自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

イエズス会グアラニー族布教区の興亡/前史 グアラニー族とスペイン人の出会い

2024-05-24 | 移動・植民・移民・移住

   同成社  2001年

当ブログ記事もようやくイグアス―瀑布の滝下流域、イエズス会士の指導で築かれたグアラニー族の教化村の世界に到達した。最大の大河パラナ川を挟んでパラグアイ川とウルグアイ川を配した流域である。大西洋への出口は、スペインの最初の遠征隊(1516年)に太平洋に通じる水路と間違われたラ・プラタ川(銀の川)である。


イエズス会ミッション遺跡群 Londrina とイグアスーの滝も確認できる。
 
スペイン人遠征隊は三度パンパスの先住民との抗争に敗れて撤退した。残留して上流に向かい適地を探求していた一隊が、首長の許しを得てパラグアイ川東岸Távaに砦を築いた。1541年、ブエノスアイレスを放棄した残留者を加えて、役所と教会を設けてアスンシオン市となった。その地は各地へのスペイン人進出の根拠地となり、のちにパラグアイの首都になった。ブエノスアイレスでは残された馬が自然繁殖しやがて先住民の資源となった。
パラナ川の両岸地方は水量の多い支流に恵まれ、気候、地質もブラジルのパラナ州に似ていて、肥沃で暮らしやすい、なだらかな丘陵地帯であった。「グアラニ族は川の近くに住み、焼畑農業、狩猟、採取などで暮らしていた。農業ではとうもろこし、マンディオカ[キャッサバ。タピオカの原料である芋]、かぼちゃ、さつまいも、ピーナツ、そらまめ、タバコ、綿などを栽培していた。」
その社会構造は『悲しき熱帯』で見てきたブラジル中部高原のボロロ族のそれと基本的に同じであった。利用できる土地が広くかつ肥沃である分だけ集落の規模が大きい。といっても首長が通常の役目を果たすうえでスタッフを要するほどの規模ではなかった。したがって役所もなかった。
首長は権力者ではなく統率者であった。安全で食料が有る遊動先の選定、集落づくり、他族との平和共存あるいは戦い、狩り、祭り、農作にかかわる見通しと決定が指導者の役割であった。平時首長のために雑務に従事したのは一夫多妻の妻たちであった。教授は、もっとも多妻であることが首長の唯一の特権であると言っている。
原始から首長は呪術者であった。さらに、体格に優れた戦士であった。男たちは戦を狩り同様に好んだ。ヨーロッパで「首長の役割は何か」と問われ、ある首長が「先頭に立って戦うこと」と答えて知識層を驚嘆させたという挿話をどこかで読んだことがある。
スタッフをもたない首長が統率者足りうるのは以上の役割を遂行できるか否かによるが、トゥピ・グアラニー語族特有のホスピタリティをおいては首長制だけでなく集落自体が成り立たない。
集落の安全は他集落との交換、交流によって保障される。物と情報が交換の対象である。互いに、つまらないものであると謙遜しながら交換する。対価なしだが、気前の良さが最高の価値であることを疑う者は居ない。
集落内でも、首長はだれよりも雄弁で気前良しがあたりまえであり、獲得物を平等に分配した。「グアラニ族の上下関係はつねに上のものが下のものに贈り物をすることで成り立っていた。」
宣教師が首長を立てながら実質首長の代わりをできたのは先住民に鉄製品、農工芸の技術、音楽と楽器、祝祭行事等をスキルと一緒に与えたからである。
親族を増やすために未婚の娘が贈られる。義兄弟と親族は多いほど心強い。困ったときに惜しみなく助け合うのが慣わしだった。
Távaのグアラニー支族はスペイン人探検隊を友好的に迎えた。「アスンシオンでは初期の段階から混血がはじまり、グアラニ族は白人を‘’義兄弟‘’として助けた。」そこに居ついた彼らはたちまち一夫多妻の社会に溺れて、本国から赴任してきたラプラタ地方長官カベサ・デ・バカ(牝牛の頭の意。バカにしたあだ名?)は、まるでハーレムのように堕落している、と国王に報告している。
労働には気が入らない先住民の男たちも戦いには燃えた。グアラニーの元の意味は戦士である。幻の銀山ポトシ(現ボリヴィア)を探求する残留組のボス・イララ(「牛頭」を本国に送還した有力者)の遠征隊には250人のスペイン人に2000人のグアラニーが加わったという。勝てば、逃げ遅れた女子供を連れ帰り、各家族の将来の婚姻資産とするならわしがあった。

ポトシ銀山がインカ帝国を征服したスペイン人によってすでに開発が始まっていることが知られると、スペイン人は金銀目的の探検を地味な植民に変えざるを得なかった。当然労働力の調達をどうするかが緊切の問題となった。
1556年、司令官イララ(同一人)はグアラニー族を300人のスペイン人に分配し、公式には中南米で撤廃されていたエンコミエンダ制を施いた。それは国王が征服者、植民者に先住民を使役する許可を与える制度で、はじまりはコロンブスにまでさかのぼる。
エンコミエンデーロ=使役者は、労働徴用権や徴税権をエンコミエンダ(委託)される代わりに先住民を改宗させて保護する義務を課せられた。金銀と稼ぎが目的の植民者が義務を果たすはずがない。また労働になじみがないグアラニー族が従順に応じるわけがない。勢い強制労働となり、導入されたところでは奴隷労働に反抗して先住民が蜂起した。

