わたしは前章で勝野金政の聞き取りと『赤露脱出記』にこだわってメモ書きをみながら記事を書いた。戦後出版の次の書籍も参考にして勝野のラーゲリ文学に迫りたい。
勝野金政『凍土地帯』1977.11
赤露脱出記からの摘要・・・。
著者勝野は「社会民主党系統あるひは国粋党系統の人達」のソヴェト観とは異なる立場である。スターリンの名を冠せられた白海ーバルト海運河事業では「運河軍と呼ばれた囚人即ち労働戦場で悪戦苦闘した百数十萬の労働者たち」は飢餓と寒気と闘いながら「強制的労働」に従事し「彼等の二割以上は死ぬか、不具になっている。」 勝野はこの「世紀の大工事」(と当時世界に向けて宣伝された)の仕上げであるソーロク築港工事に従事した。
勝野達囚人は西シベリアのマリンスクから「例のよやうに十六頓半の貨車に積み込まれ、護衛兵の銃剣の下に」転戦した。移動先は運河の北端にあたる白海の岸のソーロク港である。ソ―ロク(現ベロモルスク)の町は在来のフィンランド系の露人、ウクライナ等の集団農場を見捨てて来て有給製材職工となった農夫等(移民)と一万人程のラーゲリ囚人で構成されている。
勝野は、この地に、シベリアのマリンスクの国営農場=ソフォーズを経て移送され、そして白海運河の出口工事(築港と架橋)に従事した。
吾妻書房 1977年
まず『凍土地帯』に従って、マリンスキー・ラーゲリでの囚人生活を観察しよう。1932年夏、全員囚人列車から下ろされて収容所=ラーゲリに入った。書類の照合と身体検査が行われた。勝野は壊血病と診断され入院となった。医者も看護婦も囚人である。
労働可能と診断されると労働班に戻される。班長は長官に指名された若い囚人である。国営農場でのジャガイモの植え付け作業に従事した。農機が取り残した作業である。国営農場には派遣された2台のトラクターとコンバインがあった。
地下一米まで凍り付く凍土・黒土地帯で夏栽培できる作物を研究する農事試験所があり、囚人に交じって自由人の研究者もいた、という。
国営農場の仕事がなくなると囚人は例のごとく貨車で移動させられる。
「ラーゲリについては[ラーゲリ内で]数限りない流言蜚語が交わされていた。この世の想像を絶する魔界であると怖れられていたが、結局はロシアの一般社会とあまり変のない世界であることが私には次第にわかってきた。ラーゲリも亦多数のロシア人と少数の異民族の老若男女、軍隊の模倣が移植され弱肉強食」の階級社会である、と勝野は結んでいる。
西欧社会では、日本の国粋社会でも、ネガティヴ・キャンペーンが盛んであったが、勝野は『赤露脱出記』の序文で「私はソヴェト社会に於ける生活を誤なく写真に取る積で書いて行く」と作家としての立ち位置を明確にしている。
これが彼の作品『脱出記』と『凍土地帯』を1930年代前半期に限っていえば比類のないラーゲリ文学にまで昇華させた由縁である。後者は戦争をはさんで43年後に発表されたが、いささかも立ち位置、ものの見方を変えていない。稀有のことである。勝野の思想には転向ではなく回帰の評価がよく似合う。
1935年のキーロフ暗殺事件を端緒とするスターリン大粛清期をを対象にした作品でないことは留意すべきである。またソルジェニーツインの『イワン・デニーソヴィチの一日』(1962年)は終戦後のラーゲリ体験を題材にした作品である。
なお、わたしが訪問した時、金政さんは『赤露脱出記』の書名は本意ではない、じぶんは「ソ連より還りて」を考えていた、と言った。
さて、その『脱出記』を下敷きにして、逐一ことわらないが『凍土地帯』を援用しながら、ソーロク築港の現場の実相を追う。1933年9月勝野(仮名 畑)たちは、白海運河完工式を機に第2次5ヵ年計画と軍備増強計画に組み込まれたソーロク築港の工事に従事した。
白海運河工事 1932年
列車で1か月かけて「到着するとすぐに身体検査、その結果に従って所属部隊,班、居住バラック等が決められるが、規定によってはじめは誰でも筋肉労働をやらせられる。
