自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

労働をいかに組織するか/レーニンとシモーヌ・ヴェーユ/『10月革命への挽歌』から

2019-06-28 | 革命研究

100年以上前、第一次世界大戦下の革命ロシアは「パンと平和と土地」を求める民衆の支持を得て初めてプロレタリア政権を樹立した。だが勝利の原因はすぐさま政権の基盤を揺るがす原因になった。
対戦国ドイツは革命政権が発した平和布告を受けて講和交渉に応じたが交渉が決裂すると進撃して現在のウクライナ、バルト三国を占領し首都ペトログラードを脅かした。レーニンは領土・接壌よりもソヴィエト権力の安泰をえらんで屈辱的なブレスト-リトフスク条約を結んだ。一部のボルシェヴィキと左翼エスエルは対独即時革命戦争を主張した。
英仏等の同盟国は一方的に同盟から離脱して戦線を放棄したソヴィエト政府を利敵行為として非難した。ソヴィエト政府が旧政権の債務不払いと秘密条約暴露を宣言したことは同盟国側をさらに刺激した。ロシア革命が列強に与えた最大の衝撃は共産主義政権の誕生そのものであった。日米をふくむ列強は孤立したソヴィエト・ロシアに対して四方から革命干渉戦争を仕掛けた。
「パンをよこせ」がソヴィエト誕生の一因であるが、都市労働者は飢え続けた。当初は農民とのあいだで工業製品と穀物の物々交換でしのいだが、内戦の渦中でほどなく万策尽きた。レーニン政府は食料独裁令を発し穀物の強制徴発に踏み切った。
労農兵ソヴィエトは普通選挙の議会、市会ではない。工場、農村、兵舎のそれぞれの総会と委員会である。最上位の政府機関が人民委員会議であり、一般に労農政府とよばれた。工場代表では共産党(ボルシェヴィキ)が強く、農民の間では社会革命党(エスエル)とその左派が優勢であった。
当初ボリシェヴィキと左翼エスエルが政府を構成したが、ブレストの屈辱的講和と食料独裁令に反対して左翼エスエルが政権から離脱した。労農同盟の政体は名ばかりになった。
対価なしの武力による徴発を共産党は戦時共産主義と称した。村ソヴィエト内に(あまり効力を発揮できず短命に終わった)貧農委員会を設けて優遇した。農民を富農-中農-貧農に分類して農村に階級闘争を持ち込んだ。農民がみずからのイニシアチヴで復活させた土地社会化(共同体所有)路線に対する上からの土地国有化(国家に土地、労働、穀物等の自由処分権を集中すること)路線の挑戦であった。
農民の過半を占める中農層は、「自己の生存に必要なだけ耕作する権利と自己の労働の結晶を処分する権利は絶対に他人に譲渡できないとする本源的エゴイズム」から、共産党が押し付けるコムーナ(農業コミューン)と穀物徴発に猛烈に抵抗した。共産党はこれを中農のプチブル根性に帰したが、私見では「共同体中農の魂は根源的労働権であり、資本主義的個人所有の意識をまだ識らない」というのが真実である。

こういう状況でも共産党政権は列強に支援された反革命軍に勝利した。それについては当時多くが語られたが、基本的には土地革命によって貴族、地主階級が打倒されたことが勝敗を分けたと云える。中農層はしばしば左右にぶれたが共同体所有を守るため本能的に反革命を避けた。シベリア戦争で観たとおり、干渉軍と白衛軍は占領軍、略奪者として振る舞い、地主を復活させ、エスエル主導の市会、民会を潰した。共産主義は嫌いだが侵略と反動は耐えられない、これが市民、農民の本音だった。

内戦がヤマを越えた1921年春、レーニンは、革命の中核部隊であったクロンシュタットの水兵叛乱と飢えた農民の反乱を容赦なく鎮圧する一方、穀物徴発を10%の物納税に切り替え、小規模市場経済を容認する新経済政策(NEP)を実行した。これにより農民反乱は鎮まりどん底にまで落ち込んだ経済は急速に回復してゆく。

レーニンは翌年脳卒中で倒れ執務から離れたが、それまで内戦中も、国有企業の10%台まで落ち込んだ生産力の現状打開のための方策を論説と演説で訴え続けた。主なテーマは労働をいかに組織するか、である。

