自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

京大学生運動、広義のブント時代/学生部と学生自治会の相互信頼

2020-11-24 | 近現代史 京大ブント

戦前と比べるのはフェアではないが、戦後の学生部、学生課は学内警察の役割を演じた。政治に絡む事件を起こすと、例えば天皇事件では、同学会を解散した。抗議スト・集会は禁止、違反すれば指導者は停学となった。また警察権力導入を躊躇しなかった。
1955年の滝川事件以後、毎年同学会再建の試みがなされた。1958年の処分(無期停学9名)に対して中心メンバーがハンガーストライキを決行した。
「ハンストは約百二十時間続いたことになる。時計台下の約十人と別に総長室前でも再建準備委の議長だった北小路さんがハンストをしていた。当時の一般新聞の処分反対闘争に対する見方は大変に同情的で、処分を強行した木村学生部長、光田学生課長に対する大学内外からの風当たりはかなり強かった。処分は翌十一日に解除され、「7」月末の学部長会議で学生部長、学生課長の更迭が決り、芦田学生部長、角田学生課長の新体制が生まれた。以後、警職法闘争、安保闘争、政治的暴力行為防止法闘争などの激動が続いたが、学生部と自治会の間柄はそれ以前のような険悪な空気が薄れた。」
これは、当時闘争に加わった先輩溝上瑛氏が『芦田譲治先生追悼文集』(1982年)に寄せた追悼記からの引用である。




この追悼文集はさながら京大ブントによる名学生部長芦田先生への讃歌とその時代の思い出である。呼びかけ人11人は全員元ブントである。私が卒業後数年間アルバイターとして出入りしていた学生部教養係の神岡課長補佐が的確な表現をしている。「先生を最もよく悩ますことのできた人達こそ、先生を最も深い処で、よく理解し、尊敬していた人達ではなかろうか」と。
わたしの投稿「60年入学者からみた芦田先生」を下に掲げる。
「私の学年は、同学会再建と安保闘争のイニシエイターではないので、芦田さんとのかかわりも、呼びかけ人の世代とはおのずから違ったものになった。宇治分校自治会を再建しようとすれば、会場を貸さないとか掲示を許可しないとかいう形で、反動時代の小亡霊*が現れるので、トップの芦田=角南ラインについても、若気のいたりで、権力の手先という感じを抱いていた。
[*更迭された元部長、課長が宇治分校で我らの活動を抑えようとしていた。事務職の光田元課長とはそのつど押し問答をした。教養学部長でありながら姿を見せない木村作次郎元部長には「キムサク出てこい」のシュプレヒコールを浴びせた。]
デモのある度に、角南さんの黒い角縁の眼鏡や芦田さんのフェルトハットが沿道にみえがくれするのを見るにつけ、はじめのうちは刑事とまちがい、のちには大学当局の学生に対する監視行為と受けとっていた。反戦自由の伝統を継承し、学生に深い愛情を注いでおられた芦田さん、角南さん、神岡さんの御苦労にたいして、まことに申し訳ない誤解をしたものだ。
その後、時がたつにしたがって、先輩たちが語っていた芦田さんの偉大さが身にしみてわかるようになったが、一度カンパをもらいにお伺いした以外は、特別のおつきあいをすることもなく、とうとう永遠にお会いできなくなったことを残念に思う次第である。」

この間、芦田教授は日本植物生理学会(1959年) を設立し9年間会長を務めた。その学会は、国際植物生理学会連合の日本側窓口として、また同分野関係研究者の交流広場として、重きをなしている。

敗戦直後、芦田教授は、理学部内討議を経て率先して封建的学術体制を批判し「学術新体制の構想」を試案として提起した。日本学術会議の準備に当たり芦田さんが発したキリスト者らしい言葉「若人に期待する。老人達よ、若人の声に傾聴せよ」は、後年の学生部長時代の姿勢を彷彿とさせる。なお芦田先生は第一回学術会議会員選挙で全国区委員に選出された。

