自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

皆既日食/Londrina で幼時に体験

2024-04-07 | 体験>知識

 皆既日食   Londrina  1947.5.20
4月6日の朝日夕刊に、「北米縦断  皆既日食フィーバー」と題する記事が掲載された。8日昼前からメキシコとテキサス~ニューヨークの各州で観測されるとNASAが発表した。大勢の人の移動に伴う混乱が懸念されている。
記事を見て幼い時の記憶がよみがえり、古い写真をひっぱり出した。その裏に父の筆跡で地名と日付が書かれていた。私が日食を観たのは8歳の時だということが判った。

ブラジルでも観測フィーヴァーがあった。ニュースの入らない田舎生活の私でも日食があることを知っていた。「南方」の空の高い所で日が欠けていき、夜のように暗くなった。明るくなりはじめると雄鶏があちこちで時を告げていた。

今回の下調べで私は自分の不安定だったLondrinaに関する
位置・方向感覚をいくらか正常化することができた。私は8歳の時ウチの地所にいた。ほかの所ではなく・・・。これまで確認できなかった居所がわかったことが一つ。
二つ目はこれまで太陽が南方を通過するという錯覚に悩んでいたが、今回写真を見て浮遊感が薄らいだ。
Londrina は南回帰線上にある。太陽が赤道の真上を通過し、Londrina からみて北方の東(右)から太陽が昇る。論理的にはわかる。今回写真がそれを視覚的に納得させてくれた。
ただ方角は地形上に足で立って目で見てはじめて完全に自分と一体化する。それまで、わたしの幼児の錯覚は完全には修正できない。
錯覚の原因は来日にある。日本では太陽は南方を移動する。


鵬翔高校サッカー場落雷事故で回想

2024-04-04 | 体験>知識

4月3日午後2時半過ぎ、宮崎市にある鵬翔高校サッカー場でピッチサイドに落雷があり、熊本から試合に来てウオームアップ中の鹿本高校の選手18名が負傷して救急搬送され、9人が入院、このうち、1人が意識不明の重体となっている。「その場の天候は、雨がぱらついてきたというくらいの状況だった。落雷音が全くしなかった。いきなりドンと(雷が落ちた)」 2日午後4時ごろから県内全域に雷注意報が出ていた。鵬翔高校教頭先生のインタヴィユー記事 mrt宮崎放送 配信 

鵬翔高校サッカー部といえば、わたしが高槻フットボールクラブの監督をしていたころ、ウチの卒業生が毎年入部していた。2013年には全国高校選手権で優勝実績がある強豪校である。

これも因縁か、わたしは2013年の8月18日に、その17年前の1996年に高槻市営グラウンドで起きた同様の重大事故を扱った記事をブログに投稿している。以下に再投稿する。参考にしてほしい。

なお、高槻市での事故を受けて、日本サッカー協会は、落雷事故防止対策の指針を定めてルールブックに掲載している。
「活動中に落雷の予兆があった場合は、速やかに活動を中止し、危険性がなくなると判断されるまで安全な場所に避難するなど、選手の安全確保を最優先事項として常に留意する」

「落雷事故と裁判 長居競技場落雷死/高槻市落雷失明」
2012年8月18日午後2時15分ごろ、去年の今日、長居公園南西入り口付近で樹木に落雷があり福岡県の20代の女性2人が病院に搬送されたが死亡した。
二人はEXILEなど人気アーティストの野外ライヴの入場を待っていて難に遭った。
さらに3時過ぎ会場前の同イヴェント・グッズ売り場の幟に落雷があり6人が軽傷を負った。
その後ライヴは1時間遅れで挙行された。
今年7月30日遺族は主催者に対して損害賠償訴訟を起こした。
[結果は上告審で棄却、遺族敗訴]

1996年8月13日、全国的に落雷対策を促す結果を招く重大事故が身近な高槻市で起きた。
市体育協会主催のユースサッカーフェスタで試合中の土佐高校の生徒が直撃を受け重篤な不治の障害を両眼と四肢に負った。
(財)市体育協会と土佐高校は保護者と損害賠償裁判で最高裁まで争って敗訴した。[保護者勝訴]
財団法人は銀行口座を差し押さえられ解散した。
延滞金を含めると5億円に近い賠償金のほぼ80%を土佐高校が負担した。

わがクラブは最初の稲妻、雷鳴で競技を中断、放棄することを心掛けている。
さらに中断、離脱の決定権を指導者だけでなく選手個人、その保護者にも与えている。
団体競技であるにもかかわらず個人の意思が優先される。

それでも危険回避が難しいと感じることがある。
逃げる間がなく逃げ場がないとき、たとえば上記長居事故のような場合、個人あるいは小集団の自助、共助だけではどうにもならない。
主催者の対応不足は論外だが、施設管理者[この件では大阪市]の無策を問わなくてもよいのか?
屋根のある全施設の門を開放して避難させる人道的責任を負わなくてよいのか。[この件では長居スタジアムは対応しなかった]
この件では施設を貸す側にもできることがあった、と確信している。
ちなみに避難小屋を兼ねる山小屋は緊急の場合定員に関係なく避難者を収容する。
逃げ場がないとき公共施設を開放する・・・これが常識になっていない。

マニュアル命のお役人と頭でっかちの裁判官たちはどう思う?


泳法と水難防止/井ノ山毅/安保と沖縄×北方4島

2019-02-11 | 体験>知識

Notice 映画「金子文子と朴烈」(イ・ジュンイク監督) 初公開
最近様変わりした『週刊 金曜日』1220号に金子文子特集あり。
当BLOG記事「朴烈・金子文子大逆罪適用/義烈団爆弾事件」にも目を通してほしい。

井ノ山さんを伏見桃山の官舎に訪ねるようになったきっかけは、60年安保闘争で全国税労組京都支部がゼネストの一環として時間内職場集会を決行したのを、府学連として応援に行き下京税務署でピケを張ったことである。

私は当時の学生、労働者の政治的高揚を誇りに思う。税務署員が時間内職場集会を開催して処罰されなかったことは画期的である!  戦後15年しか経っていなかったから、軍事同盟と知れば新安保反対は当然の成り行きだった。条約を通すため岸首相は国会の質疑で軍事同盟でないと懸命に虚偽の答弁をしていた。
近年、軍事緊張の高まりが戦前のそれに類似してきた。だから、軍事同盟だからこそ[仕方なく]支持する世論が多数になった。同時に軍事同盟の危うさに反対する世論も高まりつつある。60年前の安保反対の正当性が再評価に向かうだろう。この機会に、安保条約と北方4島×沖縄、に言及したい。が、そのまえに水泳体験記を・・・。

私の山行は大浜の知遇を得たことで始まった。水泳の手ほどきは井ノ山さんから受けた。といっても古泳法と水難防止法について伏見桃山のプールでお子さんを遊ばしながら一度きり指南を受けただけである。井ノ山さんは京都で歴史のある踏水会の水泳教室で育ち、私と知り合うまでは暇があれば疎水夷川ダムにあった教室で水泳指導を手伝っていたようである。
踏水会は1896年に大日本武徳会水泳部として創立され、熊本から小堀流踏水術を取り入れた。立ち泳ぎ、横泳ぎを特徴とし、泳ぎながら刀や弓を使うことのできる軍事泳法である。現今の踏水会は妊婦から高齢者までを対象とした多種目のコースをもつ水泳学園法人である。
井ノ山さんからあおり足を習い立ち泳ぎと横泳ぎの真似事ができるようになった。
これがきっかけで私はクロールではあったが「遠泳」ができるようになった。夜間、大学のプールにひとり忍び込んで息継ぎの方法を研究し1500m近くまで泳げるようになった。ゴーグルなしではカルクで眼が痛んでそれ以上は無理だった。
自己流の息継ぎ法のミソは、古泳法は始終頭を水面に浮かせるが、クロールだから横を向いて呼吸のために開けた口を半分近く水に沈めたまま、始終顔を上げないで水平に泳ぐことである。顔を上げる度にその分だけ反動で体が沈む、という簡単な原理に気付いたことがクロール上達の鍵となった。
井ノ山さんの指南で手荒な救助法があることに驚いた。溺れる者は藁をもつかむというが、救助者を必死で掴んでその自由を奪って共に溺れる恐れがあるから、それを回避するために、救助者は遭難者を半回転させて背後から抱きついて救助する、暴れて危ない場合には少し溺れさせて弱らせる、というのである。危険を伴う救助法である。絶対マネしてはいけない。


保津峡ピクニック 1965年春 川下り遊船で有名な保津川にもこんな浅瀬がある。

塾の生徒を水泳にたびたび連れていった中で体験からいくつか水難防止のヒントを得た。
保津峡~嵐山では、急流で流されたら抗わずに流れに乗って湾曲部か水流の穏やかな岸に流れつくように努める、決して慌ててエネルギーを使い切るな、ということを体験的に学んだ。

また、浅い急流を下るときは、仰向けになって腹を上にして足から先に流されるのが一番安全であることを実際に試して会得した。低水位期の保津峡の早瀬で腹部を護りつつ手と足で底石の危険を避けながら流されていくのはスリルがあって面白かった。もちろん塾生にやらせたことはない。
若狭湾高浜海水浴場では、塾生のキャンプの手助けをしてくれていた院生の白石君が溺れかけた。水泳中に強い局所的引き潮*によって沖に流されかけて懸命に戻ろうとして疲れ果てた。幸いことなきをえたが、これは後で知ったが、力尽きて溺れる原因になるからぜったい避けないといけないやり方である。
正解は、あらがわずに流されつつ急流から左右どちらかに脱出するよう努めることである。顔を上げて泳ぐか浮くかすれば流されても流れが拡散して弱まり遠くまで流されることはない。この対処法は見聞して初めて知ったが、原理はやはり流れのエネルギーに逆らわないことに尽きる。

*離岸流  1955年夏三重県津市中河原海岸で女子中学生36名が突然の異常流で溺死した。当時離岸流というコトバはなかった。

 #離岸流

さて安保条約の話だが余談から始めよう。中学2年のころ担任に校内弁論大会クラス代表に指名された。経験も自信もないのにあてられて逃げ出したいほど困惑した。
思い付きで選んだテーマが、日ソ中立条約(1941.4.13)を破って宣戦布告(1945.8.8)したソ連はけしからん、という内容だった。これは当時の新聞のコピーだったが多数意見の反映でもあった。弁士に熱意がないのだから聴衆(保護者と生徒)も反応し難かったにちがいない。教師たちからも何の反響もなかった。
今では、数年来の近現代史研究で、劣勢を顧みず常に強気で先制攻撃に出て、負けた場合に失うものを考えだにしなかった国民が、条約満期(1946.4)前の侵略に国際法違反をうんぬんする意気地なさに、うんざりしている。戦前の国防方針を少し勉強すればそんな泣き言は恥ずかしくて口にできない。
歴史の鏡に映るソ連は日本であり、同様に日本はソ連である。日米についても同様である。戦争をするなら10倍、100倍返しを覚悟しなけらばならない、戦争の原因をつくらないように内政をただし外交で友好をたもつべし、とわたしは歴史から学んだ。
ところで、本題の日米安保条約は大戦の落とし子であり、核の傘にも核の冬の原因にもなるシロモノである。日本の終戦との関わりでいえば、米英ソはヤルタ会談(クリミヤ半島 1945.2)の密約で対日ソ連参戦の条件を取り決めた。ソ連はドイツ降伏後2,3か月で参戦する。報酬(戦利品)は南樺太と千島列島とする。ところが大戦の終結が近づくと体制の異なる米ソの先陣争いが始まり戦後冷戦体制の大枠が見え始めた。
4.5 ソ連、日ソ中立条約不延長通告(満期は1年後) 
5.7 独、無条件降伏 
6.25 沖縄戦組織的戦闘終息 
7.16 米国原爆実験成功 
7.26 米英中、対日ポツダム宣言 
8.6 広島に原爆投下 
8.8 ソ連対日宣戦布告・ポツダム宣言参加表明  北満・朝鮮・南樺太に侵攻開始 
8.9 長崎に原爆投下 
8.15 日本無条件降伏・ポツダム宣言受諾を発表 
8.17 ソ連、千島列島東端占守島から進駐開始/日本守備隊と激戦 
8.30 マッカーサ連合軍最高司令官厚木から
横浜進駐

ソ連の言い分:ヤルタ協定、ポツダム宣言に基づくソ連取り分の占領に応じないのは理解できない。防戦すればポツダム宣言違反として捕虜、戦犯として処分する。
日本の言い分:日ソ不可侵中立条約期間内の対日同盟、宣戦と開戦は国際法違反である。侵攻には防戦する権利がある。捕虜、戦犯視は不当である。
双方の言い分に特別こだわる気はない。だが東西冷戦により全面講和が凍結され、アメリカが沖縄を、ロシアが北方4島をふくむ千島列島を、最重要の接壌としてキープし続けていることには無関心でいられない。日本列島の周辺の島々と海は日本の接壌*
でもある。接壌の状況変更は容易にナショナリズムを刺激し戦争の火種になるからである。
*誤解を避けるために念を押すが、接地という意味で主権とは関係ない。

米中露の対立があるかぎりロシアが北方4島の主権をすべて放棄することは絶対にありえない。アメリカが不用意に日露米の接壌に変更を加えることも考えられない。現にあの広い北海道には米軍専用基地はない。日米共同使用施設千歳キャンプはあるが・・・。
接壌を侵せばどうなるか。北満まで遡らなくてもキューバ危機を例示すれば足りる。ウクライナはロシアがもっとも重視する接壌である。ウクライナとNATOの接近を観てロシアは先手を打った。ロシア人が多く住むウクライナの東部を切り裂き、ロシア人が多数を占めるクリミアを不当に併合した。
日米安保条約は沖縄と北方4島関連で生きている。そのうえ中露米と日本の軍備増強が著しい。この際、日本列島全体が中露米の接壌であることをわすれてはならない。とくにアメリカにとって日本はトカゲの尻尾になりかねない。沖縄が本土の尻尾にされたように。
細長い領土はまるまる接壌であり広大な後背陸地を有さない日本は大戦となれば死活的に不利だ。その弱点を見つめながら、ITの進歩で国境の概念も地政学も変わる50年先、100年先を想像できる「アインシュタイン」のような天才が現れないかな~。
とんだ天才待望論に飛躍して御免!

 


終活、79歳で始めた/傘寿80歳になった!

2018-10-16 | 体験>知識

80歳!  他人様は聞いて高齢に驚くが当人はさしたる感慨がない。いや、頻繁に訃報を耳にするから自分もいつ逝っても不思議でない歳になったんだなあと感じる。実は79歳で初めて終活をした。その経緯を記そう。昨年の今頃から右隣りのご主人が元気に車で動き回っていたのに立て続けに3人亡くなった。正月明けに3人目の隣家のご主人が亡くなって隣近所で改めて弔問に行くことになっていた日、私は午前中の記憶が飛んですぐさま脳外科の精密検査を受けた。どうもなかったが死の不安が隠れていたことに気付かされた。
「男の陣痛」と言ってしまうほどもがき苦しんだ前立腺肥大悪化では、手術には狭心症の常用血液サラサラ薬を制限しなければならず、そのせいで血栓梗塞で死ぬのではないか、あるいは手術中の出血過多で死ぬのではないか、の不安に悩んだ。
古い銀行通帳の整理のため何度も銀行に通った。終活というほどのことではないかもしれないが、終活を続けねば、という気持ちになったのは確かだ。

近現代史のBLOGを綴っているが、これが良い脳トレになっていてボケを遅らせる作用をしている。最高の終活だと思っている。80歳代では自分史の中に戦中戦後の体験した史実を織り込む程度に、これまでやってきた歴史叙述をおさえて、BLOGを楽しもうと考えている。
狭い庭先で野菜の鉢植えを楽しんでいる。よい運動にもなる。
BLOGが一段落したら近現代史の古書をヤフーの通販か競売に出品するつもりだ。たまに古書を求めてオークションを利用するがこの年になってこどものようにわくわくさせてくれることはほかに知らない。売れ残ったものを一括始末するのが終活だと思うがそこまで自分がやれるだろうか?
結局わたしの終活とは趣味の言い替えにすぎないようだ。死ぬまで自己本位の生き方しかできない、と家族はあきらめているににちがいない。


大阪北部地震体験記/横揺れと縦揺れ

2018-07-17 | 体験>知識

 朝日新聞  6月24日朝刊

有馬~高槻断層帯の東端に居住しているので二つの地震を体験した。阪神淡路大震災では震源が兵庫南部だったので横揺れ(高槻の震度5弱)が長く続いた。今回は震央だったので下から突き上げる大きな瞬時の縦揺れ(校区の震度6弱)だった。
代議員として8:00から校門で登校生徒を朝の挨拶で迎えるために早めに登校した三宅璃奈さん(4年生)が犠牲になった。地震発生の時刻次第では、私の孫をふくめて大勢が登校路のあの長いブロック塀の下敷きになったかもしれない。
今回の地震は、専門家の見解は別だが、素人考えでは阪神大地震の余震、残存エネルギーの解放であろう。間近いと予想される南海トラフ大地震でも余震が広域で長期にわたって間歇的に起こることを覚悟すべきだ。
被害の様相で気がついたことを記録しておく。
直下型では瞬間的な縦揺れにより屋根の壊れ方が違った。屋根が合わさる部分つまり尖っている稜線が開いた。だから応急手当のブルーシートは、面では無く稜線を覆っていて、まるで切り傷に貼られたキズ・テープのようにみえる。
わたしは庭で鉢植えに水やりをしていたからドーンと下から地面ごと突き上げられ柿の木にすがりついただけだったが、家の中ではTVの画面が縦に揺れ、瞬時ではあるが横揺れがあった。反射的に子供をかばって覆いかぶさった我が娘が飛んだ来たTVの液晶にぶつかって頭部に打撲傷を負った。湯沸かし中の鍋がふっとんだ。
二つの地震とも横揺れは南北に揺れた。家具の口が南北に開くように設備された家屋では最悪の場合棚の物がほとんど飛び出し家具が倒れた。我が家では家具が東西に向って設置されていたためいずれの地震においても家財道具の被害はほとんどなかった。倒れた例の建築基準法に違反のブロック塀は南北に面していた。
わたしは押さえの無かった棚が一つ倒れたため突っ張り棒を買いにホームセンターに行った。長い行列をみて買物をあきらめた。棚が南北に開いているこのホームセンターの中は滅茶滅茶で、客の注文を入口で聞いて店員が一々品物を探しに行くありさまだった。一週間後になっても突っ張り棒は入荷しなかった。物流が地域的な被害にすら対応できていないことは私には意外だった。
日頃からブルーシート、ガスコンロとボンベと電池、給水用10Lタンクを常備して置かないとまず買い求めることが困難である。交通大渋滞で必需品も救援物資も入手困難になることをあらかじめ覚悟しておくべきだ。
鉄道がとまったため従業員が移動できず大店舗や介護施設等が休業になった。鉄道自体も運行停止がことさらに広がり長引いた。
電気、ガス、水道、交通のライフラインが心配だが、通信のインフラにも投資すべきだ。家庭の固定電話は遠近とも通じたが、ケイタイは近距離はつながらなかった。

