自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

イエズス会グアラニー布教区の興亡/グアイラ地方とバンデイランテ

2024-06-21 | 移動・植民・移民・移住

イエズス会によるペルー布教は1568年に始まった。エンコミエンダ制の行き詰まりのかたわらで、先住民布教にめざましい活躍をするイエズス会のミッションに目を付けたペルー副王トレドは、海抜4000メートルのティティカカ湖畔のフリ村(人口9000人)の布教をイエズス会に委ね、イエズス会士以外のスペイン人の立ち入りを禁止した。
「会士たちは布教に携わるだけではなく、村のカシケ[首長]と一緒になって、行政や経済活動、あるいは村人の生活にいたるまでをこと細かに指導し、フリの住民の生活をめざましく改善することに成功した。*」
この章においても、典拠を明記してない出典はすべて前記伊藤慈子著『幻の帝国』である。それだけではない。ほかに類書が無いので、関連の章は創作ではなく、主題の文脈にあわせて同書の「まとめ」で代用した。

1578年、副王はフリにスペイン王の直轄地にするという恩恵を与えた。普通、他教団は住民の改宗に成功するとその村を在俗教会の手に委ね、次の部族の布教に向かう。失敗すれば、武力制圧に任せる。
「いずれの場合も、スペイン人が入ってきたとたん、村にはエンコミエンダ制が敷かれ、村役人や在俗教会の僧、エンコメンデロ(エンコミエンダの持ち主)から徹底的に搾取される、というのが先住民をコロニアル社会にくみこんでいく一般的な図式だった。」
イエズス会はこうした図式の改革を理想としていて、フェリペ2世にミッションを認められて、フリで初めて自治的村づくりに成功したのであった。
「太陽の沈まぬ帝国」の王として名をはせたフェリペ2世のこの施策は、過酷な強制労働と反抗・討伐に加えて、伝染病で、急激に減少する先住民の人口・使役対策であった。したがって、布教村に、自治と保護を与える代わりに労働徴用に応じる義務を課した。「住民は一年のうち三ヵ月は漁業、牧畜、農業など各自の仕事に従事し、残りの九ヵ月はこれまでと同じようにポトシに出向いて王室の鉱山で働かなければならなかった。」
厳しい労働条件であるが、徴税、徴発を免除されていたので、村内の四つに分かれた教区は、イエズス会士の指導により、それぞれ住民の手で細部にインカの伝統を活かしたヨーロッパ風教会を建設することができた。この建築様式と自治の制度はその後のミッション村建設の模範となった。


南米におけるイエズス会グアラニー布教村の最初の成功例はグアラニーの人口が多いグアイラ地方に1610年に創設されたロレトとサン・イグナシオ・ミニである。グアイラはパラナ川の支流パネマ川の南岸下流域地方を指し、肥沃なパラナ高原の一部である。Londrinaからさほど遠くない、北パラナ西端の地である。北岸はサンパウロ州である。

初代イエズス会パラグアイ管区長ポリョ(フリで布教村を統率した経験者)は各地に会士を派遣して布教村の設立に務める一方、スペイン王室にエンコミエンダにおける先住民の悲惨な状況を訴え、その保護を懇願した。巡察使が派遣されポリョが同行して調査が行われた結果、「アルファロの法令」(1616年)が発布された。
それは、イエズス会のグアラニー教化村の先住民はなんらかの新しい措置がとられるまで、エンコミエンダでの使役と納税を免除される、という優遇措置を前面に出した、画期的で徹底した先住民保護法であった。先住民をエンコミエンダで働かせる場合は、契約に基づかねばならず、給料は一日一レアル以上[未満で再検討]、徴税は年間五ペソ・労働で支払う場合は一ヵ月[六ペソ・二ヵ月」、そのうち一ペソを僧に渡す、とされた。
当然在地スペイン人は死活問題として猛列に反対し本国に撤回を求めた。王室のインディアス審議会は1618年若干の修正(上記[])を加えて法令を正式に承認した。

