自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

最後の京大宇治分校生1960年

2014-10-24 | 体験>知識

学生生活いや活動家生活を陸軍火薬廠跡地の教養部宇治分校で始めることになった。
北隣は陸上自衛隊宇治駐屯地である。
何の因果か帝国陸軍の跡地と縁がある。
かつて守衛門であったと考えられる頑丈な木製の校門を入るとコンクリート製の衛所が見えた。
さながらジャングルのように鬱蒼と樹木が繁った森を右手に見ながら未舗装の坂道を
下ると平屋かせいぜい2階建ての木造モルタルの校舎群が不規則に点在していた。
古びたレンガ造りの火薬庫の建物も散在し一部は教室に利用されていた。
敷地は広大で西の境界は見たことはないが宇治川だろう。
火薬廠に適した低湿地帯だった。
そこに全学部の1回生が「島流し」いや仮住まいを余儀なくされていた。
高校教育を信用していないのかユニヴァーシティは1,2回生を学部に所属させず全員「教養部」で広い「教養」を履修させていた。

いいかげんな行動だが入学早々「まっしぐら」に「自治会室」に向かった。
吉田分校から2回生のMとTが社学同オルグとして来ていた。
何回留年を重ねたのか不明のむさくるしい職業革命家然としたYさんもレフトのオルグとして来ていた。
全学連主流派を応援していたわたしは前者に付いた。
中間派レフトや反主流共産党もいたが眼中になかった。
ほかに数人1回生が集まった。
高校からレフトの活動家だったらしいNが初めて聞く左翼語をしゃべるのには驚いた。
宇治分校の自治会は大学側に解散させられて一から再建しなければならなかった。
そのためには全クラスで代議員を選ぶ必要があった。
MとTはうぶなわたしが文学部〇組のNさんを勧誘するように水を向けた。
神戸高校出身の彼女は「先輩の樺さんのようになりたい」と言っていたぞ、と。
真に受けたわたしはやがてマドンナ視される魅力的な彼女の所に行って言った。
「・・・。クラス委員になってください」
「わたしがそんなこと言うわけないでしょう」
みごと振られたが彼女が委員になったことは言うまでもない。
後に彼女は中世日本女性史の研究で新境地を開いた。
木村作次郎教養学部長の抵抗があったように記憶するが宇治分校自治会再建大会を無事開くことができた。
「キムサク出て来い」と乱暴に叫んだのはこの頃だったか?
弁舌さわやかで温和な雰囲気のYAが委員長に選ばれわたしが書記長になった。
乗り遅れた安保闘争の新入生の船が上級生が道筋をつけた航路を出奔した。

 


受験番号666/2度目は吉か凶か

2014-10-17 | 体験>知識

出世路線から学生運動路線に乗り換える決心をすると受験にたいして投げやりになってしまった。
大学にいく目的が明確になった。
運動のため、もちろんスポーツではなく政治運動のため。
京大経済学部には願書を出したが東京と京都の私大には出さなかった。滑り止めのない受験となった。
そのつもりで多額の願書代と旅費を出した親が知ったらさぞ心配して悩んだにちがいない。
受験番号666を見た時いやな予感がした。
「またか!」
日本史の試験が終わったあとの休憩時間に構内の庭で予備校仲間2,3人と問題の回答をチェックしていたとき2浪中で既婚のTが青くなった。
試験用紙をめくり損ねて1枚まるまる見過ごしたことに気付いたのだ。
それでも合格したのだから驚きだ。
これも余談だがかれは70年安保闘争以降京大助手・滝田修のペンネームで広く知られるようになった。
合格発表は学部教室のベージュの外壁に白い巻紙を貼って番号だけでなされた。
666はあるのか。
なかったら・・・???
長い張り紙を右から左にたどっている間にかつて経験したことがない深刻な不安に襲われた。
「受験は灰色だ」
という言葉が自然に浮かんだ。
666はあった!
数人で河原町に出て興奮を冷ました。
誰と行ったか憶えていない。


政治と社会への関心高まる/横道にそれる第一歩1959年

2014-10-13 | 体験>知識

現実逃避に向かうとこれまで見えなかった現実が空白を埋めるかのように入り込んで来た。
何がきっかけか思い出せないが、お爺ちゃんおばちゃんのデモの後にくっついて
円山音楽堂の集会に参加した。
参加したというより傍観したと言うほうが正しい。
何を要求していたのかさえ憶えていないのだから。
当時失業対策事業というのがあった。
それに従事する労働者はニコヨンとよばれていた。
日当が百円札4個と拾円札4枚と法律で決まっていたから。
今日ニコヨンは死語であるが当時は蔑称の意味を込めてつかう者もいた。
さてニコヨンは全日自労に所属していたからデモを組織した大元は京都地評だったと
と思われる。自労は自由労働組合の略。
だとすれば動き始めた安保反対闘争のはしりだったかもしれない。
わたしはまだ政治闘争、労働争議を意識していなかった。
左寄りの主義主張に傾いていたわけではない。
ほぼ人々が無意識に抱いている社会正義と平等社会への想いが顔を出し始めたにすぎない。
安保阻止国民会議(総評、地評、社会党等2000の諸団体結集)が国会に向けて数次の全国統一行動を実行していた。
全学連は統一行動のみの間接参加だった。
11月27日その全学連が社会党議員団の請願デモにまぎれて国会構内に「乱入」した。
東京地評の青年労働者を合わせて約2万人が国会正面玄関広場を数時間にわたり占拠し赤旗を振りデモをして気勢を上げた。
翌日全学連幹部が逮捕されたが清水と葉山の2名が東大の駒場寮内に籠城した。
大学の自治が絡んで警察と学生が対峙する状態が2週間続いた。
マスコミが連日報道しZENGAKURENの名が内外で知られるようになった。
1960年1月15日から16日にかけて全学連の精鋭700人が安保条約調印の為
に渡米する岸全権代表団を阻止しようと羽田空港ロビーを占拠しバリケードを築いて警官隊と衝突した。
全学連は唐牛委員長以下77名の逮捕者を出した。
逮捕された中に東大生の樺美智子さんがいて注目された。
渦中の幹部達は、国民会議から「跳ね上がり」と非難され権力とマスコミに叩かれて
世間の注目を引けば引くほど、学生の間ではヒーローになっていった。
わたしもTV映像に釘付けになって入学したら活動家になる決意を固めた。
幹部達はそれまでに日本共産党と決別して共産主義者同盟(ブント)を結成していた。
全国に1500名ほどメンバーがいたらしい。
綱領もなく安保闘争の中で日共に替わる「前衛党」作りをしていた。
当時私はそんな背景はまったく知らなかった。
ブントのアウトロー路線による耳目衝動作戦は見事成功した。
中身はともかく安保が広く知られ反対活動が活発になっていった。
安保阻止国民会議に「重い」とみられていた安保反対闘争が翌1960年史上空前の大デモに発展した。
ブント同盟員も倍増した。