地域限定の小地震でこうだから、遠くない将来、南海大地震が太平洋沿岸を襲ったときこれまでの経験では予想できなかった事態が起こると思われる。過去の経験を、活かせるかどうか、だけでなく、棄てられるかどうか、も大事の分かれ目になりそうだ。

 


62年ぶりの同窓会=「友だち」会/遊び友達今いずこ

2018-06-01 | 体験>知識

わたしは現役時代同窓会に出なかった。出たくても多忙で出られなかった。2年前に引退してから望郷の歌をネットで探して口ずさんだりして、同窓会を待望するように変わった。
1週間前に母校屏山中学9期生の喜寿同窓会が久留米でありワクワクしながら参加した。
わが故郷では同期生は互いのことを「友だち」という。以下に出て来る「友達」は同期生のことである。110名中30名が参加した。顔に見覚えのある者、名前に記憶のある者、まったく記憶を呼び覚ませない者がほとんどで、遊び友達、一緒に学校に行き帰りした友達は一人もいなかった。若い頃賀状を交換していた親友ふたりは消息不明だった。
当時は運動会で部落対抗リレーがあるほどに内の友達は行動を共にすることが多かった。男女合わせて十数人いたはずのの友達が誰も参加していなかった。物故と闘病の二人をのぞいて消息を知ることができなかった。
物故者に黙祷をささげたあと懇談になった。初参加のわたしは指名されてマイクの前に立った。東京から参加した夫婦と女性ひとりをのぞいて、みんなは今も故郷周辺で生活していて互いに暮らしの中身を気軽に語ることができるが、私は自分がどう生きて来たか短い時間で語る気にはなれなかった。47年間少年サッカーの指導をしたことだけ言ってあとは誰かの為になるかも知れないという思いで闘病体験を語って終わった。
懇談するにあたって私には誰かと共通の想い出があまりなかった。皆は今に続く長い過去を語り、私はむかしの数少ない記憶の断片をいくつか口にするだけだった。私の家に遊びに来たことがあると何人もが言ってくれたが私はまったく想いだせなかった。それに30人の内だれ一人として今現在草野町に住んでいなかった。わたしの故郷が遠のいていく気がした。望郷の念に大きな温度差があったことを思い知らされた。最後に皆で兎追いしで始まる『故郷』を歌った。私は皆で肩を組んで『誰か故郷を想わざる』も歌いたかったが希望は叶わなかった。
突然、〇〇です、憶えていますか、と話しかけられた。「あっ、目元に憶えが・・・。私の初恋の人」 出席していないと思っていたので年甲斐もなく思わず空気を読めない対応をしてしまった。もう一人の女性が「えっ?!」と声を発した。笑い飛ばしてお終いにすべき話題が凍結されてしまった。あとは当たり障りのない話になった。私の家に来たことがある、母が当時珍しかったコーヒーを淹れてくれた、と想い出を話してくれたが、わたしにはまったく記憶がなかった。
「友だち」との60何年ぶりかの邂逅で語り合いたいことを語れなかったことは時間がたつにつれて後悔の念となって私の思念の片隅を占めるようになった。腹ふくれる心地がした。吐き出してすっきりするためにこの稿を書くことを今朝思い付いた。
想い出だけが私の故郷だったのに、だれともそれを語れなかった。次の日、思い出を託す風物はないか、草野町の紅桃林を訪ねた。駅舎は立派になっていたが無人駅だった。中学はとうの昔に火事で炎上していた。我が家はまだ残っていて小柳姓の住人がいた。廃屋になってなくてよかった。屏風山脈から流れ来る「門辺の小川のささやき」は歌のとおりだった。ようやく思い出が次から次とよみがえったが語り合えるひとは寝たきりの老いた母しかいない。写真に収めて老母を喜ばすことにした。


先祖の墓碑を確認して手を合わせるつもりで、子供のころの記憶をたどってそこに行ってみた。当主は不在で庭にあるはずの石碑はなかった。近所の同姓の家は現代風に建て替わって別姓に替わっていた。旧日田街道だった道路は整備され、風景が新興住宅地のように一変していたが、土曜日の昼前どの家も留守で石碑の在り処を訊くことはできなかった。
昼食のために当主の弘美さんが柿の摘果作業から帰って来て柿畑の真ん中にある彼の先祖の墓地に案内してくれた。大きな三段の台座の上にかつて私が見た石碑が陳座していた。碑文が刻んであるはずだが、風化でできた石の皺なのか文字の痕跡なのか不明で、読みとる手がかりは遺っていなかった。


弘美さんは古い書付もなく先祖の伝承もあまり御存じなかった。わたしのほうが詳しいぐらいだ。先祖は領主草野家の刀鍛冶で代々同姓〇右衛門を名乗っていたことが周りの古い墓石の銘から読み取れる。宗右衛門、三右衛門の名があった。
草野家第19代城主家清は秀吉の島津征伐の折和睦成立後に謀殺された。発心城は焼け落ち、わが先祖は鍛冶屋、百姓として子孫を遺した。遠くは熊本県荒尾にも同姓がいたが、今は旧三井郡の4地区の子孫が当番で墓掃除をし、墓を建立した1957年4月29日以来毎年同じ日に菩提寺である専念寺から坊さんを呼んで先祖供養を催しているそうだ。台座に刻まれた建立者数十名の中に今は亡き父の名があって慰められた。
「故郷は遠くにありて想うもの」をあらためて実感させられた旅だった。
  

 


「血盟団」事件/自己犠牲=自己実現/天皇親政のユートピア

2018-03-13 | 体験>知識

民衆のためとおっしゃって家をかえりみない貴方、私たち母子は大衆ではないのですか。(井上志ツ)

  中島岳志『血盟団事件』 2016年  文藝春秋

関東軍の独断専行と満州国の建国(1932年3月1日)により軍国主義はようやく復活した。
1931.11.9 京大国粋主義団体・猶興学会、学内外で活動活発化(3か月後血盟団事件に3名連座) 
1932.1.10 国防献金による献納機、代々木練兵場で愛国1号、2号と命名 献納機ブームのはしり 終戦までに陸海軍あわせて1万機献納 
2.9 「一殺多生」血盟団事件 元蔵相・井上準之助暗殺
3.5  三井財閥総帥・団琢磨暗殺

3.18 大阪で国防婦人会発会 軍の指導で大日本国防婦人会に発展 白エプロンにタスキ掛けの制服 
5.15 「問答無用」5.15事件 海軍青年将校、犬養首相暗殺
10.3 満州へ武装移民団416人出発
12.19   全国132新聞社、満州国独立支持の共同宣言発表

テロリズムは国により土壌も背景も異なる。これから考究する井上日召の思想と行動は国体擁護を看板に掲げる従来の国粋主義運動(右翼運動)とも根本的に違う。海軍青年将校の国家改造運動と相互に響き合い、重なりそうだが反発し合う。

日蓮主義僧・井上日召は、みずからの境遇と国家・社会の閉塞的状況に煩悶して修行と研鑽を重ね、壮大な精神世界と小さな信奉グループを造り上げた。グループは主に地縁でつながる困窮青年たちでそれぞれ健康上、家業上のハンデを背負っていて、人生問題で煩悶していた。中心となった布教地の名をとって大洗グループ[茨城県]と呼ばれるようになる。
始めは法華経を読誦するだけだったが次第にオカルトじみて憑かれたように霊力を発揮し、病直しもした。一切衆生の「救い主になれ」「立ち上がれ!」と天の声を聞くようになり、山から降りて世直しに傾斜して行く。それは勤行、地道な啓蒙活動だったが、かれのカリスマ性に傾倒した海軍青年将校たちのリーダー藤井斉大尉の暴力革命、起爆薬の考えに同調して行った。

日召の哲学から見て行こう。
それは太陽系宇宙をモデルとしている。太陽「永遠の本体」と遊星「流転の形状態相」の運行は、俳諧、分子生物学に出て来る言葉でいえば、不易流行、動的均衡である。それぞれが役割を担いながら対立がない。一体で一つの宇宙である。しかも永遠の生命を得ていて不滅である。
日召は、生物とすべての事象が「常住に変化流転を続けて居る」、人間も「絶えず同時同処生死を継続して居る」という哲学を得て、生死一体、破壊即建設をモットーに掲げ、政治の「新陳代謝」にのめり込んでゆく。驚きだ、日召は時代を越えて最先端の知見とも渡り合える哲学をモノにしたテロリストだった。
「大自然の法則」にしたがっている日本の君臣関係もまた古来上下一如、一体であり、万世一系は世界無比である。しかも天皇は、天照大神が皇孫に授けた天壌無窮の神勅と三種の神器によって「現人神」であることが明らか*である。日召は、大自然の法則に基く「天皇道」と分けへだてなき君臣関係を日本の国体とし、日本主義と呼んだ。
*明治維新を相対化した日召が明治維新によって造られ定着した現人神を絶対化するのは論理矛盾である。
日召は、日本主義に生きよ、と呼びかける。さらに、㋐世界無双の日本主義だけが世界統合の原理たりうる、㋑「天皇の理想は此の精神に依って全人類大平和の理想社会建設にある」と言い切っている。これは八紘一宇[天下一家]の思想の言い換えであって日召のオリジナルではない。
ところが「人間生活の殆んど全部が経済的生活となって来た現代は遂に黄金万能の世となって大義[日本主義]は将に滅せんとし」「右傾派は個人闘争、左傾派は階級闘争の連続」でいずれにしても人類の理想は出現しない。

では日召の革命観はどうか?
その特徴は対立概念からではなく一体観から発しているところにある。「それでまず、自己革命をやれというわけだ。社会だけを革命するんじゃなく、自他もろともなんだ。国を愛し、社会を愛し、すべてのものを愛するがゆえの革命なんだ。革命とは、大慈悲のある者だけが行ずる資格をもつ菩薩行であるとも言えるのだ」 革命は仏行である、とも言っている。
「大衆の悩みを己が悩みとし、苦しみを己が苦しみとする。・・・正義とは、大衆の幸福である」、決して、革命が権力奪取の手段となってはならない。この革命観は西郷隆盛の敬天愛人の思想と共通である。それは日召をほかの国粋主義者から峻別する指標となっている。
たいていの革命は大衆に奉仕するという信念または建前から出発する。泥田に咲く蓮の花が美しいように民衆に出自をもつ日召の信念もまた純白である、かどうかは、その後の生き方によって検証されるべきである。

内外で軍部、国粋主義者が国家改造の行動を起こし始めた。
満州事変のちょっと前の1931年8月31日、海軍グループの藤井斉大尉が大川周明の元から「凄い情報を握ってきた」   この秋満州で中国人をそそのかして日本人の阿片商人を2,3人殺させる。日中両国で世論が沸騰するのに乗じて大川周明と陸軍が革命を起こす。藤井はこう報告し、自分たちも合流する約束をしてきたと言った。
井上は激怒した。大川も藤井も「大衆の為」とよく言うじゃないか。貧乏ゆえの売薬人を殺すなんぞ「もう革命精神が全然違う、そう云う者が権力を握った時には決して日本を善くせぬ、・・・必ず日本を毒する」と井上は藤井を罵倒し計画への参加を拒絶した。
9.18満州事変を機に国内でも事変拡大に消極的な若槻内閣を打倒して軍部内閣を樹立しようとするクーデターの動きが加速したが、事前に計画が漏れて橋本欣五郎中佐、長勇少佐らが検挙され事件は闇に葬られた。これを十月事件という。結局この流れの中で若槻内閣は前稿で観たとおり総辞職に追い込まれ親軍的犬養内閣が誕生した。陸相には陸軍青年将校のカリスマ的存在だった荒木貞夫中将(十月事件で首相に擬せられていた)が就任した。
陸軍青年将校に期待して十月事件の周辺にいた日召は陸軍将官、佐官と北一輝一派、大川周明一派の権力志向(自分たちの名を連ねた閣僚名簿を用意していた)に呆れ、見切りをつけて大洗グループ中心の直接行動、要人暗殺計画を準備し始めた。
満州事変の拡大は日召グループから海軍青年将校を奪って戦地に送った。随伴した上海事件で、藤井中尉が空母「加賀」から発進した搭乗機を上海上空で撃墜されて戦死した。
後から日召に傾倒した学生グループ、東大・京大の学生の主軸は、鹿児島七高の出身で法華経信仰に惹かれたというよりか日召の救世主を想わせる生き方、自己犠牲的精神に心酔したようである。彼らは大洗グループのようには自己同一性に徹しきれなかった。自己矛盾との間で葛藤し、拳銃の引き金を引くことをためらった学生もいた。

なぜ革命を目指す運動が個人テロに収斂されていったのか。
日召グループのストイシズムがそうさせたと考える。日召は、欲望の排撃ではなく欲望の国体[国家ではない]への還元を唱え、人はそれぞれの欲望をただ一点国体に捧げて生きることが個々の生の充実であり自己実現である、革命は自己革命から発すると考えた。この厳しいフィルターを通り抜けた者だけが革命に参加する「資格」がある、と言っている。
これでは同調者が少数に限られる。宗教的神秘を求めた信者は離れて行く。世俗的野心の抜けない将校は背を向ける。いきおい指折り数えることのできる少数の構成員で革命の烽火をあげるしかない。当然少数だから後続を期待する「捨て石」の役割を果たすことになる。それはまた自分を犠牲にすることである。
自分たちは宇宙の法則、天道にしたがって生きているから国体[=現人神天皇=自己]のために死ぬことは「永遠の生命」を生きることである、という揺るぎない信念がかれらにはあった。したがって自己犠牲は自己実現になる。しかも「自他一体」、相手だけ殺すのではなく自分も死ぬのだ。自他をリスペクトしていることをかれらは自負した。
日召は「犠牲的捨て石」「起爆薬」となって支配の「外殻」[上部構造]を破壊しようとした。破壊はそのまま建設であると言うにとどめて、その後のヴィジョンをあえて提示することをしなかった。それは、賢しらな心で「口先」「小手先」を弄することである、また革命参加者の功利心を呼び覚まし革命に亀裂を持ち込む、と言って建設構想を提起することを忌避しているが、実際のところ彼自身何もイメージできなかったようだ。二人の農本主義者、橘孝三郎の農民組合主義と権藤成卿の自治制度論、国家主義ならぬ自治主義に期待している。
日召が理想とした国体は君民一体の天皇親政ということになるが日本の歴史においてそういう時代は一度もない。日召も言及していないはずだ。ありきたりの復古主義者でないところがよい。日召は「戻る」のではなく「今」の自己を自然道に従って生きることを実践した。
日召たちは、昭和天皇の即位の礼のために周囲の零細業者が清掃されたことに憤慨した。この事実からの類推に過ぎないが、このころ盛んになった上辺だけの忠君愛国運動(学校に設置された御真影と教育勅語を収納する奉安殿に登下校時に児童生徒に最敬礼をさせた、とか)も醒めた目で見ていたのではなかろうか? 調べてみたい。
革命の暁に天皇親政を幻視して、日召は天皇と国民の間の中間介在物とくに支配階級とその代表者「君側の奸」を取り除こうとした。取り除けばおのずと国体本来の姿、天皇の大御心と天下万民平等の世が現れると信じた。

日召は、暗殺対象として政党:犬養毅、重臣:西園寺公望、財閥:団琢磨、官僚:井上準之助など、いずれも政財官界の大物を挙げた。特権階級代表の命を狙うのは革命の烽火をあげるためだったが、日召の想いは官僚制度抜きの国体だった。
かつてソヴィエト・ロシアでボルシェヴィキ主導の下で労働者、兵士、農民の委員会による統治の試みがおこなわれた。レーニンがこの課題と実際に格闘して力尽きた最初の革命家となった。だがロシア革命では、革命=委員会(ソヴィエト)、と等置できるほど、労・農・兵ソヴィエトという自治組織、物理的根拠があった。日召には何も根拠がなく、天皇親政はユートピアに過ぎなかった。夢想に基づく要人テロであれば、その評価もおのずと定まってくる・・・。

私は原史料を読まず勉強不足のまま中島岳志氏の本格的な研究書を読み込んで本稿を書いた。だから描かれた日召像は二重のフィルターを透過していることを断っておく。歴史的人物の像は描いた作者の主観を免れないので、こんな日召像もあり、と思う。


旧制高校の青春/自由と圧殺の分岐点/籠城七日三高ストライキ

2018-02-16 | 体験>知識

小樽高商、早稲田大の軍事教練反対闘争(社研時代)のその後、学園の様相はどう変ったか? 
一気に軍事訓練が本格化したのでもなく、一気に忠君愛国の日本精神がよみがえったのでもない。数十万の失業者をよそに、銀座ではモボ、モガとよばれたハイカラさんが闊歩し、学園都市では弊衣破帽、高下駄のバンカラも珍しくなかった。
90年前の1929年4月、第三高等学校に鳥海山の麓から政治的に無色無所属の苦学生が入学した。その30年後の1959年4月、わたしも受験のため吉田山の「紅萌ゆる丘の花」の石碑の前で先輩と記念写真を撮った。三高は京大教養部と名を変えていたが、教室も多分学生食堂も、元のままだった。柔剣道場も新徳館も、由緒ある尚賢館も現役だった。さらにそれから60年後の今日、このテーマに取り掛かった。ある一断面で全体を想像できるわけがないが、この方法でしか私は仕事ができない。