アルファロ法令が追い風となってグアイラ地方とパラナ地方の布教村は大発展を遂げた。この章ではグアイラ地方に絞ってグアラニー族布教村の転変を扱う。

グアイラ地方の布教村は、スペイン人を父、「インカ人」を母とするイエズス会布教長モントヤの指導で大発展を遂げ、10万人が洗礼を受けた。1629年1月、大部隊のバンデイランテ(パウリスタ900人、マメルーコ2000人)がサン・アントニオ村を襲い、宗教祭で集まったグアラニー人を捕らえ、鎖でつないだ。
抗議に駆け付けたモントヤを邪教を伝える悪魔とののしり耳をかさなかった。メンドサ(後にタペ地方最初の殉教者となった)は矢を受けて負傷した。モントヤは僧衣の胸をはだけて撃てるものなら撃てと叫んだと伝えられている。ブラジル側では足元にひれ伏して村人の釈放を乞うたと伝えられている。
侵寇は3年にわたって繰り返され、10万のうち6万人がサンパウロに連行され、奴隷市場で売られた。ロレトとサン・イグナシオ・ミニの12000人は無事だった。襲われた村は焼き払われた。
同地にはマテ茶生産のスペイン人町が二つあった。ロレトとサン・イグナシオ・ミニの住民は、村を建設してから10年の免税期間を過ぎていたため、年に2ヵ月間スペイン人町で労働することで税金を代納していた。皮肉なことに二村はエンコミエンダの使役に救われた形になった。
しかし逃亡者を受け入れて保護したスペイン人町ビリャ・リカがバンデイランテに包囲され降伏するに至って、布教長モントヤは布教村二村を安全な場所に移すほかないと決心した。移動先はパラナ川を600キロ下った現アルゼンチン・ミシオネス州*で、そこにはすでにイエズス会の布教村がいくつかあった。
ミッション州。上掲地図で言うとパラグアイの「パラナ地方」と「ウルグアイ地方」の中間である。以下、仮に「ミシオネス地方」と呼ぶ。

大移動の様相をモントヤの記録でたどる(すべて前掲書に拠る)。
「川原はにわか仕立ての造船所となり、カヌーやいかだを建設する物音がひびくなかを人びとは家財道具をまとめ、食料を準備するために忙しくたち働いた。」総勢六、七人の会士は指導をとるかたわら、教会の装飾品や装具をまとめ、埋葬されていた三人の神父の遺骨を壺に納めた。
700のカヌーといかだに1万2000人と家畜と必要な物を乗せて大移動が始まった。
途中川幅の狭い所で、労働力の流失を阻もうとしてグアイラのもう一つのスペイン村シウダード・レアルが総出でバリケードを築いて抵抗したが無事突破できた。「七つの滝」と呼ばれる実際は15の滝があった難所*では、試みに300のカヌーを放ったがすべて無に帰した。
現在は世界一の発電量を長江三峡ダムと競い合うイタイプ―水力発電所が築かれ観光名所となっている。
一行は残ったカヌーと荷物をかついで高巻きしてカヌーを出せる岸辺まで道なき密林を歩いた。その距離130キロというから声を失う。食糧やあらたにカヌーを作る大木を求めて密林に消えた人々もいた。制止を振り切ってにわか仕立ての小舟や筏で勝手に川をくだろうとして命を落とした集団もいた。事故や傷病で亡くなったひとも数知れずいたであろう。「やっとミシオネス州の教化村からの救援がとどいたのは、旅がほとんど終わりかけていたころである。グアイラをでて八ヵ月、無事目的地に着くことができたとき、隊はわずか四〇〇〇人になっていた。」ちらっと紅軍の大長征の物語が脳裏をよぎる。

その翌年にあたる1632年、大掛かりなバンデイランテの侵寇によりグアイラ地方の先住民は消滅し、したがって二つのスペイン人村もパラナ川を越えて西に移動を余儀なくされた。それ以来、グアイラ地方はポルトガル人の占有地となり、最終的にはブラジルのパラナ州の一部となった。
次章「ミシオネス地方・・・」につづく。


ブラジル史初期のレジェンド/ポルトガル人・先住民・マメルーカ

2024-02-24 | 移動・植民・移民・移住

 河出書房新社 2022年 
本章記述中の数字はこの一冊に依拠している。

 植民地ブラジルの創成期は三期に分けることができる。
「パウ・ブラジルと先住民」収奪期 封建制 ブラジル人祖型
「サトウキビと奴隷」搾取期 カピターニア制 先住民蜂起 
「大ファゼンダとイエズス会」植民地確立期 総督制 三結合
項目分けはしてないが記述の流れで見えてくると思う。

