自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

イエズス会グアラニー族布教区の興亡/前史 グアラニー族とスペイン人の出会い

2024-05-24 | 移動・植民・移民・移住

   同成社  2001年

当ブログ記事もようやくイグアス―瀑布の滝下流域、イエズス会士の指導で築かれたグアラニー族の教化村の世界に到達した。最大の大河パラナ川を挟んでパラグアイ川とウルグアイ川を配した流域である。大西洋への出口は、スペインの最初の遠征隊(1516年)に太平洋に通じる水路と間違われたラ・プラタ川(銀の川)である。


イエズス会ミッション遺跡群 Londrina とイグアスーの滝も確認できる。
 
スペイン人遠征隊は三度パンパスの先住民との抗争に敗れて撤退した。残留して上流に向かい適地を探求していた一隊が、首長の許しを得てパラグアイ川東岸Távaに砦を築いた。1541年、ブエノスアイレスを放棄した残留者を加えて、役所と教会を設けてアスンシオン市となった。その地は各地へのスペイン人進出の根拠地となり、のちにパラグアイの首都になった。ブエノスアイレスでは残された馬が自然繁殖しやがて先住民の資源となった。
パラナ川の両岸地方は水量の多い支流に恵まれ、気候、地質もブラジルのパラナ州に似ていて、肥沃で暮らしやすい、なだらかな丘陵地帯であった。「グアラニ族は川の近くに住み、焼畑農業、狩猟、採取などで暮らしていた。農業ではとうもろこし、マンディオカ[キャッサバ。タピオカの原料である芋]、かぼちゃ、さつまいも、ピーナツ、そらまめ、タバコ、綿などを栽培していた。」
その社会構造は『悲しき熱帯』で見てきたブラジル中部高原のボロロ族のそれと基本的に同じであった。利用できる土地が広くかつ肥沃である分だけ集落の規模が大きい。といっても首長が通常の役目を果たすうえでスタッフを要するほどの規模ではなかった。したがって役所もなかった。
首長は権力者ではなく統率者であった。安全で食料が有る遊動先の選定、集落づくり、他族との平和共存あるいは戦い、狩り、祭り、農作にかかわる見通しと決定が指導者の役割であった。平時首長のために雑務に従事したのは一夫多妻の妻たちであった。教授は、もっとも多妻であることが首長の唯一の特権であると言っている。
原始から首長は呪術者であった。さらに、体格に優れた戦士であった。男たちは戦を狩り同様に好んだ。ヨーロッパで「首長の役割は何か」と問われ、ある首長が「先頭に立って戦うこと」と答えて知識層を驚嘆させたという挿話をどこかで読んだことがある。
スタッフをもたない首長が統率者足りうるのは以上の役割を遂行できるか否かによるが、トゥピ・グアラニー語族特有のホスピタリティをおいては首長制だけでなく集落自体が成り立たない。
集落の安全は他集落との交換、交流によって保障される。物と情報が交換の対象である。互いに、つまらないものであると謙遜しながら交換する。対価なしだが、気前の良さが最高の価値であることを疑う者は居ない。
集落内でも、首長はだれよりも雄弁で気前良しがあたりまえであり、獲得物を平等に分配した。「グアラニ族の上下関係はつねに上のものが下のものに贈り物をすることで成り立っていた。」
宣教師が首長を立てながら実質首長の代わりをできたのは先住民に鉄製品、農工芸の技術、音楽と楽器、祝祭行事等をスキルと一緒に与えたからである。
親族を増やすために未婚の娘が贈られる。義兄弟と親族は多いほど心強い。困ったときに惜しみなく助け合うのが慣わしだった。
Távaのグアラニー支族はスペイン人探検隊を友好的に迎えた。「アスンシオンでは初期の段階から混血がはじまり、グアラニ族は白人を‘’義兄弟‘’として助けた。」そこに居ついた彼らはたちまち一夫多妻の社会に溺れて、本国から赴任してきたラプラタ地方長官カベサ・デ・バカ(牝牛の頭の意。バカにしたあだ名?)は、まるでハーレムのように堕落している、と国王に報告している。
労働には気が入らない先住民の男たちも戦いには燃えた。グアラニーの元の意味は戦士である。幻の銀山ポトシ(現ボリヴィア)を探求する残留組のボス・イララ(「牛頭」を本国に送還した有力者)の遠征隊には250人のスペイン人に2000人のグアラニーが加わったという。勝てば、逃げ遅れた女子供を連れ帰り、各家族の将来の婚姻資産とするならわしがあった。

ポトシ銀山がインカ帝国を征服したスペイン人によってすでに開発が始まっていることが知られると、スペイン人は金銀目的の探検を地味な植民に変えざるを得なかった。当然労働力の調達をどうするかが緊切の問題となった。
1556年、司令官イララ(同一人)はグアラニー族を300人のスペイン人に分配し、公式には中南米で撤廃されていたエンコミエンダ制を施いた。それは国王が征服者、植民者に先住民を使役する許可を与える制度で、はじまりはコロンブスにまでさかのぼる。
エンコミエンデーロ=使役者は、労働徴用権や徴税権をエンコミエンダ(委託)される代わりに先住民を改宗させて保護する義務を課せられた。金銀と稼ぎが目的の植民者が義務を果たすはずがない。また労働になじみがないグアラニー族が従順に応じるわけがない。勢い強制労働となり、導入されたところでは奴隷労働に反抗して先住民が蜂起した。

すでにカリブ海地方では20年間たらずで先住民が絶滅していた。たとえば私がチェックし続けた来たキューバ革命の書物には先住民がただの一人も出て来ない。マタンサスという州名さえあるが、その名の由来は1510年に始まった先住民の反乱である。徴発した先住民漁船で河を渡っていたスペイン軍兵士が河の真ん中でボートを転覆されて重装備だったせいで30名全員が溺死した。事件をきっかけに「正義」の虐殺(マタンサス)がはじまって州名となった、とわたしは考えている。

エンコミエンダ制の義務(教化)を肩代わりしたのがイエズス会である。制度がもたらした新世界先住民の急激な人口減と実質的奴隷化に苦慮していた王室はイエズス会の進出を歓迎し優遇した。
イエズス会は、忠誠を尽くす法王公認のもとに日本を含む新天地に宣教師を派遣した。各地に布教の足跡を遺したが、イグアス―の滝下流域の、三国にまたがる歴史遺産だけが突出している。西から入ろうとしても東から入ろうとしても、スペイン本国から≪もっとも遠い≫遠隔地に、同時代人に危険視され後世の人に憧憬されるイエズス会指導のグアラニー族コミューンが実現した。次回につづく。

本章は伊藤滋子著『幻の帝国』を種本としている。「」はすべ同書からの引用である。多くの方に読んで欲しい良書である。



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