自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

「血盟団」事件/自己犠牲=自己実現/天皇親政のユートピア

2018-03-13 | 体験>知識

民衆のためとおっしゃって家をかえりみない貴方、私たち母子は大衆ではないのですか。(井上志ツ)

  中島岳志『血盟団事件』 2016年  文藝春秋

関東軍の独断専行と満州国の建国(1932年3月1日)により軍国主義はようやく復活した。
1931.11.9 京大国粋主義団体・猶興学会、学内外で活動活発化(3か月後血盟団事件に3名連座) 
1932.1.10 国防献金による献納機、代々木練兵場で愛国1号、2号と命名 献納機ブームのはしり 終戦までに陸海軍あわせて1万機献納 
2.9 「一殺多生」血盟団事件 元蔵相・井上準之助暗殺
3.5  三井財閥総帥・団琢磨暗殺

3.18 大阪で国防婦人会発会 軍の指導で大日本国防婦人会に発展 白エプロンにタスキ掛けの制服 
5.15 「問答無用」5.15事件 海軍青年将校、犬養首相暗殺
10.3 満州へ武装移民団416人出発
12.19   全国132新聞社、満州国独立支持の共同宣言発表

テロリズムは国により土壌も背景も異なる。これから考究する井上日召の思想と行動は国体擁護を看板に掲げる従来の国粋主義運動(右翼運動)とも根本的に違う。海軍青年将校の国家改造運動と相互に響き合い、重なりそうだが反発し合う。

日蓮主義僧・井上日召は、みずからの境遇と国家・社会の閉塞的状況に煩悶して修行と研鑽を重ね、壮大な精神世界と小さな信奉グループを造り上げた。グループは主に地縁でつながる困窮青年たちでそれぞれ健康上、家業上のハンデを背負っていて、人生問題で煩悶していた。中心となった布教地の名をとって大洗グループ[茨城県]と呼ばれるようになる。
始めは法華経を読誦するだけだったが次第にオカルトじみて憑かれたように霊力を発揮し、病直しもした。一切衆生の「救い主になれ」「立ち上がれ!」と天の声を聞くようになり、山から降りて世直しに傾斜して行く。それは勤行、地道な啓蒙活動だったが、かれのカリスマ性に傾倒した海軍青年将校たちのリーダー藤井斉大尉の暴力革命、起爆薬の考えに同調して行った。

日召の哲学から見て行こう。
それは太陽系宇宙をモデルとしている。太陽「永遠の本体」と遊星「流転の形状態相」の運行は、俳諧、分子生物学に出て来る言葉でいえば、不易流行、動的均衡である。それぞれが役割を担いながら対立がない。一体で一つの宇宙である。しかも永遠の生命を得ていて不滅である。
日召は、生物とすべての事象が「常住に変化流転を続けて居る」、人間も「絶えず同時同処生死を継続して居る」という哲学を得て、生死一体、破壊即建設をモットーに掲げ、政治の「新陳代謝」にのめり込んでゆく。驚きだ、日召は時代を越えて最先端の知見とも渡り合える哲学をモノにしたテロリストだった。
「大自然の法則」にしたがっている日本の君臣関係もまた古来上下一如、一体であり、万世一系は世界無比である。しかも天皇は、天照大神が皇孫に授けた天壌無窮の神勅と三種の神器によって「現人神」であることが明らか*である。日召は、大自然の法則に基く「天皇道」と分けへだてなき君臣関係を日本の国体とし、日本主義と呼んだ。
*明治維新を相対化した日召が明治維新によって造られ定着した現人神を絶対化するのは論理矛盾である。
日召は、日本主義に生きよ、と呼びかける。さらに、㋐世界無双の日本主義だけが世界統合の原理たりうる、㋑「天皇の理想は此の精神に依って全人類大平和の理想社会建設にある」と言い切っている。これは八紘一宇[天下一家]の思想の言い換えであって日召のオリジナルではない。
ところが「人間生活の殆んど全部が経済的生活となって来た現代は遂に黄金万能の世となって大義[日本主義]は将に滅せんとし」「右傾派は個人闘争、左傾派は階級闘争の連続」でいずれにしても人類の理想は出現しない。

では日召の革命観はどうか?
その特徴は対立概念からではなく一体観から発しているところにある。「それでまず、自己革命をやれというわけだ。社会だけを革命するんじゃなく、自他もろともなんだ。国を愛し、社会を愛し、すべてのものを愛するがゆえの革命なんだ。革命とは、大慈悲のある者だけが行ずる資格をもつ菩薩行であるとも言えるのだ」 革命は仏行である、とも言っている。
「大衆の悩みを己が悩みとし、苦しみを己が苦しみとする。・・・正義とは、大衆の幸福である」、決して、革命が権力奪取の手段となってはならない。この革命観は西郷隆盛の敬天愛人の思想と共通である。それは日召をほかの国粋主義者から峻別する指標となっている。
たいていの革命は大衆に奉仕するという信念または建前から出発する。泥田に咲く蓮の花が美しいように民衆に出自をもつ日召の信念もまた純白である、かどうかは、その後の生き方によって検証されるべきである。

