自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

世相観 政治意識 /高校文集 「芙蓉」 に見る

2014-05-15 | 体験>知識

1955年、左右両派の統一で社会党が発足し刺激されて保守合同で自民党が結成された。
いわゆる55年体制の誕生である。
その後永く今日まで「改憲、資本、安保改定」vs「護憲、労働、安保反対」の構図続くことになった。
わたしには情報源が新聞とラジオしかなかったのでかえって政治と社会のニュースが
耳目を覆わないかぎり毎日入って来た。
東西冷戦ゆえの核実験と反対運動、沖縄、砂川等の反基地闘争、労働争議のニュースに日常的に触れていたが、当時のわたしはいずれにも、傍観的だった。
当時核戦争の脅威が実感としてあり「世界終末時計」はずっと残り2分をさしていた。
今は5分。時計の針が午前0時を指したらそれまで。
また日教組は文部省の教育統制(勤務評定)に対してデモ、欠勤で熾烈な反対闘争を繰り広げて世論をにぎわしていた。
それにも関わらずわたしの世相観、社会観、政治観は傍観的、皮相的、享楽的で流行や社会現象を軽く笑い飛ばしていた。
小冊子「芙蓉」1958の教育所感集から転載する。

「此頃銀座にはやるもの前衛尽くしロカビリーサックドレス大根足深夜喫茶に男サー
アロハシャツにサングラスBB旋風エログロ。
人工衛星鍋底景気四年続きの豊作にスルナスルナは売春ヤレヤレ芸者腹ふくれ国会ザルの不道徳道徳教育勤評反対するは白鉢巻争議首切大はやり吹奏されるか愛国心踊る阿呆に復古主義右派?左派?はワッハッハ今日がすぎれば明日が来る。
ああ楽しき人生や。」

*BB:仏セクシー女優ブリジットバルドー、 愛称ベベ。
*1958年売春防止法施行  前年抵抗勢力の売春汚職事件が摘発された。


ハンガリー動乱1956

2014-05-01 | 体験>知識

戦後世界はイデオロギーでソ連圏と米国圏に分裂し東西冷戦が時には大きく火を噴くことがあった。
東西南北で独裁政権に対する民衆の暴動、革命が起きたが、ほぼすべてがソ連か米国の主導による武力で弾圧転覆された。
医者志望のチェ・ゲバラが革命家に転じたのは、放浪中のグアテマラでアルベンス革命政権が米国に潰されるのをみずから体験、目撃したからである。
ハンガリー事件も共産党独裁政権に対する民衆の暴動で始まった。
民衆に推されて成立したナジ政権は成り行きによってワルシャワ条約機構(NATOに対抗するソ連圏軍事同盟) 脱退のレッドラインを越えそうになり、2500台のソ連戦車群に蹂躙された。
1万7000人とされる死者と20万人以上の亡命者が出た。
亡命者の中に後にわたしがその名を知ることになる20世紀を代表するサッカー選手プシュカーシュもいた。
毎年世界で一番美しいゴールに対して与えられるFIFAプシュカーシュ賞は彼に由来している。
戦後世界のサッカー界をリードし続けたマジック・マジャール(オリンピック二連覇)はこうして崩壊した。
新聞、ラジオが連日抵抗と弾圧の惨状を報道した。
報道はヴォイス・オヴ・アメリカと欧米通信社が発信元なので当然西寄りに偏向していた。わたしは大国主義とソ連も米国も嫌いだったのでハンガリー動乱に対してOFFの立場だった。

それでも書店で英語の写真入プロパガンダ本を買った。
タイトルは「NO MORE COMRADE」だった。
「もう同志と呼ばないで、うんざりだ」
民主化の英雄ナジ首相がソ連により拉致2年後処刑されたことは大きなショックだった。
わたしはその頃この悲劇の革命が将来自分の進路に大きく関わることになるとは夢にも想わなかった。
世界中でスターリニスト共産党からの離脱が始まっていたのだ。

  上掲書から転載