自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

少年A酒鬼薔薇聖斗事件/30年前の連続快楽殺人事件回想

2022-06-18 | 生活史

須磨ニュータウン  タンク山の右上に北須磨高校グラウンド、その右神戸大Gを挟んで友が丘中学校G  被害少年の通った多井畑小学校はタンク山の手前 写真提供:神戸市

1997.5.24 小学校6年男児行方不明事件発生
5.27,  火曜日早朝、須磨ニュータウン名谷駅南の友が丘中学校の正門に切断された男児(小6)の頭部が置かれているのが発見された。耳まで割かれた口に、警察に対する挑戦状が差し込まれていた。

さあゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを

SHOOLL KILL
学校殺死の酒鬼薔薇

報道で国中が震撼した。わたしの過労とストレスが極点に達する時期で(10月に舌癌の兆候)私の6年チームはたまたま地元クラブと多井畑中学校会場で交流試合をしたばかりだった。
当時そのクラブは兵庫県屈指の強豪で互いに行き来していた。だから両チームにとって多井畑小6年男児の惨死は他人事ではなかった。しかも前代未聞のむごたらしい猟奇的事件だったからなおさらである。

6月28日に犯人が逮捕されるまで丸一か月あった。その間のある日曜日、北須磨高校会場で同クラブと練習試合をした。背後の山が殺害現場のタンク山であったこともあるが、選手も大人も試合に身が入らず事件の噂で持ちきりだった。そのとき耳にした差別的な噂は一生忘れることはない。どこそこが怪しい・・・。

警察は三桁の捜査員を投入して手広く捜査する一方で、切断された頭部と遺体が発見された当初から、少年A(友が丘中学3年)を有力な被疑者として目星をつけて、職務質問をし、周辺を洗って小動物虐待をはじめ過去の事件との関連を極秘で捜査した。
A少年がシロでない確信を得て6月28日早朝少年Aを須磨署に「任意同行」した。取調官が、新聞社に送った声明文と少年が書いた作文の筆跡の一致(虚言だった)を告げると、少年Aは泣き出して連続通り魔事件を含む犯行を白状した。
自供を得て捜査本部は午後7時に逮捕令状を執行した。団欒時のTV放送で犯人が、想定されていた3,40歳代の成人ではなく、14歳の少年であったことを知った世間は再度驚愕した。14歳少年の快楽猟奇的殺人として外国でも報道された。
事件の原因については専門家諸氏が多く語っている。私の出番はないが、事件が自然と伝統と人間関係を剥ぎ取って人工的に一挙に作られたニュータウンで起こったことだけは特筆しておきたい。


隔離生活3年目/海や山に行きたい

2022-05-15 | 生活史

私は心筋症の既往歴がありコロナ-ワクチンをうてない。妻がふだん日曜以外の午後5時から夕食時まで孫の小学1,3年生の世話をしている。昼と晩の食事をさせることも週に2,3回ある。
この二つの事情から、わたしは隔離生活をよぎなくされている。私は寝室(仏間)で寝起きし、1階のトイレと2階の書斎を専用にしている。用心しすぎると思われるかもしれないが、実際に次男と孫が第6波のコロナに感染した。
孫たちが来ていないときはリビングで食事を摂り、新聞を観たりTVをつけたりするが、難聴でTVの音を妻に嫌がられるのでTVは仏間で見る。
週に1, 2回スーパーを覗きに行くほかはほとんど外出しない。たまの遠方通院が息抜きになっている。
もう少し周囲の事情に触れておく。こども3人は自立して市内に居住している。面倒を見ている3人の孫(長女は高校生)は娘夫婦の子供である。娘夫婦は障害児向け放課後デイケアを経営しているが、雇員が定着しないので車での送迎までみずからやることが多い。
働き方改革が各方面で叫ばれている中、娘夫婦の障害児デイケアに休日はない。365日中、休みは日曜日53日と正月3が日・盆3日間だけである。
まさにクレイジーというほかないが、現役時代の私もそうであった。土日、休日休みなし。休みは会場が使えない雨の日と年末年始8日間、それに盆をはさんだ7日間だけだった。