ブラジル史は贈り物の交換から始まった。
1500年、発見者カブラルの到着地は後にポルト・セグーロ(現バイーア州の南部、州都サルヴァドールから700キロ)と呼ばれた。カブラルは10日間滞在し、トゥピニキン族から水と食料と薪を贈られた。パウ・ブラジルを発見し即ポルトガル王に報告のための船を先発させた。他日役立たせるために二人の受刑者を残置した。

1502年、領土と資源を独占所有するポルトガル王が大商人貴族ロローニャに利益の5分の1前後を与える条件でパウ・ブラジルの伐採と輸出を許可した。フランス人商人に許可した例もある。先住民がその労働をになった。斧、山刀、小刀、針、釣針、ハサミ、装身具、布地、銃等などとの不等価物々交換。
 
1510年、ポルトガルから一攫千金目的で「ブラジル」に向かった船が嵐で北東部海岸バイーアに漂着した。船乗りジオゴ・コレイア(以下Diogo)がトゥピニキン族の敵対者トゥピナンバー族の虜(異説あり)になった。鉄砲のお陰もあって畏敬を得て、有力者となった最初のポルトガル人と云われている。さらに、人種的・文化的に混交した家族をもったブラジル人の祖型として伝説の人となった。
後にDiogo(トウピ語のあだ名カラムルー)は首長の娘グアィビンパラーと結ばれてフランスに旅行した。グアィビンパラーはヴェルサイユ宮殿に招かれた最初の先住民となった。フランス国王フランソワⅠ世立会(異説あり)の下でカトリック式の結婚式を挙げた。洗礼親は船長夫妻だった。1528年のことである。
ブラジル在住の作家・中田みちよさんは、ポルトガル人のDiogoがフランスに行ったことから、それはパウ・ブラジルの密貿易支援に対する船長からの褒美だったのではないか、とWEB : 女たちの「ブラジル物語」(このブログ記事の基になった)で真相に迫る見解を述べている。そのころはまだ統治機構がなかったし、Diogoのような通訳、仲介人はパウ・ブラジルの取引に欠かせない存在だった。
グアィビンパラー(洗礼名カタリーナ)は才色兼備の女性で、ポルトガル人とIndigena(インジオの正式名称)の間に立って調停、宥和に努め、晩年サルヴァドールにベネディクト会礼拝所を建立した。遺言により全財産を寄付している。
また、子や孫の教育に熱心で、貴族、王室と婚姻関係を結んだ。ポルトガル人貴族と結ばれた娘マダレナはブラジル語識字者第一号でしかも黒人奴隷解放を格調高い手紙(1561年)で司教に訴えた(後出)。3人の息子は総督によりナイトに叙せられた。
夫Diogoの勤務と出世がそれを可能にした。

1530年、ブラジルの植民地化は、ポルトガル王が沿岸部に遠征艦隊(武装船7隻、植民者400人)を送り込むことで始まった。その目的は長大な沿岸部を探検調査して入植地と砦を建設し、先有=占有の実効をあげることであった。フランスが沿岸部を侵犯してパウ・ブラジルを伐採、密輸していたから、それの駆逐と防砦の築造が焦眉の急であった。
そのためにポルトガル国王(占領地と貿易を独占していた)はしかるべき功臣(貴族、貿易商人)に「封土」capitaniaを授与、領有させて自主財源で防衛と植民と砂糖生産を義務付けた(カピターニア制)。

写真出典   関 眞興 『一冊でわかるブラジル史』 河出書房新社   2022年 
 
沿岸部から西へ短冊形に区切られた15のカピターニアが創設され、Diogo はバイーアのカピタ~ン・コウチーニョに仕えた。そして現サルヴァドールで植民地開拓を支援した。コウチーニョがナンバー族を奴隷扱いしたためナンバー族の蜂起を招いて植民事業は崩壊した。板挟みになった仲介役のDiogoの苦労が思いやられる。

