戦争中ブラジル移民は日本国内以上に「天皇教」信者であり報国心が強烈であった。
興道社が結成され布教宣伝の中心になった。
帰国報国と大東亜共栄圏への移住を目標とする一方敵性産業撲滅運動を展開した。
当時のブラジル政府にとっては非合法団体であり非合法活動であった。
パラシュートの材料になるとして養蚕農家が、爆発力を利用されるとしてハッカ農家が
暴発者に襲撃されたこともあった。
やむなくその産業に従事したとはいえ戦時ゆえ米国向けに高値で売れた。
興道社は敗戦直前に臣道連盟と改称され、暗殺事件発生後はテロ集団の代名詞に
されてゆく。
一般に事件報道では権力もマスコミも一括りにしがちである。世論もそれになびく。
臣道連盟の中から過激な狂信的若者が生まれたのは疑いないが会員というだけで
多くの者が検挙された。
当時臣道連盟の名は広く知られていた。
7,8歳だったわたしも知っていた。
だから父も会員だったかもしれないと想う。
「勝ち組」も「負け組」も100%元は皇道の勝利を信じる「清い心」の持ち主であったが、
8月15日を機に敗戦を信じる者は「汚れた心」を抱いた国賊とみなす若者によって天
誅の対象になってゆく。
最初に狙われたのは興道会創始者たちで移民社会に敗戦を認識させる指導責任を
感じて説得書に署名し配布した有力者だった。
いらん啓蒙活動で刺激しなかったらその後のテロ事件は起きなかっただろうという意
見もあるが、かれらが配った、いや正しくは伝達した、のは日本政府が赤十字を通じ
て依頼した通達書(天皇の終戦詔書と東郷外務大臣のメッセージ)であり、本来領事
館があったら領事がやるべき仕事だった。
襲ったのは、ラジオ、教育がなく無知で貧乏な「奥地」(といってもサンパウロ州内)の
若者とする見解が多い。
たしかに成功者、有力者ゆえに「上からの目線」に反発を買い、より強く「裏切り」を怨
まれた面があったようだ。
狂信的な若者には認識運動が祖国の敗戦を喜んでいるように映った。
かれらは自虐史観とかいう今日的な括り方は知らなかったが気持ちは通底している。
そしていちばん我慢ならなかったのは変心、「汚れた心」による皇室と日の丸侮辱だ
った。
日系人にかぎってそれは大なる誤解である。
日本移民100周年の2008年、訪伯した皇太子は日の丸の旗で大歓迎された。
その会場に上記の署名筆頭者日伯産業組合中央会理事長脇山元大佐を撃った日
高徳一がいた。
同じく記念訪伯した自衛隊練習艦隊も皇太子の前で観閲行進をおこなった。
日高は殺人行為は悪いというが今なお信念の正しさを信じ艦隊と皇太子の訪伯をそ
の証しとしてようやく安堵を得た。
「ああやはり見捨てられていなかった。想いは通じた。」
8/15・16 22:00 標記特別番組をぜひ観てほしい。
4年前の今日、このブログで「勝ち組と負け組/1946年 移民社会の激震と対立」を
書いた。
今、この広報を書き込むに当たって、「勝ち組対負け組」のテーマが日本においても
消し去ることのできない今日的問題であることを思い知らされて、あの戦争の遺した
傷痕の深さに驚いている。
TVの放送予告では「終戦記念特別番組」のサブタイトルがつく。
わたしは敗戦による終戦だから「敗戦記念…」と書き始めて、はたとすわりが悪いことに
気付いた。
戦後70年目に入る日本で「勝ち組」の心理が街頭のみならずネット上、ペーパ上そして
TV画面で、比喩的に言えば「日章旗を振り廻している」。
わが生地ロンドリーナの「勝ち組」についての追記
新しい国際移住地で日本人の密集度も低かったので運動そのものは顕著でなかった。
戦時中弾圧、排斥も子どものわたしは感じなかったが、それでも密告により警官による
家宅捜索を受けた。
密告者はうちのコロノ(雇用農)で「ガイジン」だった。
両親が一番心配したのは「御真影」(昭和天皇・皇后の写真)とピストルを押収されること
だった。
それらは離れたところにあったコーヒ豆倉庫に保管されていたので発見されなかった。
数日後そのコロノが警官に連れられて去るのが見えた。
我が家が離伯後の1953年、ロンドリーナで桜組挺身隊が結成された。
集団帰国と国連義勇軍として朝鮮戦争参戦を目標に掲げた。
信じられない。たまたま移民が多い同市に集結したということでないか?