土を掘り、岩を削り、樹木の伐採もやる。測量は同じ囚人のドイツ人技師の指揮によって行われる。ノルマは過酷で、体力の劣る者のついてゆけるものではない。二、三日やれば疲労で立ち上がれなくなる。
そうなると、事務の出来るものはその方面へ、朝鮮人は床屋をやり、ユダヤ人は商品扱いの方面へまわされるし、元党員は教育担当、兵隊は警備にといった調子で普通の就職に似た配分がおこなわれる。」
「初め私は北洋へ流れ入る無名の川の岸で、河原の土砂を掘って手押し車で半キロの足場道を運搬する作業に従事させられたが、これは私にとって超重労働だった。これを続けたら過労死するだけだ。」
なんとかしなければと思っていたところ、運よくモーターを扱える者の募集があり、志願して採用されコンクリートミキサーの運転をすることになった。2ヵ月を過ぎたころ手をはさまれる怪我をして入院、手術となった。囚人医師の好意で医療の手ほどきを受け助医の資格をとり臨時診療所で働くことになった。
勝野は重労働から解放されただけでなく制限付きだが職業上の行動の自由を得た。ラーゲリの内の女囚バラックから外の街中や他の分点(ラーゲリ)の作業現場、事故現場まで、見聞、体験の世界を広げることができた。
そこで、ラーゲリの実相にできるかぎり迫ってみたい。
分点司令部指令による囚人の衛生・生活状態の調査、報告・・・。
ラーゲリ司令部(副長、教育部員、医務員=みな囚人)の下で勝野ら7人の調査員が指名され各バラックを調べてまわった。調べる方も囚人だから本音が聞かれ記録された。ただし長官宛の報告書は整理され無難になった内容となる。
・虱は伝染力の強い発疹チフスを媒介する。その検査で虱が発見されると、記録係がアネクドートを飛ばした。「皆さん何んと書きませう、肥えてゐたの?それとも痩せてゐたの?」「虱は肥満し人は痩せてゐる、と書きなさい、ナターシャ!」
・コーカサスと中央アジア(ウズベク、タタール、モンゴル等)の少数異民族は、ロシア語が十分に話せず、読み書きができないため、肉体労働にまわされたが慣れない労働と体験したことのない寒さに、想像を絶する苦労を強いられた。
ソヴィエト権力が遊牧と狩猟、放牧の文明に集団化を強制したため、各少数民族との対立が起き、民族の移動=「植民」と「犯罪者」のラーゲリ行きという悲惨な結果をもたらした。
・女囚のバラックの片隅に木綿の長い黒衣をまとった修道院の尼僧たちが座っていた。彼女たちの痩せた顔は青白かった。彼女たちは神を絶対化し、ソヴィエト政権を認めず、そのための労働を拒否し続けた確信犯であった。
彼女たちの供述書はいつも白紙だった。囚人に認められた諸権利(衣服給与、散歩、信書、接見等)は剥奪され、唯一あたえられたのは最低量=1日300グラムのパンと豚も食わないと嫌われたスープだけだった。それでも生き続けられたのは信者の囚人たちが密かに差し入れをしたからである。
・ほかにも労働を拒否した集団があった。ゴロツキ、コソ泥等の無法者たちである。働かなくても最低量のパンはもらえるので始終バラックで寝ころんでいた。配給された毛布、靴、上着、シャツ、ズボンをこっそり町でウオッカに替えて飲んでしまい、裸を口実に作業に出ない輩もいた。
かれらとて元は農民、商人とかであっただろう。政府の第1次5ヵ年計画で財産と生業を剥奪されて落ちぶれたのである。
・老廃囚バラックに50人弱。「パンも600グラムで充分です。労働も夜番や小使いになりましたから困難ではありません。」 畑は診療を通じて彼らと顔なじみであった。それぞれの違った生活歴、逮捕歴を詳しく聴いているが割愛せざるを得ない。
勝野は第三分点の調査には関与していない。わたしは運河本体で重労働に従事する土工、石工の生活実態を詳しく知りたかったから残念である。第三分点は筋肉労働のラーゲリである。高い板塀に囲まれ要所の物見櫓には監視兵が立っている。そうしたラーゲリの一面を勝野は知人の朝鮮人伯君に語らせている。