苦学生の名は土屋祝郎、7人の子を残して母が他界すると、貧しい木こりの父は9歳になったばかりの息子を寺に上げてしまった。そこは貧乏寺で労働力としてこき使われ折檻に耐えきれなくなって13歳のとき吹雪の中を脱出して象潟の蚶満寺に辿り着いて救われた。三高生になった土屋は学費が切れるころ縁あって釧路の弁護士夫妻の養子になった。以下、土屋祝郎『紅萌ゆる昭和初年の青春(1978年  岩波新書)に依拠する。

新緑の初夏、「草木も眠る丑三つ時」[と書いてある]長さ八尺を越すような丸太ん棒を押し立てて裸に近い一団が喊声を挙げて寄宿舎「自由寮」を襲った。彼ら自身も寮の上級生である。寮歌を歌いながら音頭をとるように丸太ん棒を持ちあげては廊下にドスンどすんと打ち下ろすからたまらない、寮全体が鳴動して揺れる。百鬼夜行の如き集団は手に手に竹刀、バット、なければバケツ、やかん等の鳴り物を持って北寮から中寮へと部屋部屋をつむじ風のように荒らしてゆく...。もちろん寮生は一人として寝ておれない。
これはストームという先輩後輩のお近付きの伝統儀礼でどこにでも似た行事があるらしい。私が卒業した高校と大学の運動場でもファイア・ストームがあったようだが関心がなく実際に見たことはない。今も吉田寮vs熊野寮のストームと機動隊のガサ入れが年中行事のように実在しているようだ。

自由寮生の平和で自由奔放な三高生活を記録する上で欠かすことのできないのがほとんど日課のようになっている夕食後の回遊散歩である。彼らが三高コースと呼んでいた道順はこうだ。寮を出て医学部横を抜けて荒神橋の木橋を踏み鳴らして賀茂川を渡る。府立第一高女の寄宿舎前では顔をあげ寮歌の蛮声を一段と張り上げる。京都御所に突き当たって寺町通りを南下し新京極の繁華街を高歌放吟しながら通り抜け四条通りで左折し祇園の円山公園に至り一服する。そこに至る道々の土屋による滑らかで心地よい描写は古都京都の当時の風情を今に伝えているが、わずかに下に記す以外は割愛せざるをえなかった。
天下に知られた祇園の桜はほとんど朽ち果てて一本を残すのみである。「しかしその一本は四方に枝を張った枝垂桜で...かつての名妓を思わせるような風格をもって、夜目にも明らかな存在である」
土屋の一団は竜馬と慎太郎の銅像を建てる予定地の芝生で休息する。後続の集団をまじえて誰かが寮歌を歌いだすと人の輪が組まれる。他校の寮歌も飛び出す頃になると猥歌が出ることもある。
このあと元のグループに戻って、知恩院、平安神宮の門をくぐって北上し、ほぼ真四角の優に一里を越えるコースを終える。三高生による傍若無人のお騒がせ伝統は、たとえば四条大橋の上で綱引きをやるとかの京大生の振る舞いに、今も生きている。


1929年の6月末「突如、命令が下った。今春即位式を挙げたばかりの今上天皇が、大阪の城東練兵場において、関西の大学・高等学校の全生徒を招集して観閲式を挙行するというのである」 三高生も制服制帽に腰に帯革、脚にゲートルを巻き三八式歩兵銃をかついで分列行進に参加したが全校生の三分の一ほどしか参集しなかった。
しかも三高参加者の態度たるや直立不動の天皇に対する不敬、軍部に対する侮辱もいいところだった。銃の持ち方は出鱈目、行進はデモの行列のように「分裂」していた。政治的に無色(ということは伝統保守)の土屋が嘆息することしきりである。土屋は中学時代みっちり軍事教練を受けていた。

三高の軍事教練は形ばかりだった。野外演習はほとんどなかったが、有っても途中で抜けて松林の中で焚火をして喫煙したり空砲を放ったりしていた。教官は熱意も権威もなかった。生徒が分列行進ができず私語を平気でしていたのはそういう訓練を受けていなかったからである。それだけではない。エリート意識を裏返しした反権威主義も否めない。伝統的に反権威主義が濃い「京の都」の学生だからなおさらそうだった。
軍教教官と体育教官の関係は不明だが、体育教官は出欠点検も準備体操もないままクラスを二組に分けてラグビーをさせるだけだった。わが高校でも体育はもっぱらラグビーだったが専任教師が戦前の習慣に従っていたのだろうか。三高の銃器庫の銃は手入れされたことがなく赤さびを帯びていた。
三高生の行進がだらしなかったのは彼らがアカかったからではなく何も色付けされていなかったからである。ほかの高校、大学の色のスペクトルは分からない。忠君愛国の思想が徹底していて、麗しき龍顔を間近に拝して一同ただ恐懼感激した高校もあった。
土屋もそういう感激をすることを想像していたが何時間も直立不動の姿勢を崩さない天皇をまじかに見ているうちに修身教科書で形づくられた神々しい天皇像が次第に薄れていくのを感じた。耳にタコができるほど聞いた御稜威miitsuの意味がますます解らなくなった。かのキリストも生まれ故郷では予言者ではなくただの大工のせがれと見られていたから、土屋にとって近くで見る天皇の神々しさが薄れるのは自然の流れだと私は考える。

1929年入学生は、前年の3.15事件による大検挙、河上肇教授追放、学連・社研の非合法化、三高当局による処分があって、社研学生の働きかけを受ける機会がなく非政治的、ノンポリであった。彼らが入学試験会場に入る前に数人の学生に社研に入らないかと秘かに勧誘を受けたが、後に三高学園闘争のキャップになる土屋ですら社会科学と社研の意味が解らず、入学後担任に訊かれて何の疑いもなく勧誘者の名前を答えている。国家権力による左傾学生の治安維持法による弾圧に呼応して反動的生徒課が頭をもたげていた。
多くの学生は知る由もなかったが、国家権力は大学と高校の自治と自由をつぶして国家意志に従わせる方針を固めていた。前年文部省は大学の思想問題に対処するため学生課を新設した。高校では生徒課である。
三高当局は4月末、マルクス主義宣伝[非合法社研活動]等の理由で4名の無期停学処分を発表し、5月末さらに3名の無期停学と峠、長曾我部、石川ほか1名の退学を発表した。石川は受験時に土屋を勧誘しようとした学生だった。共産党関係という以外具体的な処分理由は示されなかった。報道禁止中だから理由の付けようもなかった。
4.16共産党事件がらみの処分だった。全国規模の大検挙があったが京都関係は学生19名労働者6名だった。起訴された者は京大生3名のみだった。検挙学生の中に三高生峠一夫たちが入っていて当局を驚かせた。高校生検挙は全国初だった。法網から漏れた学生を特高の別動隊となって掬い取る形の、三高の警察化が大学に先んじて始まった。
にわかに「処分反対」「自由を守れ」の張り紙、ビラが多くなり、クラス代表者会議がひんぱんに開かれ、ついに学生大会に発展した。土屋は所属していた野球部のマネージャーに全部の要求にバッテンを付けろと指示され憤慨して即退部した。学生大会は敗北に終わり処分の再審議は成らなかった。
暑中休暇を終えて学校に戻ってみると、藤田、津田、佐伯が「自主退学」していた。入学したばかりの退学である。4.16「思想事件に連座したもので、6月の学生大会にだけ関するものではないらしかった」 彼らは浮いていたのでいつしか忘れ去られた。
続いて人柄と才能で全寮生から敬愛を受けていた上級生の大井川が川端署に検挙され行方不明になった。文芸作品で教授をうならせ、主将として剣道でインターハイ優勝を飾る経歴の持ち主だった。「生徒課は学校のなかに設けられた警察であり、特高であった」 という土屋の分析は的を射ている。
文部省と官憲は三高生の非合法活動の根拠地は自由寮にあるとにらんだ。
1930年7月2日「ついに[新徳館で]学生大会が開かれた。全校生九百余のなかで七百名以上が参加した」 学生の要求は次のとおり_。
①自由寮に門限、出入り制限反対 ②正副代表任命制(自主管理撤廃)反対 ③クラス代表者会議の自主化 ④生徒課佐藤副主事の即時解職 ⑤保証教授制度(10人を1組とし思想善導保証教授に毎週1回訓話をさせる文部省令による新制度)撤廃 
ビラの散布、貼付程度の違反で2月に社研の残党読書会員がほとんど処分されていたので、昨年の学生大会の二の舞が案じられたが、要求は圧倒的多数で可決された。寮問題が全校問題と理解された瞬間だった。
ただちにクラス代表者会議がストライキ指導部に切り替えられた。学生は運動場にクラスごとに集まり衆議一決、そのまま準備なしで自由寮を占拠し籠城した。そしてすべての門を閉鎖し全校占拠を実行した。学校側は教授会を開き1週間の休校を決定した。
土屋は半官の共済部の委員長として公費で兵站を組織した。仲間の活動家が寮の賄部と交渉して籠城中の食事を確保した。学校側のチフス、赤痢発生のデマには後に検挙されることになる安田徳太郎ドクターによる全籠城者健康診断で対処した。
真夏の不自由な着の身着のままの籠城である。1週間目の7月8日指導部は近くに家のある学生に対して着替えのための帰宅を許した。籠城学生は三分の一に減った。翌日学校側と警官隊が隙をついて突入、制圧した。
三高ストライキは完敗に終わった。除名26名、停学15名、謹慎393名。土屋は共済部前委員長塩見が土屋の分まで責任をかぶってくれて処分を免れた。

ここから無党派だった土屋の非合法活動が始まる。目標はクラス代表者会議の再建である。学校当局との交渉団体=学生自治会づくりに昼夜奔走した。アジトを変えてビラを作り夜間校舎に忍び込んで教室にビラを入れた。自治会の機関誌「自由の旗」を発行した。会議は大文字山等の山中でした。京大の共産主義青年同盟[共青]本田が接触して来て「赤旗」を渡された。3年時には共青同盟員、三高自治会キャップ、京都地方自治会協議員になっていた。
1931年満州事変前後、東北・北海道大飢饉農民救援運動が盛り上がり学生たちは自発的にプラカードを作り繁華街でカンパを募った。1932年明けには学年末テスト期間にもかかわらず三千数百円のカンパが集まった。軍事推進側がおこなった満州軍馬救援募金は三十余円だった。
特高は学生が多く登校する学年末を狙って活動家を逮捕した。1932年1月27日、転々と居場所を変えてアジトがわれていなかった土屋は、校長室に呼ばれてそこで手錠をかけられた。川端署武道場での拷問で睾丸が腫れ黒い血尿が出た。2度3度の拷問に耐えられずついにアジトを白状した。手製の謄写機以外何も証拠が出なかった。2月20日特高の車で生徒課応接室に運ばれ教授達8人に活動放棄を説得された。同時に検挙された5人は父兄に引き取られたが土屋は警察に戻され3月20日三高中途退学の処分をくらった。その日全協の指導で東京地下鉄がストに入り電車4両を占拠して籠城に入った。この年失業地獄のさなか組合活動は戦前のピークに達した

拷問に屈した後悔で留置場で眠れぬ夜が続いていた時遠くの方から「紅萌ゆる」の寮歌が聞こえて来た。川端署は「三高コース」からはずれている。裏道から歌声が近づいて来るからには三高生の激励、抗議の歌声に違いない。土屋の悔し涙はいつしか感激の涙に変わった。留置場の窓枠まで手を伸ばして無事と感謝を伝えたいが足腰が立たなかった。

満州建国に至る高校生活と学生運動の一断面が読者に伝わっただろうか? 全国で、社研活動家が逮捕と放校で底をつき、リベラリスト活動家が指導し、学園の自治と学問の自由、学生処分問題、学費問題、学生消費組合・新聞部・弁論部・講演部、右翼的体育団体利用問題等を課題とする学生騒動が頻発した。学生運動というより学園闘争である。満州事変の1931年が学園闘争のピークだった。
「世間ではこの時期を学生騒動慢性時代と呼んでゐる」(菊川忠雄『学生社会運動史』)  決して三高だけが自由擁護に立ち上がったのではない。全国の高校、専門学校、大学の学生が学内問題で自治と自由を要求して苦闘した歴史を今に生きる後輩たちは掘り起こし誇りとすべきだ。

1932年中に京大、三高の左翼組織がほぼ壊滅した状態で権力側は一体となって1933年滝川事件を起こし大学の自治、学問、思想の自由を葬ることに成功した。
執筆を終わって、三高を対象にしたことで絞り過ぎて読者に当時の大学生、労働者の政治活動について偏ったイメージを抱かせはしないか、不安になった。社研時代と違って土屋が三高生だった時代には、共産青年同盟にかかわった大学生、労働者の運動は、赤色革命、ソヴィエト支持志向が強く、合法、非合法を問わず、枚挙に暇のない数の検挙者を出している。
1933年の検挙者は東大生362名、東大以外の学生200名以上である。内京大学生は54名である。たとえば滝川事件最中の6月、15名が検挙(京都共産党事件)され再建京大共青細胞(高木養根キャップ)は壊滅した。改訂治安維持法の「目的遂行のためにする行為」の暴威にさらされて1933年をもって非合法左翼組織は終焉を迎えた。
滝川事件の思想傾向にすこし触れておこう。発端は滝川京大教授の「『復活』にあらわれたトルストイの刑罰思想」と題する講演だった。トルストイだから報復罰ではなく教育罰を善しとする。それが折から思想弾圧中の司法、内務、文部省首脳部と蓑田胸喜らの原理日本社、政友会に滝川教授追放の口実を与えるきっかけとなった。
5月初め京大当局は30余名の学生を放校その他の処分に付している。6月6日の時計台下の大ホールで行われた全学学生大会には学生7000のうち5000余が結集し「大学の自治」「研究の自由」を叫んだ。6月12日、闘争の最中に、全学部学生代表者会議は早くも「京大問題の真相」なる詳細な経過報告書を発表した。それによると東北大、東大、京大の学生が「左右両翼に偏しない」自由擁護の連盟を結ぶ運びとなった。京大では左翼のビラまき事件(1件)に抗議声明を出した。東大では血盟団テロを起こしていた七生会が学園に対する政治的干渉を排撃する声明を出した。
7月、打ち続く全国規模の大検挙で京大は孤立させられ、残留した法学部教官は反動化し弾圧側にまわった。学生指導部は解散と教室使用禁止を申し渡され、検挙されてしまった。滝川事件で「自由の牙城京大」はあっけなく落城し、大正デモクラシー以来の我が国の自由主義の灯も消された。



その後土屋は釧路の義父母の許に帰り拷問で痛めつけられた身体を癒し1年後1933年2月20日に上京し日本労働組合全国協議会(略称=全協)城南地区のオルグになる。前年に岩田義道、上京の日に小林多喜二が拷問死しているから覚悟の上の入党だった。土屋の党活動についての記録を私は見ていない。
4回の検挙と服役、予防拘禁を経て、戦後北海道で国鉄を手始めに労組結成を指導した。
予防拘禁については著者の体験談『予防拘禁所』(1988年 晩聲社)を推薦する。史料価値も高い。日米開戦直前に軍国政府は治安維持法を再改定し予防拘禁制を追加した。危険視されたら誰彼なく令状なしで引っ張られ拘置所に放置され、2年ごとの更新でいつまでも拘束される。
二人の特高が土屋を連れに来た時、病臥の身の義母は「あなたがたのちょっとというのは長くて長くて待ちきれるものではありません」と抵抗した。日米開戦の3日後義母は布団の中で冷たくなっていた。死床の下に20通近い書きさしの遺書があった。毎日書いたのであろう。どれにも上五のない同じ一句が綴られていた。「・・・・・早く帰れよ我が家に」 上五は、呼びかけだから「祝郎[しゅくろう]さん」以外は考えられないが、それでは音余りになる。母子の胸中は察して余りある....。

カヴァー写真は「獄中記」の断片(市立釧路図書館所蔵)


日本軍の野望/「次の戦争」像/対米戦争

2017-11-21 | 体験>知識

  シベリア出兵 帝国書院『図設日本史通覧』

政府は陸軍主導で青少年に軍事教育を実施し在郷軍人の活動を活発化させた。国難という言葉先行だった。では当時の軍事専門家と政治家は次の戦争にどんなイメージを抱いていたのか、それが本稿の主題である。

1920年3月、シベリアでは赤軍もしくはパルチザンが西から反撃してきて沿海州にすでに浸透していた。そして、不利な対日戦を回避するレーニン政府の方針により、ハバロフスク~ウラジオストクで足踏みし日本軍と対峙あるいは共存混在していた。戦況不利のもと沿海州では傀儡地方政権の変心と白衛軍の脱走、寝返りが続出した。4月1日米軍が撤兵を完了した。参謀本部上原総長と派遣軍大井軍司令官は、原敬内閣と田中陸相の条件付き撤兵宣言を勝手に解釈して4月4日午後10時を期して地方政権、露軍、パルチザンに奇襲をかけ、武装解除名目でロシア人、朝鮮人を数千人斃して沿海州を制圧、支配した。これを日本側は4月事件と云い被害側は4月惨変という。統帥権を錦の御旗にする参謀本部、軍令部を政府、田中陸相は抑えることができなかった。
この時点では政府と陸相は満州・朝鮮の東端部を赤色ロシアに絶対譲れない接壌[地]としていたが派遣軍は沿海州に野望を抱いていた。開戦と同時にチェコ軍救出と関係のない尼港と北樺太まで進軍して占拠している。
さて上掲の地図に再度目を転じてみよう。派遣軍幹部ならずとも沿海州と北樺太を切りとり日本海を内海にしたい願望にかられるだろう。それ以前から日本海内海構想が語られていたとしても不可思議ではない。
このようなシベリア戦争における軍部と政府の方針がずれる軍事×政治関係と、強欲な勢力圏構想に類似したイメージの事件が、大正末期から昭和の初期にかけても見られた。山東出兵と済南事件である。その時期満蒙切り離しor切り取り構想が陸軍
の中で有力になった。同時期の米国、日本、中国が考えた仮想敵、国防計画と戦略シュミレーションをこれから2回にわたって検討する。