定住と労働の習慣がない先住民をいかにして働かせるか、労働力の供給がネックになったことはいうまでもない。初期には先住民(主食の生産はしていたが貨幣も経済もなかった)の社会規範であるホスピタリティ・マインドを利用していたが、ほどなくポルトガル人の監督が銃と鞭で先住民に労働を強いる奴隷化に移行した。奴隷にされたのは先住民間の戦いに敗れた種族である。
どのカピターニアも資本不足と先住民の襲撃で行き詰まった。15のカピターニアのうち経営が成り立ったのは南部のサンヴィセンチと北部のペルナンブーコだけだった。いずれにも有力な先住民首長の娘と結婚したポルトガル人がいて両民族の関係を調整できたという共通点がある。
レヴィ=ストロースがボロロ族で観察した半族間交差いとこ婚の慣習が異なった形でこの期の首長の娘とポルトガル人男性との結婚でも観ることができる。
交差いとこ婚の社会では、男が首長の妻(つまり娘の母親)一族のために「気前よく」働くことを伝統としている。本来一族の安寧と安保のためにできた社会慣習であるが、白人たちはその伝統をパウ・ブラジル労働のリクルートに逆用した。つまり、多重婚で得た多くの「妻」の親族を労働に動員したのである。
その上、半族社会のあらゆる社会的祭祀的行為は、相手方半族の補助、協力を前提としていたから、パウ・ブラジルのための動員は部族全体に及んだ。
なお、先住民社会はハチやアリの社会に似ていて首長あっての集団である。首長次第で友好か反抗が決まった。パウ・ブラジルの伐採、運搬の重労働も首長が首肯したから従事したと考えられる。

1532年以後のことであるが、遠征艦隊の提督マルチン・アフォンソがサンヴィセンチ・カピターニアのカピタ~ンとして最初の植民地を今日のサントスの隣町サンヴィセンチ島に設置した。ついで西のピラチニンガ高原に本拠地を構えた。
ここに至るまで2,3年かかっているが、その間ペルナンブーコを奪還してフランス交易所を破壊している。ポルトガルにもっとも近いペルナンブーコは交易の最先進地だった。1516年に早くもマデイラ島からサトウキビを移植している。
サンヴィセンチにはニキン族の首長チビリサの娘バルチラ(洗礼名イザベル)と結婚した漂流者ラマーリョが先住民に混じって生活していた。カピト~ン・アルフォンソは首長とラマーリョらの協力でブラジルで最初の植民地経営を軌道に乗せた。その功によりアルフォンソがインド総督に栄転した後、その妻アナが新カピタ~ンを支えてピラチニンガ高原にサンパウロ市の基礎を築いた。強力な同盟者がいなかったらサンヴィセンチ・カピターニアの確立はなかった。フランスと同盟を結んだタモイオ連合の襲撃に堪えられなかったに違いない。
ラマーリオは当時珍しくなかった多重婚で多数の混血児mamelucoを生んだ。子や孫はサンパウロの実力者と結婚し、サンパウロ人の祖となった。ということは、バンデイランテスの祖にもなったということである。ラマーリョには「バンデイランテスの大主教」の異名がある。
後年、砂糖生産で肥大したサンパウロのファゼンデイロたちが結成した奥地奴隷狩り隊バンデイランテスには多くのマメルーク兵士が加わった。そのあまりの残忍行為に近親憎悪をみる著作もある。

1549年フランシスコ・ザヴィエルの鹿児島上陸と時を同じくして、イエズス会の宣教師ノブレガ神父らが国王任命の初代総督トメ・ジ・ソウザと共に北東部のサルヴァドール・ダ・バイーアに上陸した。カピターニア制から総督制 への統治制度の変更である。200名の兵士、100名の官吏、犯罪者400名を含む700名の植民者が総督に随行した。
国王と総督とイエズス会の三結合による本腰を入れた集権的行政と植民地開発が始まった。枯渇したパウ・ブラジルに代わって砂糖が主産物になって、奴隷(先住民→黒人)の搾取でスーパ農園ファゼンダ---高価なサトウキビ絞り装置エンジェーニョのほか製材所、鉄工所、牧場などを擁する---が出現する。
先住民の習俗を体験、熟知したDiogoとグアィビンパラが総督に重用され、サルヴァドール建設に貢献した。サルヴァドールは政庁(総督府)となり、砂糖の大生産地バイーアの州都さらにはブラジルの首都になる。

ピラチニンガでは、イエズス会神父アンシエッタが、礼拝堂と学校を併設し、1554年1月25日にノブレガの臨席を得て落成のミサを捧げた。その日がサンパウロ市制記念日となった。

