自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

大学時代/谷川雁と大正行動隊 1960~1963

2016-06-28 | 体験>知識

毎年2,3度わたしは安保闘争中のゼネストで懇意になった全国税労組京都支部の井ノ山さんの御家(官舎)に遊びに行った。半日、ご夫妻とお子さんといっしょに団らんの時を過ごすのが常だった。プールにも行って古泳法のさわりを体験させてもらったりした。それらは私にとって緊張と疲れをいやす貴重な休息の時間だった。そのうえすき焼きで栄養をつけていただきありがたかった。
井ノ山さんとの対話は私にとって新鮮な耳学問だった。
「国会の予算審議で予算案のウラを読み取れる議員は、社会党の木村禧八郎だけである」「夏目漱石は個人主義と天皇制の狭間で終生格闘し続けた」「東大卒の青二才が署長として短期間キャリアを積んで出世してゆく」 
支持政党は「井ノ山幸福党である」
井ノ山さんは世にいう学歴がない。尋ねたことはないが税高か税大を出たらしい。
かれはどんな問にも自分の考えで応えることができる。
わたしは、かれの居る高みに届かない。しかし私は彼を師と仰がない。師友として
付き合いたい。進路の相談もしない。進路は目と足で探し自分の頭で決めたい。

同じことが当時若者を惹きつけていた思想家、文士についてもいえる。
サルトルとボヴォアール、吉本隆明、谷川雁。

谷川雁とかれが工作した大正行動隊は、反体制言論界の寵児であり安保で挫折感をもった一部の学生たちの憧憬の的であった。
わたしにとっても気になる存在だった。だが眼中になかった。わたしがまだ未熟で10月革命の延長線上でしか運動を考えることができなかったから。

私が学習目的で行った高松闘争と並行して隣の中間市の大正炭鉱(白蓮事件で有名な炭坑王が開発)でも合理化阻止闘争があった。
同鉱の経営危機は合理化では立て直しが困難なほど深刻で、福岡銀行に見放され、希望退職募集が常態化し、賃金、退職金の支払いが滞っていた。
いきおい闘争は、反復ストにとどまらず、債権取り立ての糾弾色を帯び、社長・会長宅、福岡銀行本店、頭取宅に向かって幾度となく、組合、主婦会、炭労九州と福岡地区労の抗議デモが押し掛けた。
大正労組の中でもっとも先鋭な集団が大正行動隊を自称した。
争議の注目度は高松闘争を格段に上回った。行動隊に対立した共産党地区委員長・宮本忠人の著著『地底からの雄叫び』は、高松闘争と政策転換闘争を中心に据えた日炭高松組合史,党史を詳細に記録した大著であるが、私から見ると、大正行動隊の大暴れの様子が繰り返しクローズアップしていて、メインテーマの高松闘争がかすんでしまっている。
炭労は自立再建できない大正鉱業ゆえに、政府に向けて「政策転換闘争を必要とする闘争の典型」として大正闘争を位置付けた。マスコミは炭労の労資協調路線を歓迎しつつも大正炭鉱泥沼の争議、なかでも大正行動隊の激越で破天荒な行動の記事を多く扱った。

首都のブント系諸派学生70名が、上京した行動隊員3名に呼応して日銀本店に抗議行動を起こし、あわただしく閉ざされた正面入り口前で胸のすくような弾劾の名文を読み上げた。誰が書いたのか、行動隊のビラはどれも名文である。
現地で寝泊まりしながら長期支援していたブント系セクトもあった。
京大からもヴォランティアが行った。
帰って来た先輩の現地報告を聞いて憶えているのは谷川雁は森崎和江と同棲していて連れ子二人に「がんパパ」とよばれているということである。

労働運動の体験とも支援とも定かでない不確かな動機ではあったが、その目的地を決めるなら大正行動隊を選ぶのが筋であろう。
しかしわたしは社共が指導する日炭高松闘争を選んだ。
大正行動隊は学習するところではなかった。闘う場であった。
しかも大正行動隊は、別様に、異様な戦いをしていた。

谷川雁は、早くから村社会の土着エネルギーに着目し、そこに社会運動の「原点」を置いた。伝統的共同体をエネルギー源とする思想と行動は、いうまでもなく谷川雁が元祖ではない。先例は国の内にも外にもふんだんにある。
百姓一揆 安藤昌益と自然真営道 打ちこわし 自由民権運動 田中正造と足尾銅山鉱毒反対運動 明治大正のアナキスト・社会主義者 米騒動 大正期の大労働争議(鉄鋼・造船・鉱山)
大正行動隊の組織原則は、従来の党、組合の諸原則と思想に縛られない個人の主体性を尊重した自由連合であった。無政府主義とは関係なかったがアナーキーだった。
それは後のべ平連運動、全共闘運動に大きな影響をあたえた。 
「その行動は常に生活内的な発想をとっていて、イデオロギーをふりかざすことをしなかった。あたかも私怨をはらすかのごとき言動は画一的運動にみきりをつけていた労働者の共感を得て、多くの信奉者を得た」(森崎和江『闘いとエロス』)
戦術も奇想天外だった。所内の要所を面ではなく点を占拠し、一つの拠点が仮処分を執行されると別の要所を占拠する。巻揚機→矢弦車→地底と転々、モグラのように神出鬼没であった。確かに奇策ではあるが、いわゆる遊撃戦術、ゲリラ戦術であり、組織の縛りさえなければいつでもどこでも自然発生する戦術である。
三池闘争でも行動隊長がダイナマイトによる坑内水没戦術を語るのを私もこの耳で聞いた。ゾラの名作『ジェルミナール』は争議敗北後放浪のアナキストが炭坑を水没させて風のように立ち去るところで終わっている。
大正行動隊員のダイナマイトが脅威である、と大正鉱業田中社長が衆議院特別委員会で強調、アピールしている。