伯君は運河の土工をやっていたが突然山地の薪伐り分点に例のごとく汽車で護送された。そこには重罪者と無頼漢等が1300人ほど収容されていた。
零下30度にもなる山中の労働とバラック生活は拷問にひとしかった。ノルマを達成した者(達成すれば1000グラムの黒パンにありつける)は一人もいなかった。
どうせ飢えるなら労働しない方がましだと、無頼漢たちは徒党を組んで労働を拒否して賭博にふけった。労働拒否者向けの300グラムの黒パン配給券、衣類まで賭ける者もいた。「決死的に団結する彼等には護衛兵ですら手を出し兼ねる」ということだった。
極度の栄養不足で凍死または餓死するものが続出した。2カ月ほどで最初の1300人は500人足らずになった。この悲劇を知った司令本部はGPUの軍隊を出動させ山の分点の責任者30余名を逮捕し極刑に処したそうだ、と伯君は語った。
ところで伯君はどうして生き残ったのか、という疑問が湧いてくる。かれは死体埋葬処理という「楽な」仕事の組頭を命じられ黒パン1000グラムの配給を受けたのである。
新労働制度=「植民」の誕生・・・。
文豪の名を付けた囚人列車が1200人の「移民」家族を載せてソーロク駅に到着した。畑は病人の診療と処置を担当した。
「何の何兵衛外家族何名、六時間以内に荷物を全部用意し、ゲ・ペ・ウの指導に従へ!」と[命令だけで]逮捕もしなければ監獄へも入れない。條文もなければ裁判もなく刑期もない。1932年8月7日の政治局決議だけである。植民制度は非常に簡単である。こうして彼等はマキシム・ゴリキーに乗せられて来たのである。
この新制度では農民たちは法律上は自由人であり住居も給料も保障されている。「然し同じやうに住宅食料品として大部分は差引かれるので、残るものは植民として無期の労働義務だけである。」
かれらはGPU管理下にあり居住の自由はない。かれらは明日から極寒の地で「斧と鋸とをもって雪の上に立つ森林労働者となるのである。」 ソ―ロク築港事業に連なる極地開発事業である。木材は穀物同様輸出されて重工業化の資金源となった。
ここまで書いて、スターリンの強制労働政策が懲罰目的でなかったとは言えないが、さりとて「矯正」目的ではさらさらなかったことを教えられた。それは彼流の合理的な人的資源活用を意味する安上がり、人命軽視の労働政策であった。
ちなみに首都から北極海に至る長大なムルマンスク鉄道は第一次世界大戦のオーストリア捕虜が建設した。ソーロクの工事現場でそのときの犠牲者の遺骨が出るのは珍しいことではなかった。
60万弱の日本人「捕虜」がシベリアのラーゲリに移送され1割弱が死亡した。また戦中のドイツ人捕虜はその10倍に近い。ソ連の戦後復興とインフラ整備に捕虜たちがどれだけ寄与したか計り知れない。
一方、囚人たちはどうか? 更なるノルマ達成競争に放り込まれた。成績優秀なウダルニク(突撃作業隊)には現金、衣食の改善あるいは刑期短縮が褒美として与えられた。そのお陰で勝野は刑期を短縮されて1934年6月に自由の身となった。
本部の庶務課に刑期終了・放免の書類が来たことをいち早くわざわざ勝野に知らせたのは庶務課の知らない女性だった。絶対ひとに言わないよう重ねて念を押したうえで内容を全部読んだことを伝えた。庶務課に行くと皆が一刻も早く伝えたい気持ちでいることが分かった。普通ではありえないことだが係長が進んで事件書を取り出してきて見せた。
ソ連官僚社会は規則づくめの無機的な監視・密告社会として灰色一色に描かれるのが普通である。有刺鉄線で隔離された社会であるラーゲリはなおさらである。勝野はそこにも世界共通の喜怒哀楽が隠れていることを文字通り表現した。勝野はヒューマンなインターナショナリストの作家である。
勝野は1983年末、死の床で遺書に綴った。トルストイのヒユーマニズムとジャン・ジョーレスのインターナショナリズムを「一本にこの勝野は今まで生きて来た。」 ヒユーマニズムインターナショナルよ、永遠なれ!