すでにカリブ海地方では20年間たらずで先住民が絶滅していた。たとえば私がチェックし続けた来たキューバ革命の書物には先住民がただの一人も出て来ない。マタンサスという州名さえあるが、その名の由来は1510年に始まった先住民の反乱である。徴発した先住民漁船で河を渡っていたスペイン軍兵士が河の真ん中でボートを転覆されて重装備だったせいで30名全員が溺死した。事件をきっかけに「正義」の虐殺(マタンサス)がはじまって州名となった、とわたしは考えている。

エンコミエンダ制の義務(教化)を肩代わりしたのがイエズス会である。制度がもたらした新世界先住民の急激な人口減と実質的奴隷化に苦慮していた王室はイエズス会の進出を歓迎し優遇した。
イエズス会は、忠誠を尽くす法王公認のもとに日本を含む新天地に宣教師を派遣した。各地に布教の足跡を遺したが、イグアス―の滝下流域の、三国にまたがる歴史遺産だけが突出している。西から入ろうとしても東から入ろうとしても、スペイン本国から≪もっとも遠い≫遠隔地に、同時代人に危険視され後世の人に憧憬されるイエズス会指導のグアラニー族コミューンが実現した。次回につづく。

本章は伊藤滋子著『幻の帝国』を種本としている。「」はすべ同書からの引用である。多くの方に読んで欲しい良書である。


「正義の戦争」と抵抗部族の根絶 ブラジル1550~1650

2024-03-28 | 移動・植民・移民・移住

16世紀後半、総督によるキャピタニア回収、統治により砂糖キビのファゼンダ(先進のペルナンブーコを中心とする)が軌道に乗ると植民地の奴隷不足が発展のネックになった。黒人奴隷の輸入が始まっていたが本流になっていなかった。
大農場主(ファゼンデイロ)は先住民の奴隷化を望み、総督(カピタ~ン・ジェラウ)は洗礼を受けていない先住民の奴隷化を認めて先住民に改宗をせまった。イエズス会は改宗者を保護した(布教所が「駆け込み寺」になった)が奴隷化の流れに抗しきれない。
しかも移民の数は増える一方で、移住者が持ち込んだ伝染病で先住民集落の人口が激減したこともあって、力関係が逆転した先住民は、服従(改宗と定住)するか蜂起して逆襲するか、ほかに選択の余地がない窮地に陥る。
抵抗した主要部族は、ペルナンブーコのカエテー族をはじめとして、バイーア(サルヴァドールが首都)のナンバー族、サンパウロ~リオ間のタモイア族(5部族の連合名、総称)、バイーアとサンパウロ間のニキン族等である。抵抗部族は、勇敢に執拗に消滅するまで戦った。時にはフランス人と同盟を結んでフランス人が指揮し洋式武器を使用して、あるいは諸族と連合して戦うさまは、旧幕府軍の東北・函館戦争を想起させる。
戦う相手は大農場主と総督軍であるが、兵士は帰順したナンバー族、ニキン族、混血のマメルーコである。最初の供給源はサルヴァドールのカラムルーの一族、サンビセンチのラマーリョ率いる一族であった。サンパウロ防衛戦では老齢のラマーリョがマメルーコを指揮してタモイオ連合軍と戦った。
植民者の反撃は、サルヴァドールに総督府が置かれ、総督軍による計画的な討伐行が実施されるようになったことで可能になった。総督が「正義の戦争」を宣言し、植民者の熱狂に支えられた討伐行は時をおかずして殲滅戦に移行した。集落が灰燼に帰し、奥地に向かって四散した者を除くと、奴隷として使える者だけが生かされた。奴隷は短命だったので死ぬために生かされたと言えなくもない。
沿岸部から吹き荒れる虐殺の嵐に乗って、治安維持の討伐行は後背地の奴隷狩り遠征に移行した。奥地への浸透(エントラーダ)は総督軍が最初で、バンデイランテスの登場は、1600年代中頃、沿岸部の掃討で奴隷源が尽き、かつサンパウロに植民者が増え植民地が根付いてからである。

先駆していたイエズス会宣教師にも転機と苦難の選択が訪れた。
サルヴァドールに最初のカトリック司教区が設置され、サルジーニャ司教が着任した。司教は改宗が神への愛からではなく恐怖(総督による非洗礼者→奴隷化の脅し)からであることを問題視し、イエズス会の先住民布教を脅かした。
「聖戦」で沸き立つ植民地の世論に押されてイエズス会の宣教師までが軍に非改宗民族討伐を進言したり、軍が布教所のカエテー族の改宗者を捕らえて奴隷化したりした。
新世界ではイエズス会と世俗司祭との対立が一般的だったが、他と違ってブラジルではイエズス会士の理想主義が芽吹く余地がなかったように見える。ブラジルには世界遺産に指定されたブラジル・イエズス会のミッション遺跡が一つもない(次章で説明)。

封建領主然とした大土地所有者とイエズス会の布教団の対立をレヴィ=ストロース教授は次のようにまとめている。
「ファゼンデイロと呼ばれる農場主は、自分たちの徴税を妨げ、農奴のようにこき使える労働源を奪いさえしている布教団の世上権を嫉んでいた。彼らは見せしめに討伐を行い、布教団やインディオを四散させた。」

