1965年ごろから菊地先生のロシア革命研究に触発されて、私はロシア革命と何らかの関わりを持った日本人の足跡を追跡することを、副題として研究した。主題「十月革命とは何か」は研究書も多く図書館と書斎で思索すれば足りたが、「人物」は消息を求めて直接体験談を訊くか関係者の体験記を探して読むしかなかった。
そいうわけで尋ね人と探求本のために旅行、通信にかなり時間を割いた。力不足とその後の多忙で人物の消息は途中で切れたままになった案件が2件あった。シベリアで消えた新聞記者・大庭柯公と日本に越境亡命したソ連極東GPU長官リュシコフである。
勝野金政 1901年生まれ
1924年フランス留学 その後仏共産党に入党
1928年党大会参加中に「好ましからざる外国人」として検挙、即国外追放 片山潜を頼ってベルリン経由でモスクワ入り ロシア国籍を取りソ連共産党に入党 東方学院の日本語・日本史教師 片山の私設秘書
1930年10月ゲー・ぺー・ウーによる逮捕(スパイ容疑)
GPUによる尋問事項
1)根本辰後述を呼び寄せたのか。
2)GPUにたいする協力を拒否した理由は?
3) 日本に留学する教え子を駅に見送りに行ったとき日本武官たちと会おうとしていたのではないか?
4)日本政府の差し金で入ソしたのではないか?
勝野は完全否定して長期間収監された。
1932年6月 「矯正労働」5年の判決 ラーゲル送り
1934年6月 減刑釈放 7月帰国
勝野金政について菊地先生から何を聞いたか、氏名と著作名、高く評価していたこと以外は全く思い出せない。わたしは1966年の春先に南木曽の勝野氏宅を訪れた。
訪問の時期は、勝野さんが帰国と同時に時の内務省警保局長唐沢俊樹toshitatsu(1967年3月14日死亡)の庇護を受けた事実から推定することができる。唐沢俊樹は同郷である。思想を取り締まる特高の大元締めである。大恩人の病状あるいは死亡に言及がなかったので私の訪問がそれより前であったと推定できる。
どのようにして住所を知ったか・・・。
1934.11.20刊 日本評論社
今回、当時古本屋巡りで入手した上掲本を読み返しても手掛かりの記述はなかった。読み終わって何気なくニ重の中扉を開くと新聞切り抜きが挟まっていた。
勝野は1934年6月に釈放されて日本大使館に1ゕ月匿われ、酒匂秀一書記官の尽力で正式にパスポートを得てシベリア経由で7月に帰国し、警視庁特高課で取り調べを受けたのち治安維持法違反証拠不十分で釈放された。身元引受人は直後にこの本を出版した日本評論社・社長であった。だから新聞の日付は9月か10月と考えられる。
新聞名不明
記事の中に「長野県西筑摩郡東村」元全聯共産党員勝野金政(34)とあったのを手掛かりに南木曽町の住所を探し当てた。
南木曽駅で降りて旧中山道の山の中の道を南下すると道に面して勝野家はあった。経営する木工芸所はもっと低いところにあって谷底を走る中央本線の車窓から見上げることができた。
訪問を告げると私の父ほどの年齢の金政さんがみずから迎えてくれた。頭髪は薄かったが丸顔の肌は色つやよく光っていた。
通された部屋は頑丈な造りで板の間に囲炉裏と神棚があった。有線放送さえなかったら戦前にタイムスリップしたと錯覚しただろう。家屋は享保年間に建てられたと聞いた。周りの小屋には牛が、池には鯉が飼われていた。
メモに椿の花とあるので私が訪れたのは春先と思われる。もう一度春の花の季節に行きたい。見たいのは樹齢200年以上と聞いたハナノキである。ハナノキはこの地方の固有種で花楓=ハナカエデの別名がある。4月初旬に赤い花が咲き秋には紅葉する。
ハナノキと小学生の娘さんを撮った写真があったが今のところ行方不明なのが残念だ。
好々爺然とした金政さんは人懐っこくよくしゃべった。驚くべき記憶力で、記憶を引き出すために言葉につまることはなかった。パリ、ベルリン、モスクワにいた日本人、内外共産党指導者の名前と活動がよどみなく出て来た。
金政さんは片山潜の自叙伝作成を手伝った。テルノフスカヤがロシア語に翻訳していた、という説明に続いて彼女の遍歴が長々と語られる。パルチザンのとき氷をかじって前歯を失ったとかモスクワに親善公演に来た河原崎長十郎と人目をはばからぬ深い仲になったとか、最期は自死か狂死だったとか、こんな語り口で、仏、独、露での体験をるると語った。
大庭柯公が逮捕された理由についても五つあげるほどに詳しかった。菊地先生が高く評価した中平亮については「赤大根」[中身は白い]の一言で切り捨てた。
メモには短すぎて何を語っているのか意味不明のものがたくさんある。関心が薄い事柄を私が聞き流したためであろう。順番に綴っておく。「風間大吉」「高橋貞樹」「スパイ松村の写真を」「野坂参三 山本懸蔵を売る」「野坂の発言を送ろう」「徳球の親衛隊長服部麦生」「丘文夫 デカダン 純情」「馬場秀夫、大竹を売る」「千田是也」「鈴木東民」「三枝博音」「国崎定洞」・・・。
フランス共産党、コミンテルンに関わる代表者、知識人の名も数多い。ジョーレス、カシャン、ピエール・セマール、ハインツ・ノイマン、ヴィクトル・セルジユ『1917年のレーニン』 ヤセンスキー『私はパリを焼く』 ピヤトニツキー、ミーフ、韓ハイロン ・・・。
勝野さんはロシアで出版した自分の作品(ペンネームは林虎男)にも言及した。『10日間』は関東大震災の話である。『惨憺たる記録』はキッコーマン争議の記録である。
一番自慢の作品は何ですかと問うと発禁になった千倉書房刊『コミンテルンの歴史と現勢』と即答された。金政さんも持っていなかったので古書店で探し回った。送られてきた古書目録に載っていたのですぐ電話したが売却済みだった。
本題のリュシュコフ大将との関わりに耳を傾けよう・・・。
リュシコフのポートレートを見せてもらった記憶はあるが、肝心の話の内容の記憶が消えてしまった。走り書きのメモが頼りだ。
ところがそのメモ書きには参謀本部の嘱託としてリュシコフが短波放送を聴いて入手するソ連情報(マラトフ情報として有名である)を整理し上司に報告した仕事については一つも記述がない。私の関心がリュシコフの「最期」にしぼられていたせいかもしれない。
リュシコフは母国に「妻と娘を残した」「日本国籍を取り日本人を娶り平和な生活を」望んでいた。「シマノフの女とくっけられた」[シマノフは東方学院で勝野の教え子、女は樋口美代で『内から観た謎のソ連』の著者、私は京大付属図書館で借りたことがある]
独ソ戦について「ソ連はつぶれん 電撃戦争 飛行機・戦車 広大な土地、冬将軍」
「1945年3月別れる」「4月満洲へ配置転換されて逃げる、酒井参謀捕らえる」[酒井隆機関か?そもそも事実か?]「満州で関東軍に葬られる」[機密保持のため消された]
まことに粗末な聞き取りである。突っ込みどころで問いただしていない。わたしはインタビュアーとして失格である。
次の日中学生の息子さんの案内で妻籠宿を見て回った。
復原・修景前の集落だから観光地の風情はなく、島崎藤村記念の案内板にあった明治浪漫の代表作「初恋」の印象しか思い浮かばない。一節を標して青春に想いを馳せたい。
まだあげ初(そ)めし前髪(まへがみ)の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり