自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

胃もたれ・胃下垂・腸閉塞/食物繊維とりすぎ・消化不良

2024-02-26 | 胃下垂肥満

ここ2週間ほど、夜間にお腹がすかなくなった。食事の量が増えたわけでもないのに体重が2kgほど増えた。上腹部、臍から上方が肥満して突き出ている感じになった。パートナーが以前からそうなっていたのを冷やかしていたが自分がなるとは思いだにしなかった。
妻は胃が弱く長らく食事制限をしている。孫たちを放課後迎えにいって母親の仕事が終わるまで世話をしている(土日だけ休み)ので過労でダウンしてしまった。内科医の診断は胃下垂だった。それがわたしの自己診断のヒントになった。
わたしの場合、お腹がすかなくなったのと同時に胃もたれでえずくようになった。昨晩は目が覚めたとき嘔吐しそうだったので洗面器を用意した。
そのご眠れなくなって、いろいろ思考をめぐらして原因を探った。妻と違って胃腸が丈夫な私が胃下垂らしい症状になるとすれば食べ過ぎによる消化不良しか考え付かない。
一昨年の大腸癌発見のきっかけとなった腸閉塞を引き起こした食材は食物繊維だった。作り過ぎたネギの始末に困ってひとりせっせと葱を食べた。このたび2週間もそのことに気づかなかった自分が悔しい。
今回の作りすぎ・食べ過ぎ食材はターサイとサラダ菜である。原因がわかれば回復の目途が立つ。やや元気が出て対策に取り組んだ。朝食を抜き、昼食を控えめにして今ブログをUPしようとしている。
下痢便が少し出た。えずきはほぼ消えた。超回復が体重減少につながることを期待したい。


ブラジル史初期のレジェンド/ポルトガル人・先住民・マメルーカ

2024-02-24 | 移動・植民・移民・移住

 河出書房新社 2022年 
本章記述中の数字はこの一冊に依拠している。

 植民地ブラジルの創成期は三期に分けることができる。
「パウ・ブラジルと先住民」収奪期 封建制 ブラジル人祖型
「サトウキビと奴隷」搾取期 カピターニア制 先住民蜂起 
「大ファゼンダとイエズス会」植民地確立期 総督制 三結合
項目分けはしてないが記述の流れで見えてくると思う。

ブラジル史は贈り物の交換から始まった。
1500年、発見者カブラルの到着地は後にポルト・セグーロ(現バイーア州の南部、州都サルヴァドールから700キロ)と呼ばれた。カブラルは10日間滞在し、トゥピニキン族から水と食料と薪を贈られた。パウ・ブラジルを発見し即ポルトガル王に報告のための船を先発させた。他日役立たせるために二人の受刑者を残置した。

1502年、領土と資源を独占所有するポルトガル王が大商人貴族ロローニャに利益の5分の1前後を与える条件でパウ・ブラジルの伐採と輸出を許可した。フランス人商人に許可した例もある。先住民がその労働をになった。斧、山刀、小刀、針、釣針、ハサミ、装身具、布地、銃等などとの不等価物々交換。
 
1510年、ポルトガルから一攫千金目的で「ブラジル」に向かった船が嵐で北東部海岸バイーアに漂着した。船乗りジオゴ・コレイア(以下Diogo)がトゥピニキン族の敵対者トゥピナンバー族の虜(異説あり)になった。鉄砲のお陰もあって畏敬を得て、有力者となった最初のポルトガル人と云われている。さらに、人種的・文化的に混交した家族をもったブラジル人の祖型として伝説の人となった。
後にDiogo(トウピ語のあだ名カラムルー)は首長の娘グアィビンパラーと結ばれてフランスに旅行した。グアィビンパラーはヴェルサイユ宮殿に招かれた最初の先住民となった。フランス国王フランソワⅠ世立会(異説あり)の下でカトリック式の結婚式を挙げた。洗礼親は船長夫妻だった。1528年のことである。
ブラジル在住の作家・中田みちよさんは、ポルトガル人のDiogoがフランスに行ったことから、それはパウ・ブラジルの密貿易支援に対する船長からの褒美だったのではないか、とWEB : 女たちの「ブラジル物語」(このブログ記事の基になった)で真相に迫る見解を述べている。そのころはまだ統治機構がなかったし、Diogoのような通訳、仲介人はパウ・ブラジルの取引に欠かせない存在だった。
グアィビンパラー(洗礼名カタリーナ)は才色兼備の女性で、ポルトガル人とIndigena(インジオの正式名称)の間に立って調停、宥和に努め、晩年サルヴァドールにベネディクト会礼拝所を建立した。遺言により全財産を寄付している。
また、子や孫の教育に熱心で、貴族、王室と婚姻関係を結んだ。ポルトガル人貴族と結ばれた娘マダレナはブラジル語識字者第一号でしかも黒人奴隷解放を格調高い手紙(1561年)で司教に訴えた(後出)。3人の息子は総督によりナイトに叙せられた。
夫Diogoの勤務と出世がそれを可能にした。