奥地奴隷狩り遠征隊は、その隊旗からバンデイラ(旗の意)あるいは構成員に重点を置いてバンデイランテスと呼ばれた。サンパウロの有力なファゼンデイロの家父長的指導者が組織し、ならず者の自称capitãoが少数のポルトガル人と大勢の先住民(トゥピニキン族)及びマメルーコ(mameluco  先住民とポルトガル人の混血)で構成した隊を指揮した。
彼らに特有の話し言葉を Lingua Geral paulista(パウリスタ=サンパウロ出身者)という。トゥピ語中心の共通語である。トゥピ語とグアラニー語は兄弟ほどに共通点が多い。トゥピ=グアラニー語族という大きな分類で語られる所以である。
元々一つの民族でアマゾン川支流沿いと北部海沿いに南行して両語族に分かれたと考えることができる。
グアラニー語族は中部高原のいくつもあるパラナ川支流伝いに下って現パラグアイ・アルゼンチン・ブラジルの広大な草原地帯(乾燥地帯と湿地帯)を生活圏としていた。

パラナ川とイグアス川の落合 三国国境 左上PY,右上BR,手前AR 

そこでは、スペイン人・イエズス会が布教所を構えて、堕落した旧教の刷新を実践しながら、ルネサンス後に芽生えた西欧のユートピア思想の影響を受けて先住民の平等社会を実現していた。最盛期にはスペイン人集落よりも豊かで、侵略したバンデイランテスがそこにあるはずの金塊、金鉱を無駄に探し回ったと言い伝えられている。

バンデイランテスは、現サンパウロの海岸山脈を水源とするチエテ川をカヌー船団で一千キロ以上蛇行して南米第二の大河パラナ川に至ったと考える。出発地は都心から百キロ以上離れたオウムが岸壁のミネラルを求めて集う岸辺である。クイアバー(現マトグロッソ州都)で金が発見されると、その船着き場は黄金の陸揚げ港として栄え、「天国の出入口」ポルト・フェリスと名付けられた。グアラニー人にとっては「生き地獄の窯の蓋」ポルト・インフェルノだったと想像する。


バンデイランテス余聞/二人のキング

2024-01-26 | 移動・植民・移民・移住

バンデイランテスは、ブラジル植民地創成期に大農場(ファゼンダ)の労働力不足を埋める奴隷を求めて、インジオ狩りをした奥地探検部隊のことである。
「イエズス会士とバンデイランテス」の章の執筆途中で自分史とちょっと関わりがあったのでエピソードとして投稿する。

奥地に奴隷狩りに向かうバンデイランテスは、往路の駐屯地で砦を築き、耕作、播種をして帰途の食料に備えることもあった。
私の父方の伯母家族(父は姉家族の構成員とされていた)がサンパウロ州での義務労働(コロノ)で貯めた資金で購入・移住したバンデイランテス駅付近の土地は、昔その駐屯地の一つだったと考えられないこともない。そこは南部ジェ語族・カインガンゲス族の生活圏だった。
バンデイランテス遠征隊は奴隷狩りと奴隷商売で忌避される一方で金銀ダイア目的の遠征の実績によりブラジルの領土拡張をもたらした愛国の英雄として歴史に名を残している。当初ブラジルの領土は、法王による世界地図上の線引きとスペイン・ポルトガル間の条約(トルデシリャス条約  1494年)により東部沿岸部に限られていた。
バンデイランテスは現パラグアイ、アルゼンチン国境近辺までたびたび遠征してスペイン人イエズス会のグアラニー族布教村を潰しまくった。その矛先は風の便りに聞いたポトシ銀山(現ボリビア)をも指していた。
バンデイランテスの暴虐とイエズス会神父のミッションの物語は次章に譲る。今回は3回訪れたことがあるバンデイランテス市(現人口3万余)に寄り道する。

伯母家族と父の弟(私の叔父)の結婚式。花婿の真後ろに母に抱かれた私。バンデイランテス  1940年

バンデイランテス市はLondrinaの東に70kmほど行った所にある。石の多い土地だったため開拓に苦労した、と父から聞いた。姉家族の子・孫達つまり私のいとこ・はとこ達はそこで運輸業、商業など都市型職業と近郊型農業に就いていた。
1991年Londrinaに里帰りしたとき私は彼らに会いに行った。わたしの子守をしてくれたいとこ3人が不在だったので会った覚えのないいとこ、はとこ(一世から三世)ばかりで旧交を温めることにはならなかった。

バンデイランテス市には、カズーこと三浦知良選手が1986,87年に在籍したことがあるフットボールクラブ「SEマツバラ」の選手育成施設(寮と練習場)があった。ブラジルの綿作王といわれた松原武雄氏が創ったクラブで、来日した際大阪市の靭公園でも試合をしたので観戦したことがあった。私が見学に行くと弟さん(多分クラブオーナーのスエオさん)が案内してくれた。
施設はさびれて貧弱だった。寮には宇都宮からの留学生が一人居ただけだった。クラブの本拠地でなかったせいもあるが、1987年にアマゾンのフォルクスワーゲン牧場(4万ha、牛4万頭)を買収してブラジル十大地主に名を連ねたマツバラが資金繰りに苦しんでいたことと無関係でなかったことを後で知った(外山脩『百年の水流』第一部「北パラナの白い雲」24)。
北パラナの入口カンバラー市を本拠地としたSEマツバラも3州にあったファゼンダ・マツバラも今はない。マツバラも、外山脩氏がWEB本稿の序で記した「青空に浮かぶ白い雲の様に、フト気がつくと消えてしまっている」という軌跡を辿ったのである。


