前にも書いたが過の戦争で父方の叔父2人と母方の叔父1人を亡く
した。
終戦末期佐世保港から秘密出航した海軍の叔父は行先不明のまま
還って来なかった。
若妻と幼児Tが「本家」に遺された。
わが祖母は嫁姑問題を含めて将来を案じて、若妻を再婚させ、Tを
「本家」叔父の籍に入れた。
親子が無理やり引き裂かれたわけだがほかに仕方なかったと思う。
従弟のTは後に瞼の母と再会した。
もう一人の若い方の叔父は未婚のまま大陸戦で戦病死した。
母方の叔父は9人きょうだいの中でただ一人養子として日本は北海
道に残り、戦死した。
ブラジルに渡ったきょうだいはみな生き残った。
盆には田主丸町の叔母の家に行って其処のいとこ達ともよく遊んだ。
百姓家の広い庭の片隅に「軍神」以外では考えられない巨大な個人
墓碑が鎮座していた。
戦後かなりたってからミッドウエイ海戦で軍神になっていた叔母の義
兄がこっそりと還って来た。
家の者が喜ぶ前に腰を抜かさんばかりに驚愕した様子が容易に想
像できる。
叔母の夫はその兄に当たるが誉高き近衛師団兵(天皇を近くで衛る
エリート兵)だった。
兄は敗戦からくる失意と葛藤、弟は捕虜の不名誉を背負う苦脳を越
え得ただろうか?
※東条首相作の戦陣訓に「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)
を受けず」とある。
兄はその後アル中で失意のうちに亡くなった。
弟は農業で成功し町の名士になって天寿をまっとうした。
彼は機関科兵で沈み行く主力空母「飛龍」から脱出して漂流中に米
軍の捕虜になった。
4年間の米国での捕虜生活が彼を軍国主義の洗脳から開放し未来
に目を開かせたと思われる。
従弟によるとかれはいくらか米語が話せたらしい。
墓碑は今もそこに在る。