前回は、日記を書いたC.ダナールの日常と当時の気象に主な関心があったので、革命下の政治的事件は国王逃亡事件にふれただけで終わった。
今回と次回は、革命の深化と激化、それがカリブ海のフランス植民地(ハイチ)に及ぼした影響について考える。
韓国の尹大統領が12月3日、政治活動、報道などを制限する非常戒厳令を宣布したが、数時間後には議会の議決により解除を余儀なくされた。大統領は宣布の理由を「破廉恥な従北の反国家勢力」をあぶり出し撲滅し、自由憲法秩序を守るためだと説明した。
同じ様な事件が1791年に革命下のフランスで起きた。
7月16日 土曜日 [以下、気象記録等の割愛、センテンスの削除あり]
三日前からパリの民衆のあいだに不穏な空気が高まっている。反乱でも起こりそうな気配だ。そうなると厄介だ。
7月17日 日曜日
きょう、パリに赤旗がかかげられた。[戒厳令施行の旗印]
今朝、市内いたるところの四つ辻に戒厳令がしかれた。シャン・ド・マルスの祖国の祭壇は正午から早くも人で埋めつくされた。[頭をもたげる共和派がルイ16世廃位を求める請願書に署名を、と動員をかけていた。集まった群衆の数は5万人と云う]
[午後]七時半か八時頃、歩兵隊と騎兵隊が赤旗をかかげ、太鼓を鳴らしてシャン・ド・マルスへ進軍してきた軍隊は20人から24人の横隊でシャン・ド・マルスに駆け足で入ると、民衆の退去を促すためにまず空に向けて発砲した。私がシャン・ド・マルスを出るのと入れ代わりだった。私が周囲の木立の下にはいったとき、とつぜん背後で銃声がひびいた。下手の別の方角から速足で入ってきた軍隊が、やはり空に向けて発砲したのだ。三分後に、軍隊は本気で群衆にむけて発砲していた。
私はあのときシャン・ド・マルスにいたが、群衆は平静だった。ある者は祖国の祭壇にのり、ある者は散歩を楽しんでいた。そして、おだやかに引き揚げようとしたとき、あの凶暴な軍隊がやってきて、無防備の、おとなしい民衆を混乱におとし入れたのだ。民衆は怒り、憤った。パリ人がこれほど堪えがたい怒りを感じたことはない。この怒りがどんなものか明日になればわかる。
シャン・ド・マルスの虐殺
[フランスは、王政復古を目的とする強国によって、革命干渉の脅威にさらされていた。国内では、6月のルイ16世のヴァレンヌ国外逃亡未遂事件以来、国王不信が募って廃位の世論がたかまっていた。立憲君主政を志向する議会多数派=フイアン派が共和政の芽を摘むために弾圧に先走ったのが戒厳令の施行だったと思う。
実施責任者であるバルナ―ヴ(処刑)、パリ市長バイイ(処刑)、ラファイエット(国外逃亡)は致命的に信頼をそこなった。
戒厳令で、正確な数は不明だが、約50人が死亡し200人が逮捕された。今回の韓国の非常戒厳令で犠牲者が出なかったのは稀有の幸いである。発砲もパニックもなかった。兵士にも市民にも自己判断する余裕があったことを高く評価したい。]
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