マト・グロッソ/大いなる逆さまの藪

2023-10-20 | 移動・植民・移民・移住

2014年10月16日、グリーンピースブラジルの調査チームは、大豆と畜産のための樹木の焼却と森林伐採を監視するためにマットグロッソ州を撮影しました。
出典:www.greenpeace.org.taiwan © パウロ・ペレイラ/グリーンピース
国際環境NGOグリ-ンピースはブラジルでもインデジェナ団体と共同して自然保護と生物多様性保存を政府、企業、消費者に訴えて成果を上げている。

引用ばかりで気が引けるが、つぎの記事も地球環境破壊、気候変動を語るうえでも優れて有益である。
大豆と「世界で最も生物多様性に富むサバンナ」ブラジル セラードの深い関係
この記事のポイント
ブラジルの中央を縦断する広大なサバンナ地帯、セラード。豊かな生物多様性、大量の炭素貯留、豊富な地下水源を誇るこの地域の自然が今、牛の放牧や、家畜の餌となる大豆の栽培を目的とした大規模な開発*により脅かされています。ここでしか見られない野生生物や植物を守り、これ以上の破壊を食い止めるため、WWF[世界自然保護基金]は農業と自然の共存や、保護区拡大に向けた活動を行なっています。
出典WWFジャパン 使用許諾が下りなかった映像も見て欲しい。https://www.wwf.or.jp/activities/basicinfo/5131.html
*第4次中東戦争がもたらしたオイルショック後の国家プロジェクトにより、農作物に適さないとされてきた土壌が改良され「セラードの奇跡」が起きた。石灰による中和とリン酸肥料が決め手となった、と言われている。

原音でセハードと発音するCERRADOは、まばらな灌木や藪で閉ざされて(英語のclosed同様過去分詞)見通しのきかない草原の意である。とりわけMATO GROSSOは、上掲画像にあるとおり、低木が茂る深い藪である。前章で私は「広大な藪」と仮称し、次章でどんでん返しの異称に言及することを約束した。
マットグロッソの低木は地上部ではひねくれた幹、厚みや棘のある枝葉を特徴とするが、深い水脈をもとめて地下深く伸びる根は最長15mもあることが知られるようになり、マト・グロッソに「逆さまの藪」なる異名が付いた。
地下の根が主役で、水分と炭素を貯留し地上の繁みの密度を維持して乾季の土壌乾燥を緩和しているのである。下流一帯を雨季の洪水、乾季の渇水から守るのも地下に張り巡らされた生態系*である。
*逆さまの思考で読者をうならせている養老孟司さんの明察。土壌流出しない「その土の構造をつくっているのが地下の生態系で、大事なことは根を土に残すこと」

今日、ブラジルは大豆生産でアメリカを抜いて世界一になった。半面、セラードの半分以上(マトグロッソでは8割)が開拓されたとも言われている。文頭の写真をもう一度じっくり観てみよう。

広大な農場は工業化された農業を想像させる。AIを装備した巨大なハーヴェスター、化学肥料、農薬。大企業、技術者・・・。
循環型農業でないから必ず土地が痩せる*。今のところ輪作(大豆、とうもろこし、牧草)と不耕起農法**(根と刈り取った残渣を畑に残す)で切り抜けている。農牧一体化による準循環型事業なら日本でも実行可能な気がする。汚水処理の残渣を肥料として再利用できるようになれば循環型農業にさらに近づく。
*Globe+ World  Now の西村宏治記者のマト・グロッソ、パンタナルの現況記事「土は疲れる」2019.5
**先住民の伝統的栽培法。故福岡正信先生は不耕起農法の先駆者として世界で評価されている。
作物の根が浅く、ほぼ剝き出しの乾燥しやすい農地となれば壊滅的な大干ばつ 、大火災も覚悟しなければならない。セラードを水源とするパンタナルの水路に2019年から異常が観られる。水位が下がって分断された川で魚を食べつくしたワニが餓死している。水位が下がったため水上交通が途切れがちである。
また干ばつ(2020.11~2021.3は雨季も少雨だった)のせいでパンタナルで山火事が多発した。アマゾン熱帯雨林の南半分の森林が牧草地、大豆畑として開発された結果、気候変動が起きていると考える専門家もいる。
そのアマゾンでもマナウス港で「過去120年で最低の水位を記録、干ばつ広がる」のニュースが連日報道されている。川船が動けなくなり、住民の生活が脅かされている。これはエルニーニョ現象と気候変動が重なったせいだと気象学者は言っている。
このままアマゾンの森林破壊が進めば、早晩、地球温暖化の昂進、海流・気流の激変が起きることに異存がある人はいないだろう。アマゾンは「地球の肺」という警句を肝に銘じておきたい。
*Globe+ World  Nowの岡田玄記者のマト・グロッソ、パンタナルの水涸れ、干上がりに関する記事  2021.10
セラードでは500ヘクタール(町歩)の規模では採算がとれないという。個人農はどこへ向かうのだろうか?  都会へ、それともさらに奥地へ(さらなる違法伐採の道筋) 
保護区の少数になったインディジェナはどうなる?  いろいろ考えさせられる映像である。