その学術会議が推薦した新会員の任命を菅総理が拒否し、その理由を明かせないでいる。形式任命権を実質的任命権と解釈しなおして任命権ありと開き直っている。その伝で行くと「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する」(憲法6条)は、短絡的解釈で、天皇に首相任命権あり、になる。これは全体主義と親和する思想である。
豊永郁子早大政治学教授は警告した。「統治者が法に従わない」、これはティラニー(専制政治)の定義だ。菅首相はその一線を越えるのか、と。
交替したばかりの学術会議前会長・山極寿一前京大総長は警鐘を鳴らしている。「この暴挙をゆるせば次は大学人事に手をつけてくる」 
火のない所に煙は立たぬ。ボヤの内に消さないと大火になってからは手も声も出せなくなる。


学術会議人事介入について/滝川事件再論

2020-11-13 | 近現代史 学問の自由

戦争のできる国造り、つまり戦傾化は、自民党と日本会議の宿願である。安倍一強政権はその点で歴史的な成果を収めた。菅内閣になって10月2日朝とんでもないニュースが飛び込んできた。

安保法制、辺野古基地、秘密法、共謀罪に、批判、反対した学者6人の学術会議会員任命を新首相が拒否した。異例である。安倍戦傾化内閣を継承する管新内閣の初仕事がこれである。これは前代未聞ではなく戦前の「戦争への道ならし」の再現である。歴史は繰り返す、ただし別様に。
戦前の戦争へ道には長い時間をかけて多岐にわたってレールが敷かれ拡張された。学問の自由と大学(教授会)の自治への干渉もまたその一工程であった。

「1932年中に京大、三高の左翼組織がほぼ壊滅した状態で権力側は一体となって1933年滝川事件を起こし大学の自治、学問、思想の自由を葬ることに成功した。」 このような出だしで私はブログ「旧制高校の青春/自由と圧殺の分岐点/籠城七日三高ストライキ」で滝川事件の大筋を紹介した。滝川事件が学問の自由と圧殺の分岐点だという観点はいまも変わらないが、今回は違った切り口で要点をピックアップしてその事件を考察したい。

滝川事件はたまたま起きたことではなくて時代の流れの中で起こるべくして起きた事件だった。大戦後の大正時代は国際緊張がゆるんで日本でも西洋の思想、文化が流入し、膨張した都市人口と読書層に受け入れられて、トルストイズム、無政府主義、民主主義、社会主義、マルクス主義、モダニズム等が流行した。
当然それぞれに対抗する思想も壁を厚くして、政治、社会、思想・文化の各方面で争論が起こった。閥族政治対憲政擁護、吉野作造(新人会)対杉本慎吉(興国同志会⇒国本社)、大陸出兵の是非、海軍軍縮条約をめぐる政争、西洋風俗に対する反発などである。思想弾圧の底流は軍部と在郷軍人会であったがここでは取りあつかわない。新聞の加担についても同様である。

ここでまず指摘したいのが、民本[民主]主義と共産主義に対する日本主義の執拗な攻撃である。杉本愼吉門下の蓑田胸喜教授は日本主義に立つ原理日本社を創立し自由主義からマルク主義までの学者を名指しで攻撃し時の権力に追放を働きかけた。
蓑田は『中央公論』・『改造』と東大・京大の思想的影響力を赤禍の発信地として敵視し、批判論文を発して滝川幸辰、大内兵衛らの追放、美濃部達吉の貴族院議員辞職の切っ掛けを作った。
滝川糾弾と同じころ蓑田は「美濃部博士『憲法撮要』の詭弁詐術的国体変革思想 五・一五事件の激発動因統帥権干犯の出自禍根」(1933年)を発表して、憲法学説として学会、政・財界、官界で定説であった天皇機関説を大逆思想視する問題意識に火を点けた。
かれが神がかり的な日本主義の立場から、血盟団事件の井上日召と5.15事件の権藤成卿、2.26事件の北一輝、古代史研究の津田左右吉をあいついで批判して、国体明徴運動の真正理論、言い換えると天皇教の教義を定着させたことはもっと議論されてしかるべきだと考える。
彼は、動機は不明だが、終戦直後郷里の八代で首を吊って自死した。出版法違反で起訴された津田発禁本の出版元・岩波茂雄社長は「回顧三十年」で「当年軍閥に迎合し、今また民主主義を謳歌している徒輩に比べれば、蓑田君は自己の主張に殉ずる忠実さを持っていた点は感心である」と記した。

