自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

怖い動物/ヤマアラシとガラガラ蛇

2010-05-30 | 自然環境

Nさんちのシェパードだったと思うがヤマアラシに噛みついて口のまわりに爪楊枝状の針をいっぱいもらってもがいているのを見たことがある。
ヤマアラシは攻撃されると毛が進化した全身の針を逆立てて身を守る。
敵に刺さった針は根元から折れて生き物のように天敵の体内に深く食い込んでいくと言われていた。本当はどうか知らない。
Nさんちでは緊急措置としてペンチで爪楊枝大の針を一本ずつ抜いていた。

ガラガラ蛇に噛まれると生死にかかわる。
血清注射が遅れて生涯手の震えに苦しんでいる人を見たことがある。箸が使えないほどだった。
注射用血清を常備すべきだがわが家にはなかったと思う。
ガラガラ蛇は身近な生き物だった。
名称の由来である尻尾のガラガラを日本に持ってきていたが今は行方不明である。
振るとカサカサと鳴る。威嚇音である。
棒で叩き殺して頭を切り離し尻尾を引っ張るとすぽっと皮が剥ける。
そのまま日干しにすると骨も身も少量で最高のダシになる。
近所のお兄さんは「卵」を食べて吹き出物が出て数日苦しんだ。
わたしは大学を卒業したころ洛北のやまでマムシを捕って料理したことがある。
旅行先北海道の針葉樹林内には多数棲息していた。1カ所に3匹固まっていた。


残酷な遊び/アルマジロと雄猫

2010-05-24 | 体験>知識

さてシャーカラ(小農園)時代の体験に戻ろう。
残忍な幼児体験につき平安を好まれる方は顔をそむけるべし。
体験の総体を見ていただかないとこのブログの意図する所が伝わらないので我慢していただきたい。

わが地所にも鎧におおわれた南米固有の動物が棲んでいた。
学名アルマジロ、現地名タツー、体長40cm,人よりも速く走る。
昆虫を食べるだけなので「害獣」視されているわけではない。
亀とか南瓜同様運搬しやすく、保存がきくので探検家や航海者にとってかっこうの生の携帯食料になっただろうと勝手に想像している。
食べる機会はなかった。
犬に追われると一目散に巣穴に逃げ込む。
たまたま尻尾をつかんで穴から引き出そうとしても鎧をふくらませるので鎧板がつかえて難しい。
そこで肛門に棒を差し込んで身をすぼめさせて一気に引き出す。
あたかも見て来たように描いたが聞いた話である。
この話から連想したのだろうか?
わたしをふくめて男の子数人で雄の野良猫を野外ぽっとん便所に追い込んで捕らえ、なぶり殺しにしようとしたことがあった。
それも身の毛がよだつ方法で・・・。
肛門に木の棒を差し込もうとしたのだった。
猫に九生有り。猫は死ななかった。


日米安保強行採決5月20日、あれから50年/タイムトラヴェル

2010-05-20 | NEWS/現実認識

5月20日は日米安保が国会で自民党単独で強行採決された歴史的な日である。
わたしも全学連主流派の一員として活動していた。
軍事同盟だから反対、米国の帝国主義戦争に加担するから反対、を訴えた。
反主流派の主張は米国従属反対、戦争に巻き込まれるから反対、だったと受け止めている。
あるソ連寄りの教授が「ソ連に100年従属することになるならそれには反対」と言ったのを直接聞いて唖然とした。
わたしはどこであれ従属そのものが嫌なのにこんなタームで考える人がいることに驚いた。
1960年5月20日未明、その時からちょうど50年経った。
治外法権、沖縄犠牲の不平等条約を見て見ぬふりをして半世紀が過ぎた。
いや基地の島沖縄は65年間我慢させられた。
安保を戦ったことには誇りを感じるが安保体制下で生き続けて来たことは恥ずかしい。
健全なナショナリズムが育って次の50年にはよりましな国際関係を築いて欲しい。


