のために?
  所定の方針通り分断した1団を無力化して
検挙(私服公安の
  役目)するために。
  猛獣が獲物の喉に噛み付いて
無力化するまでそのままでいる
  光景になんと似ていることか。
  5分間は窒息するのに十分な時間だ。
④死因は膵臓頭部の損傷出血、気管の圧迫、胸の圧迫の複合に
  よる。
  どれかひとつの特定はできない。
  どれかひとつでも時間次第数分で死に至る。
⑤首の負傷が警官の足踏みに
よる可能性がある。
  だが殺意があったとは考えない。
⑥そのスポットでは人なだれは起きなかった。
  検挙のための《取り囲み》が死につながった。
  警察が救出を許せば窒息死はなかった。
  未必殺人!

ではそのような《取り囲み》はあったのか?
上記の写真は警察の拘束、取調べが人道にもとることを如実に
物語っている。

 

 

 


樺さん死の真相/榎本さんの法廷証言/最前列で滅多打ち

2015-05-02 | 体験>知識

イメージ 1

図面写真は、1960年6月15日時点での国会構内および周辺の地図である。榎本暢子証人が「6・15」裁判での証言で活用するべく1968年11月14日付で図面制作し、東京地裁に提出したものを本稿筆者の梅本[後述]が必要な部分を書き写して撮影し掲載した。
 
50年後の2010年、丸屋Drは当時の東大学友会委員長金田教授と長崎教授(旧姓榎本、樺さんの親友)と会って衝突現場の状況を聞き取った。
《長崎さんは当日、樺さん、福田さんの女性三人で、学友会のメンバーに囲まれて国会構内に入った。
その後がどのように混乱したか、確かなことは「警棒で腹を、胸を突かれ、頭を殴られてほとんど朦朧状態になったこと、救急車で運ばれる途中で気がついて、そのまま病院に搬入されたこと、すぐ前にいた樺さんがどうなったのか全くわかりませんでし
た」などと話された。》
《福田さんも警棒で突かれ、頭を殴られて入院したという。樺さんもほとんど同じ状況であったろう。》

長崎暢子さんは『文藝春秋』2010年7月号の座談会でも同じ内容の証言を行ない、「私(長崎さん)も、やはり樺さんは殺されたと思っています」と明言している。

榎本さんには法廷証言[6.15被告23名の裁判]があった。
事件の余韻覚めやらぬ1968年の証言である。
2013年にフリージャーナリスト梅本浩志氏がブログ『横浜日記』で論評をつけて全文公開した。

「横浜日記」(215)その2 2013年6月10日 梅本浩志<あわや樺さんと同じ目に=「6・15」榎本暢子の証言>
 
[引用者による要約]
突入というより門が引き倒され阻止車が1台曳き出されて通れるようになったから阻止車の間を通り抜けて入った感じ。
後方にいたが前の12,3列80名ほどが阻止車の袋小路と警官隊にに邪魔されて左へ流れながら渋滞している間に、その後の榎本さん達が左端の最前列になってしまった。
「車をすり抜けた、非常に短い時間で、出た途端に、最前列になってその途端に[男子学生に危ないから]後ろに入れと言われて、入ったか入らないうちに、かかれといってかかってきた状態」
門から10~20mぐらい入ったところ。
ウオッーと30mぐらい先から突進してきた機動隊に逃げようとした瞬間に3回警棒で左後頭部を殴られ気絶。
翌朝病院で意識が戻ったとき樺さんの死を知らされた。
デモ参加による卒論の遅れを笑いながら話していたばかりの樺さんは門を入る前は2列前にいたが、上記の状況により見えなくなった。
そして議員面会所右前方あたりで同時に急襲されたと考えられる。
 
 内田弁護人 どういう診察でしたか。                      
 
榎本証人 左後頭部の打撲傷と、腹部の打撲傷です。
 内田弁護人 腹部というのは腹のことですか。
 榎本証人 左のお腹です。 
 内田弁護人 腹部の打撲というのは、何によってやられたか分かります。 
 榎本証人 [気を失っていたので]おそらく警棒だと思います。

田弁護人の「どういう治療を受けたか」という質問に応えて、榎本さんは脳へのダメージは大きく安静にして薬をのんだり脳波をとったりしたが1年半後にまた倒れて今なお治療を続けている、と証言した。 
 
梅本氏の取材力で世に出たこの法廷証言によって樺さんのいた場所が特定された。
また機動隊の行動の様子も分かってきた。
あと一歩で現場の状況がわかる。
目撃者を探そう