蓑田教授と滝川幸辰教授との接点は、滝川が講演部の指導部長であった1929年、京大に呼ばれて講演し学生の猛反発をくらった集会だった。三島由紀夫も東大全共闘と単独対決したことがあったが蓑田の場合は学生の好奇心よりも嫌悪感にかこまれていたようである。蓑田は滝川を大学における軍事教練反対者とみて敵意を抱いたと戦後滝川が語っている。
講演後蓑田は弾劾の相手をマルクス主義経済学者河上肇から自由主義法学者滝川に変えたようである。京都大学百年史 : 総説編:374-466によれば、講演直後に書かれた「瀧川幸辰教授への公開状」には、すでに後年の瀧川事件の時に瀧川を非難するために使われることになる論理一一瀧川はマルキストである、瀧川のトルストイ理解は問題であるーーが姿を現している。

1932, 33年は日本の軍国主義、ドイツのナチズムがそれぞれ国内で定着し世界で孤立した年である。
1932.3.1 満州国建国宣言
 12.19 新聞132社、満州国独立支持共同宣言
1933.1.15 アメリカ、満州国不承認を列国に通告
 1.30 ヒトラー、独首相に
 3.23 ヒトラー政権、全権委任法可決(ワイマール民主憲法骨抜き)
 3.27 日本、国際連盟脱退
 10.14 独、国際連盟脱退

同じころ治安維持法と拷問を武器にして内務省・特高警察(安倍源基部長)が全国で地下活動をしていた共産党組織を壊滅させた。共産党の目的遂行の為にする行為(カンパとか読書会とかも治安維持法違反とされた。いわゆる「共謀罪」類似の条文である)をしたとして裁判所の判事、書記(東京その他で9人)が検挙された。
原理日本社はただちにパンフレット「司法官赤化事件と帝大赤化教授」を作成、政府機関に配布した。一大スキャンダルとなり国会で政友会の宮沢裕(宮澤喜一首相の父。治安維持法を成立させた司法大臣小川平吉の娘婿)が発売中の滝川の著書『刑法読本』に言及して文部大臣鳩山一郎に赤化教授取締りの決意をただした。こうして司法官試験委員であった滝川教授が司法官赤化の元凶として槍玉にあがった。
4月10日『刑法読本』と『刑法講義』が内務省によって発禁処分にされた。鳩山文相は、京大に滝川教授の罷免を要求した。大正時代に沢柳事件で獲得した「大学自治」の慣行を楯にして法学部教授会は教授罷免を拒絶した。
5月25日文部省は高等文官分限委員会(首相、大審院長等8人で構成)の諮問を経て滝川の休職を決定した。
滝川の著書、講義を国家にとって有害、危険とした根拠は文部省による手書き調書(国会公文書館で公開中)にくわしい。学生側の主張と行動は「京大問題の真相」(全学部学生代表者会議編)という見事な長編論文に結実して事件の最中6月に発表されている。
いずれも真実、核心を突いていない。前者は官僚の老獪な常套手段ゆえに、後者はアカ狩りが怖い「純真かつ慎重」な自由主義者*ゆえに...。
*「同夜左翼のビラ撒き事件があり、之に刺激を受け、今後慎重に左右両翼の運動を排撃し、以て純真なる学生運動の立場を確保する意味の声明をなした」 