シベリア戦争中はアメリカに牽制され、それ以前は露英米仏独列強と清帝国食いちぎりを巡って、日本は外交戦で苦戦した。アメリカは一貫して中国市場(製品と資源)の門戸開放を譲らなかった。また自国への貧しい中国人、朝鮮人、日本人移民の殺到に苦しんでいた。日本人移民の差別と迫害はついに1924年排日移民法に結実した。表面に低賃金雇用問題、背景に東洋人差別(黄禍論)と国粋主義的団結(同化しにくい移民)に対すアメリカ人の反感とがあった。
研究したことはないが、これだけの理由で上下両院が日本政府の厳重抗議を無視して法案を可決するとは思われない。朝鮮独立運動の最中にキリスト教徒の村が教会もろとも焼かれ教徒が虐殺された事件が全米でたびたび報道されて、醸成された反日世論が議会の背中を押したのではないか。3.1万歳事件の一環である堤岩里(チェアムリ)惨変は全米で2カ月間40回報道された。間島事件の一つ獐巌洞(ノルバウィゴル)惨変は長老派教会の医師マルティンにより全世界に発信された。また前年の関東大震災時の軍による王希天(中華YMCA幹事=メソジスト教会牧師)と大杉夫妻の甥橘宗一少年(キリスト教徒、オレゴン州生まれの米国籍)の虐殺もアメリカの世論を刺激したと考えられる。
日米とも相次いで太平洋で海軍大演習を実施した。日本国内の世論は沸き立ち反米右翼が叢生した。

 林 信吾・清谷信一訳『太平洋大戦争』(2001)
1925年英国の海軍評論家バイウオーターが架空戦記『太平洋大戦争』をロンドンで発行した。小説は当時の知見をもとに展開されるから空母による遠洋攻撃(太平洋艦隊本拠地真珠湾攻撃)は構想外である。
小説は、中国における利権をめぐって日米交渉中に1931年3月3日早朝大型商船「明石丸」がパナマ運河で自爆して運河を使用不能にした驚愕事件をもって事実上の日米開戦としている。原因は日本国内の内政の行き詰まりと中国における日米の利権争いである。

大本営発表「3月6日午前、・・・帝国南洋艦隊は、マニラ湾外において米国アジア艦隊と遭遇、激闘3時間に及ぶも・・・これを全滅せしめたり」3月20日マニラ入城、4月4日艦隊中継拠点グアム島占領。西太平洋の制海権をにぎるが、本拠地ハワイを衝く能力はない。グアム沖あたりで太平洋艦隊を迎撃して葬り、いっきに対米戦争に決着をつける作戦だった。米大西洋艦隊がパナマ運河閉鎖で南米回りして遅れるので日本軍は連合艦隊に対する勝利を確信していた。
米太平洋艦隊は本拠地ハワイから西進しポナペ島、トラック島、ヤルート島を奪回し兵站基地を築きつつグアム近海に迫った。グアム攻略作戦は日本艦隊を欺くための囮作戦で狙いはペリリュー島を攻略して「飛び石伝いに拠点を確保していき」フィリピン植民地を奪回することだった。
ここで思い出すのは南洋諸島が日本の信託統治に決まる直前に米国が島々の主要港湾の海深を測量した事実である。まさに水面下の準備である。アメリカの日米戦構想には戦略マップにデータの裏付けをつける姿勢があるようだ。
米軍は1週間足らずで、ペリリュー島を制圧し滑走路まで完成させた。南太平洋の制海権で優勢に立った米軍は西にも北にも、フィリピンはもちろんグアム、サイパン、小笠原へも、思いのままに出撃できる戦略的拠点と自由を手にした。
洋上艦隊決戦が対米戦争の帰趨、行方を決することになった。米軍がヤップ島をうかがう姿勢を見せると大本営は連合艦隊に出動命令を下した。またしても偽装陽動作戦に引っ掛かり米艦隊の挟み撃ちに遭ってヤップ沖海戦で有史以来の大敗北を喫した。
制海権とシーレーンを完全に失って軍事的経済的に孤立した日本は、フィリピンを奪回され、東京空襲にさらされるにおよび講和に応じるほか道はなかった。「この時すでに、日本はもはやいかなる意味でも継戦能力を失っていた。中国、朝鮮を抑える力はすでになく、これでソ連が参戦でもしようものなら、もはや破滅である」

日米戦争の予言は当時両国で広く語られていた。日米間を1万キロ隔てる太平洋と中間補給基地がないことを考えると主力艦隊決戦と敵の領土攻撃はありえない、と考える軍事専門家も少なからずいた。バイウオーターはその疑問を一蹴したばかりでなく、戦闘場面に航空機と潜水艦の活躍を不可欠の新戦力として細かく織り込んだ。そして航空母艦の機動力と艦載機の運動性能、航続距離が十分に延びた暁には日本軍による長駆真珠湾奇襲、ミッドウエイ決戦を予想したであろうことが、この小説から読み取れる。
バイウオーターの小説は、前年に出た米海軍の対日戦シュミレーション「オレンジ計画」と大筋で一致している。日本の対米戦方針とはどうだろうか。

先ず1907年に山県有朋元帥の命で田中義一中佐が作成した帝国国防方針草案を取り上げよう。日露戦争後~ロシア革命前の国防方針である。
「主要ナル敵国ハ露西亜ニシテ国利国権ノ伸張ハ先ツ清国ニ向テ企図セラルルモノト想定ス」「米国ト事ヲ構フルニ至レハマニラヲ占領シフィリピン諸島ヲ攻略ス」 さらに仏領インドシナの攻略、対独膠州湾の攻略を想定している。
田中義一は、サハリンからフィリピンまで、日本海から南シナ海まで国防圏を拡げた。この大風呂敷に対しては、秀吉もそうだったが、軍略あって外交なし、軍備軍拡あって経綸(経済財政の裏付け)なし、と評せざるを得ない。人力も資源も資金も大陸で調達するとなると勢い大陸侵略とならざるをえない。より慎重な山県は米国以下の想定を削除した。

そして1918年に陸海軍は仮想敵を露米支とする改訂を行い、シベリアに出兵した。対米=ルソン島攻略、迎撃作戦。対支=権益・在留邦人保護のため事変あれば出兵する。
シベリア出兵(1918年~1922年)について田中大将と宇垣大将が内輪の将校たちに語った本音(家村新七少尉証言)はこうだ。大分連隊で田中大将「シベリア出兵の真の目的は沿海州を占領することにあったんだ。その理由は地図を見ればわかるように、沿海州を日本の領土にしておかなければ、日本の国防は成り立たんのだ」 熊本の教導学校で宇垣大将「日本海は日本の内海にしなきゃいかん」(橋本治『派兵』第一部)

さら1923年日本は対米ソ支を仮想敵とする大改訂をおこなった。
先制かつ攻勢を本領とする。速やかに局を結ぶ。対米短期決戦論である。
国際的孤立を避け、露支に対しては親善を旨とし、権益・在留邦人保護のため事変あれば出兵する。
作戦①主敵は米国である。ルソン島を攻略し西太平洋の戦略拠点グアムを破壊し米艦隊を迎撃する。
作戦②
対ソ戦緒戦でシベリア出兵時と同じく南部沿海州、ザバイカル州を制圧し、必要であればアムール州に進出するが、主作戦は満州である。

作戦③対中戦ではすみやかに北支那を攻略し、ほかに政略上、作戦上の要地を占領する。

   前坂俊之編・訳  松下芳男著 『水野広徳  海軍大佐の反戦』(1993年)

この新国防方針について軍事評論家水野広徳が新聞スクープ記事をもとに分析して「新国防方針の解剖」を中央公論に発表した。日本の敗北を断言してアメリカでも注目された。「次の戦争は空軍が主体となり、東京全市は一夜にして空襲で灰じんに帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の戦争となるため、日本は国家破産し敗北する以外にない-と予想、日米戦うべからずと警告した」([pdf]『日米戦えば日本は必ず敗れる』-水野広徳の反戦平和思想  by前坂俊之 http://maechan.sakura.ne.jp/war/data/hhkn/25.pdf)

水野広徳は海軍軍人で日露戦争に従軍、2度欧州を私費(ベストセラー日露海戦記『此一戦』の自著印税等)で視察した。ロンドンで空襲を体験し西部戦線激戦地ヴェルダン戦跡の爪痕(死傷者100万)に愕然としベルリンの悲惨な戦後窮乏と混乱を目の当たりにして、帰国後加藤友三郎海相に「日本は如何にして戦争に勝つよりも如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」と報告した。加藤海相はワシントン軍縮会議全権代表として条約締結に貢献した。水野広徳が日米未来戦の中で描いた東京空襲の光景は実際に起こった東京大空襲を想わせるほど真に迫ったものである。

新国防方針は日米戦争を想定した。開戦となれば経済力10倍の国と総力戦を戦うことになる。方針は観念的な短期決戦論である。水野広徳は、そうは問屋が卸さない、長期の持久戦になる、また「帝国が封鎖を受けたる場合には食糧および作戦資材を隣邦に需める必要がある」とする方針の根本に対しては、銃を突き付けて握手を求めるに等しい、と批判し、日本と同盟する国は一国もないだろう、と断じた。

1931年軍部の暴走は満州事件を起こし国際的に孤立した。次第に評論ができなくなった水野は心友松下への書簡で時評を歌に託すようになった。
1934年の一句「戦へば必ず四面楚歌の声 三千年の歴史あはれ亡びん」

1939年12月30日の日記にある一句「反逆児知己ヲ百年ノ後ニ待ツ」に私は言葉を失う。
1945年10月18日今治市で腸閉塞により他界、享年71歳。








総力戦=国家総動員体制づくり始動/軍国復活へ

2017-10-25 | 体験>知識
一次大戦の惨禍は、国際的に非戦と軍縮の気運を醸し出し、平和維持を目的とする国際連盟を作り出す一方で、列強の軍部に総力戦対策強化を促した。日本でも将来の総力戦を不可避と考える軍部を代表して宇垣一成がその任にあたった。本稿では軍縮を逆手にとって予備兵力増と武器近代化を推進した陸軍の軍政と軍国復活の道程を考察する。
『宇垣日記』1954年 朝日新聞社
第一次世界大戦では、空に飛行機、陸にタンク、海に潜水艦、地上に重機関銃砲、毒ガス等の近代兵器が出現するとともに国民皆兵と国家総動員が普通の事になった。
震災後、軍縮という外交課題と軍備近代化という軍政上の課題を同時解決する(ピッタリはまる昨今の流行語でいえばアウフヘーベン止揚する)使命を帯びて登場したのが宇垣一成陸相である。宇垣は軍縮で浮いた費用で軍備近代化を図り、退役将校、在郷軍人を活用して青年軍事教育の普及浸透を実行した。現役将校と旧式兵器で高等教育に軍事教練を導入したことについては前稿で述べたとおりである。

1926年、勅令により青年訓練所が設置された。 中等以上の学校に進学しないで実業補習学校で学び卒業した16歳から20歳までの男子勤労青年が対象で、その心身を訓練し、国体観念を習得させ、臣民としての資質を向上させて有事の際の予備兵力化することが目的であった。費用のかかる常設師団数を削減してもなお有事に即兵員を補給できる新体制を目指したのである。青年訓練所はのちに1935年実業補習学校と合体し年齢下限を12歳、小学校卒業時とし名称を青年学校に改めた。
訓練は4年間に、修身および公民科100時間、軍事教練400時間、普通科200時間、職業科100時間、あわせて800時間で修了とした。軍人上がりの教員と在郷軍人が教官役をつとめた。
月2回ほどの通所は義務だったが多少体が不自由な参加免除の若者も無理して通ったという。卒業しないとムラで一人前とみなされず嫁をもらえないからである。青年は何の疑問もなく軍事訓練を受け入れた。月2回ほどの訓練日は仕事を堂々と休めて同年代間で軍歌を歌ったり語らったりする楽しみがあったからである。この年齢幅の青年はムラの青年団に所属し修養、奉仕活動に従事するのが普通だった。
「軍人勅諭を憶えないと上等兵になれないぞ」と教官に肩を叩かれることはあっても殴られることはなかった。今の青少年がプロスポーツのユニフォームにあこがれをもつように青年たちは教官の軍装に憧れた。無事修了すると兵役6カ月短縮の特典があった。初年度だけでも全国でざっと15,000校が開校され、百万人が訓練を受けた。
この兵式訓練は今日の学校の行事、規律の中に色濃く残っている。私が日本の学校に上がった際最初に覚えたのは、キヲツケ- ナオレ- マエヘナレ- であった。いまだにナレーなのかナラエーなのか自問している。 

これだけの大事業がわずかな反対運動(下伊那郡青年会)だけで無難に扶植された。下伊那の反対運動は同郡政治研究会(都会から来たオルグ)が組織したものであろう。大正デモクラシーは都市中心のファッションに過ぎなかったのだろうか。これまで言及して来た社会運動は意識の高い労働者をふくむ都市知識層の跳ね上がりに過ぎなかったのか、あまりにも地方に浸透してないことに驚く。
軍縮の衝に当たった宇垣陸相は、人員整理される2000の先輩同輩後輩に恨まれたが「建軍以降の大問題たりし軍備の整理も多少の論難」ですみ「兵式訓練問題の如きは一波瀾を惹起すべき可能性」があったが無難に貴衆両院を通過した、と時系列の随想録上掲『日記』で苦衷と安堵をもらした。
極端主義からのクレームにも言及している。「聞けば右傾派と目されて居た縦横倶楽部の一団が今次の人事の取扱ひを不適当なりとして当局に迫ると云うて居るとの事、それが後には石光[中将]や福田[大将]、山梨氏[大将]もありとも伝へて居る」 かれら3人は「整理」され予備役編入となった。
宇垣陸相は、軍縮を実行したのは民意に先んじて応じることによって軍民融和を実現するためだった、総力戦を覚悟しなければならない有事に対応するには国民に愛される軍隊に再度もってゆくしかない、と事あるごとに強調した。
ではその隙間風が吹いている軍民関係に立ち戻ってみよう。

日露戦争後日本政府は戦費のツケと軍事費の増大に、民衆は慢性的な不況と税負担に苦しんでいた。そんな中、海軍が戦艦建造費を、陸軍が2個師団増設を要求して内閣をゆさぶった。海軍には薩摩の山本権兵衛閥が、陸軍には長州の山県元老閥が中心にいた。山県元老の下に田中軍務局長‐宇垣軍事課長がいて上原陸相を支持していた。師団増設を否決されると知った上原陸相は帷幄上奏特権[後述]を行使して直接天皇に辞表を出した。「陸軍のストライキ」によって西園寺内閣は退陣を余儀なくされた。両軍備拡張案を延期しようとした桂新内閣では斉藤海相がストライキを起こした。陸海軍と閥族のゴリ押し横暴に閥族政治根絶、憲政擁護を叫ぶ政治運動が燃え上がった。群衆が国会を包囲し軍隊が出動した。
世界大戦をはさんで次の原敬の時代は社会運動(労働、農民、、女性)が盛んになった。その共通要求が普通選挙だった。普通選挙実施となれば軍部に対する議会の牽制がさらに強まることを軍部は危惧した。同時期に田中陸相が深くかかわった大義なきシベリア出兵があり軍の威信は失墜した。

こうした背景の中、宇垣一成は田中陸相の引きで陸軍次官になり次いで3代の内閣で陸相をつとめ、陸軍の論理をやわらげ陸軍の要求を政党政治と民意になじませようとした。
山県、桂、寺内、田中と長州閥は続いたが大正デモクラシーの波濤に立ち向かい、それを乗り切ったのは田中義一である。元老山県が元気なうちは軍事と政事両方を閣外に居ても牛耳ることができたが、力が衰えた晩年には山梨、上原両将軍の硬派閥がそれぞれ陸軍の立場をさらに悪くした。
田中義一は大正デモクラシーの上げ潮に押し上げられた政党政治に自らも身を投じ国難を演出しつつ
力戦体制構築に奔走した。

 纐纈 厚田中義一 総力戦国家の先導者』 2009年 
田中は世界大戦前の1910年陸軍軍事課長として散在していた一万有余の在郷軍人会を糾合して帝国在郷軍人会(陸軍大臣所管)を組織した。総力戦が常識になる世界大戦前である。日露戦争における殲滅戦からヒントを得て後備軍の重要性にいち早く気付いたのであろう。

大戦後の仮想戦争は、陸軍は対米、対ソ、対華戦争だった。海軍は対米戦争だった。対米戦争の場合、国力差を考慮すれば短期決戦しかなかった。海軍は大陸戦、長期戦に消極的で国家総動員構想に積極的でなかった。
陸軍は仮想敵があいまいなまま田中義一を先導者として長期戦、消耗戦、総力戦を覚悟して国家総動員体制構築に向かって第一歩を踏み出した。
田中陸相の総力戦構想では「軍隊という国民の学校」を卒業した在郷軍人は有事の際に師団を支援する後備兵に位置付けられた。平時は地域社会における忠君愛国、勤倹力行の模範と社会主義を抑えるための「思想善導」の役割を期待された。在郷軍人は震災時の朝鮮人狩りで歴史に汚点を残したが米騒動、川崎・三菱造船所争議では軍服に着替えて下積み側に参加して世間を驚かせた。在郷軍人は一枚岩ではなかった。