わたしはまずレーニンが目標とした生産力と生産関係━国家資本主義‣社会主義━とは何かを研究した。
レーニンは、ソヴィエト権力のもとでは「社会主義とは電化と記帳である」という簡明なスローガンを多用した。
第2次産業革命で繁栄を築いたアメリカの生産力レベルが目標であり、それがソヴィエトの無階級生産関係によって達成された状態を社会主義と考えていたと思う。自動車王フォードが普及させたエンジンで動くトラクターの力を借りればロシア農民の小商品生産を社会主義に改造できると信じていた。
アメリカの生産力とは何か? 電化(モーターとエンジンで動く大小多種の機械)に代表される設備と作業の規律化・効率化である。歴史に残る代表的成果は、フォード・システムと呼ばれる流れ作業方式で大量生産された単一モデルT型フォード車の普及である。レーニン晩年時の生産台数は、1909年には1万3000台弱だったのが1921年には約93万台、1923年には最高の約192万台、全世界では201万台に達した。
余談だが戦後、私は幼少時に同形の車に乗ったことがある。エンジンがかからないときはクランク形のスターティング・ハンドルを車の前部から差し込み手回しでエンジンの回転にはずみをつけて始動させた。女子供では無理だと言われていた。

 
1924 Model T Assemly Line 
出典:https://www.assembly.mag.com/articles/91581

レーニンは、ハード面については外資、とくにアメリカ資本に期待をかけた。ソフト面ではテーラー・システムの導入を考えた。フォード・システムは識られていたがロシア工業の惨状には合うべくもなかった。
燃料、食料が底をついて鉄道、工場がほとんど操業停止状態に陥ったロシアでは既存の設備、道具を使って一から労働規律を起こす必要があった。工場は集会の場でもパクリの場でもない。そこで、とレーニンは言う、「勤労者のあいだでの規律の創出、労働の基準や労働の強要度にたいする統制の組織」と「特別の産業裁判所の設置」が焦眉の課題である。そしてレーニンは帝国主義論執筆に際して研究済みであったテーラー・システムの実験的採用、ノルマ局の設置と出来高払い制の導入を推奨した。
レーニンは『帝国主義論』では「幾多の種類の完成品がえられるまでの一貫した原料加工のすべての段階が、一個の中心から管理されるとき」それは「生産の社会化」である、とテーラー・システムとフォード・システムを社会主義に向かう技術的進歩として肯定的に捉えている。だが階級制度のもとではテーラー・システムは「技術と惨苦」である、とも言っている。
テーラー・システムは、労働の動作研究と時間研究(ストップウォッチ、豆電球とカメラ、映写機を使った)、最大ノルマ設定、差別賃率出来高払制、機能的職長によるノルマ管理体制を柱とする。テーラーは、金の卵の多産を求めるあまり動作の遊びをすべて省いた最大ノルマを設定したうえ、「成功にたいする高い支払い、失敗にたいする損失」を適用して、金の卵を産む鵞鳥の健康を害した。労働者はこれを「殺人制」と言った。労働組合の反対は議会を動かし官営企業では「科学的管理法」は禁止された。工員のモチヴェーションが低下し離職、欠勤が多くなり生産に支障をきたすようになって、弟子たちは修正、改善に追われた。
ソヴィエト・ロシアが導入を試みたのは労働規律と出来高賃金制の穏やかな仕組みであった。生産の流れを復活するためのごく初歩的なアプローチであった。そのこと自体は取り立てて議論するほどのことではない。だが以下に示す近代的労働における人間疎外の普遍的[ゆえに今日的]課題がなおざりにされた。
テーラー・システムとフォード・システムにはレーニンが合理的進歩だと着目した発想があった。それは、個々の労働、機械、原材料、製品、工程を分析、標準化し、全工程を総合的に同期化して工場全体の一貫流れ作業工程を実現するという、かつ、それを「一個の中心から管理」するという思想であった。テーラー・システムは対象が主に機械的単純労働に限られたため適用できる業種も工程も少なかったが、親方(万能熟練工)による成行管理を、計画部による管理に替えて、労働と管理を完全に分離した点でフォード・システムと通底している。
この合理的システムでは労働のスキルは機械と工程に置き換えられ、工程の管理と作業速度の決定は、テーラー・システムでは複数の機能的職長(オペレータ)に、フォード・システムでは機械装置=コンベヤーに委ねられる。アメリカの労働者はコンベヤーをいみじくもペースメーカーと呼んだ。全工程を創り運営するのは頭脳部門である計画部である。
この流れの先に現在のオートメーション、コンピューター、ロボット、人工頭脳がある。19世紀から20世紀にかけてのそれ相当の思想家、科学・技術者はマルクス、レーニンに限らず、この流れの行先を予想していた。ただ彼らの誰もこの流れの現場に身を投じて経験したうえで論じた者はいない、[普遍的不幸からの]解放運動家シモーヌ・ヴェーユ(フランス)をのぞいては。
マルクス:「機械の自動体系」には「どんな社会形態、ありうべきどんな生産様式のもとでも」必然的に「生産過程の暴力」が存在する。
「労働者たちは生きた付属物としてこの機構に合体される。機械労働は神経系統を極度に疲れさせるのであるが、他方ではそれは筋肉の多面的運動を抑圧し、また一切の自由な肉体的および精神的活動を不可能ならしめる。労働の軽減さえも責め苦の手段となる、というわけは、機械は労働者を労働から解放するのではなく、彼の労働を内容から解放するからである」[マルクスの革命論を批判してやまないヴェーユも自分の体験からこの労働観は激賞した]
シモーヌ・ヴェーユ:この「労働手段の斉一な歩調への労働者の技術的隷属」はひとが美とか「善なるもののためではなく必要のために働いている」かぎり、幸福という「究極性によってではなく、必要によって支配されている」かぎり、「完璧な社会的公平をもってしても」消すことはできない。
工場の中へ足を踏み入れたことすらないトロツキー、レーニンは「労働者たちにとってどういう条件が屈従と自由をつくりだしているのか、その真相はまるでこれっぽちも知っていない有り様なのよ━━そう思うと、政治なんて、ろくでもない冗談ごとのようにみえてくるわ」
若き25歳の哲学する活動家シモーヌ・ヴェーユは1934年末から断続的に8か月間パリの電気部品工場、ルノー自動車工場等で身をもって体験した労働の真相を労働者の生の言葉で語った・・・。
「一たん機械の前へ立ったら、一日に八時間は、自分のたましいを殺し、思考を殺し、すべてを殺さなければならないの。こういうものは、速度をおとすからよ」
「変化の唯一の要因は命令である」  とつぜん下される命令は、それはそれで「ちょうど、メスをあてられる前に肉体がちぢむように、思考もちぢんでしまうわ。人は〈意識を持つ〉ことができないのよ」