真実は暗黙の中にある。なかでも思想検察は寡黙である。時の検事総長林頼三郎が提起し、司法大臣小山松吉の了解を背景に文部大臣鳩山一郎がゴーサインを出した。彼らは幸徳秋水事件以来の司法官僚内国粋主義ハードコアである。
小山松吉は主任検事として、検事局次席・平沼騏一郎のもとで、大逆事件フレームアップに貢献し、長らく在職した検事総長時代には林頼三郎司法次官、府県特高課長らとともに京都学連事件摘発の指揮を執り最初の治安維持法適用に至らしめた。
この平沼騏一郎(国本社代表)を大元締めとする思想検事系列は強靭で敗戦をも乗り越えている。平沼自身は東京軍事裁判でA級戦犯として訴追され、終身刑の判決を受けて獄中で死去した。
滝川追放の理由は、その客観主義刑法理論と内乱罪・姦通罪についてのマルクス主義的感想であったが、思想検察にとってはそれらは些細なことで、真に危険なのは国民が国難に際して集中してないことだった。
国難とは国際的な完全孤立と長城の南北での国民党軍との衝突を指す。米国務長官はスティムソン・ドクトリンを発して日本をJAPと呼び捨てにしていた。
大局を見て自由主義、個人主義を封じて日本精神でもって思想を統一し、すべての力を国家に捧げる義務に目覚めさせる。これが滝川を事件化した国粋官僚の黙示的メッセージだった。
それに応えて文部省は教育を日本精神・滅私奉公精神で刷新する。天皇機関説排撃=国体明徴問題の大騒動を経て、1937年7月7日北京南西の盧溝橋事件を切っ掛けに宣戦布告なき日中戦争が勃発した。戦火は上海に及び年末には国民政府首都・南京が陥落した。国内では昼は小学生の旗行列、夜は提灯行列、昼夜を問わず万歳、万歳の歓声でお祭り騒ぎになった。
国民精神総動員運動が展開され、1938年国民総動員令の成立をもって、個人主義が悪の根源とされ、神権天皇をいただく軍国全体主義が成立した。個人の内面から社会生活の隅々に至るまで国家にいやおうなく統制された。
1939年、今なお日韓、日中間で尾を引く国民徴用令が国会の審議を経ない勅令で決定された。
1940年、日本は世界大戦(太平洋戦争)に突入した。滝川事件からわずか7年後の事である。


出典 日録 20世紀 KODANSHA

管政権による学術会議人事介入の黙示的メッセージもまた、大局を見よ、中華帝国主義の脅威を見よ、それに対抗する安全保障政策で国論を統一し、学術会議をして国の安保政策に協力さすべし、というところに落ち着くのではなかろうか。
恣意的に、人事で脅かして、あるいは予算を操作して、学者、官僚、最高裁裁判官、検事総長、NHK経営委員、評論家、記者、知事、住民を政権になびかせる「右へならえ」政治手法は民主主義に反する。


例によって事件と自分との関わりを付け足す。
60年前わたしの学生生活は陸軍火薬庫跡をキャンパスにした宇治分校ではじまった。最初の仕事が宇治分校自治会再建の強行だった。その5年前に全学自治会を潰した責任者が滝川総長(1955年当時)だった。彼は、戦後京大総長在職中、全学自治会「同学会」と創立記念祭の前夜祭開催をめぐってもめて、警察権力を導入、学生を告訴し、同学会を解散させた「反動」という不名誉な評価*で識られていた。
*大学は学外者立入を理由に屋外集会の禁止を決定した。長時間にわたる交渉が決裂し、総長の退出を暴力的に阻止した̚容疑で2名が逮捕、起訴された。総長は法学部教授3人が特別弁護団に入るのを罷免を示唆して阻止した。それは教授会の人事権を否定した戦前の文部省の弾圧を想起させた。

宇治分校は1年限りで吉田分校に統合された。翌1962年滝川さんは亡くなっているが私の記憶にはない。