自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

舌癌手術/元気をもらったヒトと出来事

2022-03-30 | 舌癌闘病記

病院では種々の職種の人たち、はやり言葉で言うとエッセンシャルワーカーに援けられた。元気をもらった二人の看護師について記す。
Hさんは始終看護室長を担当してくれた。このひとの熱意と行動力に救われたと妻は言っている。勤務を終えた帰り際には必ず病室のドアを少し開けて笑顔をのぞかせていた。どれだけ安心感をもらったことか・・・。妻とは世間話をするほどに親しくなった。まもなく退職し結婚した。きっと幸せな家庭をもったと思う。
もう一人は、若いころ映画フアンとして魅了されていた女優ステファニア・サンドレッリ似の美人看護師である。退院まじかな一週間担当してくれた。何週間ぶりかのシャワーも使わせてもらい幸せな気分を味わった。
ピエトロ・ジェルミ作品の『イタリア式離婚狂想曲』や『誘惑されて棄てられて』での演技そのままに、にこりともせず、職務以外の事は一言もしゃべらなかった。不愛想は不埒な男の患者に付け入る隙を与えない護身術だったと思う。看護能力も高かったのだろう。まもなく救急外来に配置換えになった。

もし家族という拠り所がなかったらあのように病と闘うことはできなかった、とつくづく思う。家族の有難みを傍で観て、一生結婚しないと誓っていた次男が結婚観を改めた。


2本指のピーコ
ビビらず我慢することを教えてくれたのは家族の一員ピーコだった。10年前のクリスマスイヴの夕べ、長男が近くの歩道で動けなくなっていたのを拾って来た。妻(小鳥屋の娘)が懐に入れて温めると元気になった。
よく観るとひどい障害を負った雌鳥だった。指が2本しかないのだ。傷のいえた右足首に皮一枚でぶら下がっていた足をピーコは食いちぎったと妻は語った。生死にかかわるような、ひどい目に遭ったのだろう。
ピーコは鳥かごの中で指と嘴で柵に縋って昇り降りした。止まり木にとまることはできたが、外に出しても着地できないので飛ぶことはなかった。
わしづかみに手荒く扱って、半ばからかった私には、頭の羽毛を逆立てて歯向かって来て、なつくことがなかった。何ものも恐れず生き抜くそのタフな精神力にわたしは打たれた。入院中わたしは一度も弱音を吐かなかった。ピーコに負けてたまるかの一心で困難と闘った。娘からの便りに「おばあちゃんとピーコは元気」とあった。

入院中、サッカーの教え子二人がプロ契約をしたニュースに大いに勇気づけられた。二人とも小2のとき妻の教え子だった。二川は長いことガンバ大阪で10番を背負い、フアンに「ガンバのイニエスタ」と褒め称えられた。