「重要な事実は、苦しみではなく、屈辱である。
おそらく、この点を、ヒットラーは自分の力をつくる足がかりにしたのだ。(愚かな〈唯物論〉が・・・しているのとは反対に)」
彼女がなぜか省いた・・・の箇所を、私なりに彼女の思索に基づいて埋めてみる。
産業革命がもたらした当時の労働者の惨苦はアナーキーな労働‐革命運動の原動力になった(熟練の誇りがあったため)が、「労働者の生活はマルクス時代よりよくなっている。[・・・]けれども、労働者の解放に対立する障碍は、当時よりもさらに過酷である。テーラー・システムおよびその後の方法は、労働者を以前よりもはるかにいっそう、工場における単なる歯車装置の役割に追い込んだ」 そこから生じてくる反動は「反抗ではなく、服従である」、それがナチスを支えた、と彼女は言わんとしているのだ。明言はしていないが、問われたら先進国での革命は不可能・・・と答えたにちがいない。事情は異なるが中国では毛沢東が頓挫した都市革命路線からの転換を主導しつつあった。


当時唯物論しか許さなかった共産党独裁のソ連では経済5ヵ年計画が国を挙げて進められていた。ロシア版テーラー・システムともいうべき「スタハーノフ運動」が大々的に展開された。「人生は楽しくなった。労働は楽しくなった」という労働英雄のプロパガンダの彼方には無数の強制労働収容所ラーゲリが造られた。

シモーヌ・ヴェーユは「自分自身では沈黙する以外に手段を持たぬ‘‘不幸’’に代わって」論壇で学園で集会で発言し続けた。「不幸について考えるためには、不幸を肉の中の釘のように深く打ちこまれたものとして、持っていなければなりません」という心境に達したとき、そう、彼女は、不幸と共に生きることによって、十字架上のキリストに共感し帰依したのであった。
教会と政党には始終批判的だった。彼女は国内の政治、労働運動にかかわっただけでなく、総選挙でナチスが勝利したドイツ、ファシストが支配するイタリアを見て回り、スペイン内戦には直接参加した。ロンドンではド・ゴールの亡命政府「自由フランス」の本部で寝食をわすれて働いた。1943年8月24日夜、イギリスのサナトリウムで衰弱と拒食が合わさって病死した、享年34歳。ナチス占領下の「フランスの苦しみ・・・・・」が最後の言葉となった。

 創元新社  1960年