大正行動隊の中核は15名に満たなかったが、労組の中で非妥協的な組合員を代表し炭労の最終休戦案を21票差で否決した。
その後無効票の「精査」で9票差で敗退した。
1962.6.22 ようやく生産再開の運びとなった。
「地獄行きのつき合いは御免だ!炭労案反対者は全員退職で闘おう!」
希望退職者811名。余りにも数が多く会社をあわてさせた。内759名が大正炭鉱退職者同盟を結成し従業員でないのに労働組合の資格を勝ち得て(このこと自体空前絶後か)退職金よこせの闘争をつづけた。
拠点占拠は出炭を阻むから残存組の大正労組および炭労と対立し一触即発の危険があった。同盟は炭労・組合と絶縁した。
1963年11月、中間市の仲介で妥結、退職金の一部を得た。中間市からは市設住宅と市有地払い下げを得た。
『闘いとエロス』によれば同盟は、筑豊企業組合を結成し住宅の自力建設に取り組み「同盟村を造り村のなかに生産と労働の場を作らんとした」 
いわゆるコミューンを夢見たのか? それとも実現可能な生活闘争を意図したのか?
コミューンは私の心の中にもある根深い願望であるが実現はユートピアに等しい。
経済振興では実務集団が思想集団より優位になることを東西の歴史が示している。
同盟は分裂して現実路線を歩み始めた。思想集団としての行動隊は消滅した。
1964年12月 大正鉱業閉山

もしわたしが中間駅で下車していたら、青二才の私は牛の尻尾にも鶏の頭にも成れず潰れていたと思う。後でわかることだが雁は追い付けないほど前方を翔んでいた。

追悼 2022年6月15日、森崎和江が急性呼吸不全で亡くなった。女性炭鉱員からの聞き書き『まっくら』や『からゆきさん』・・・どれをとっても著者の視座が低く視線が優しい。ともに「サークル村」で活躍した上野英信、石牟礼道子らみなそうだ。そして井ノ山毅、みな故人である。合掌


大学時代/合理化阻止闘争/日炭高松闘争

2016-06-07 | 体験>知識

戦後復興を支えた主柱の一つであった石炭鉱業が石油エネルギーへの転換期を迎えて斜陽化し、三池炭鉱争議に代表される反合理化闘争を招いた。重油輸入自由化という「黒船」が迫っていた。 

1961年の夏、わたしは鹿児島本線折尾駅か水巻駅の北側に下車した。
目的は筑豊最大級のヤマ日炭高松の炭住である。
闘争本部に行き来意を告げるとすんなり受け入れてくれた。
わたしは私服で学生を名のり炭住で数日間こどもの学習を助けたいと申し出たはずである。コネも紹介状もない、組織のバックアップもない、まったくの個人ヴォランティア活動だった。

わたしは活動の領域を学園を拠点にする政治闘争から別のものに変える希望を抱いていた。現代の革命と社会運動について広く学習、体験して次の活動の場と進路を決めなければならないタイミングが卒業まで3年を切っていた。

労働運動と労働者の生活を知りたいという願望を満たすため、反合理化闘争として全国的に注目の的となっていた日炭高松闘争を選んだ。日炭高松労組は4月から無期限ストライキを続けていた。

ある活動家の家庭に配置された。2階長屋の一角に夫婦二人と子供二人が住んでいた。ストライキ中なので給料がなく炭労から支給される生活費(1万3000円?)でつつましく生活していた以外、炭住は庶民の日常と変わりないように感じられた。
五木寛之の「青春の門」に描かれた男気あふれる川筋気質も、大学を中退して炭坑夫の生きざまを体験しながら記録した上野英信の「追われゆく坑夫たち」の汗と焼酎の臭いも漂っていなかった。
それもそのはず、わたしが入ったのは三池闘争のような砦ではなかったから。その年の最大の争議である日炭高松闘争は中央で闘われていたから現地に「砦」はなかった。
三池で敗れ疲弊した総評と社会党は、熾烈な生産点闘争から逃げるかのように首都で政府に迫る「政策転換闘争」に路線を切り換えて、現地に支援オルグを送るのではなく逆に地方から中央に逆オルグを送ることを求めていた。
やがて京都でもヘルメットにキャップランプ、ヤッケ、地下足袋といういでたちの炭坑夫の上京行進団とビラまきが見られた。
静穏な現地でこども二人の夏休みの宿題をサポートしたほか特に得ることもなく最初の「支援」を終えた。何も目の付け所を持たない手探りの旅だった。
それでも学園新聞にルポを載せている。
その内容を確かめたい半面見るのが怖い気がする。

最後の日、男児二人を連れて岩屋海水浴場に水泳に行った。
人生で初めて高飛び込みをした。
高さに自分の背丈が加わるから台上から黒い海面を見下ろすと足が震える。
しなる飛び板の先までこわごわ進み下を見ずに頭から飛び込む。
「しまった」と思った瞬間体が腕、頭から海面に叩き付けられ、腕がねじれて背中にまわった。
海面は壁のように厚く感じられた・・・。

わが模索の最初の一歩はこんなものだった。