自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

軍歌と抒情歌

2011-01-28 | 体験>知識
このころ家でも畑でもよく歌を歌った。

母からは唱歌と国民歌謡を教わった。

1940年発売の西條・古賀・霧島トリオによる戦時歌謡曲・・・。
まず戦場でヒットしたのもむべなるかな。
「花摘む野辺に 日は落ちて
 みんなで肩を くみながら
 唄をうたった 帰り道
 幼馴染の あの友この友
 ああ 誰か故郷を想はざる」
私は中学の同窓会に、故郷を遠く離れているので、一度も出ていない。
10数年前初めて誘いの手紙を貰った時この曲と「故郷」を口ずさみながら
涙を抑えることができなかった。
日系人の間では今でもこの曲は懐かしのメロディーのトップ10にあげられる。
田舎の環境がなくなった日本ではほとんど歌われない。

父からは軍歌を教わった。

「轟く砲音 飛び来る弾丸
 荒波洗ふ デッキの上で
 闇を貫く中佐の叫び
 杉野はいずや 杉野はいづこ」
旅順港封鎖作戦で散った廣瀬中佐を称える歌だった。

「水師営の会見」は今でも9番中4番までなら一字一句間違えずに歌える。
「昨日の敵は 今日の友
 語ることばも うちとけて
 我はたたえつ かの防備
 かれは称えつ わが武勇」

「戦友」は地球の裏側で祖国を想う移民の郷愁を誘って広く歌われた。
陸軍が禁止しても占領軍が禁止しても戦中戦後、戦場で内地で愛唱されつづけた。
「此處は御國を何百里
 離れて遠き滿洲の 
 赤い夕陽に照らされて
 友は野末の石の下」

これら日露戦争に関わる軍歌は危険なほどに魅力的だ。実際ほとんどの若者を
その後の戦争に誘った。
哀愁を帯びたメロディー、文学性高い叙事詩は、名曲「荒城の月」と同列にある。
軍歌が叙情詩であり制約があるのに真心が発露しているところが日本的であり
怖い。
湧き上がる激情に理性が押し流され呑み込まれてしまう。

これらの曲はPCで検索すれば聴くことができる。

労働、遊びと勉強/にわかに勉強モード

2011-01-21 | 体験>知識

11歳ぐらいになって自転車に跨って乗れるようになったので街の「寺子屋」に土日だけ通うことになった。
10数キロの遠方だったので土曜は市街に移り住んだY叔父の家に泊まることになった。
日伯の国交回復交渉がすすむにつれて「帰国請願運動」が信用を失っていく中で父も動揺していたのであろう。
集団帰国船が来ないならとりあえず勉強させねば、と思ったに違いない。
「寺子屋」と云ったのは父で、江戸から明治にかけて町人、農民の子が読み書き算盤を学んだ私塾のことである。
私塾と言っても自学自習が普通だったらしい。
市内に寺があるわけなく戦中強制閉鎖されていたが再開を許された日本人学校に通うことになった。
寄宿舎と運動場があった。
最初のうちは生徒が数人と先生らしい大人が1人いたが事情は不明だが数回通っただけで「学校」は立ち消えになった。
覚えているのは算数問題集の小冊子を途中までやったことである。
割り算までは難なくできたが通分で壁に突き当たった。
解き方も説明もなかったので指導なしでは挫折するのが普通だと思う。
多分ここで貰った戦前の国語の国定教科書は装丁も印刷も立派だった。
「寺小屋」が自然消滅したのでY叔父の家で読み書きだけの勉強を続けた。
いとこ兄妹は年下だったので一人で音読し漢字の書き取りを繰り返した。
書き順などあることさえ知らずひたすら書いた。
教科書の内容は高学年用で、日露戦争終結時の乃木大将とクロポトキン将軍の「水師営(の会見)」が一番印象に残っている。
楠木正成、山中鹿之助等忠君愛国の武将物語を戦後5年も経って学習した。
日本では戦中の教科書の不適当部分を墨でぬりつぶして使った時期があったが、とっくに占領国の指導にそった新教科書に代わっていた。


労働、遊びと勉強/野生と教養

2011-01-09 | 環境>教育

1940年代前後のブラジルは未開のアマゾンにつながるフロンティアのジャングルや「不毛」とされていたセラード、点在する無数の開拓地と近代的大都会で構成されていた。
野生と教養と二分するのは不適切である。
かつて紹介した文化人類学者レヴィ・ストロースは、アマゾンにも文明があった、と言う。『悲しき熱帯』でルポした私が生まれたころのインディオの孤立と零落と悲惨は、植民と開拓の結果だ、と喝破した。そして私の同時代人としての存在もそれと無縁でないのだ。
ジャングルの中にも大都会の中にも、そして家族の中でさえ、野生と教養が混在していた。
これから述べる狭い視野で目撃したものから、ブラジルやプリモ一家のイメージを創り上げないでほしい。
このブログの目的はそんなところにはない。

ナイロンが出現するまで絹がファッションの主要素材だった。N農場にもすでに利用されなくなった桑畑があった。
桑の木が伸び放題に伸びて畑は森に変わっていた。
わたしたちはそこで小鳥を射ったり木登りやターザンゴッコをしたりして遊んだ。
桑の実はおやつにもジャムにもなった。
事件は、いや未遂事件はそこで起こった。
プリモ家の兄が5,6歳ぐらいの妹に迫った。
兄はいきり立ち妹は号泣して抵抗した。
わたしは、けしかけるでもなく止めるでもなく、仔犬が飼い主に交尾の真似をするのを見るように、情動もなく、凝視していた。
当然兄は父から折檻を受けた。幅広の牛皮ベルトでしこたま叩かれた。

ガイジン社会は教会のミサで道徳を共有する。Nファゼンダは教会からも学校からも遠かった。
日本人社会は戦後なのに軍国主義の鎧を着けた儒教道徳に支配されていた。


閑論休題

2011-01-01 | NEWS/現実認識

たとえばなしですが、いきなりHな写真を見せられたとき子供であるあなたは正視しますか?
それとも目をそらしますか?  
「プリモ一家」の回顧の続きに成り行き上そんなシーンが巡って来てしまった。
元旦なのでスルーして話題を変えたいと思う。
今日の世相にからめて時事評論で行きます。
固い話が嫌いな方はパスしてください。

その1)今のままでは日本は人口が減少して必ず衰退する。
マルクス流に言えば、労賃はその社会における家族再生産費に相当する。
グローバリズムという撹乱要因が加わって、日本では労賃が再生産費以下になって、家族を再生産できない。家族数も出産数も減少していく。
その2)すぐれたボスを推せないムレは衰退する。
ボス猿、ガキ大将、独裁者は自分勝手で、公平でもクリーンでもない。
ボス猿を見よ。子分の餌を奪う。
だが自己チュウだけではボスになれない。
自己犠牲の覚悟が欠かせない。ムレを護るために体を張って使命をまっとうする。
龍馬を見よ。
その3)日本ではサムライは時代と共に絶滅した。
侍大将西郷隆盛の切腹とともにサムライは絶えた。
「葉隠れ」に言う。サムライとは死ぬことと見つけたり。
サムライを呼号して、負けて、腹を切ったボスは皆無に近い。東条英機を見よ。 
その4)龍馬はそのクニ造り「八策」でボス候補を〇〇〇とした。意中の人は居たのだろうか?
九分九厘無理だと分かっていても勝海舟だったと思いたい。
今日は尚更〇〇〇を埋めるのが難しい。
誰がなっても同じだし、たちどころに引き摺り下ろされる。