百見は壱験にしかず
3年になると学校で一律に科目別まとめ付問題集を買わされた。
それを使って休日に補習授業があったが、何をやったか記憶にない。
夏休みに家で解いた問題は、まさかのまさか、自分の高校入試で出たので今でも憶えている。
1辺の長さがaの立方体の頂点を含むすべての辺を切り取ってできる図形の名称は何か。
その体積を求めよ。
こんな問題だったが、たまたま消しゴムを切って実験、視覚化していたので本番であわてなかった。
このころになると、進路を意識するようになった。
ブラジルから父方の叔父が、アメリカからちょっと遠い親戚夫婦が、それぞれ二度来日したこともあって、外交官か商社マンになって、外国で仕事しようか、と大して根拠もない夢を描き始めていた。
それには大学を出なければ、そのまえに進学校に行かねば、と単純に考えて進学校だった久留米大学付設高校を選んだ。
実を言えば、アメリカの別のちょっと遠縁の親戚に手紙を出して、留学の支援を厚かましくもお願いして、わたしはそのポジションにいません、とあっさり断わられていた。
大学は、まわりの、巷と家庭の、雰囲気から、九州大学と決めていた。
全国には旧帝国大学が七つあったが、九大で御の字だった。
田舎ではまだ、帝大様ならお嫁にやろか、の権威崇拝意識が濃厚に残っていた。
体は大きかったが思春期、反抗期は普通よりかなり遅れてやって来たと思う。
中二のころ夢精が突然やって来た。
何の知識もなかったので驚いた。
パジャマの汚れと臭いを隠すことから親離れの大きな一歩が始まった。
「自家発電」による射精もこのころ始まった。
反抗期の徴候は親の言動にたいする嫌悪、批判となって現れた。
父は几帳面、真面目で勤勉な性格でわたしには小心者に映った。
自分の畑の雑草一本見過ごさなく、近所の公園、公道まで整地草取りを広げた。
博多に移ってからは福岡市が表彰を打診して来たほどだった。
もちろん気を悪くして断った。
家の中では何事も筋目正しく靴の脱ぎっぱなしなどはもってのほかだった。
わたしが書類に判子を間違って逆さまに押したときは本気で怒って押しなおした。
わたしも反抗しながらも父の性格を受け継いでいた。
ルーズリーフに書く事が四角四面になり、しかもだんだん字が小さくなっていった。
一字一画形が変になるとそのページを破りとって屑箱に捨てた。
父が気づいて怒りながら一枚一枚皴をのばして再利用を図ったこともあった。
わたしの行為が心身症の表れだと気がついたのは晩年になってからである。
原因は私が一人っ子で始終親の視線と言葉による保護を一身に受けていたことである。
このころわたしはこれを過剰な干渉とだけ受け止めて反発していた。
具体的な行為でも表現した。
親の財布から硬貨を時々抜き取った。
親が硬貨が減っていると夫婦で騒いでいるのを横目にみて鬱憤を晴らした。
心身症からまもなく自力で抜け出した。
文字を走り書きにしたら問題なく書けるようになった。
その代わり今も乱筆である。
反対方向にぶれることによって精神のバランスを回復できたのだろうか。
わたしはますます自分の行動を勝手に決めるようになった。
親を悩ます親不孝の始まりである。
同時に自己中心的な人生のスタートだった。