舌癌手術/胸水との闘い/心臓が朝までもつか

2022-03-18 | 舌癌闘病記

舌修復後、次の一週間ベッドに寝たまま舌の傷がいえるのを待った。
主治医が、詳しい経過は不明だが、週末3月14日の夜7時から、気管カニューレから注水して、ドレナージだと称してタッピングをおこなった。洗浄と排液である。それが必要なほどわたしに何か病状の変化があったのか、まったく記憶がない。
気管への注水だから私はむせて恐慌をきたした。海や川で溺れもがく者の苦しみとはこんなものか、と実感できた。二度と受けたくない、不信感が後を引く医療行為であった。
主治医は、上大静脈輸液ルートからの輸液漏れを想定してそれに対する応急処置をほどこしたのだろう。それにしても溺れる状態を伴う施術が妥当だとは思えない。
その晩の体調の記憶はない。妻のメモに主治医の事後説明があった。原因不明だが夜中から明け方にかけて液漏れが多くなった。肺にたまった水はほどんど抜けて来たが胸水は利尿剤とかを使って徐々に減らすしかない。自分は3時ごろまで院内に居たが、その後連絡をもらったのが遅かった。
4:30、当直医が「水分へらした」とあるが、利尿剤を点滴したということだろうか。
6:50「心拍数が早くなってきた」
運悪くその日3月15日は日曜日。日曜日は医療従事者が各医局とも当直以外は休みである。H看護室長が懸命に主治医の行方を捜したが翌日まで見つからなかった。携帯の電源を切っていたとしか思えない。
ベッドでレントゲン機器を見上げた記憶がある。Ⅹ線写真では液漏を確認できなかった。S病棟医とH室長ナースが院内を駆けずり回って対応できる内科医を探した。昼頃、呼吸器科の当直医を見つけて連れて来た。その内科医がみずから持ち込んだエコー機器が「水がたまっている[のを]見つけた」。
13:00「内科医とS病棟医、ルート失敗で液もれの可能性」と発言
脈拍が上がりだんだん呼吸が苦しくなる。主治医は見つからない。私と妻が焦る。私はSドクターに至急次の打つ手を、と迫った。「私を信用してないのか」とドクター。はい、していません、と私。
胸水を抜くことのできる外科医を求めてHナースが駆け回る。そして明朝出勤する心血管外科医と8時か8時半に予約することに成功した。
私はそれを知らされてますます不安になった。呼吸数は倍ほどになり心臓は早鐘を打つ感じだった。あすまで心臓がもつか、心配のあまり、親友の大浜医師と高知市で内科医院を開業している妻の弟に電話してもらった。
大浜は病状を聞いて、まぁ大丈夫、と呑気な返事をした。義弟も命にかかわることはない、と断言した。心拍数、呼吸数を調べて正確なデータを伝えるべきだった。
その夜はまんじりともせず、早く朝が来ないかとじりじりしながら待った。心音がドキドキ響き、呼吸活動がハツハツと止めどなく意識を刺激した。交通が渋滞して外科医が間に合わなくなるのではいかとまで心配をした。傍で一晩中看ていた妻の心中、動揺はいかばかりであったか・・・。

 
 出典  knowledge.nurse-senka.jp
手術室に入って来た心血管外科チームは手際よく胸水を抜いた。看護師が170といったのを憶えている。リーダーが肋間にチューブ(金属管の感じがした)を刺し込んだ。液が容器にどっと出た。部屋の空気がほっとほぐれた。Hナースに血がまじってない液体を見せられて妻もようやく安堵の表情を見せた。
余談だが、反対側の脇腹からの穿刺は、研修医?に任されたが、痛い上に時間がかかった。大学病院は専科が多いのでいざというとき安心だが、若手の実習の場でもあるので、痛い目に遭うこともある。

その後主治医が再度ドレナージを提案してきたが断った。あのタッピングが輸液漏れを悪化させたと今も信じている。
最初の手術と今回のトラブルで心臓が極度に弱ったので血中酸素飽和濃度の測定がたびたびなされた。股間に近い所の深部大静脈から採血するので激痛を我慢しなければならない。たまたま大浜が見舞に来て施術を観ていたので、若いSドクターが緊張して何度もしくじり焦ったことがあった。
大浜は主治医から説明を聴いたが、ドクターは輸液漏れの原因は分からないと言った。わたしには、手術前[!]に2泊帰宅した際に不具合の原因が生じた、とのたもうた。
大浜に心拍数は170/分だった、というと、危なかったね、とひとこと言われた。一晩中格闘した自分にはコトバが軽く感じられた。

傷が治って全部の管から解放されたあとも、深部血中酸素濃度が正常値に達するまで退院を許されなかった。4月6日退院となった。家に着いて、母とピーコ(可愛がっていたセキセイインコ)の顔をみた時はじめて懐かしいヒトたちと景色に包まれた元の世界に生還した実感がこみ上げて来た。
サッカーの練習を見に行って、口さがないガキに「あっ、おじいちゃんじゃん!」といきなり言われた。還暦前の、まだ孫がいない身にとって、「おじいちゃん」は意外だったが、それほど衰弱していたのである。

衰弱の結果はすぐ現れた。逆流性食道炎である。今も定期検査項目に入っている。
理学療法士は付いたが、言語聴覚士は検討対象にすらならなかった。聞く人は聞きづらかっただろうが、私は気にせず喋った。今は、歌はだめだが会話は普通にできている。

いったい再建手術は誰のためだったのか? 患者の為か、それとも医者のためか・・・。

# 筆者の闘病記におけるスタンス 一事をもって全体を評するなかれ。
わたしがその病院に今も継続して定期通院している事実が上記スタンスの確かさを証明している。

 


