自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

日本成女W杯代表、スペインに完勝

2023-08-04 | サッカー育成

12年前のW杯優勝以降、競技力の対外的地位が下がり続けていると感じていた成人女子代表*が上位のスペインに4-0で一方的な勝利を収めた。
*世界水準に追いついた成人代表に「女子」は失礼だろう。今後敬意を表して成女(男の場合成男)と呼ぶことにする。
勝因は、監督の堅守速攻の戦術が奏功したこと、そのチーム戦術を齟齬無くこなせた選手の技量、個人戦術の高さにある。
スペインはいわゆるポゼッション・フットボールで最初にW杯(成男)を制した実績を誇る。それゆえボール保持にこだわりすぎ、伝統が足かせになって、成男に続いて成女も、日本代表の戦術にはまってしまった。
日本は、トップを一人だけにして植木理子に前線でボールを追わせた。植木はエネルギー消耗をいとわず役割を忠実に果たした。攻めのシステム3-4-2-1。
残り十人は引いて三重の守備ブロックをつくった。守りのシステム5-4-1。そして相手にボールをつながせた。
先読みしてパスをカットするプレイを抑えた。最終ラインへの楔の縦パスはほぼすべてつながれたが、体を当てて奪いに行かなかった。寄せて前を向かせないだけで我慢した。相手は一度もペナルティエリアに侵入できなかった。FKやCKも少なかった。
危ないボールはつなぐことを考えずクリアした。中盤はボール保持者に寄せてプレッシャーをかけたが飛び込んでボールを奪おうとしなかった。
たまに奪ったボールとこぼれ球は、相手が近ければその素早い寄せに圧倒されてたちまちボールを失った。球際の強さではスペインが格上であることを思い知らされた。日本代表が球際の争奪戦にこだわらなかったのは賢明だったと思う。
フリーでボールを受けたとき中盤は、スペインの高めの守備ラインの裏めがけて、方針通り縦に走る2ないし3人(ワントップの植木、Wシャドウの、楢本、宮澤)に長目のボールを蹴った。3回の攻撃で前半3点を奪った。ボール保持率23%

サイドがボールを保持したとき、普通、前、横、後ろに同時にサポートがついてそこでボールをキープするのがポゼッション・フットボールの特徴であるが、そういう場面はほとんどなかった。敵のサイドにボールが入っても圧力を加えるが奪取行為をおさえていた。味方のサイドにボールが入ったときはボール保持のチームプレイではなく前に繋ぐことを優先させていた。
それが1点目につながった。レジェンド熊谷紗季からボールを受けた遠藤純はすかさず長目のボールを、DFの背後に走り込むトップの植木に向けて蹴った。ボールは3人のDFを抜けて、右サイドを駆け上がった宮澤ひなたに渡り、ひなたが出遅れの相手2人を振り切って得点した。守備者全体が前線に加わったわけではない。宮澤は一時的に脈があがったが数少ない上がりなので体力消耗とまでは行かなかっただろう。
一人を除いてたくまず省エネサッカーになったため後半も日本代表の集中力が途切れることはなかった。
後半の田中南美の得点は右サイド自陣でスローインを受けてからのドリブルで3人のDFを翻弄してのワールドクラスの美技だった。

4得点を許したスペインDFの無力には驚くが、成功体験を引きずるスペインサッカー全体の欠陥の現れであろう。攻めても守っても彼我のペナルティエリア付近で巧みなパスをまわすのがスペインのポゼッション・フットボールなのだから桶狭間的強襲には弱点をさらけ出しても不思議ではない。

劣位のチームが低いブロックからのカウンターで強豪を食う事例は、ここ2,3回のW杯でたびたび起こっている。今回の堅守速攻もその一つであるが、わたしの上記のつたない分析からでもわかるとおり、きわめて細心緻密であった。さらなる勝利も期待できるが、構造的不安もある。
アメリカを筆頭に欧米では地域に市民クラブがあり少女クラブが盛んである。日本ではW杯優勝のフィーヴァが底辺の広がりにあまりつながらなかった。そのせいで新生WEプロリーグは集客に苦戦している。
ノックダウンの決勝トーナメントが始まるが、強豪相手に球際のスピードで結果を出せるのかは未知だ。
特にノルウエー戦は平均身長で5.6cm劣るためヘディング・シュートで失点負けする不安がある。GK以外の170cm以上の選手は、日本はDFの3人だけ、攻撃陣にも1人欲しい。ノルウエーは12人。
地域のクラブが充実していれば幼時から身長を大きくする指導がなされる。わたしが男子中心のクラブで監督をしていたとき、牛乳・卵等の完全食材接取と早寝(成長ホルモンが働く1時間半前に就寝)を強調し続けていた。身長を決めるのは遺伝ではない、食事だ、とする信念からである。
ちなみに20代男女の平均身長はそれぞれ171.5cmと157.5cmであるが、20代女性の平均身長はは2022年までの10年間伸びていない。