これまで「軍隊の国民化、国民の軍隊化」「良兵は良民であり、良民は良兵になる」の信念のもとに宇垣、田中両大将が青年教練と在郷軍人活動に情熱を注いできたことを観て来た。
1925年、田中義一は国家総動員体制構築をさらに前進させるために在郷軍人票300万を手土産に政友会入りしその総裁におさまった。
[註]そのとき軍資金300万円を陸軍機密費から流用した、とスキャンダルになりかけたがもみ消した。平沼司法閥が盤石であるかぎりは体制側の巨悪は隠蔽されてしまうが、田中のケースでは真相は藪の中である。ロマノフ王朝の金塊がシベリア戦争で日本軍に渡ったが今日まで行方不明である。
総力戦対策は忠君愛国に燃えた学徒、勤労青年、在郷軍人を予備兵、後備兵としてプールするだけでは全然足りない。誰でも思いつくのは生産力の底上げと国家による経済統制である。田中義一は政友会総裁として当然のことながら「産業立国」を標榜したがまだ具体性にとぼしく宇垣陸相に「付焼刃」のご託宣と揶揄された。
1927年4月、田中内閣が誕生した。その年ソ連が統制経済に移行を始め、1928年10月、経済5か年計画を発動した。田中内閣が1929年7月に退陣しなければ田中総理も必然的に統制経済移行策を考えたと推論できる。それが総動員すべき国力の土台であるからである。宇垣も田中も「武力決戦を主とすべきも経済戦」を総力戦の核心にすえていたが、統制経済課題が俎上にのぼる前に両名の政治生命が尽きてしまった。
統制経済の実施は真の国難、1937年の日中戦争勃発までまたねばならなかった。1938年国家総動員法が成立し、議会の審議を経ずに、そのつど勅令で、あらゆる「人的物的資源を統制運用」できるようになった。まるでヒットラー独裁に道をひらいたナチス・ドイツの「全権委任法」をまねたみたいだ。
極めつけは対米戦争1年前に成立した大政翼賛会である。最後にそれについて考えてみよう。
究極の大問題、政党内閣制と議会は総力戦体制ではどう位置づけられるのか?平時の現状では内閣が軍政をコントロールする仕組みになっていて軍部が特権をもってそれに抵抗する形になっていた。つまり軍部大臣現役武官制によって軍部が大臣を出せぬとごねると内閣がつぶれる、組閣もできない。また帷幄上奏権により軍機・軍令に関して参謀総長(陸軍)軍令総長(海軍)陸海軍大臣等は閣議を経ずに直接天皇に上奏できた。議会制民主主義の今日から見ると、これにこそ国難の相があらわれていると思うが、宇垣陸相、田中総理は政党内閣と議会の在り方のほうに国難を観ていた。
政党内閣制では階級、階層の利害の対立を反映して政党、党派間の対立が必至であり、野党の存在は必要条件、前提である。ちなみに政党の語源part‐は分立、分けるである。国論の分裂と政争、これこそ総力戦国家構想が克服すべき最大の課題である。宇垣陸相、田中総理は国家総動員体制下では政党の居場所はないと認識していて、大政翼賛会という具体的大目標こそ掲げていないが万世一系の天皇の下の挙国一致を総力戦体制の究極の姿と考えていた。宇垣日記からそのさわりの部分を抜き出して総括とする。
「政党政治が憲政の常道たるべき観ある」が政党の本質からして政党首班は「挙国一致協心戮力の中枢にありて指導的役目には適当せぬ」「余は此の見地よりして平時は兎に角、有事の日に於ては陸軍が是非至尊輔翼の中枢として働かねばならないと数年来深く感得して居る所である」「二十余万の現役軍人、
三百余万の在郷軍人、五六十万の中上級の学生、84余万の青少年[田中が組織化をプッシュした大日本連合青年団]に接触する陸軍にして始めて此の仕事を遂行し得べき適性が存在する」
1940年末、日中戦争の長期化、国際的孤立化の国難の下、全政党が解散させられ,大政翼賛会に再編された。太平洋戦争開戦により1942年には
町内会や部落会、隣組までが大政翼賛会の末端組織と結びつけられ、諸産業、労働組合、文学、婦人会、青少年団、言論の「報国会」が傘下に入り、国民すべてが上から下まで余すところなく戦時体制に組み込まれた。 



早稲田の森の怪人/早大・小樽高商軍教事件/ 反動と抵抗

2017-09-29 | 体験>知識

   菊川忠雄 『学生社会運動史』(1947年)

以下の文は主として上掲書に依拠する。
連が発足してちょうど半年後の1923年5月10日早大軍事研究団発団式の会場である。午後3時前、正門前に突如「早稲田を軍閥に売るな!軍閥を倒せ!会場を占領せよ!反軍事研究団同盟」と大書した看板が立てられ、発団式を無視していた学生たちが足を止めた。
軍事教育に対する学生の大方の意識を理解するために、軍事研究団の設立趣意書の低姿勢ぶりをみてみよう。「我々は帝国主義に反対する。同時に軍国主義をも排するものである。本団を創設するの趣旨はただ一意国防の二字を憂ふるによる」
だが会場の雰囲気は一転して挑発的だった。陸海軍3人の将軍が乗馬で、数十名の将校が陸軍の星章をつけた三菱自動車で正門に乗り込んで、勲章で飾った正装とサーベルと軍靴の音で学生の反感を刺激した。まわりで乗馬用のズボンとブーツ姿の乗馬クラブ員がサポートしていた。
大講堂の壇上に立った団長青柳教授の前に進み出て団員代表が宣誓書を読む。一斉にフラッシュがたかれ活動写真カメラがまわる。「模範国民の造成は…」間髪を入れずやじが飛ぶ「人殺しの仲間入りするのが何が模範だ!」・・・
団長の青柳教授が訓辞を始める。「私は…」と口を切る。すかさず「軍国主義であります」とやじる。「私は…」「軍国主義者であります」・・・
白川義則陸軍次官が祝辞を述べようとすると「貴様の勲章には我々の同胞の血がしたたっているぞ!」 シベリア出兵を皮肉って「ああ一将功なりて万骨枯る」と高吟する者あり、ついには「都の西北」の校歌大合唱。
中島正武近衛師団長、石光真臣第一師団長も立ち往生。中島中将はかつて田中義一の命を受けて武市に石光真清を説得に行った元浦潮派遣軍高級情報参謀、真臣中将は言わずと知れた真清の弟、数カ月後大震災時の戒厳司令部南部警備司令官となる元憲兵司令官である。憲兵司令官時の首相は原敬、陸相は長州閥元老山県の後継者田中義一であった。真臣中将は軍事教練の発案者である、という記事もある
第一幕は建設者同盟の学生団体・文化同盟(顧問=大山郁夫教授、佐野学講師)の完勝で終わった。学生たちは翌日雄弁会主催で学生大会を開催することを申し合わせた。
雨の日を挟んで12日正午約5000の学生が中央校庭を埋めた。「朝来険悪の気は漂って居る。《腕か思想》と題して東京日日[大阪毎日の東京版]には相撲部が研究団応援のために決起したことを報じて居る」 果たして11時前、相撲部の呼びかけビラが各所に貼り出された。騒擾をおそれた雄弁会委員が交渉に行ったが殴られてしまった。
拍手で迎えられて浅沼稲次郎が登壇、宣誓した。「大学は文化の殿堂、真理を追究する所、決して軍閥官僚に利用されるべきものではない」 ついで決議を読み上げた。「我等は軍国主義に反対し、早稲田大学を軍国宣伝の具たらしめることに反対す」
しかし、ここまで。「此時暴力団襲来の機は刻々迫り」雄弁会幹事が閉会を宣言し自由演説会に切り替える。故大隈公銅像裏から現れた相撲部員たちが詰め寄って演説中止を求める。一柔道部員が「糞尿だらけの六尺ふんどしを投げつけ」壇上に駆けあがり演者を突き落とす。校外から縦横倶楽部が「主義者をやっつけろ」と叫びながら暴れ込む。「暴漢一派は演壇を占拠し、演説をはじめ、校歌を合唱する」
文化同盟は第一幕では大衆動員と野次により完勝したが第二幕では暴力により大会を蹂躙されてしまった。この日は「流血の金曜日」として学生社会運動史に刻まれることとなった。
東大新人会活動家だった菊川忠雄は、この事件の首謀者は縦横倶楽部の森伝である、かれは警視庁正力官房主事のスパイであると記述しているが、私見では森伝は正力とは違ったタイプの反共首魁であって誰かの手下ではない。今日まで歴史愛好の文筆家とメディアを、GHQさえも、あざむき通した情報機関顔負けのシルエットに隠れた凄腕国粋主義フィクサーである。
国会図書館にある「森伝関係文書目録」をみるかぎり、これはネットで検索して出て来る唯一の森伝を語る史料であるが、森伝は早稲田入学、日本入国、組閣入口と天皇奏上入口で口利きをする国家改造運動の影の策謀家である。九大生体解剖事件戦犯裁判ではGHQへの口利きを頼まれている。
わたしは国家改造運動関連に絞って次の文書に注目した。
上杉愼吉書簡 森伝宛 1923年12月8日 「甘粕君の判決何事ぞや、陸軍が社会主義に圧迫せられたるなり、明朝面会したし」
白川義則書簡 森伝宛 1923年12月15日 「上杉博士斡旋の急進愛国党に縦横倶楽部が加わるとの報道は事実か、偽物や間諜が混ざる恐れあり、石光氏には自重してくれと申し遣わした」
さらに甘粕正彦書簡 森伝宛 1923年12月13日 「法廷における小生の言動に不満もあろうと存ずるが軍人の立場をご了察下され、君国の今後の善導の程願い奉る」
振り返ってみると早大軍教事件は戦前の国家改造運動の発端だった。発端を見たら結末も見たくなる。私は今回森伝が両端を突き抜けたフィクサーだったこを知った。

【蛇足】 森伝関係文書目録には1936年の2.26事件に関する史料ファイルがある。森伝宛の皇道派関係者の書簡もある。森伝発が無いのが惜しまれる。目録だけから読みとれる森伝の事件関与の形跡をみてみよう。
山本英輔海軍大将書簡 森伝宛 1936年1月14日 「斉藤内府[内大臣]へ届けた書簡の内容」
山本英輔書簡 森伝宛 11日 「満井中佐にはじめてお目にかかり一寸見せたところ猶予を求められた」
平野助九郎少将書簡 森伝宛 2月2日 「川島閣下[陸相]に陸軍の大掃除進言されたい」
清浦奎吾前首相 森伝宛 1936年2月11日 「〇〇に面会の件は先方静養中のため待っている」  〇〇は元老か?
森伝は清浦前陸相のもとに出入りを許された情報通だった。それで森伝は、もっともラディカルな反乱指導者磯部浅一[元一等主計]によって、決起時に清浦伯参内を通じて天皇に真崎首相下命を働きかける役に擬せられた。森伝が終生家族ぐるみの付き合いをした財閥政治家・久原房之介は皇道派の資金源だった。磯部が決起1か月前に皇道派の御大・真崎甚三郎大将を訪問して真意を測るために軍資金を所望したところ真崎は「森伝に話してつくってやろう」と応えている。磯部は頼りになる同志森伝あてに遺書と辞世の句を遺した。

警視庁と文部省と縦横倶楽部は情況を利用して社会主義的四教授の罷免、「文化同盟その他の社会主義的団体の解散」を要求し、「共産党の陰謀」を宣伝した。大学当局の派閥抗争もからんで軍事研究団が解散し、続いて文化同盟も「母校平和のため」自主解散した。
好機なり、と警視庁は6月5日第一次共産党検挙を行ない、全国で80名を捕らえ、学内の佐野、猪俣らの研究室を捜索した。佐野はソ連に亡命し猪俣は検挙された。佐野、猪俣は10月に、早稲田反戦の雄大山郁夫教授はその後1927年に解職された。1929年にはさしもの雄弁会も解散に追い込まれた。
諸新聞を通した「共産党の震源地早大」キャンペーンで、早稲田の森の学生運動に秋風が吹いただけでなく学連加盟校が40余から10余に激減したという。赤化キャンペーンで激減するところに学連の思想がまだ多様で一極集中していないさまが見てとれる。

早大事件で失速した学連は軍国主義の巻き返しに対して危機感を覚え新規まき直しを開始した。東大新人会が学連の先頭に立った。学生大会で大学監督下にある東大学友会の内部に社会科学研究会を設けさせた。「学生大会から関東大震災前後に亘る数ヶ月間に、新人会の勢力は、学内に於て抜くべからざるものとなってゐた」
関東大震災が学連にとって転換点になった。東大新人会は「先ず震災中の救護的な事業を打切ると同時に、それに関与した学生と、それによって巻きおこされた学生の社会的関心を、社会科学の研究、学生自治の確立、学生の社会運動の開拓に向けて行った」 寄宿舎管理、大学新聞経営、食堂経営に委員を送って勢力を扶植した。何よりも大きいのは、学友会に学内研究団体として社研のために予算を計上させたことである。
この新人会を震源として既述したとおり1924年に全国で学生普選運動と社研運動の活況が起きる。新人会の「民衆の中へ」の浸透がなかったなら、次に取り上げる小樽高商軍教事件は十中八九事件化しなかっただろう。

1924.11.10 早大社研、大学新聞主催で軍事教育批判講演会開催
1924.11.12 学連、都下学生雄弁、新聞連盟提唱で全国学生軍事教育反対同盟結成
1925.4.13 陸軍現役将校[中学校以上・師範学校]配属令を勅令で公布
世界大戦終結後軍縮は列強の大きなテーマ、国内世論の大勢となり軍部も不本意ながら軍縮に応じざるを得なかった。職業軍人の失職救済と学生の軍事訓練とを抱き合わせにした一石二鳥、いや1923年11月10日に発布された国民精神作興に関する詔書を受けての施策だから一石三鳥、の軍事教育の第一歩が踏み出された。以前から3度目の軍縮が取り沙汰されていた。
1925.5.1 陸軍軍縮計画(宇垣軍縮)発表

以下、荻野富士男論文 小樽商大史紀要第2号(2008年3月)に主として依拠して「小樽高商軍教事件」を考察する。
1925年10月15日朝、教練に参加した学生に「想定」プリントが配られた。
一、大地震により小樽市内の家屋は倒壊し、折からの西風で火災が勢いを増し、市民は身を寄せる所をしらず。
二、「無政府主義者団は不達鮮人を煽動し此機に於て札幌及小樽を全滅せしめんと小樽公園に於て画策しつ ゝあるを知りたる小樽在郷軍人団は忽ち奮起して之と格闘の後東方に撃退せしも敵は潮見台高地の天峻に拠り頑強に抵抗し肉飛び骨砕け鮮血満山の紅葉と化せしも獅子奮迅一歩も退かず為に在郷軍人団の追撃は一時頓挫するの止む無きに至れり」
三、そこで、小樽高商生徒隊の出動となり「其任務は在郷軍人団と協力し敵を殲滅するにあり」
教練に参加した学生たちは社研会員をふくめて誰も違和感を覚えることなくハイキング気分で軍事地図の見方と伝令の演習をして帰宅した。
社研会員が「想定」を気にとめなかったのは、南樺太、千島列島を防衛北限とする第7師団から配属された鈴木少佐が訓練に厳しくない上にその日実行した訓練内容に交戦演習が入っていなかったからである。それにしても普通の職業軍人がかように不穏当な想定を平気で作成して本人だけでなく教師と社研会員をふくむ学生がそれに何の疑問もいだかないところに空恐ろしさを感じる。
関係ない私事だが先の戦争で叔父が第7師団に従軍して戦死した。こんなところでかすかな因縁があろうとは夢想だにしなかった。
野外演習自体は15日午後2時すぎに終了し、学生たちは帰宅した。教練を欠席していた社研の設立指導者斉藤磯吉の寄宿先が会員のたまり場になっていて、その日も学生が集まった。訪ねてきた政治研究会小樽支部代表兼小樽総同盟組合委員長の境一雄が「想定」プリントを目にしたことで事件が始まった。
翌朝境一雄と小樽朝鮮人親睦会金龍植他数名が代表して学校側に抗議した。詳細は省くが学校側は「想定」の語句が不穏当不公正であったことは認めたが求められた声明書は出さなかった。そして文部省の指示にしたがって社研に対して抑圧に乗り出した。
他方社研は学校側に決議書を手渡し全国の学生に向けて檄を飛ばした。
小樽高商事件は軍国主義に敏感な意識の高い指導者が東京から来ていたから燃え上がった闘争であると断定してよさそうだ。社研、政治研究会と総労働組合を組織したのは大山郁夫の教え子境一雄である。大山郁夫自身も講演のために小樽高商に来て社研結成を応援している。そのほか労働組合の指導権を競って山本縣蔵と松岡駒吉が来樽している。
北海道の入り口小樽には労働運動が盛んになる素地があった。石造倉庫群で有名な小樽港は樺太の鉱物、木材資源の集散地であり当時約3千人の港湾労働者の内三分の一以上が朝鮮人であった。
こういう労働環境であればこそプロレタリア作家小林多喜二も巣立ったのだろう。かれは1年半前に同校を卒業している。
小樽事件は同市から全国に燃え広がったが、肝腎の同校では「校内の問題は校内で解決すべきだ」と主張する穏健学生が優勢で、停学14名(社研のほぼ全員)、放校1名(斉藤)の処分、高松教授解職、社研禁止もあってまもなく鎮静化していった。
小樽高商社研の檄を受けて学連中央委員会は「全国の同志諸君へ」各無産団体と提携して反対運動を起こすよう、指示を出した。主要な都市で学生・市民を対象にした演説会が開催され近来まれに見る盛況を博した。もっとも至る所で弁士中止の妨害を受けたが。
朝鮮人を仮想敵にされた日本朝鮮労働総同盟が 「日本無産階級に与ふ」というビラで「日本の無産階級の諸君 ! 諸君は、今日日本軍事教育上のあの想定が如何に一昨年の震災当時のあの事実と関連あるものであるかを容易に理解するであらう」「諸君は此の罪悪に対して無産階級的態度を示せ」と訴えた。
後日文部省学生部は「この事件は十二月の京大事件に直接に関連をもつ点に於て注意すべきである。即ちかの同志社大学に於ける、狼火ハ上ル云々の不穏ビラはこの小樽高商事件に原因するのである」と総括した。
1925年11月15日京都市内や同志社大学構内に貼付された「狼煙ハアガル、 兄弟ヨ、コノ戦二参加セヨ」と題した軍教反対ビラは朝鮮自由労働団体等4団体による日本人にたいする檄文であった。









尼港事件秘録『アムールのささやき』/遅すぎた日本の反省

2017-04-04 | 体験>知識

♪ はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
  鬼ン池の久助どんの 連れんこらるばい
      森繁久弥  島原子守唄  https://www.youtube.com/watch=g6D5Yk8MkCI

鬼池村の久助どんは実在の人物ではない。でも鬼が連れに来る、怖い、と幼い子は感じるにちがいない。
尼港パルチザンの暴威が国中に伝わると、天草地方では「パルチザンが来るゾ」と言えば泣く子もだまった、と表題の著者石塚経二は書いている。以下の記述も『アムールのささやき』に取材した。
島原の子守唄発祥の地・口之津港の対岸に鬼池港[現在]がある。ここ[手野]の出身者池田清太・ユキ夫妻と鬼池出身の池田団造・モカ夫婦が明治28年頃女性を連れて尼港に渡り開業したのが尼港水商売の草分けといわれている。時折り帰郷して女性を募集していったが、その羽振りのよい暮らしぶりはの評判になって、つてを求めて出稼ぎする者が増して行った。ちなみに両夫妻とも殉難者である。 
北のからゆきさんの話である。これまでの記事で、満州、シベリアの都市、駐屯地、奥地の鉄道建設現場、鉱山等、日本人の居る所には、日本人の男性の数を上回る女性がいることに気付かれたことだろう。尼港でも同じだった。大きな「日本遊郭」があった。人口が激減する厳冬期調査による日本人娼妓数は86人(1919年1月)であった。
居留民犠牲者395名の内身元不明は80名。身元判明者の過半は九州出身で、熊本県116,長崎県79,なかでも熊本天草出身者が突出して多い。
上記最初の引率者が見知らぬ女衒(人買い)ではなく島内身近の夫婦だったことが一番の理由だろう。鎖国中長崎港出島がオランダと清国に、幕末には長崎港稲佐が露国に、開港していた事情もまた大きな理由に違いない。浦潮艦隊の休息地・長崎港ではロシア村ができ「稲佐遊郭」が大繁盛した。