舌癌切除後の再建手術失敗/耳鼻科でも再手術

2022-03-11 | 舌癌闘病記

1998年3月2~3日の舌癌切除部位(舌左側)病理診断書


①から⑦までの断片の内、②~⑥は間質に異形細胞が認められるが、周辺①②には無いことが記されている。軽症の内に診察出来たから助かったが、少し遅れると、広範囲にわたって転移の悪性化がおこりそうな状況だったと考える。

問題は舌の再建手術で起こった。左ひじから手首までの長い皮弁を切り取って口腔内の手術痕に縫い付けた。長い血管を頸の太い血管に吻合したことはすでに述べた。皮弁は形と大きさがPCのマウスに似ている。
   出典  www.civillink.net

身体はベッドに固定され、動かせるのは足と右手だけ、気管カニューレで呼吸をし、鼻チューブで栄養をとり、排尿は尿管で、排便はオムツで、・・・何とも不自由、不快な闘病生活が6日間続いた。耳と目は機能したが声を出せないので意思を伝えるのに筆談ボードを使った。
眼球しか動かせない難病患者の不自由を考えると、私が不自由をかこつのは気が引ける。それでも気道を確保する気管カニューレの喀痰吸引は、しょっちゅうで、ベルを押してどれだけ看護師をわずらわせたか、喀痰処理の不快感と共に、忘れようがない。

3月7日、 アジアサッカー連盟主催のダイナスティカップ最終日の試合が東京で行われた。わたしはベッドで対中国戦を観戦した。中田英寿率いる日本代表は0-2で敗れたが、得失点差で中国を上回り優勝した。私は途中で眠りこけた。

TVを視聴できたのだから再建手術の結果は良好だった、はずだった・・・。
翌8日、毎日午前中に移植片に針を刺して血が通っているか検査をするお兄さん(多分アルバイトの大学院生)が来なかった。日曜だから来ないのだろうと思った・・・。
その午後異変が起こったがどのように何時に起こったか全く記憶がない。眠るように昏睡に陥ったのであろう。

妻の記憶によると、当直の形成外科医かS病棟医がたまたま来て異変に気付き、やがて白衣の要員が数人どかどかと入って来て運び出したことは憶えているが、何が起こったのか、何時ごろの事か、何時間後に病室に戻ったのか、思いだせないという。
舌の移植にトラブルが発生してやりなおしていることはH看護室長が知らせてくれたそうだ。舌をほっぺに縫い付けたので言語障害が出るかも・・・とも聴いている。
私はいつ覚醒したか、まったく憶えていない。血流が止まって皮弁が壊死した、舌を頬内側に縫い付けた、と形成外科医に告げられた。それからまたベッド生活が続いたが、記録が皆無なのでその期間と内容が不明。
今回自分の口内を点検して舌の修復手術のあらましが分かった。
舌全体を奥に押し込んで傷跡を二つ折りにして、傷と傷を合わせて縫合癒着させている。修復された舌は歯茎を越えて頬壁に縫着している。その結果私は舌足らずになって舌が口先に出ない。舌なめずりが十分にできない。
今回ようやく妻が少しだけ思い出してくれた。私が覚醒したので湯沸かし室に白湯をもらいに行った。何に使うかは不明。朝陽が差し込んでいたので太陽に向かって手を合わせたそうだ。つまり私は相当の時間麻酔で眠っていたのだ。

このように、医学部耳鼻咽喉科に転院してからも再手術となった。リスク10%に当たるなんて、まったくついてない。
しかも、二度あることは三度ある。次回につづく。

W自家移植に一言。皮弁を剥ぎ取られて剥き出しになった腕のキズにはどこから採った皮膜を移植したのか。私の場合、鼠径部から柔らかい皮膜を採った。今、鼠径部には傷跡が見当たらないが、腕には数本陰毛が生えている。

理学療法士による半年間におよぶリハビリ作業にも関わらず、親指にしびれが残り腕が斜め上までしか上がらない。左手で持つと汁物がこぼれる、肩が固まっていて腕がまわりにくい、といった後遺症といつまでも付き合う羽目になった。