サッカーの新しいトレンド/高校選手権とワールドカップ

2023-01-10 | サッカー育成

わたしは2016年度に監督を引退して時間に余裕ができたがTVで放映されるサッカーの試合を見る気が起こらなかった。ボールをとっても安全パスを後方に送ってパス回しにこだわるからである。縦への推進力でのみ評価されてきた自分には何ともまどろっこしい退屈なゲーム運びだった。どのチームも同じようにやるから後半にユニフォームを交換して戦っていても気づかないだろうと思っていた。
こと(トレンド)の起こりは2010年にスペインが絶妙なパス回しでW杯を制した新コンセプトにあった。それはポゼッションサッカーと称されて世界を風靡した。サッカーがチームゲームであり総力戦であるからそれなりの必然性があった。
W杯で決勝点を決めたイニエスタに代表されるように、複数の敵に囲まれてもなおボールを失わず攻撃的なパスができるチームだからこそ有効なコンセプトだったが、世界中で上も下も猫も杓子もパス回しにこだわった。
「従来サッカーでは90分持久力がもたない」[省エネ論]
「ボールをキープしている間は失点しない」[後ろ向き消極論]
「キーパからパスで組み立てよ」[安全パス論]
「やたらにボールをクリアするな」[確率の低いキック否定論]
・・・・・・。
これはJリーグの指導人のことばの一部である。だからといって私はポゼッション指導を否定はしない。それなくして日本代表が技術的戦術的に世界水準に達することはなかったであろう。

今年の全国高校選手権を選手層で地域レベルの(県内の2番手、3番手の選手で構成した)チームが制覇した。私が一目を置いている潮 智史朝日新聞記者が代弁してくれた(1月10日朝刊)。これ以上のまとめはわたしにはできない。
[優勝した岡山学芸館の]
「縦に速いボールポゼッション」。10年ほど前から掲げるコンセプトはゴールという目的を忘れてパスを回すサッカーへのアンチテーゼでもある。[同感]
隔年で足を運ぶスペイン遠征でバルセロナの試合を観戦して、高原監督は思いついたという。「もっとスピーディーにゴールに向かったほうがおもしろいと感じたので」。そのサッカーは、昨年のワールドカップ(W杯)で勝った強豪にも通じている。[同感]

新しいサッカートレンド! わが意を得たり、である。カタールW杯2022は決勝まで徹夜して観戦した。日本代表は上へ上へと螺旋階段を駆け上がった。真上から見たら世界のトップと同位に見える。横から見るとまだ一周遅れである。生きているうちに世界的スーパースターの誕生と活躍を観たい。


1968年夏高槻市でサッカーと学習塾を始める /69年夏甲子園 三沢高校太田孝司に魅了される

2019-10-18 | サッカー育成

当時、塾もサッカーチームも皆無だったため、どちらも上々のすべりだしになった。塾は補習塾で片手間、サッカーに情熱を注いだ。
塾の指導は自分のかつての勉強法を踏襲しただけでとくに指導法を研究したことはなかった。地方にはプロの進学塾がなかったから通用したような私塾だった。
サッカーの指導には志と夢をもって臨んだ。
サッカーはFIFAが一元統括する国際スポーツである。だから指導も世界標準を念頭においてした。まず初めにしたことは名称を高槻フットボールクラブとし日本蹴球協会に登録することである。1969.4.4正式に登録した。
世界標準に則した名称と所属を定めユニフォームを作って練習にはげんだが試合相手がない。
サッカーマガジンの「募ります」欄で少年チームを見つけて大阪市喜連瓜破、池田市早苗の森まで行った。相手チームの監督はそれぞれ中学生だった。
日常的な課題は私自身の初歩的な技術習得と総合的な理論学習であった。小学校の旧校舎の基礎壁を利用した壁パス、ビンやカンを並べてのドリブル、10回突破に時間がかかったジャグリング等を大真面目に日課とした。
サッカーマガジンで情報を得ながら、当時の日本協会長・野津Drの少年団向け指導書、毎日新聞岩谷記者のサッカー教室指導書で初歩的な学習をした。サッカー講習会があれば遠方でも参加した。1969年に来日したボルシア・メンヒェングラートバッハのコーチによる講習会に参加した。両足を使う、パスはインサイドを使うとか聞いたような気がする。
自分流のサッカー観をもつうえで決定的な影響をうけたのは、そのボルシアMGを率いる名将バイスバイラーの著書サッカーの戦術―現代サッカーの理論とトレーニング』 (1972年  講談社刊)からであった。バイスバイラー→ミケネス→クライフが創造と進歩に寄与した「トータル・フットボール」の原点、攻撃哲学が息づいていた。わがチームはすぐさまオフサイドトラップに馴染み、愛称としてブラックパンサーを名乗った。
京都と兵庫のサッカー友の会がサッカースクールを運営していることを知り教えを乞うた。両会は戦前活躍した同好の士が寄り合って事業に携わっていただけあって、日本がサッカー後進国であることを憂えて地方でやれることを先進的に実行していた。兵庫友の会は1969年3月30日、市民の支援を得て御崎サッカー場(神戸中央球技場)を完成させた。1万2千人収容できるスタンドと夜間照明を備えた日本初の天然芝サッカー場である。
わたしはここでスーパースターたちのプレイをナマで観る幸運に恵まれることになる。モザンビークの黒豹ことエウゼビオのコーナーに近いゴールライン上からのキャノン・シュートを目の前で見た。ペレのしなやかな強さ、カルロス・アウベルトの完璧なディフェンス、ベッケンバウアーの優雅なリベロ、マラドーナのラボーナ・シュートが目に焼き付いている。
私と神戸のレジェンドたちでは比べるべくもないが、やっていることに家内手工業と機械制大工業の差があった。それにもめげず私はチームと自分の技術・戦術のために試合相手と講習会を求めて京阪神を飛び回った。

969年夏は三沢高校と松山商業の決勝で記憶に刻み込まれた。わたしたちは柳川小学校で練習をするかたわら職員室の窓の下で洩れ来るラジオに耳を傾けた。延長18回0-0で翌日再試合となった。下記写真はその時のモノである。