一人遊び/友達犬リオン

2010-05-11 | PET/動物

リオンという名の犬を飼っていた。
秋田犬ほどの体格だが外見で似ているのは毛色だけで丸顔、垂れ耳 だったから秋田犬よりか名前のとおりライオンに似ていた。
その背中に片手をのせて並んで歩くとリオンの肩の骨格の動きが 波打つように伝わって来て安らかな心地がしたものだ。
大きくて優しくて頼り甲斐のある犬だった。
命じると庭鶏やトカゲ、アルマジロを捕るのが上手かった。
トカゲは鶏卵をとるので「害獣」視されていた。
逃げるトカゲを追い越して先回りして頭をくわえる、と評判だった。
別れは悲惨だった。
頭を垂れよだれを流して歩くようになった。
リオンと呼んでも尻尾を振らず上目遣いにみるだけだった。
水が、怖がって、飲めなくなった。恐水病である。
人間を噛めば人も同じウイルス性脳病にかかり死に至る。
射殺には当然居合わせていない。


一人遊び/どんな所で

2010-05-07 | 自然環境

ブラジル日本移民資料館所蔵写真の巨樹フィゲイラは樹高40m程もあり観る者を圧
倒する。イチジク属らしいので久留米いちじくの40cmの苗を買ってきて一本立ちの鉢植えにしたら数か月で夏までに2mになった。恐ろしい成長力を実感できた。
開拓者がいかにしてその巨木を切り倒すかは文末でご覧あれ。

よく家の床下でほこりにまみれて遊んだ。
犬を飼っていたので砂蚤に悩まされた。
砂蚤は日本にはいない。
足の爪の間や角質の中に喰い込み、卵「胞」を育て魚の目ほどに大きくなる。
寄生された患部は腫れてかゆくてたまらない。
たこ焼きをひっくり返すように針でほじくり出し穴にヨードチンキを塗っておくと治る。
これをビッショ掘りと言い日課になることもある。
父母が畑仕事をしている間は幼くて足手まといの私は木の陰に置かれていた。
敷物の後ろで蛇がとぐろを巻いていたこともあった。
家の仔犬が玉虫色の小さな毒蛇にかまれて即死したのを憶えている。

畑に行く途中グズって母に置き去りにされて大泣きしたことがあった。
そのすぐ側に大きなフィゲイラの切り株があった。
フィゲイラは大きな板根ゆえに切り倒すときは家の塗装時のように櫓を組んで足場とし地上から5mぐらい高い幹の部分を数人がかりで切る。
板根が朽ち始める頃食用になる白い茸のオンパレードが見られる。
フィゲイラはウドの大木ほどではないが枯れると腐朽しやすい。
ナバとよんでいたきのこを食べたのは1回かぎりだった。

 




一人遊び/玩具

2010-05-06 | 体験>知識

 4歳時
3輪車はぜいたくな玩具だった。
父母は勤労と倹約一筋だったが一人っ子だから精一杯のプレゼントをしたのだろう。

子守がいないときは主に一人遊びだった。
おもちゃは主として焼け残りの森の産物だった。
有機質が抜けて白い石灰だけが残ったエスカルゴの貝殻は入れ物にも動物にも化けた。
木の根や枝は人形や動くものの代わりになった。
葉や花は「料理」の材料になった。
あるとき隣のN兄妹と葉や花をすりつぶして瓶に入れ「毒」と称してそれぞれが持ち帰って騒ぎになったことがあった。
毒物はきわめて身近なところにあった。
豚油から石鹸をつくるための苛性ソーダがどの家にもあった。
ほかにも毒物があったがその容器にはきまって腕組み髑髏のマークが付いていた。
もう少し大きくなった頃自分もあそびで石鹸をつくったことがある。
油脂があればかんたんに石鹸が作れる。
これまた大きくなってからのことだが4輪車、竹馬、凧、パチンコ、鳥かご等子供たちだけで作った。

子供は遊びの天才である。
周囲にあるものを想像力によっておもちゃに変えてしまう。
だから玩具は完璧でない方がよく、完備してない方が良いように思う。