男も女も家のために出稼ぎ感覚で移住したと思う。家族を守るために犠牲になることは、国のために出兵することと同様一面美徳(忠孝の美徳)だった。それは男も女も同様だった。「おんなの仕事」と取材をうけた古老たちは話している。多面、誘拐あるいは甘言で騙された娘がいるのもまた紛れもない事実である。森崎和江『からゆきさん』(1976)
石塚経二は村別に犠牲者の名簿を地図を付けて掲載した。鬼池と手野出身者が各26名でダントツに多かった。遺族たちは1937年手野村に尼港事件殉難碑を建てた。側面に恩人島田元太郎頌徳記を掲げた。以後毎年3月12日に慰霊祭が行われている。
遺族が恩人として感謝する島田元太郎とは何者か?
彼には二つの顔がある。まずは、尼港日本人の先駆者でサケ・マス、毛皮、砂金、用具・用品等の商業と廻漕業、製材業、鉄工業で財を成した島田商会の社主であり、加えて居留民会長で「尼港の帝王」とよばれた顔である。島田紙幣(兌換商品券)がロシア紙幣より価値があったことで彼の経済力の大きさがわかる。

  出典 土井全二郎『西伯利亜出兵物語』(2014)

たまたま上京中で難を逃れた島田はその後、遺族代表として10数年間補償救済運動に奔走した。そして3度にわたり救済金の交付を受けた。政府は被害者の財産調査が不可能なため職業別でランク付けして算定額を決めた。最多職業の「妾、娼妓、酌婦」は最低ランクにされた。しかも在留年限による割増額の対象外だった。島田は出身地長崎県国見町に島田家之墓の横に自費で尼港事変殉難者碑を建立した。
島田の第2の顔は「沿海州のキング」「無冠の領事」とよばれる顔である。ロシア語、中国語に通じ居留民はもちろん露人、華人に渡りをつけられるので陸海軍、領事館、実業家に重宝がられた。とくに参謀本部との関係が濃密でさながら沿海州代理店である。以下、高橋治『派兵』(1973)に依拠する。 
島田は田中参謀次長に手紙で献策した。要約するとそれは、ロシア人各階層世論の傾向と仏米英の暗躍に関するホットな情報に基づいて出兵の機が熟していることを強調し、かれら連合国に後れを取るなと警告を発した内容だった。
「小生は当地の人心を鼓舞して自治宣言を志望する迄に機運を導きたれば、小生の任務は之れにて尽きたるものと存候」あとは「当路者の決心のみ」と諜者が奉行に下駄を預けるがごとき対等の物言いが小気味よく響く。そして候補地として浦潮とニコリスクと武市をあげた。

島田はその武市に中島正武参謀本部第二部長の随員の一人、日露協会幹部を名乗って乗り込んだ。仕事は参謀本部の民間スタッフとして武市に謀略組織を立ち上げる手伝いだった。そして、その流れで設置される石光機関に久原鉱業の鳥井肇三を推薦した。島田は武市と尼港の金鉱山にかかわる久原房之介[日立、日産、JXの祖]と親交があった。また義勇軍をつくるよう武市居留民会に働きかけた。
石光は思想信条を異にしたためか一言も島田に言及していない。島田は、武市と尼港の居留民義勇軍結成に関わったプロモーターである。同じ先制奇襲攻撃でありながら武市で起こらなかったことが尼港で起こった。その違いは
一考の価値がある。

さて『アムールのささやき』に話題を移そう。
著者の石塚経二は、1919年生まれ、第2次世界大戦に従軍。1972年刊の本書を「互いの誤解」によって起こった悲劇の日ソ両国の英霊に捧げ二度と過ちを繰り返さないことを願っている。反省は主題ではなく「ささやき」にすぎないが、相対主義であり含蓄を感得できる。
「パルチザンとは愛国者という意味である」
当時敵方にも言い分があるという見方は石光真清等に限られて極めてまれである。日本中が一部知識人を除いて鬼畜ロシアの声一色に染まった。「やがてそれらは対ソビエト恐怖感、対支那反感にも変わっていった」
「三年後の関東大震災の混乱のとき、発生した甘粕大尉事件、消防団や民衆による朝鮮人暴行事件等は、これらの影響があったこととして注意を要する所である」
恐露病は幕末に発生するが日本はそれを自衛圏を拡げることで癒そうとした。日清戦争で朝鮮を獲り、朝鮮を守るために満州の露西亜軍を叩いた。日露戦争に勝利すると鮮満が自衛圏になり、それを護るためにあらたにザバイカル州とアムール州と沿海州及びそこを横断する鉄道沿線に自衛圏を拡大する必要が生じ、そこに出兵してみたが沿海州まで押し戻された。2年近く沿海州を防波堤にするべく粘ったが、結果は負け戦で、かろうじて北樺太(サハリン)を保障占領することで面目を保った。
これをソ連側から観たら満州・朝鮮・サハリン自衛圏の回復、拡大ということになり、戦争目的となる。日本の恐露病は治癒されることがなくロシアが始終仮想敵国でありつづけた。

帝国陸海軍は前例のない長期「出兵」の失敗を反省しなかった。
①緩衝国、傀儡政府の樹立構想、挫折⇒満州建国と汪兆銘傀儡政権の擁立で再挑戦
先に観た沿海州武装解除の対象は、蝟集するパルチザンだけではなく、寝返りつつあるエスエル政権と白軍だった。なぜ自分たちが・・・と驚き、不思議そうに首をかしげる彼らの表情が記録にもあるし想像もできる。
ロシア人の人心が離れていく根本の原因は占領軍のおごりと無神経であった。
既出松尾日記から一、二例を拾い上げる。村を焼き払ったとき食料と貴重品を奪い、貴重品を戦利記念品として故郷に軍事郵便で送った。貴重品の所有者は有産知識階級であろう。村を占領した日本軍は村人全員に土下座の見送りを強いた。かかる屈辱で愛国心に目覚めない有産知識階級はまれであろう。
 
朝日新聞 2017.3.29 

②謀略と外交の二途戦略、参謀本部(現地)暴走と統帥権悪用⇒軍国主義国家へ
アムール州討伐での村落焼尽、沿海州「武装解除」に観られる如く、陸軍大臣と政府はそこまでは考えていなかった。現地が独断決行して政府が既成事実を追認した。師(いくさ)のことは天皇の大権である、統帥権を干犯する気か、と現地は本国首脳部に開き直った。
日本はシヴィリアン-コントロールがまったく利かない国体だった。
③利害関係が深い列強とくに米国による牽制が不可避⇒日本の孤立、日米戦争
欧州が戦場の世界大戦で英仏独露が疲弊する中、漁夫の利で焼け太りした日米は国力を高め両国だけ元気があった。シベリアでも互いに相手の動向に敏感で自国が不利にならないように自国が有利になるように牽制しあった。互いに相手国を仮想敵国の筆頭にあげるようになる。ただ日本は米国の力を甘く見て対米外交を戦略化できなかった。
いち早く日米戦争を予見して戦略化したレーニン政府は戦闘を避けて時間を稼ぎシベリア戦争でまともに戦うことなく日本に勝利した。
蒋介石政府もまた大陸の奥深く退避して持久戦に持ち込み、米国を日中戦争の切り札にする戦略で日本に勝った。
後知恵だが、シベリア戦争は日中戦争の原型マトリックスである。反省のない日本が過ちを繰り返すことになる。




 

 

 

 


クラスノシチョコフとアレクセーエフスキー/極東共和国の夢まぼろし

2017-03-24 | 体験>知識


 出典 『
誰のために』 クラスノシチョコフ 石光真清 右端アレクセーエフスキー 

1919年、ちょうどムーヒンが殺害された翌3月10日、ウラル山脈の西でコルチャーク政府軍は、赤軍から中心都市ウファを奪い取り、1か月後にはモスクワを占領すると豪語した。
一方クラスノシチョコフは行商人に変装してモスクワに向けて逃避行中、5月ヴォルガ河東岸のサマーラで敗色濃いコルチャーク軍に捕まった。身分がばれず「死の監獄列車」で東へ移送されることになった。
コルチャーク軍は6月にウファで赤軍に大敗し以後クラスノシチョコフの後を追うように東へ東へ退却する。その後を赤軍が追撃し11月オムスク政府をイルクーツクに潰走させる。
そのイルクーツクでクラスノシチョコフは、年末に、反コルチャーク「政治センター」(エスエル、メンシェヴィキ)によって解放され、以後、武市から流れ着いた元アムール州長アレクセーエフスキーと共に緩衝国家・極東共和国樹立に奔走した。敵として別れ同志として出会う不思議な縁である。

1920年のシベリアは反革命軍の退潮のうちに新年を迎えた。ドイツは敗戦しチェコは独立した。帰心矢のごときチェコ軍は
コルチャークをボルシェヴィキに売って帰国の保障を贖った。日本軍と居留民は1月中旬にイルクーツクから撤退した。
3月西からバイカル湖までが赤軍とソヴィエト政府の支配下に入った。レーニン政府の自重により赤軍はさらなる東進をひかえ、日本軍とセミヨーノフ軍がチタに居座り続けた。

東シベリアではパルチザン勢力が日本軍と対峙しながら地方政権を回復しつつあった。2月浦潮、ハバロフスク、武市等に臨時政権が成立した。政権の赤色の濃淡は各都市によって違いはあるがボルシェヴィキ色が濃くなりつつあった。
日本軍は、ハバロフスク等沿海州と東支鉄道沿線を最後の防衛圏と位置づけた。「日本が自衛したいのは、〈帝国と一衣帯水〉のウラジオストク、〈接壌〉の朝鮮、北満州である」(麻田雅文 『シベリア出兵』 2016)
日本軍は、此処を防衛圏とすれば間宮海峡と日本海を制海、内海化できるという夢想を始終抱いていた。朝鮮、満蒙の赤化防止が焦眉の課題として軍部と政府に認識され始めていた。これが日本軍が居座り続ける理由、新たなシベリア戦争目的となる。


3月 尼港事件 パルチザン暴走による日本軍民の虐殺
アムール河を挟んで沿海州北端の対岸、サハリン州首府、金鉱と林業と漁業の街ニコライエフスクでは、優勢なパルチザン部隊(司令官トリャピーツィン)が白軍を圧迫し、アムール河と海峡の凍結で孤立無援となった日本軍守備隊に武器弾薬貸与を強要したため、3月12日午前2時日本軍の奇襲攻撃を招いた。明ければ革命記念日の丑三つ時、宴の酒で熟睡中だったトリャピーツィンは負傷しながらも難を逃れ、分散宿営中のパルチザン部隊をまとめて反撃に移り守備隊本隊を制圧した。

簡単に状況と経過に触れておく。主に山崎千代五郎『血染の雪』付録「尼港事件顛末」(1927)と石塚経二『アムールのささやき』(1972)に依存した。
当時人口=ロシア人8700 中国人2300 朝鮮人900 邦人居留民400(島田商会中核の自衛団含む) 日本軍370 白軍150(崩壊中) ロシア義勇軍若干(多くは在獄中) パルチザン2000~4000 
1月24日 市を包囲しているパルチザンの和平協議軍使オルロフを石川大隊長と憲兵隊長は白軍司令官に引き渡し殺害 
2月5日 市外で両軍攻防戦 陸軍砲台要塞と海軍無線電信所放棄 以後パルチザンが利用 在ハバロフスク山田旅団長は石川大隊長との通信手段喪失 伝言を双方向ともパルチザンに依頼 
2月28日 旅団長指令「交戦は避けよ」により
和議成立 市長は歓迎白軍司令官自決
2月29日 パルチザン部隊入城して治安維持を担う 白軍武装解除 パルチザンに多数の「支那人及び朝鮮人」   入市後再編成した連隊に「無政府
共産主義支那人連隊/バルサン第四連隊」名あり 白軍将校、官吏、有産知識階級数百人を逮捕 白軍将校自決か処刑 パルチザン志願者増大・武器弾薬不足
3月11日 パルチザン、日本軍に武器弾薬「借り受け」強要 翌12日正午期限 
12日 石川大隊長・山野井憲兵隊長・副領事・自衛団協議し部隊配置、作戦決定の上未明の奇襲を決死敢行 動員兵力413 憲兵隊準士官1下士兵卒13と日露義勇軍50含む 大隊長区処下になかった憲兵隊長は蹶起不同意、憲兵隊は庁舎に籠ったまま捕虜となり銃殺された

パルチザン部隊反撃 石川大隊長戦死 防衛拠点島田商会と領事館燃える 副領事一家自決 動員兵力4000 中国人900・朝鮮人400含む
「在ニコラーエフスク日本人全部は主として支那人及朝鮮人に因り惨殺セラレタリ」(参謀本部『西伯利出兵史』) 
中国五四愛国運動・朝鮮三一万歳事件鎮圧の遺恨を受けた意趣返しが見て取れる。参謀本部の「満鮮人」に対する異常な警戒心と監視が目を引く。
3月17, 18日 山田旅団長両軍司令部に「戦闘中止勧告」電報 堅固な兵営に籠城中の守備隊、武器弾薬兵舎を引き渡し捕虜として旧露兵舎に移動 19日囚人とされ140名・居留民13名内女性7名監
獄へ 
パルチザン部隊、労農兵ソヴィエト*を組織開始 徴発委員会等行政機関設置 チェー・カー作成の有産階級名簿により逮捕、裁判 処刑か釈放の二処分のみ 上記日本人捕虜、
囚人労働に従事(陣地構築あるいはアムール河に航行妨害物を設置)
*極東共和国成立後は極東ではソヴィエト化は不可とされ、できる所ではパルチザンと白軍兵士はまとめて人民軍に改組された。

海路と水路の結氷が溶けて日本救援軍が近づいた5月下旬以降パルチザン軍は、日本人捕虜をすべて惨殺し、市街を焼き払い疑わしき市民を皆殺しにし、従う住民を引き連れて上流に退避疎開した。焦土作戦は広大な国土をもつロシアならではのアイデアである。
無政府主義を自称する司令官トリャピーツィン
と参謀長ニーナは仲間の反乱で銃殺され、避難民の多くは日本軍政下に入った。審問で「過激派」として獄入りした100名の運命については記述がない。
尼港事件の日本人軍民犠牲者数は外務省の記録で735名、目撃体験記録は香田昌三日記と萩原福寿手記のみ。生き残りはいたが中国人等の妻妾であった4名とほかに男女各1名子供2名と考えられる。
日本軍は北樺太を保障占領して石油、漁業、林業、鉱物等の戦利品を得た。

沿海州4月事件 派遣軍謀略暴走
4月、日本軍の動きを牽制していたアメリカ軍が浦潮から撤兵するのを待っていた日本軍は内政不干渉の法衣を脱ぎ捨てて浦潮臨時政府に奇襲攻撃をかけた。公然たる内政干渉である。以下引用は主として参謀本部『西伯利出兵史』に依存。
その背景には「社会革命党ガ過激派ノ傀儡タルニ過ギザルノ実情」(大井軍司令官)あるいは、もはや沿海州には「我ニ好意ヲ有シ又ハ我支持ヲ受クル」べき「穏健団体ナルモノ皆無ナル実況」(稲垣軍参謀長)という現地の危機認識があった。犬が先祖返りしたという認識である。
大井軍司令官は、沿海州の政治不安定が「累ヲ朝鮮及満州ニ及ボス」ので、危険政治団体[狼]はその存在、武装、宣伝、を許さず、排日朝鮮人の扇動についてはとくに注意するよう、指示した。そして3月末までに武装解除の綿密な要領を各指揮官に極秘伝達した。狼は牙を抜くか殺すしかない、という本音が読み取れる。以下要領の骨子を記す。
「武装解除」予定日4月上旬 浦潮臨時政府に「要望」を突き付け応じなければ「武装解除ヲ疾風迅速的ニ決行、一時之ヲ拘束」 敵に先んじられた場合には機を失せず「迅速果敢ノ措置」 伝書バト用意 駆逐艦手配
3月31日に発した撤兵に関する日本政府声明は、4条件つまり沿海州政情安定、鮮満地方に対する危険除去、居留民と交通の安全保障が得られれば、チェコ軍撤退完了後「成ルベク速ヤカニ」撤退するというものだった。
4月2日
大井司令官が政府声明を受けて浦潮臨時政府に対して突き付けた「要望」は撤兵ではなく駐兵に重点を置く6カ条だった。全権代表(エスエル)は4日修正合意した。5日に議定書に調印する運びとなった。その内容は抽象的で下記の「武装解除」を臭わせるものではなかった。
が・・・
4日午後10時ちょっと前、外交を謀略によって覆す現地派遣軍の悪しき伝統劇がシナリオどおり幕を開けた。当日は陰暦十六夜、ためらいがちに上がる色鮮やかな月の光を浴びて日本軍は果断に行動した。
浦潮で巡察中の第58連隊第1大隊副官の小隊が革命軍衛戍司令部前にさしかかったとき突然どこからか銃撃を受けた。1時間後旅団長命令で全域で戦端を開き、計画どおり
浦潮等ウスリー沿線7地域のうち6地域で5日昼すぎ「掃討」を完了した。ハバロフスク制圧は5日朝開始で市街戦になった。
5日夕刻、浦潮臨時政府代表が恐る恐る軍司令部を訪れ前日合意した日本軍駐留を保障する議定書に署名し政権の安堵を得た。シベリアのロシア人の気持ちは恐怖から安堵へ、やがて遺恨に変わった。