デイケアのとばっちりが「じいじとばあば」に及んでいるが、妻は不満である気配がない。いそいそと娘の言うとおりに孫の世話をしている。わたしは、自分の体験から遣り甲斐過労は罪である、改革すべしと思うが、娘を諫めたことはない。親が子や孫を支えるのは、枯れ葉が若葉の為にあるのと同様、自然の摂理である、と信じているからである。

綺麗ごとを言っても深層心理は突然夢の形で表れた。ゴールデンウィーク前のことである。
サッカー協会の書類提出期限が数時間後に迫っているのに、孫二人が寄って来て集中できない。追い払うと妻が話しかけて来た。焦っているところにコーチほか関係者5,6人が立ち寄ってワイワイ喋り出した。もうダメだと思った瞬間目が覚めた。
限界のサインだととらえて、次の日曜日バスで40分の山里に山菜取りがてらレクリエイションに出掛けた。
新緑に癒される一方、台風が通り過ぎた跡の惨状に目を奪われた。倒木はボランティアの手を借りてきれいに片付けられているがまだ山肌が露出している。

被害のもとになった台風は関空を冠水させて長期閉鎖に追い込んだ21号台風2018.9.4である。その3か月後に同じ車道から撮った格好の写真をネットでみつけたので「Mr.Moonlightのつれづれ日記」から借用しておく。

一番気になったのは当の山谷にけもの道はおろか人跡が見られないことだった。半世紀前私が山菜取りにたびたび通った山である。この山と人が没交渉になった経緯と原因は何だろうか、気になる。私有林が多く所有者が高齢化したことも一因と考えられる。

奇異な体験をした。廃材で入口を塞がれた、小さな沢に入った。斜面に足を取られながら2,30m進むと、鹿と猪の白骨があちこちに散らばっていた。牡鹿の角はどれも切り取られていた。苔むしたコンクリート-ブロックも散乱していたので秘密のバーべキュー-スポットであったと見て取れた。事情は不明だが業者と同好会の仕業だと思う。

   左岸の沢の写真
ただ1体だけ雌鹿の全身骨像があった。四肢もそろっているので肉とか皮をとる処理がなされたとは考えにくい。
その場所で、主谷が支谷と落ち合っている。主谷の右岸は暗い杉林、左岸は小さな谷を挟んで自然林の森である。左岸は大雨のせいで表土がむきだしで沢に水流はほとんどなかった。
谷間に生き物の姿、声は皆無だった。本来なら小魚が群れ、沢蟹がちょろつき、ウグイスがさえずり、猪が土を掘り返したばかりの土盛りが至る所にあっていいが・・・。
山菜は無く獲物は一握りの虎杖itadoriと牡鹿の頭骨だけだった。
娘夫婦に休日営業をやめさせる寸言を考えている。こんなのはどうだろうか。「老人と子供には、時間は財産だ」


趣味/キノコ/山の保水力の低下を実感

2021-03-03 | 生活史


スギヒラタケ 出典  東京都福祉安全局「食品衛生の窓」
1970年代後半期、余暇=趣味の時間が少なくなり、大浜との登山も絶えて、遠方の山登りは単独行となり、それも3度で終わってしまった。近場の朝日の森(財団法人1979~2003 現=くつきの森)が山行代わりとなり、キノコ探しの行きつけの里山となった。サッカークラブの合宿、川遊びピクニックでも利用したことがある。
多忙は罪だった、失ったものが大きかった、と最近反省することしきりであるが、きのこ愛好は例外と云ってもよく、2003年まで息抜きに年に1回ほど出かけている。なぜそれが分かったかというと、このたび野外ハンドブック『きのこ』(山と渓谷社、1981年第5刷)が見つかって、それにメモ書きされていたからである。
キノコとの最初の出会いは、朝日の森で開催されたキノコ教室だった。昼間野外で講師の指導のもとでキノコ狩りをし、夕方研修所で採り立てのキノコを並べて講習会がもたれた。
食用になるか有毒かが講義の中心テーマだった。採集されたキノコがあまりにも少なく、夕食に供されたはずだが記憶に残っていない。チャナメツムタケとクリタケが姿かたちから美味しそうで記憶に刻まれた。マツタケは研修所員が前もって用意した萎びた親指ほどの大きさのものが一本あるだけだった。
帰る途中道から見上げたクマザサの藪にシイタケほどのキノコが見えた。駆け上がって探すと数本採集できた。これがわたしのキノコ愛に火を点けた。キノコ図鑑でしらべるとマツタケ並みの希少価値のあるシメジだった。
「香りマツタケ味シメジ」のシメジを偶然見つけたことから、柳の下のドジョウならぬシメジを狙って次の年再度現場を訪れた。そして近くの藪の中で数十本の大きなシメジを見つけた。
隣に住んでいた寿司屋の小父さんにおすそ分けした。さすがはプロ、モノの値打ちを知っていた。数日後大きなカニとなって還って来た。
この小父さんにはうちの子と年齢が違わないこどもたちがいた。ある日うちの子を誘って子供たちを載せて遊園地かどこかに行った。そこで何かクルマのことで他の客とトラブルになってボコボコにされた。かれは子供たちの安全を考えてその場を我慢してしのいだ。
後日、相手方にひとりで乗り込んで土下座させた。小柄だったがその迫力に相手がおびえたのだと思う。男気に感動するとともに私の知らない世界をかいまみた気がした。

