下宿は予備校が紹介してくれた。
初めてのことで特に希望も条件もないので最初に下見に行った所に決めた。
鰻の寝床のように奥行きが深く間口が狭い2階建ての町家だった。
せいぜい3,4人ぐらいしか収容できない朝食付きの下宿だった。
数ヶ月で転居したので誰とも親交なく終った。
ただ西陣織の柄の下絵を描く職人さんを通して、京文化がその伝統を世界との交流により常に洗練させていることを知った。
京都人は市内の美術館、博物館、勧業館で、世界中の古代から現代までの美術工芸品を普通に観ることができる。
たとえば黄金製の遺物に限っても、古代スキタイ遊牧民の金細工、ツタンカーメンのマスク、インカの装飾品からインスピレーションを得ることができる。
放課後は予備校の友達と市内をぶらついた。
友達の先輩が切り盛りしていた歌声喫茶にはしばしば足を運んだ。
ロシア民謡が全盛だった。
当時の日本人の情感に合っていた。
タバコには手を出したが麻雀は避け続けた。
パチンコは1回やって勝ったので2度とやらないと決めた。
2日と置かず通ったのは映画だった。
当然ながらこれには誰もついて来れなかった。
当時京都には東西南北に多数の映画館があった。
映画館めぐりで市街の地理に精通して行った。
2本立ての上映が普通だった。
3本立てもあった。
洋画であれ邦画であれ何でも観た。
だからその頃の映画を観尽くした、いやほとんど観た。
と書いて、Wikipediaで1959年公開の映画を調べたら581本もあった。
話題の作品はほとんど観た、と訂正しよう。
もやもやして満たされない気持ちを忘れるために映画館に通ったと振り返って思う。
1年間映画依存症だった。
ただそれだけではなかった。
映画鑑賞はわたしの生涯の楽しみである。
わたしにとって良い映画とは忘れがたい作品である。
もう一度観たい映画はさらに良い作品である。
観るたびに新しい発見がある映画が最上位に来る。
こどもの頃観た「羅生門」「七人の侍」がそれに当たる。
浪人時代に観た映画では、アンジェイ・ワイダ監督の「灰とダイアモンド」が永遠の
傑作だ。