WWFホームページには、巨大ハーヴェスターが横一列にならんで威容を誇っている映像(転載不許可)がある。それと上掲写真を見比べると、大農場の海に浮かぶ孤島のような半焼けの植生保護区が、横一列に並んで一斉に収穫する多数のハーヴェスターの効率的な作業にとって邪魔だということが良くわかる。空撮の意図もそこにあったと思われる。

 


悲しき熱帯 下/中西部マト・グロッソ編/ボロロ族

2023-09-22 | 移動・植民・移民・移住

教授は、ブラジル滞在中の4年の間(1935~1939)中部高原を1500km横断して、しばしば中西部マト・グロッソ州とアマゾン側で調査をおこなった。教授が指摘したことだが、多くの旅行者がMATO GROSSOを「巨大な森」と誤訳していた。私も既述の南部高原MATA ATLÂNTICA(マタ・アトランティカ)と同じ肥沃なジャングルだと誤解してきた。どんぴしゃりの訳がみあたらないので「広大な藪」としておく。地球温暖化と関連して、後章でどんでん返しの異称を紹介する。
これまた驚きだが、教授は東海岸から中西部まで、トラック、汽車、蒸気船、ときにはチャータ機を乗り継いで移動していた。なぜ文明の利器を、馬車、カヌーと併せて利用できたのか。
原因は、中部高原の土地の風土=気候・地味・地勢などの有様にある。気候は乾季と雨季、乾燥と氾濫を繰り返す熱帯である。地味はSERRADOセラード(現地発音ではセハード)でレンガ色、酸化鉄・アルミナが多く酸性土壌のため農作物に適さないとされていた。森やブッシュ、草原やサバンナなどの植生がモザイク状に広がっていた。地勢は南部高原よりやや低い無限の台地である。分水嶺を越えると大アマゾンに向かって緩やかに傾斜している。
マト・グロッソに限って言えば、高くはない分水嶺がアマゾン川とパラナ川の水系(パラグアイ川)を分けている。州都クイアバーの南西部に世界最大級の湿原パンタナルの一部が広がる。今も生物多様性の宝庫である点でパラナとは対照的である。
1500年にポルトガル人に「発見」されたブラジルは、パウ・ブラジル(芯が赤い染料になる樹木)を名称の由来とする。移住商人の目的はヨーロッパ向けの輸出産物であるパウ・ブラジルであり農業ではなかった。それが尽きるとサトウキビに目を付け、インデジェナの強制労働を使って砂糖プランテーションを経営した。
作物不毛の地セラードが活況を呈し始めたのは18世紀目前の世紀末である。ミナス・ジェライスで砂金が発見されたのである。人が移動すると道が開ける。沿岸部とポルトガル本国等から人口の大移動が起こった。ゴールドラッシュで100年間にブラジルの人口は10倍、300万人に増えた。ブラジル中部の内陸地方に経済活動の重心が移り、金を輸出し黒人奴隷と食料を輸入する港湾都市リオデジャネイロが首都に替わった。『ブラジルの歴史・・・50章』(明石書店  2022年)中の河合沙織氏論文より。
金鉱が衰えると町はさびれて荒野に点在する中継所同然になった。
教授が利用したことがある汽車の終点クイアバー(マト・グロッソ州都)も200年前に金で栄えた都市である。教授が出合った人々はみな挫折して夢が破れている。とくに一攫千金を夢見ていた砂金・ダイヤ探求者=ガリンペイロは敗残者そのものである。
ここから先の教授の紀行文は私の記憶の古層をくすぐって同時代を生きた気にさせてくれた。すこし寄り道をしたい。

サバンナでコブウシが草を食んでいる。屠殺場があり牛の肉と皮の乾燥場がある。数百メートルにわたって流れが牛の血で赤く染まっている。幼い記憶がよみがえった。Londrina市の名所 Igapo*湖公園はそのころ流れがゆるい沼っぽい川だった。その上流に屠殺場があったため流れは汚濁水と悪臭で満ちていた。木の橋板が朽ちかけた高い橋(Ponti Altaとよばれていた)が架かっていた。馬車で渡ったときラバが脚元を怖がって動こうとしなかったのを覚えている。
Iguasuなどの字頭の Iはグアラニー語で水の意(漢字の偏に類似)
教授が使ったトラックも木の橋や泥濘で難渋している。後者では丸太をトラックの2倍もの長さに敷き詰めて車を前進させ、それを繰り返したと綴っている。私が10歳の時の引っ越しで、それに近い経験をした。土砂降りの中トラックが泥濘にはまって後輪が空回りした。そのつど大人たちが木の枝を集めて車輪の下に敷いていた。
私はまた、教授たちが多難な旅の末、探求目的であったボロロ族の裸の男二人に初めて逢った際に、繩巻タバコを吸わせて交流を図ったこと(喫煙を意味するfumoフーモが唯一通じるコトバだった)に注目した。物心ついたころ、仕事の合間に労働者が、サラミ大の縄によった真っ黒な葉タバコを懐から取り出してナイフで削りとったものを玉蜀黍の薄皮で巻くのに見とれたことがあった。醗酵しているので煙草の甘酸っぱい芳香が子供心にも旨そうに感じられた。  