「日本軍はこの奇襲攻撃により各地で圧勝し、約七千人を武装解除し、数千人を殺害、併存状態だった革命派を殲滅して、ハバロフスクと沿海州を事実上支配した」(麻田雅文 前掲書)
その上極東共和国設立委員で共産党極東政治局員ラゾ達3名を生きながら機関車の
で焼き殺してロシア人に永く消えない記憶を焼き付けた。殺害方法には異論もあるが、ロシア人に定着した記憶がもたらした結果は重大だった。
児島襄は『平和の失速』で55ページにわたって逐一「掃討」の状況を記述し地区毎に戦死者のバランスシートを添えている。日本側が1桁、多くても2桁なのに対してロシア側は3桁である。23年後のスターリンによる満州占領計画もかくや、と思いつつ読んだ。シベリア抑留では倍返しならぬ百倍返しだったと考えるのは飛躍し過ぎだろうか。
なお浦潮では、抗日「不逞鮮人の策源地」であったスラム新韓村を「掃討」し放火した。ニコリスクでも同時に抗日朝鮮人「掃討」を実行した。これが「武装解除」の欠かせない目的の一つだった。
最大の目的は地方政権の軍権と武器を奪うことだった。浦潮臨時政府は少人数の警察隊しか保持を許されなくなった。
ウスリー沿線ではパルチザンは地下に潜り、極東共和国の意を体するゲリラ、馬賊が姿を現すようになる。

1920年4月6日 極東共和国樹立宣言 クラスノシチョコフ首班兼外相を擁する連立政権
ポーランド軍、デニーキン軍、ウランゲリ軍に対して西部で戦っていたレーニン政府は日本軍を武力で追い出す国力をもっていなかった。それゆえ日本軍の平和的撤退に道を開くために緩衝国家を樹立する必要があった。
レーニンは、ブレスト講和の時はドイツ軍の進撃を食い止めるために領土(ウクライナとバルト海沿岸)を差し出して平和を贖った。今回はシベリアのソヴィエト化を急がないことで譲歩し、シベリア、サハリン、カムチャッカにおける利権を提案した。緩衝国家案はシベリアのボリシェヴィキとりわけ日々死と直面しているパルチザンに受けが悪かった。「革命への裏切り」という痛罵も聞こえる。

レーニンの政治局は緩衝国のデザインをアメリカの弁護士資格を持つクラスノシチョコフに委ねた。彼が起草した憲法は世界でもっとも民主的な憲法であった。アメリカでさえ女性に選挙権が認められたのはこの同じ1920年だった。その全文がはじめて和訳され我々にも閲覧可能になっている。堀江則雄著『極東共和国の夢』(1999) 
18歳以上の普通選挙で選ばれた「有産制」民主主義が基本になった。レーニンは憲法と経済政策の基本に関するクラスノシチョコフの質問に「共産主義が小さな特権を持った民主主義が許容される」と回答している。
首班クラスノシチョコフは、
体刑死刑の廃止、大赦、集会結社の合法化、言論出版集会の自由回復を進めた。食糧徴発の代わりに現物税の導入、商業の自由を認めた。本国では農民の反乱が繁くなったとき極東共和国では新経済政策を先取りしていた。
シベリアの農民はボルシェヴィキを支持したが共産主義は支持していない。この微妙なバランスが制憲議会選挙(1921年1月)に表れた。農民代表が多数でボルシェヴィキ、エスエル、メンシェヴィキの順だった。
クラスノシチョコフは首班の地位は保ったが、彼の自由共産主義はボルシェヴィキ強硬派の反感を買った。
鉄道の復旧、協同組合事業、人民軍の募集・維持は財政基盤が弱いため困難を極めた。極東共和国人民軍が「チタの栓」を抜いて日本軍を沿海州「自衛圏」に封じ込める頃クラスノシチョコフは徐々に孤立、失脚しモスクワに呼び戻された。
ネップを推進するレーニンに高く評価され融資銀行プロムバンク設立等で能力を発揮したが、スターリン粛清を逃れられるわけがなかった。
1937年11月26日 銃殺 57歳

1956年4月28日 フルシチョフのスターリン批判(2月)で名誉回復

ムーヒン、クラシノシチョコフと肝胆相照らす仲のアレクセーエフスキーは、極東共和国樹立後、家族を呼び寄せるためにパリに旅行した。そのまま支持者の農民の元に還ることはなかった。1957年、パリで交通事故で亡くなった。

1922年10月25日 日本軍浦潮撤退 人民革命軍入城
同年11月14日 極東共和国、本国合併決議でみずから幕引き


ムーヒンとクラスノシチョコフ/パルチザン戦/アムール州事件

2017-03-07 | 体験>知識

出典 石光真清『誰のために』

調書「ムーヒン」(手書き 第12師団司令部 複写)によれば、ムーヒン(電気工、妻帯、41歳、左足凍傷痛)は変装のため理髪しヒゲをそった。その前は栗色のほほヒゲと帽子で変装していたという。隠れようとした学校で捕まったが捕らえたのは日本兵である。上掲の写真はコザックを主役に配して日本軍を脇役に見せる効果を狙った広報用のものである。
審問者はアベゾルーコフで「隠していることがあるがムーヒンを信ぜんことを請う」とコメントして署名している。日付は1919年3月8,9日である。隠し事「塗抹」とは仲間の名前、居所であろう。たとえば、クラスノシチョコフは知っているが「グラベリソン」なるクラスノシチョコフは知らない、といっているようなことを指すものと考えられる。
私見では「逃走を企てたため路上で射殺」は背後に写っている主役日本軍の捕虜殺害を正当化しようとする口実である。捕らえて白軍に渡して処分させるのも日本軍の常套的やり方だった。
【註】史料中の地名人名のカタカナ表記の微小な相違を統一する能力は私にはない。想像を働かして読んでほしい。

1918年8月16日第一陣を浦潮に上陸させた日本軍は赤衛軍の抵抗を排除しつつハバロフスクを目指して破竹の勢いで進撃した。シベリア出兵中唯一戦争らしき会戦があったクラエフスキー会戦でボルシェヴィキは旧軍の装甲列車と砲艦を出動させているが、兵士は制服もなく訓練が効いていない住民兵が主力だったから、その部隊は赤軍ではなく赤衛軍(元の守備隊とか艦隊のソヴィエト派)とパルチザン部隊とみるべきであろう。沿海州にはまだトロツキーの赤軍の兵制、兵備は及んでいなかったと思う。
日本軍とコザック・ウスリー支隊(アタマン=カルムイコフ)は2週間でハバロフスクを占領した。これ以降ボルシェヴィキはパルチザン部隊で戦うことになった。

1918年8月末ハバロフスク会議で極東人民委員会議(ムーヒンも参加)は撤退して再起を図ることを決議した。議長クラスノシチョコフはアムール州ゼーヤ市に逃れ人民委員会議を解散し変装してタイガに身を隠した。
ムーヒンはアムール州全域で労働者、農民を組織して日本軍とコザック部隊に対する反乱とソヴィエト政権の再建を準備する活動に入った。日本軍は下掲の写真をもとに手配書をつくって二人を捜索した。
真ん中巻紙を持つ二人がムーヒンとクラスノシチョコフ 1918.7.20

出典 http://www.a-saida.jp/russ/sibir/vetvi/ishimitsu_muhin.htm
原典『欧亜列強 大戦写真帖』 帝国軍人教育会編、大正通信社、大正8年

ムーヒンは、ハバロフスク陥落の教訓を生かしてアムール州でパルチザンの隊長を糾合して将来の一斉反乱を準備した。活動地域はゼーヤ河両岸と東のザヴィタヤ河両岸に挟まれた沃土地帯である。かつては清国領で「江東64屯」とよばれた所か。1918年当時はロシア人の移住村になっていた。


出典  児島襄『平和の失速 〈大正時代〉とシベリア出兵』

ムーヒンは、調書によれば、ガーモフ率いるコザック隊と日本軍が武市に進軍して来た1918年9月半ば以後も変装して市内に潜伏していた。
石光は部下が「来た」と慌ただしく報告しに来たとき「ほっといてやれよ。なあ・・・立場こそ違うが、彼も愛国者だ。日本軍との衝突を避けたのも彼の努力だよ」と抑えている。その時10月半ばに撮られた写真に、宣撫説教師太田覚眠に耳を傾け質問しようとする大男ムーヒンが写っている。

 
出典  石光真清『誰のために』 原典  太田覚眠『露西亜物語』(1925)

ムーヒンはアムール州を2区に分け北部の「バヴーリ」村と南東部のイワーノフカ村を二大根拠地として4カ月間村々を巡回しながら宣伝し募兵した。
1919年1月上掲地図各地で蜂起と討伐が頻発した。1月7日マザーノワ、12日ポチカレオ、17日アレクセーエフスク、25日イワーノフスコエ、26日チェレムホ-フスコエ、27日チワーノフスコエ、2月6日タムポフカ、等の付近で蜂起・討伐戦があった。
2月16日イワノフカから武市に潜入して全体を指揮統率した。信頼する石光真清とアレクセーエフスキーが武市を去った直後である。もはや武市は微温的政治環境ではなかった。第12旅団が司令部を置きいわば戒厳令下に等しかった。
武市の「避難所ガ包囲ノ状態ニ陥リ日本兵ノ現ルルヤ」遁れて転々と避難先を替えた。
3月8日学校に着くとここは監視されていると言われた。2階に上がって窓際から外を見ると日本兵が入ってくるのが見えた。1階に降りて捕縛された。

反乱は、日本軍とコザック支隊の討伐行との絡みで、統一を欠き散発的な蜂起に始終した模様である。一般に動乱は強硬派の蜂起で燃え上がる。
以下は「調書」にあるムーヒンの無念の表明である。
武市での今回の反乱準備はムーヒン抜きで行われた。自分は労働組合に個別の決起を戒め続けて来た。ムーヒンが留守している間は強硬派軍事委員が主導した。振り返って言えば前年の武市3月事件の拘禁中の決起も軍事委員会が指導した。
農民はムーヒンを父と慕い頼みにしていた。「父トハ余ノ綽名ナリ。余ノ予期シタル反乱決起ハ余ノ通知ヲ待タズシテ開始セラレタリ」 
農民はムーヒンが「常ニ事ヲ案出シ自ラ遁レル」と批判した。ムーヒンは自分が司令部、市中に居たのは「コトヲ挙グルノ際、ソノ場所ニ居ランガ為ナリ」と応じた。
しかしこの反乱は時期尚早につき起こせなかった。蹶起の時期を決定すのは難しい、とムーヒンは言う。それは主として「露国及ビ外国トノ政治的関係如何ニ因ルモノナリ」

日本軍は浦潮から発してたちまちのうちにシベリア鉄道沿線を占領しながら西進しザバイカル州チタのセミョーノフ軍と合流した。総数73000名を出兵させたが延べ員数だろうから半分と見積もっても広大なシベリアの鉄道の点と線を抑えた程度であっただろう。日本軍は、ナポレオンを退却させた冬将軍を味方にしたパルチザン部隊のヒット&ランの攻撃に悩まされた。
ムーヒン指導のアムール州の抵抗がもっとも強力で最後まで執拗であった。蜂起して討伐隊に追跡されるパルチザン主力部隊と拠点の村々の戦いをみてみよう。
[註] 参考史料は児島襄前掲書と高橋治『派兵』である。高橋氏が出版を勧めた松尾勝造『シベリア出征日記』に負うところ大である。冷たい統計に熱い血を通わせてもらった。

ムーヒンは調書でマザーノア事件にちょっと触れている。日本兵たちがウオッカを求めて酒商とその家族を殴打したのがきっかけだと知った、と。
1月7,8日、同村の農民は蜂起しソハチノ村のパルチザン隊の協力を得て日本軍守備隊兵舎を占領した。梶原守備隊50余名は「戦死6, 負傷7, 行方不明4, 凍傷34」の不名誉を記録した。蜂起は討伐隊によって鎮圧され逃げ遅れた村民は殺された。日本軍は参謀本部出兵史によれば膺懲のため「過激派ニ関係セシ同村ノ民家ヲ焼夷セリ」 
2月11~13日、日本軍はザウィタヤ河東部のインノケンティエフカ村を拠点とするパルチザン部隊の討伐に向かった。第1陣米谷=高野隊100人はゲリラの待ち伏せ戦術と零下30度の厳寒、疲労で敗退した。戦死行方不明4、負傷10、凍傷26・・・出迎えた当番兵松尾勝造は死傷者の惨状に驚き怪しみ復仇を誓った。
凍傷患者は激しい痛みのために泣き叫ぶ。
死体は頭部粉砕、シャツ1枚。この様子は以下の負け戦に共通していて日本軍の報復心をいやがうえにも燃やした。貧しい農民兵には日本軍の防寒具は宝物に等しかった。パルチザンは武器や武具を戦利品で補充した。
第2大隊代理末松少尉率いる討伐隊150名はギリシア正教徒の村インノケンティエフカを早朝野砲2門で攻撃した。パルチザンは馬や橇で逃げ出した。主力は前日に離村していた。「斯クテ討伐隊は終日村内ヲ捜索シ、小銃15挺を押収シ・・・」 同夜そこに「宿泊セリ」
参謀本部出兵史が一方的な勝利をこともなげに記した陰に、渦中で虐殺の実行者、目撃者になった松尾勝造一等卒の阿鼻叫喚を記した『シベリア出征日記』(1978年)が在る。
燃え盛る村で逃げ損なったものが盛んに撃ってくる中、抜剣した士官、曹長を先頭に、兵士が着剣して怒涛の如く突撃した。「硝子を打ち割り、扉を破り、家に侵入、敵か土民かの見境はつかぬ。手当たり次第撃ち殺す、突き殺すの阿修羅となった」
両手を挙げる者拝む者を容赦なく殺害。数名居た正規兵は本部に連行し審問の上突く刺す斬首のなぶり殺し。ガラスや戸の壊れる音、屋根が焼け落ちる音、家が焼ける風音、豚の焼け死ぬ泣き声、走り回る馬の足音、妻の泣き叫ぶ声、擬音語入りで真に迫った描写が続く。
ここで私ははっと気づいた。その時心が鬼だったと述懐する記録者が目や耳に一生焼き付いて消すことのできない光景と号泣にまったく触れてないことに。それが何であるか、また記録者の掻きむしりたい胸の内は、想像に任せるしかない。

完全な敵場内に乱入したときの誰が敵か分からない恐怖心、復讐心、「露助め」がという侮蔑感が勝利の高揚感で勢いよく燃え上がったときの異常心理と行動はいつの時代でもどこの国においても世界共通である。記録者は元寇による壱岐対馬の虐殺もかくや、と想像した。私は島原の乱の原城落城を想った。 
2月17日堀大隊は「アンドレーフカにて約一千の敵と交戦し死者[堀少佐以下]将校2名, 負傷将校4, 下士卒22名戦死、行方不明18名なり」 村は焼かれ無人化した。
2月20日高橋少佐支隊、周辺で一番大きいビッシャンカ村宿泊。零下44度、凍傷患者多し。「一週間前、二千の兵を連れてムーヒンが来たが一夜泊まって何処かへ行ったと言ってゐた」 ちなみにムーヒンが武市に潜入した日は2月16日である。
2月26,27日、日本軍はパルチザンの主力部隊数千名(指揮官ドルゴシェーエフスキー)を追った。ユフタで遭遇して香田小隊45名、ついで田中大隊支隊162名が全滅した。続いて森山小隊58名と西川砲兵中隊35名全滅。貫通銃創と刺創にもかかわらず生き返った森山小隊山崎千代五郎の著著『血染めの雪』(1927)の戦死者名簿による。
山崎は慰霊碑建立に生涯をかけた。著書販売と講演会で全国を巡って資金をつくった。その間137回憲兵に連行された、と作家高橋治は書いている。
3月3日高橋大佐大隊と高橋少佐支隊が追い続けていたパルチザン主力部隊をハサミ討ちにして形勢逆転、総崩れにした。敵はパーロフカ村から逃げ出し橇で追撃を振り切った。参謀本部出兵史は当夜そこに「宿泊セリ」とだけ記録したが、村は焼き払われて無人になった。皆殺しだった。
高橋治は『派兵』(1976)で、老兵たちにインタヴューを試みたが、この件だけは表情を硬くして語りたがらなかった、と云う。ヴィエトナム戦争の「ソンミですよ、南京大虐殺ほど大規模ではなかったようだが、ま、ソンミそのものといえるでしょうな」(第14連隊谷五郎)

3月9日 武市でムーヒン密殺
上掲松尾日記では同郷友人の話として、夕方「釈放」と偽って「走って逃げかけるところを第二中隊の兵2名が後方より射撃したら、4発の弾丸を背に食らって即死せり」と記している。松尾日記に従えば捕虜は銃殺か斬殺が当たり前だった。疑わしい者は殺された。
3月22日、日本軍はアムール州パルチザンの巣窟視していたイワノフカ村に帳尻合わせの清算に出撃した。
「犠牲者は無力な村民だった。村の記録で死者は300人を超える。小屋に閉じ込め36人を焼き殺した跡に炎の碑が立つ。257人の銃殺現場にも慰霊の碑があった。
作詞作曲者不詳の〈炎のイワノフカ〉は、高齢の女性が無伴奏で歌う録音が村の史料館に残る。
♪ 生きてて良かったね/私みたいにならなくて/小屋の中で焼き殺された/屋根に逃げても弾の雨/日本人のやったこと/日本人のやったこと...」( ロシア住民虐殺で追悼式典 イワノフカ事件90年 共同通信社 2009年7月12日配信)

3月28日、山田旅団長発の「過激派掃討計画」は「去就に迷える農民」の信頼を得るため「家屋の焼夷破壊」を禁止し「老若婦女に対する言動を慎み」略奪を戒めている。新たな敵をつくることを懸念し始めたようだ。
短慮浅慮と言おうか、上記の焼き払いはそれまでの派遣軍大井師団長、山田旅団長の〈敵か味方か判別できないから敵対するものあるときは容赦なくその村落を焼棄すべし〉という指令に呼応していた。
大虐殺は指揮官次第だ、と私は結論し持論としている。

ムーヒンの死とイワノフカ村壊滅をもってアムール州パルチザン戦は調整期を迎えた。主力部隊は帰村派と継戦派に分裂し、戦士も千人位に半減した。さらにパルチザンは大隊、中隊規模の編成をやめてそれを小さなゲリラ隊に細分化した。その分大きな戦闘がなくなる。
いよいよバイカル湖東西の戦場に目を転じよう。そこにクラスノシチョコフが居る。コルチャーク政府の囚人として。