最後の「勝ち組」運動として歴史の一齣にも値しないが、これはもはやカルトである。
かれらはそのごサンパウロ郊外サントアンドレの日系養鶏場で婦女子をふくめて100人
以上で集団生活をし、1955年2月3日、たすきがけで軍歌を歌いながらのぼりを押し立
てて最初のデモ行進をし耳目を驚かした。
幟のスローガンは「40万同胞総引き揚げ」要求だった。
最後のデモは5月16日でサンパウロ市総領事館前に座る込み警察沙汰になって終結し
た。
共同生活は軍によって強制解散させられた。
最高幹部は養鶏場本宅に寄宿していて黒めがねで素顔を隠した紳士であたかも天皇の
ように近寄りがたく「先生様」とよばれ崇められていた。
{朝香宮」を騙る詐欺団の顛末
名うての詐欺師川崎三造と加藤拓治はかねてから「天皇の特使朝香宮」を騙り勝ち組
から献上金を騙し取っていたが、1953年頃からサンパウロ州内シッポー農場で日本
帰国に備えて修養と称する集団生活を組織していた。
1954年幹部による暴力事件で警察の捜査が入り大スキャンダルに発展した。
逃げ出した信者による告発が露見の発端だった。
200人の団員が周囲から隔絶した外出禁止の農場で新聞のない窮乏生活をおくって
いた。
財産を献上した上無償で野菜作りに従事していた。
宮様こと加藤に娘まで献上した信者もいた。
詐欺団の末路はやはりカルトだったか。
大騒ぎになったスキャンダルは両名の不起訴で終結した。
莫大な資金で非日系弁護士の力を借りたらしい。
文責は筆者にあるが、事実関係の多くを下記の連戴記事に負っていることを感謝を込
めて記す。執筆者外山脩二氏の執念の研究に敬意を評したい。
http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-toyama1.html
受験校から意に反して予備校に。
別ルートで登っても目指す頂上は前回と同一だ。
代わり映えしないことには興味がわかない性質だ。
あれほど勉強好きだったのにどうも気が乗らない。
精勤に授業には出たが、ただ聴くだけで積極的に取り組むことはなかった。
興味関心を変えることでどうにか学生としての面目を保った。
まずは英語。
コナン・ドイル作の推理小説シャーロック・ホームズシリーズを1冊ずつ買って来ては短編なので毎回一気に読んだ。
不明の単語があっても辞書を引かずに読み通した。
読み切ると達成感が残るので続けることができた。
結果的に長文の読解力と自信がついた。
いまでもストーリを憶えているのは「まだらの紐」だ。
つぎに世界史。
予備校といっても京都に3校、多くても4校あるだけで、すべてローカル校。
今のように有力校が有名教員を擁してレベルの高い競争を全国で繰り広げるといった状況ではなかった。
世界史の新堀?先生の中国史は圧巻だった。
中国史は土地の集中とそれに起因する流民化、北方遊牧民の興隆と侵攻を軸に国が乱れ王朝が交代することを押さえたらモノにできると教えられた。
先生はマルクスの歴史哲学、唯物史観に沿って授業をされたので眼から鱗、知的好奇心を大いにそそられた。
歴史は階級の利害関係によって動き、動きの方向と大きさは力関係によって決まるとマルクスの哲学から学んだ。
世界史の解釈が面白くなった。
自分の中でこれまでと違った思想が芽生えはじめた。
あとの授業は成績が落ちない程度に流すだけだった。
休み時間の雑談が楽しく遊び友達が何人もできた。