 「法王様のインディオ」

モンゴル系離れした顔立ちと戦士らしい面構えの彼はサレジオ会の宣教師による教化でポルトガル語の読み書きができるようになったジェ語族系ボロロ族のインテリ。教授の通訳をつとめ資料蒐集に協力した。
かつて、神父によって教化成功の生き証人としてローマに派遣され、法王に謁見を許された。村に帰ってからボロロ族伝来の生活習慣に回帰した。キリスト教式の結婚(洗礼を伴う)を勧められたことが脱会の契機になったらしい。
教授は、彼の装いを指して「素晴らしいボロロ社会学の教授であることを、身をもって示した」と評している。
かれが直面した相対立する西洋文明と「野蛮」の生活様式は彼の内面に「精神的な危機」をもたらした。教授は、その環状集落のケジャラ村で、ボロロ族の社会組織、信仰、生活、装飾を調査研究して、その根底に固有の構造があることを初めて学術的に明らかにした。



教授は、環状集落の俯瞰図を荷車の車輪に似ているという。そして家族の住居は輪に、男衆の家は轂(こしき)に、結婚した男が往復する住居に通じる小径は幅(や)に例えた。
集落は男衆の家を通る東西の線で二分されている。それぞれを半族という。南北の線は身分で半族を再分割するが、複雑になるのでパスする。
上図で仮に上の半族はT氏族、下の半族をC氏族とする。T氏族の男性はC氏族に属する母方の従姉妹と結婚する。女性は同様に父方の従兄弟と結婚する。半族間で行われる交差いとこ婚である。
結婚すると男は生家を離れて集落中央の男衆の家を経て女の家族と同居する。男にとって、ある年齢以上の者が集う「男の家」が息抜きになっている。
女は生家に住み続け、それを相続する。男の生家には母と姉妹が住み続ける。姉妹が結婚すればその結婚相手も同居する。
何とも込み入った姻戚関係である。原因については諸説あるが定説はない。単純に考えて、ライオンの雄が母親から追い出されるのと類似しているように感じる。
現象から考えると、身内の争いやインセストを避ける効果だけでなく、身内を広げて群れをつくり、交流のない部族との衝突、戦いに備える効果があることは確かである。
さらに、あらゆる社会的祭祀的行為は、相手方半族の補助、協力を前提としている。両半族は「各々がどれだけ完全に役目を果たし、気前よくしたかによって、優位を測られるのである。」
気前よく、損得・貸し借りではなく気前よく、これがかれらインデジェナの伝統的処世術でありアイデンティティの核心である。首長の資格も気前の良さの最大値で決まる。外来者も饗応にあずかる。ブラジル最初の開発移民団も先住民に援助を受けたことが知られている。

教授はケジャラ村は西洋文明に抗するボロロ族独立の「最後の砦」と言う。サレジオ会の宣教師が原住民文化を系統立てて研究して村が拠って立つ秘密を発見したからである。それを新たなイデオロギー措置として発動すれば先住民文化を「絶滅」できる。
東西に分かれた環状集落の家々を直線状に配置すると、巣箱を上下逆さまにされたミツバチ集団が本能の混乱をきたして巣を捨てて移動するがごとく、住民は、方向感覚が混乱して、群れとムラの伝統から「解放」される。野生生活ができなくなり保護区内で生活保護を受ける生活者になるほかない。「土人は怠け者で飲んだくれ」の偏見が定着する。

教授が同心円環状集落の典型としてボロロ族の集落を選んだのは賢明だった。ボロロの名が儀式の広場に由来するからである。ボロロ族は中部高原のゴイアスからマト・グロッソまでの広い地域にわたって、川沿いの森やそのそとに広がるサバンナで暮らしていた。
そのボロロ族を18世紀のゴールドラッシュに伴う東西道路の貫通が絶滅の危機に追いやった。植民者及び征伐軍との半世紀に及ぶ抵抗戦と外来伝染病で人口は激減し、教授をしてケジャラ村(人口150人)はボロロ文化最後の砦と言わしめた。村の行く末を案じていた教授は、アマゾン側シングー川水系に住む近縁(同じジェ語族)のカヤポ族も同じやり方で集落をつくることが知られている、と記している。
私はたまたまネットでカヤポ族の環状集落が写真・地図付きで紹介されているのに出会った。首長の決意表明を引用し、もって故レヴィ=ストロース(2009年没  享年101歳)への手向けの言葉としたい。
*京都外大ブラジルポルトガル語学科ブログより。2016年クリスマスの夜に放送予定の『所さんのビックリ村!』のブラジル先住民の村のVTR「監修」を依頼された住田育法先生の事後記事。
「現代文明がある程度入ってくるのは仕方がない。しかし、境界線を引いて、カヤポの文化に誇りをもって守っていかなければならない。だから、あのような祭を行っているんだ。」 


悲しき熱帯 上/パラナ編

2023-08-18 | 移動・植民・移民・移住

  1977年  中央公論社刊 原著は1955年刊 写真  猿を頭にのせた娘(ナンビクワラ族)

1935年、文化人類学者レヴィ=ストロースがサンパウロ大学を発って奥地の先住民集落の伝統、慣習の調査、民俗学上の蒐集のための探検旅行に向かった。このブログで長く付き合うことになる教授の氏名は長いので以下教授と略称する。