1530年、ブラジルの植民地化は、ポルトガル王が沿岸部に遠征艦隊(武装船7隻、植民者400人)を送り込むことで始まった。その目的は長大な沿岸部を探検調査して入植地と砦を建設し、先有=占有の実効をあげることであった。フランスが沿岸部を侵犯してパウ・ブラジルを伐採、密輸していたから、それの駆逐と防砦の築造が焦眉の急であった。
そのためにポルトガル国王(占領地と貿易を独占していた)はしかるべき功臣(貴族、貿易商人)に「封土」capitaniaを授与、領有させて自主財源で防衛と植民と砂糖生産を義務付けた(カピターニア制)。

写真出典   関 眞興 『一冊でわかるブラジル史』 河出書房新社   2022年 
 
沿岸部から西へ短冊形に区切られた15のカピターニアが創設され、Diogo はバイーアのカピタ~ン・コウチーニョに仕えた。そして現サルヴァドールで植民地開拓を支援した。コウチーニョがナンバー族を奴隷扱いしたためナンバー族の蜂起を招いて植民事業は崩壊した。板挟みになった仲介役のDiogoの苦労が思いやられる。

定住と労働の習慣がない先住民をいかにして働かせるか、労働力の供給がネックになったことはいうまでもない。初期には先住民(主食の生産はしていたが貨幣も経済もなかった)の社会規範であるホスピタリティ・マインドを利用していたが、ほどなくポルトガル人の監督が銃と鞭で先住民に労働を強いる奴隷化に移行した。奴隷にされたのは先住民間の戦いに敗れた種族である。
どのカピターニアも資本不足と先住民の襲撃で行き詰まった。15のカピターニアのうち経営が成り立ったのは南部のサンヴィセンチと北部のペルナンブーコだけだった。いずれにも有力な先住民首長の娘と結婚したポルトガル人がいて両民族の関係を調整できたという共通点がある。
レヴィ=ストロースがボロロ族で観察した半族間交差いとこ婚の慣習が異なった形でこの期の首長の娘とポルトガル人男性との結婚でも観ることができる。
交差いとこ婚の社会では、男が首長の妻(つまり娘の母親)一族のために「気前よく」働くことを伝統としている。本来一族の安寧と安保のためにできた社会慣習であるが、白人たちはその伝統をパウ・ブラジル労働のリクルートに逆用した。つまり、多重婚で得た多くの「妻」の親族を労働に動員したのである。
その上、半族社会のあらゆる社会的祭祀的行為は、相手方半族の補助、協力を前提としていたから、パウ・ブラジルのための動員は部族全体に及んだ。
なお、先住民社会はハチやアリの社会に似ていて首長あっての集団である。首長次第で友好か反抗が決まった。パウ・ブラジルの伐採、運搬の重労働も首長が首肯したから従事したと考えられる。