内外で軍部、国粋主義者が国家改造の行動を起こし始めた。
満州事変のちょっと前の1931年8月31日、海軍グループの藤井斉大尉が大川周明の元から「凄い情報を握ってきた」   この秋満州で中国人をそそのかして日本人の阿片商人を2,3人殺させる。日中両国で世論が沸騰するのに乗じて大川周明と陸軍が革命を起こす。藤井はこう報告し、自分たちも合流する約束をしてきたと言った。
井上は激怒した。大川も藤井も「大衆の為」とよく言うじゃないか。貧乏ゆえの売薬人を殺すなんぞ「もう革命精神が全然違う、そう云う者が権力を握った時には決して日本を善くせぬ、・・・必ず日本を毒する」と井上は藤井を罵倒し計画への参加を拒絶した。
9.18満州事変を機に国内でも事変拡大に消極的な若槻内閣を打倒して軍部内閣を樹立しようとするクーデターの動きが加速したが、事前に計画が漏れて橋本欣五郎中佐、長勇少佐らが検挙され事件は闇に葬られた。これを十月事件という。結局この流れの中で若槻内閣は前稿で観たとおり総辞職に追い込まれ親軍的犬養内閣が誕生した。陸相には陸軍青年将校のカリスマ的存在だった荒木貞夫中将(十月事件で首相に擬せられていた)が就任した。
陸軍青年将校に期待して十月事件の周辺にいた日召は陸軍将官、佐官と北一輝一派、大川周明一派の権力志向(自分たちの名を連ねた閣僚名簿を用意していた)に呆れ、見切りをつけて大洗グループ中心の直接行動、要人暗殺計画を準備し始めた。
満州事変の拡大は日召グループから海軍青年将校を奪って戦地に送った。随伴した上海事件で、藤井中尉が空母「加賀」から発進した搭乗機を上海上空で撃墜されて戦死した。
後から日召に傾倒した学生グループ、東大・京大の学生の主軸は、鹿児島七高の出身で法華経信仰に惹かれたというよりか日召の救世主を想わせる生き方、自己犠牲的精神に心酔したようである。彼らは大洗グループのようには自己同一性に徹しきれなかった。自己矛盾との間で葛藤し、拳銃の引き金を引くことをためらった学生もいた。

なぜ革命を目指す運動が個人テロに収斂されていったのか。
日召グループのストイシズムがそうさせたと考える。日召は、欲望の排撃ではなく欲望の国体[国家ではない]への還元を唱え、人はそれぞれの欲望をただ一点国体に捧げて生きることが個々の生の充実であり自己実現である、革命は自己革命から発すると考えた。この厳しいフィルターを通り抜けた者だけが革命に参加する「資格」がある、と言っている。
これでは同調者が少数に限られる。宗教的神秘を求めた信者は離れて行く。世俗的野心の抜けない将校は背を向ける。いきおい指折り数えることのできる少数の構成員で革命の烽火をあげるしかない。当然少数だから後続を期待する「捨て石」の役割を果たすことになる。それはまた自分を犠牲にすることである。
自分たちは宇宙の法則、天道にしたがって生きているから国体[=現人神天皇=自己]のために死ぬことは「永遠の生命」を生きることである、という揺るぎない信念がかれらにはあった。したがって自己犠牲は自己実現になる。しかも「自他一体」、相手だけ殺すのではなく自分も死ぬのだ。自他をリスペクトしていることをかれらは自負した。
日召は「犠牲的捨て石」「起爆薬」となって支配の「外殻」[上部構造]を破壊しようとした。破壊はそのまま建設であると言うにとどめて、その後のヴィジョンをあえて提示することをしなかった。それは、賢しらな心で「口先」「小手先」を弄することである、また革命参加者の功利心を呼び覚まし革命に亀裂を持ち込む、と言って建設構想を提起することを忌避しているが、実際のところ彼自身何もイメージできなかったようだ。二人の農本主義者、橘孝三郎の農民組合主義と権藤成卿の自治制度論、国家主義ならぬ自治主義に期待している。
日召が理想とした国体は君民一体の天皇親政ということになるが日本の歴史においてそういう時代は一度もない。日召も言及していないはずだ。ありきたりの復古主義者でないところがよい。日召は「戻る」のではなく「今」の自己を自然道に従って生きることを実践した。
日召たちは、昭和天皇の即位の礼のために周囲の零細業者が清掃されたことに憤慨した。この事実からの類推に過ぎないが、このころ盛んになった上辺だけの忠君愛国運動(学校に設置された御真影と教育勅語を収納する奉安殿に登下校時に児童生徒に最敬礼をさせた、とか)も醒めた目で見ていたのではなかろうか? 調べてみたい。
革命の暁に天皇親政を幻視して、日召は天皇と国民の間の中間介在物とくに支配階級とその代表者「君側の奸」を取り除こうとした。取り除けばおのずと国体本来の姿、天皇の大御心と天下万民平等の世が現れると信じた。

日召は、暗殺対象として政党:犬養毅、重臣:西園寺公望、財閥:団琢磨、官僚:井上準之助など、いずれも政財官界の大物を挙げた。特権階級代表の命を狙うのは革命の烽火をあげるためだったが、日召の想いは官僚制度抜きの国体だった。
かつてソヴィエト・ロシアでボルシェヴィキ主導の下で労働者、兵士、農民の委員会による統治の試みがおこなわれた。レーニンがこの課題と実際に格闘して力尽きた最初の革命家となった。だがロシア革命では、革命=委員会(ソヴィエト)、と等置できるほど、労・農・兵ソヴィエトという自治組織、物理的根拠があった。日召には何も根拠がなく、天皇親政はユートピアに過ぎなかった。夢想に基づく要人テロであれば、その評価もおのずと定まってくる・・・。

私は原史料を読まず勉強不足のまま中島岳志氏の本格的な研究書を読み込んで本稿を書いた。だから描かれた日召像は二重のフィルターを透過していることを断っておく。歴史的人物の像は描いた作者の主観を免れないので、こんな日召像もあり、と思う。