最後に、Diogoとグアィビンパラーの娘マダレナの魂の遍歴を一端だけエピソードとして挙げておく。
混血ブラジル人マダレナ・カラムルーの司教宛て手紙(1561年)について、作家中田みちよさんの上掲「ブラジル物語」から引用する。
[マダレナは]「親から隔離され、神も知らず、我々の言葉も解せず、やせて骸骨のようになりながら奴隷小屋に軟禁されている子らが、虐待から救われますように」と嘆き、働く力もないかわいそうな子らのために金貨30枚を寄付しています。
昨日まで、純朴な人々のふるさとであったバイーアが、奴隷商人に牛耳られる守銭奴の町になったことを嘆き、「舟が着くたびに浜に吐き出され、競売に付され、売られてゆく愚直な黒人たち・・・もっと、ほかに人間的な道があったかもしれないのに・・・」
裕福な家庭に育った人間の鷹揚さ。大変、心優しい、ヒューマンな手紙です。しかも格調高いポルトガル語。

晩年、マダレナはドメニコ会に近づき清貧を貫き、全財産を寄付している。母グアィビンパラーがベネディクト会礼拝所を建立し全財産を寄付したことは前に述べた。母と娘が同じ葛藤を共有していたことは想像に難くない。それは何だったか・・・? 
なぜ教会、イエズス会ではなく小さな修道会を選んだのか? 次章に続く。



破壊的スピードの発展/Londrina開拓に見る

2023-05-09 | 移動・植民・移民・移住

アマゾンの1頭の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす、というたとえ話がある。近年自然破壊による地球温暖化と異常気象が生物の生存を脅かすに至って、非常に小さな事象の集積が大きな変動につながる、という意味で、バタフライ効果が現実味を帯びてきた。
まずは小さなロンドンLondrinaの物語から始める・・・。
1929年、ブラジル南部のパラナ州の密林に、イギリス資本の北パラナ土地開発会社の本拠が置かれた。地名はロンドンにちなんでロンドリナと名付けられた。10アルケイル=24.2ヘクタール≒24町歩に小分けされた分譲地に、東部のサンパウロ州から多くの日本人移民が移住した。
私の父母になる男女はそれぞれ1933年と1934年に移住し密林を開拓した。市のメモリアルにパイオニアとして記名されている。
開拓会社はまず鉄道を敷き、サンパウロの貿易港サントスに至る鉄道網に繋いだ。それにより、世界的に需要が高まったcafé の輸出で大発展する礎が築かれ、ロンドリナは数年で都市化し1934市制が敷かれた。翌年父母が結婚し1938年わたしが誕生した。
一連の写真で環境と生活の変貌を伝える・・・。

21世紀初頭のロンドリナ市のパノラマである。
開拓期の手前Igapo湖の写真(同位置)を下に掲載する。

近くの粘土地帯に母方の父母、兄弟がれんが-かわら工場を建設して成功を収めた。父は赤土の丘陵地帯にコーヒー農場を開いた。両地とも今では市街地に変貌して昔の面影はない。
残念ながら開拓を象徴する大木の伐採と天を焦がす山焼きは撮影されてない。開拓の道具は揃えたがどの家族もカメラをもっていなかったからである。とりあえず写真数葉を掲載する。

我が家の農地にも同様の切り株があった。足場を設置して写真の上端あたりで二人挽き大鋸で伐採した。切り株から食べられるキノコが採れたことをわたしは記憶している。

1938年母方長男結婚記念写真 後列左端父、前列左母と私(お腹の中8か月) 
ほかは母の父母ときょうだい

掘っ立て小屋で誕生 3カ月 

母方一家の煉瓦-瓦工場 背景に切り残りの樹木と大邸宅

私が10歳のころ、わが一家は帰国前に一時ここに身を寄せた。煉瓦積みを手伝って小遣いをもらったことがあった。手前の湿地帯で小鳥、小魚を捕った。手作りのパチンコ、釣竿で。


1940年頃 我が家の農場  実が生りはじめる樹齢4年ぐらいのコーヒの樹   

80年ほどでジャングルがコンクリートジャングルに変貌した。振り返って、その広がりとスピードの影響におののいている。地球環境はそのストレスに耐えかね悲鳴を上げはじめた。
生態系は商品作物と牧場にとってかわった。高原の赤土は洗い流され化学肥料と農薬なしでは大豆も牛も育たない。次章で失われた生物多様性を体験的に綴る。