1532年以後のことであるが、遠征艦隊の提督マルチン・アフォンソがサンヴィセンチ・カピターニアのカピタ~ンとして最初の植民地を今日のサントスの隣町サンヴィセンチ島に設置した。ついで西のピラチニンガ高原に本拠地を構えた。
ここに至るまで2,3年かかっているが、その間ペルナンブーコを奪還してフランス交易所を破壊している。ポルトガルにもっとも近いペルナンブーコは交易の最先進地だった。1516年に早くもマデイラ島からサトウキビを移植している。
サンヴィセンチにはニキン族の首長チビリサの娘バルチラ(洗礼名イザベル)と結婚した漂流者ラマーリョが先住民に混じって生活していた。カピト~ン・アルフォンソは首長とラマーリョらの協力でブラジルで最初の植民地経営を軌道に乗せた。その功によりアルフォンソがインド総督に栄転した後、その妻アナが新カピタ~ンを支えてピラチニンガ高原にサンパウロ市の基礎を築いた。強力な同盟者がいなかったらサンヴィセンチ・カピターニアの確立はなかった。フランスと同盟を結んだタモイオ連合の襲撃に堪えられなかったに違いない。
ラマーリオは当時珍しくなかった多重婚で多数の混血児mamelucoを生んだ。子や孫はサンパウロの実力者と結婚し、サンパウロ人の祖となった。ということは、バンデイランテスの祖にもなったということである。ラマーリョには「バンデイランテスの大主教」の異名がある。
後年、砂糖生産で肥大したサンパウロのファゼンデイロたちが結成した奥地奴隷狩り隊バンデイランテスには多くのマメルーク兵士が加わった。そのあまりの残忍行為に近親憎悪をみる著作もある。

1549年フランシスコ・ザヴィエルの鹿児島上陸と時を同じくして、イエズス会の宣教師ノブレガ神父らが国王任命の初代総督トメ・ジ・ソウザと共に北東部のサルヴァドール・ダ・バイーアに上陸した。カピターニア制から総督制 への統治制度の変更である。200名の兵士、100名の官吏、犯罪者400名を含む700名の植民者が総督に随行した。
国王と総督とイエズス会の三結合による本腰を入れた集権的行政と植民地開発が始まった。枯渇したパウ・ブラジルに代わって砂糖が主産物になって、奴隷(先住民→黒人)の搾取でスーパ農園ファゼンダ---高価なサトウキビ絞り装置エンジェーニョのほか製材所、鉄工所、牧場などを擁する---が出現する。
先住民の習俗を体験、熟知したDiogoとグアィビンパラが総督に重用され、サルヴァドール建設に貢献した。サルヴァドールは政庁(総督府)となり、砂糖の大生産地バイーアの州都さらにはブラジルの首都になる。

ピラチニンガでは、イエズス会神父アンシエッタが、礼拝堂と学校を併設し、1554年1月25日にノブレガの臨席を得て落成のミサを捧げた。その日がサンパウロ市制記念日となった。

最後に、Diogoとグアィビンパラーの娘マダレナの魂の遍歴を一端だけエピソードとして挙げておく。
混血ブラジル人マダレナ・カラムルーの司教宛て手紙(1561年)について、作家中田みちよさんの上掲「ブラジル物語」から引用する。
[マダレナは]「親から隔離され、神も知らず、我々の言葉も解せず、やせて骸骨のようになりながら奴隷小屋に軟禁されている子らが、虐待から救われますように」と嘆き、働く力もないかわいそうな子らのために金貨30枚を寄付しています。
昨日まで、純朴な人々のふるさとであったバイーアが、奴隷商人に牛耳られる守銭奴の町になったことを嘆き、「舟が着くたびに浜に吐き出され、競売に付され、売られてゆく愚直な黒人たち・・・もっと、ほかに人間的な道があったかもしれないのに・・・」
裕福な家庭に育った人間の鷹揚さ。大変、心優しい、ヒューマンな手紙です。しかも格調高いポルトガル語。

晩年、マダレナはドメニコ会に近づき清貧を貫き、全財産を寄付している。母グアィビンパラーがベネディクト会礼拝所を建立し全財産を寄付したことは前に述べた。母と娘が同じ葛藤を共有していたことは想像に難くない。それは何だったか・・・? 
なぜ教会、イエズス会ではなく小さな修道会を選んだのか? 次章に続く。