【出会いと和解と鎮魂】1994年シベリア抑留者の慰霊碑を建てようとイワノフカの埋葬地を探していた全国抑留者補償協議会斎藤六郎会長「日本人の墓はありませんか」 ゲオルギー・ウス村長「あなたはこの村で日本が何をしたか知らないのですか」
翌年日露合同の慰霊碑が建立された。今なお不完全な名簿を補充しようと努めている日露遺族の執念と鎮魂の思いに頭が下がる。

 
出典  http://www.amur.info/news/2012/08/27/6052

 


石光真清とムーヒン/ブラゴヴェシチェンスクの謀略戦

2017-02-21 | 体験>知識

  出典 http://www.a-saida.jp/russ/vetvi/muhin.htm  原典 アムールスカヤ・プラウダ  2010.5.3

石光真清の手記第4部『誰のために』は私にとっては戦場での「類は友を呼ぶ」物語である。第4部は内容ゆえに真清が公表をはばかったものである。ご子息の真人が戦後編集出版した。

ソヴィエト政府の誕生によって激変した世界とロシアの情勢は極東に無政府状態を生み出した。政権と軍事力の希薄もしくは空白である。日本はこれを好機と捉えつつも英仏両国とりわけ米国の鼻息をうかがいながら単独先行出兵を自制していた。いわば待機状態であるが、最大公約数的目標に向かって準備をした。
その目標は「露国人をして、我支援の下にまずバイカル以東の地方をして、独墺に対抗する独立自治の地区を形成せしむるにあり」(田中義一訓令草案)
それを緩衝国家に発展させ、その政府と交渉してシベリアと満蒙の利権を維持、拡大するという満州国樹立につながる構想の最初のスケッチがこれである。

参謀本部は田中義一次長直々の指名で真清をブラゴヴェシチェンスクに派遣した。武市こそ「独立自治の地区」候補であった。1918年1月15日真清は武市に入った。追いかけるように10余日後に日露協会会長を名乗って情報部長中島少佐以下武官等6名が隠密旅行で来武した。
来武の目的は、東西両州からボルシェヴィキ勢力に包囲されつつあるアムール州と武市の共和制政権を現状維持すること、崩壊中のコザック部隊を立て直すこと、将来の構想実現に向けて工作機関を設けることだった。真清にとっては新任務である。諜報から謀略への任務拡大である。
石光は自分の意見を述べた。「私の乏しいロシア知識によっても、有力な国の武力干渉さえなければソビエト革命は成功すると信じていた。革命が成功すればスラブ伝統の軍国主義は官僚的共産主義と結びついて世界の脅威になることは確実である」「諜報の経験はあるが謀略についてはまったく知識も経験もない」
シベリア出兵の首魁は、山県元老の懐刀田中義一中将、参謀本部諜報・謀略のナンバーワン中島正武少将である。真清は田中に恩義があった。迷いに迷った末、そんなに期待されているのならば、と承諾した。頭から謀略任務なら真清は受諾しなかっただろう。
中島は武市を去る時石光に短いメモを遺した。「蜀を守ることは一に老兄団の御奮闘に信頼す」 アムール州武市を三国志劉備の本拠地蜀にたとえて、我等まさに漢中に鹿を逐[追]う(極東の覇権を争う)と結んでいる。
策士田中義一はこの年9月原敬新内閣の陸軍大臣となり、出兵を推進した。9年後策に溺れて長閥最後の総理大臣の座と自らの命を失うことになる。満蒙に関する外交と謀略の二途作戦が制御不能な満蒙独立計画となって張作霖爆殺を引き起こし昭和天皇の不興を買ったためである。
真清は6名の雇員(久原鉱業の鳥井肇三が先鋭活動家)で石光機関を立ち上げた。後日積極論者中山蕃武官が加わった。参謀本部から軍資金が出るが肝心の機関長の身分は退役の嘱託、国士扱いである。事務所を財閥久原鉱業の事務室に置いた。

東シベリアは3州からなる。沿海州、ザバイカル州、両州の間にアムール州が在る。それぞれの州都はハバロスクと武市とチタである。武市のほかはソヴィエト政権下にある。武市のみが社会革命党(エスエル)温和政権である。
その市長は州長を兼ねるエスエルのアレクセーエフスキーである。革命の闘士で1905年の革命後日本亡命の経験があった。共和主義者で憲法制定会議に出席してそのまま首都に居残っていた。

各州の特務機関の共通使命は「独立自治政府」の首魁となる人物を発掘することである。首領たちの中から将来の緩衝国家の大統領を立てねばならないがまだ武市においても頭領たる器が確かでない。
石光は大胆にもアムール州・武市ボルシェヴィキの指導者ムーヒンに会いに行った。ムーヒンは無警戒にほかの数人とあばら家に居住していた。治安について考えを問うと「平和を望みます。平和を。同邦の間で血を流すほど悲惨なことはない。戦争よりもっともっと悲惨です」それを避けたいためにアレクセーフスキーが首都の憲法制定会義から帰還するのを静かに待っている。ロシアでは民主主義の基礎が弱く、共和制は向かない。「強力な統制力を持った政治機構でなければならない」と筋道を立てて力強く弁じた。

1月19日 レーニン政府、憲法制定会議を解散

当時の武市の情況をみておこう。市庁とアムール州政庁は州のコザック部隊2000名(アタマン=ガーモフ)の武力を頼りにしているがコザック部隊は脱走兵続出で崩壊しつつある。ほかに市民自衛団1000名、旧帝政将校団、資本家団(金鉱山業中心)、官僚団がある。そのほか中国人7000名、日本人350名(3分の2は女性)と、もちろん35000のロシア人市民がいる。ボルシェヴィキ側には地方ソヴィエト、守備隊、水兵団、帰還兵農民団がいるが、それらの構成員はソヴィエト支持者であるが共産主義者とはかぎらない。
市内に敵味方が混在し、しかもかならずしも旗幟鮮明ではない。たとえば代理市長はソヴィエト出身だがエスエルでコザック幹部ともども日本の出兵を懇願している。双方武器が足らない。互いの武器庫から武器を奪ったり奪われたり小競り合いしているがまだ戦闘には至らない。

ムーヒンは自重する一方で市と州政庁に対してソヴィエトに行政機関と銀行を引き渡すことを要求した。職員は二派とも職場を放棄した。沿海州からボルシェヴィキの応援が来始めた。市当局とコザック部隊の要請もあって石光は居留民に働きかけて自衛義勇軍を編成し対岸黒河鎮からも応援を求めた。特務機関指導のもとに両義勇軍合わせて70名がもっとも先鋭で勇敢な部隊となる。一触即発の非常事態となった。

ムーヒンは不慮の衝突を避けるために護衛2人を伴って深夜石光を訪問した。護衛は事務所の階段を緊張で震えながら登った。彼は石光に言った。砲火を交える日が来ても外国人の生命財産の安全を守る決心だ。「その日が来たならば、日本人は各戸に日本の国旗を掲揚してください。万一、同志の中に無頼の徒があって、貴国人に危害を加えたならば、このムーヒンが無限の責任を負います」
ムーヒンを送り出したあと石光は部屋に戻って無量の感にうたれた。「ムーヒンに値する人物が一人でも共和国派や保守派にいるだろうか、と。いや、日本においても彼のように、己を棄て身を張って国家、民族のために闘える人物が幾人いるだろうか,と。もし彼がシベリア共和国建設のために身を挺するなら、私は現在の地位を去って、彼に一肘の力をかしてもよい、と考えた」

3月3日 ブレスト独露講和条約調印

3月5・6日、極東ソヴィエト代表クラスノシチョコフとムーヒン、シュートキンが政庁で代理市長と州会シシロフ議長に政権移譲を迫る。庁舎の外で砲兵隊(守備隊)、武装労働者が市民自衛団と日本義勇軍、それにコザック部隊、将校団とにらみ合いもみ合いを続けた。中山武官がこれらの部隊の戦術指導を行っていた。
「閃光と一発の銃声を合図に」どっと黒い波が市庁舎に殺到して3人のほかボルシィキェヴ10数名を捕縛して引き揚げた。これは「ガーモフの反乱」と称されることもあるがガーモフ指導の任を帯びていた石光機関が煽った蜂起であった。ムーヒンは「日本軍」が来た(次稿:ムーヒン調書)と供述している。砲兵隊も武装労働者も実力で取り戻すことをしなかった。水兵団は姿を現さない。
3月7日、石光はコザック幹部、代理市長、州会議長に会ってクラスノシチョコフたちの処置を問うた。処刑とコザック部隊の再出動を勧告したが応じて来なかった。石光はその理由を政権が温和なエスエルであることに求めている。
それだけではないと思う。ソヴィエト側が連合軍の派兵を恐れて平和的に政権交代を求めているかぎり、市民も、日本人会さえも、流血を望んでいないことは、石光もよく承知していた。クラスノシチョコフたちを人質にすると「赤軍を誘」って事態を悪化させるだけだ、と石光は脅かし扇動したが、処刑すればかつて石光が目撃したアムールの大虐殺の二の舞になることを想像しなかったのだろうか? 
大虐殺が起こるかどうかは指揮官次第だと私は思う。謀略は思考を麻痺させるようだ。流血をいとわないのが武人コザックなら納得できるが、そうではなく石光と武官と義勇軍であることに唖然となる。

3月7・8日、反乱側、停車場占領に続いてゼーヤ河港の水兵団を攻撃する。 
3月9日、それまで防戦していた水兵団が反撃を開始してコザック、将校団、日本義勇軍に死傷者が出た。反ボルシェヴィキ側は、百にも満たない(と義勇軍は自嘲気味に少なく言う)水兵団に苦戦した。氷点下40度に近い夜間の厳寒が休戦をもたらした。停戦会議は義勇軍鳥井代表の抵抗で散会になった。危うく義勇軍、自衛団解散の合意が回避された。
日本義勇軍3人の葬儀で反ボルシェヴィキ側は盛り上がった。
3月11日、コザック連隊は赤衛軍討伐の宣戦布告を発した。代理市長の非常訓令に応えて武器庫から銃を手にした大勢の市民がバリケードを築いて配置についた。
3月12日、クラスノシチョコフ、ムーヒン、シュートキンたちボルシェヴィキが獄中から奪回された。午前8時ごろ意外にも要所要所の大きな建物の窓が一斉に開かれ潜んでいた赤衛軍が路上を掃射した。「銃は棄てられ、雪は血を吸い、負傷者はもがき、死体は黒く散らばって、全市は一瞬のうちに地獄になった」
逃げることのできる者は皆凍結したアムール河を渡って対岸黒河鎮に避難した。コザック武隊は銀行から金塊(主に砂金)を取り出して「まっ先に」対岸に逃れた。
石光は赤衛軍の増援を得て優位に立つ敵と戦えばこうなるのは分かるべきだった。石光は戦の勢い、成り行きにずるずる流された。
義勇軍結成を容認した罪、武官と義勇軍の勇み立ちを指導しきれなかった罪、居留民総引き揚げの機会を失った罪、温和なエスエル政権を維持できなかった罪を背負って中島少将の居るハルピンに向かった。「日米間の微妙な外交交渉に不利を招き、陸軍が国から責任を問われるようなことがあったら・・・」自決しよう。

結局慰留されてまた黒河鎮に戻った。石光はハルピンで、シベリア共同出兵が内定していること、アタマン=セミョーノフ、東支鉄道長官ホールヴァトが反革命政府樹立を準備中であることを知った。
対岸の武市では市庁でムーヒンが、州庁でクラスノシチョコフが初めて統治の困難と闘っていた。コザックが避難するとき国立銀行から金塊3000万ルーブルを黒河鎮に運んだためムーヒンは給料の支払いに窮した。コザックは昔から特権で、農民は2月革命で、私有地を得ていた。武市は飢えていた。結局レーニン政府同様の共産主義的政策をとるほかに打開策はなかった。集団農場化と食糧徴収。政策が発せられるとムーヒン市長兼州長の人気が陰り始めた。アムール州26ケ村の村民大会は自治と赤衛軍解散を求め、農産物の供出を拒否した。
人気のあるアレクセーフスキー前市長が帰還と同時にソヴィエトに逮捕され裁判にかけられた。先の3月事件で市民自衛団を結成し3月事件を発生させた責任を問われた。かれは3時間におよぶ反レーニンの弁論で傍聴者をを熱狂させた。「昨日の友たる日本に刃を向け、勝ち見なき戦いを挑み、この上さらに同邦の血を流させんとするはレーニンだ。ロシアを亡ぼすもの、その暴君はレーニンだ」 裁判長シュートキン、陪席ムーヒンがひそかに姿を消すほどの名演説だった。アレクセーフスキーは4年の刑を宣告され下獄した。
石光によればシュートキンら強硬派による暗殺をさけるためにムーヒンがアレクセーフスキーを病人に仕立てて入院させたそうだ。ムーヒンは声明した。「彼は学識深く高潔な人格者である。このような人物はロシア広しといえども得がたい」
石光は80日ぶりに黒河鎮事務所から武市に赴きムーヒンと会見した。各地の反革命の烽火についての意見を聞くとシベリアをとられてもいつかは本国の手に戻る、と楽観論を述べた。この楽観論はロシア人に広く共有されているように私には映る。ナポレオン、ヒットラーを追い出した史実を思い浮かべた。

5月14日チェコスロヴァキア軍がチェリアビンスク駅構内で独墺軍捕虜と些細な衝突をした。独墺捕虜4万の内3万はボリシェヴィキ寄りである。チェコ軍6万は祖国の独立のためロシア側で独墺軍と戦った。レーニン政府がブレストリトフスク条約でドイツと講和を結んだため浦潮回りフランス経由で西部戦線に復帰する予定だったが不幸にも途次シベリア鉄道で「宿敵」独墺捕虜団とすれ違って喧嘩になった。武器に関する移動条件に違反していることをレーニン・トロツキー政府がとがめると、チェコ軍団は武装解除要求を拒否して蜂起し、瞬く間に西シベリア鉄道沿線を占領した。それが列強を連合させて干渉させる口実とはずみになった。
どのみち連合軍の干渉は避けられなかったと思うが慎重なレーニン政府打った不用意な一手だった。ボルシェヴィキがシベリアでも優位に立った後だけに軽率な判断が悔やまれる。
7月 チェコ軍浦潮ソヴィエト政府を打倒 赤衛軍西へ潰走 
   アムール・コザック(アタマン=ガーモフ)が黒河鎮に終結
   東支鉄道沿線のハルピン、チチハル、満州里にも日本軍と白軍集結
   (ホール
ヴァト臨時政府とセミヨーノフ頭領)
   西シベリア騒然 チェコ軍団猛威 ウラル・ソヴィエト皇帝一家を
   処刑
   
   アムール州騒然 農民・コザック村動員・供出拒否 鉄道従業員職
   場放棄 
中国人商人反抗 「ムーヒン紙幣」価値下落
9月1日 ムーヒン、ハバロフスク極東人民委員会議(議長クラシニチョコフ)から帰還し、西も東も戦況不利につき「東西から挟まれたアムール州の運命は迫っている。この際いたずらに州民の血を流さず政権を農民団に譲って一時退き、将来を期すべきである」とソヴィエトと軍事革命委員会に提案した。武市周辺の農民・コザック41ケ村代表がソヴィエトに対して政権移譲を要求した。エスエルのアレクセーフスキーが政権を引き継ぐことになる。

石光の使命は終わった。「蜀」(武市)は守ったが「漢中」(シベリア)での覇権争奪戦はこれからである。ムーヒン達政権側は戦わずに撤退しアムール州でのパルチザン活動に入る。石光は一人黒河を渡って州庁にムーヒンをたずね、別れの挨拶をした。ムーヒンは「一本のローソクでもモスクワ全市を焼くことができる」という諺を引いて勝利への信念を述べ真清に敬意と謝意を表した。真清は「私の生涯において、こんなに胸をうち魂をゆさぶられた経験はなかった」と友誼と邦人保護に感謝した。
「もし皆さんのうちで、将来窮境に落ちることがあったら、必ず私の名前を言って救いを求めて下さい。私は責任をもって保護いたしましょう」
ムーヒンはクラスノシチョコフにもらったステッキを記念に真清に贈った。

 ご子孫伝承のムーヒン形見のステッキ 

9月18日コザック・アムール隊と日本軍先遣隊が武市に無血上陸した。州会の推薦を受けてアレクセーエフスキーは市長兼州長に返り咲き、治安維持をコザック軍に依託し、州の独立を宣言した。日本軍の最低目標「地方穏健政権の維持、頭領の擁立、独立宣言」は達成した。かくて極東三州はボルシェヴィキから奪回された。
が・・・。
石光は任務解除を申し入れて逆に招集されてしまった。アレクセーエフスキー政権を盛り立てる任務を授けられた。
ところがハナから日本軍は占領軍のように振る舞い、やることが支離滅裂だった。
家宅捜査を行い暴行、金品略奪で市民の不信を招いた。武力で鉄道を占有し船舶と物資を徴発して市民生活を圧迫した。
アレクセーエフスキー政権はムーヒン政権と同じ苦境に陥った。奪われた国立銀行の準備金はホールヴァト政府に渡り還って来なかった。政権は、コザックと職員の給与支払いにも窮しムーヒン紙幣を増刷する始末だった。日本政府の経済援助は得られなかった。政権は崩壊するほかない。
石光は直接浦潮の大井師団長に以上のような事情を報告し崩壊を食い止めることができないならいっそ撤兵すべきだと越権の進言をした。
「君は誰のために働いとるんだ、ロシアのためか?」
「任務を解除して戴きます。不適任です」
「よかろう、辞め給え」
1919年2月11日、アレクセーエフスキーと石光真清は敗残兵のように寂しくブラゴヴェシチェンスクを去った。
アレクセーエフスキーはイルクーツクでオムスク政府最高指導者コルチャークの審問と極東共和国の創設にかかわったエピソードを遺して晩年をパリで過ごし交通事故で亡くなった。石光真清は事業の整理と借金返済に追われるも晩年を念仏三昧で過ごし機密書類を燃やして静かに激動の生涯を閉じた。
ムーヒンとクラスニシチョコフは・・・?