この夏身近なところで私の実体験にかかわる事件、災害がいくつも発生し全国的な話題になった。
9月16日名勝嵐山が冠水し観光の名所渡月橋を流さんばかりの濁流の映像が一日中繰り返し放映された。
氾濫した桂川が流れる保津峡は30歳前後のころの私が私塾の小学生と共に釣りをしたり泳いだりした懐かしい場所である。
わたしはそこで急流で遭難しない方法を学び子供たちに折りに触れて伝授してきた。
同じ頃大雨で増水した保津峡で泳ぎ自慢の地元の中学生が落命した事件があった。
大人たちが工事のため?対岸にロープを渡そうとして届かないのを見かねた中学生がロープの端を体に巻いて泳ぎ渡ろうとした。
急流とロープの重みが彼の自由を奪いかれは溺死した。
桂川と加茂川と木津川が合流して淀川になる。
16日夕方の時点で淀川は水位で2.5m?増水して河川敷が冠水した。
朝日新聞の記事によると「助けて!」の叫び声にとっさに反応してジョギング中の巌さんが濁流に飛び込んだ。
岸まで15m,泳ぎに自信のあった巌さんは「助ける自信があった」が堤防
に押し上げられない。男児はふたたび流された。
いったん堤防に上がり服を脱いで身を軽くして100mほど下流に走った。
集まった近所のひとたちに腰にロープを巻いてもらい、再び飛び込んだ。
男児は300mほど流されたが無事救助された。
人類を人類足らしめるものは理性であると普通考えられている。
その前に惻隠の情があるのではないか。
今回理性だけではそれがかえって邪魔して助けられなかったと思う。
わたしに置き換えて考えると、男児にしがみつかれると救助は困難である。
流れの速さとロープの重みで体が沈む。
巌さんは理性で行動したのではないと思う。
もっと本源的な惻隠の情が迸って行動したと思う。
日本人は弱者にたいする思いやりが薄れてきたと感じる。
だが東日本大震災時にはみな何かせずには居られなかった。
12年ちょっと前、新大久保駅では線路に転落した酔っ払いを助けようとして韓国人留学生と日本人カメラマンが命を落とした。
災難を前に人の原点に立ち返った時、日本人も中国人もコリアンもない。
あるのは人類共通の仁だけである。
性善説の孟子曰く。惻隠の情は仁(ヒト)の始まり。