フランスと同じくらいの広さをもつサン・パウロ州は、1918年の地図によると、その三分の二が、「インディオ[トゥピ語族]のみによって居住されている未開の土地」であったが、私がそこへ着いた時には、海岸に押し込められた数家族から成る一団を除けば、もはや唯ひとりのインディオもいなかったのである。

1935年、教授は「1930頃までほとんど人間に汚されていないと言ってよかった」パラナの大森林地帯に入った。その最初の都市がLondrinaである。私がそこで生まれる3年前のことである。
鉄道が開通したばかりの駅がLondrinaで住民三千、開通予定のロランディアは六十、一番新しいアラポンガスは一人だった。懐かしい地名だ。私の故郷であり、それぞれにいとこたちが住んでいた。 
「細長い分譲地は、一方の端は道路に、他の端は各々の谷の底を流れている小流に接するように区切られている」。道路は尾根伝いに作られている。まるでウチの分譲地ロッチを見ているかのようだ。
パラナ州に居たIndigenaインデジェナ*についての教授の概観によると発見された当時ブラジル南部全体には言語・文化上の類縁関係をもつ諸集団ジェ語族が居住していた。かれらは沿岸全域を占拠していたトゥピ語族に圧迫されて防戦しながら大森林の奥深く逃げ込んだため、「植民者たちにたちまち殲滅されてしまったトゥピ語族より、何世紀も後まで生き残った」。パラナ、サンタ・カタリーナでは原始的なままの小さな群れが二十世紀まで、いくつかはおそらく1935年まで、維持されていた。
*今日インヂオ、土人、野蛮人なる用語はほぼ全世界で差別語となっている。原文以外はこれを踏まえてインデジェナ、先住民とする。

教授はパラナ州には「純粋な」先住民はもはや居ないという。そして政府保護下の生活の種々相を、見たかぎり細大漏らさず記述した。 
政府はサン・ジェロニモ村等を建設してジェ語族の定住を推進した。「束の間の文明の経験の中から、インディオたちは、ブラジル式の衣服、斧、ナイフ、縫い針だけを生活にに採り入れた」。村と家を捨て遊動生活に戻った。粗末な小屋か椰子の葉の差し掛けで雨と寒気をしのぎ地べたに寝た。
能率と効率は一顧だにされなかった。マッチ、銃そして万能のカネ。「彼らはしばしば、最小の出費で自分たちの知的調和を得る術を心得ていた。」 
教授より30年若い世代に属するわたしは、単刀直入に「彼らは、富と権力の集積を生む便利なモノと社会システムを自らのアイデンティティを破壊する危険な異物として意識的に無視した」と言い換えたい気持ちに駆られる。
教授がパラナのジャングルの小道で時たま出合ったインデジェナの家族はどんな生活をしていたのであろうか。
教授は出合ったインデジェナを遊牧民ならぬ遊動民と定義した。生業は、男性による狩りと女性による採取、取るに足らぬ農作業である。狩りの季節や木の実の季節になると家族はみな獲物を求めて移動する。
教授は農作業について短い記述を残している。「森の奥で時折、原住民の開墾地を横切ることがある。木で作った高い柵のあいだに、惨めな緑が数十平方メートルの土地を占めている。バナナ、甘藷、マンジョーカ[キャッサバ]、玉蜀黍など。」
土起こし、草取り等の耕作をしない自然農法である。それだけではない。わたしは、インデジェナを妻帯した(普通のことだった)ポルトガル人移住者が妻から農業を学んだという印象を受けた。日本人移民も先住民に農法を学んで鳥害、病害虫を予防した例がある。最初の稲作(確認できた)、アマゾンの一部トロピカルフルーツ栽培(ヒントを得た?)。原理は不耕・混栽で栽培種を雑草、密林の保護下におくことだ。
教授の蒐集活動は困難を極めた。教授は先住民のわずかな生活資材を安物のアクセサリーやカネで蒐集(今様では押し買い)することを恥じた。それでも道なき道を騎行と二輪の馬車・牛車隊で強行し、道中出合ったインデジェナと交渉して欲しいものを入手する職務の遂行に努めた。
教授は、インデジェナが激減した原因については、移住者が持ち込んだ伝染病と討伐については触れるだけで聞き取りをしていない。しかし、宣教師、移住者が意識的に時には無邪気に伝染させ、インデジェナの魂を押しつぶしたイデオロギー措置=蛆食い人種説については、みずから探求し実体験している。なお、人喰い人種説*には踏み入っていない。
蛆とは死体、糞便、生ゴミが水分を保っているときに湧く言わずと知れたハエ類の幼虫である。その悪臭、不潔、気味悪さに嫌悪感を抱かないヒトはいない。インデジェナとて同じだ。
*東洋に金と香料を求める西欧人は例外なく対象地の人喰い説を広めた。マルコポ-ロも黄金の国ジパングでは戦の捕虜が身代金が支払われない場合食べられたとしている。
インデジェナは白人からさんざん嘲笑を受けた屈辱感から甲虫類の幼虫コロを食べていることを外来者にかたく秘するに至った。教授は、熱病のため唯一人保護村に残された哀れな男にあれこれ手を尽して(最後の決め手は「俺たちはコロが食べたいんだよ」)コロ椰子の腐食した倒木に案内させて、蚕によく似た白い幼虫を捕って生で試食した。頭をちぎると胴体から白っぽいバターのような脂が出る。ココ椰子の「乳液のような風味」だった。
蛆なる翻訳の原文はどうなのか識らない。教授は何も注釈していない。体験談に真実を語らさせていると解釈したい。

私はグアラニー族の行方を追っている。教授が会いたがっているのが「純粋のインディオ」に近い先住民であることが解った。同床異夢になるが、広大湿地Pantanalを越えてマトグロッソに至る教授について行こう。


Londrinaが照射するアマゾンより南の生物多様性の喪失

2023-06-02 | 移動・植民・移民・移住

手つかずの原始林と言えば誰しもアマゾンの広大な流域を想像するだろう。つい100年前までアマゾンにつぐ大森林地帯(アマゾンの4分の1)の熱帯雨林と亜熱帯常緑広葉樹林がブラジルの中・南部を覆っていた。Londrinaはその南限にあたり、それより南部は冷涼気候でパラナ松という針葉樹の巨木が多くなる。
MATA ATLÂNTICA(マタ・アトランティカ)と総称され、海抜600~1000mと表現される波打つ高原の森林は、大航海時代以来植民地化と開拓により徐々に失われ、現在ではもとの7%弱しか残っていない。今日、森林が残っているのは、傾斜地や環境保全地域などに限られている。
道路で分断され、孤島状になった保護地区の森林は生物種の宝庫であるが、その多くが絶滅の危機にさらされている。たとえばジャガー(現地名オンサ)は270頭ぐらいしかいない。
パラナ州では伐採、山焼きと同時に大型獣と野生の樹木はほぼ姿を消した。わたしはLondrina周辺のことしか知らないが、掘っ立て小屋の材料と開拓中の食糧となった椰子パルミット、それから故郷の桜を連想させて移民の郷愁を誘った山桜のようなイペーは消滅した。


Londrina州立大学の絵葉書から イペーの花  撮影 R.R.Rufino 

ウチの農場近くに孤立した原生林があった。むせかえるような緑とひんやりとした湿気、樹木が発する香りと腐葉土の匂いに包まれると、身も心も洗われる心地がしたものだ。森林浴効果という昨今の表現が“ぴったりである。
1991年に44年ぶりに里帰りしたとき、森林の面影は、幹と樹冠だけの天を衝く巨木perobaが数本往時を偲ばせているだけだった。ジャングルはそっくり州立総合大学のキャンパスに変っていて、大学はシンボルツリーにちなんでPero
bauと愛称されていた。若い学生たちは、かつてサルやトリの声が森中に木魂していた状況を想像できるだろうか。
野生の小生物で生き残ったのは、地を這い穴に潜る習性をもつものである。私の体験では、アルマジロ=現地名タツー、トカゲ、ヤマアラシ、ガラガラヘビをふくむ小型蛇類、大型カタツムリ、サソリ、アリ等である。シカ、イノシシ、サルは見なかった。
空を飛ぶ鳥類も開拓地で餌を得られるものだけになった。タカ類と死肉を漁る黒コンドル、スズメに似たチコチコ、ノバト等である。かつて無数に翔んでいたはずのインコ類はユーカリの実を食べるチリーバ1種しか飛来しなかった。湿地、沼沢地の生き物はこの限りでない。
最大の被害者は先住民のグアラニー族である。パラナ(海のような大河)、イグアスー(暴れる水)はグアラニー族が命名したものである。ウチの農場の湿地にあった湧き水の周りで土器の欠片を拾った記憶がある。小さな集団が生活した痕跡という感じだった。
想像だがグアラニー族は開拓前線が広がるに連れて移動と同化によりパラナ州から姿を消したと思われる。
パラナ州より南部の2州には、かつて多くの集落がありイエズス会宣教師の指導の下に「理想郷」を営む布教村もあった。
パラナ州の西に隣接するパラグアイではグアラニー語がスペイン語とともに公用語になっている。白人との
混血95%、グアラニー族2%という人種構成を見る限り、グアラニー人はパラグアイではアイデンティティを確立している。

次章で、そこに至るグアラニー族の苦難の歴史(グアラニー戦争)に立ち寄ることにする。


「移動・植民・移民・移住」が人類史を刻む

2023-04-29 | 移動・植民・移民・移住

プーチンが発動したウクライナ侵略戦争を俟つまでもなく、戦争が人類の歴史に転機をもたらしてきた。それぞれの戦争の原因を探るとき必ず顔を出すのが表題の四つのキーワードのいずれかである。
私の高校教科書程度の知識でも、ゲルマン人の大移動、ギリシャ・ローマ人の東方植民、ポルトガル・スペイン・イギリス人の新大陸植民、日本人の朝鮮・満州植民と南北アメリカ大陸移民を容易に例示できる。
そして植民、移民が移住先で先住民を圧迫しその生活圏を脅かす。日本の場合で言うと「居留民」が日韓併合、中国侵略の火種になった歴史を挙げることができる。ウクライナの場合は火種の淵源は、ロシア系のルーツにまでさかのぼらねばならない。
わたしはブラジル移民の子である。体系的に大小の歴史を論じることはやりたくてもできないが、四つのキーワードの間を飛び交いながら、毎回読み切りのストーリ、ヒストリーを、ときには体験をまじえて綴ることができる。前置き終わり