朝日の森には毎年通ったが、年々めぼしいキノコが採れなくなった。まずシメジが姿を消しチャナメツムタケ、クリタケが採れなくなった。かわりにスギヒラタケが食卓をにぎわすほどに採れた。
それは、戦中をはさんで伐採跡に植林されたスギが陽の射さない森林帯となった証左であり結果である。足を踏み入れると分かるが、暗いスギ林は生物多様性を喪失した人口の密林である。
杉の古い切り株や倒木に生えるキノコだから行けば手ぶらで帰ることはなかった。香りが無く純白上品で、淡白な味と歯ごたえがよいので和洋どちらの料理にも合い、産地では人気のあるキノコである。
2004年秋「スギヒラタケで死者」の新聞記事に目を見張った。優秀なキノコとして日本海側の雪国で重宝されてきたキノコが突然毒キノコとみなされるようになったのだ。その年北国で59件の発症例があり、うち17人が急性脳症で死亡した、と統計にある。
急に毒性をもったというのではなく、前年サーズ・コロナウイルス対策として感染症法が改定され、急性脳症の症例を全数報告することになったため、毒に当たる高齢者、腎機能障害者が浮かび上がった、ということではなかろうか。
スギヒラタケの成分に、ウイルス等の脳侵入をはばむ血液フィルター「血液脳関門」を害する効能がある、という研究結果がある。こうした研究が進んで、毒をもって毒(ウイルス)を制す、画期的ウイルス対策が開発されないかなぁ、と夢みたいなことを考えている。

時間はあるが体力がない今の私にはキノコ探しは夢のまた夢になってしまった。叶わぬ夢の中でもひときわ心残りのキノコがある。
駒ケ岳からの下山道で樹木の下で見つけた、図鑑に載ってないキノコである。近くの高校に勤務していた上田俊穂先生に観てもらったが判らないということだった。上田先生著『きのこ図鑑』(保育社)掲載のソライロタケにそっくりだが、純白でさわやかな芳香に富む。わたしは勝手に芳香オシロイシメジとよんで、華やかに舞うバレリーナを連想している。

   ソライロタケ  写真:井沢正名氏

2003年の秋、わたしは三国峠のブナ林観察会に参加した。最後の山歩きである。ブナの根元に黄金色の大笑い茸が叢生していた。指導員の「地球の平均気温が1度上昇するとブナは絶滅する」という言葉が耳に残っている。


趣味/シャクナゲ/やはり山におけ山野草

2021-02-16 | 生活史

    出典  環境省HP ヤクシマシャクナゲと永田岳
シャクナゲとの付き合いも山歩きから始まった。廃村八丁の古い土蔵の近くでひっそりと静かに咲いていた。大浜の一言がなかったら見過ごしてしまって、その花が私のシャクナゲ愛好に火をつけることはなかっただろう。
今西錦司先生が本の中でシャクナゲに触れている、と大浜がつぶやくように言ったのがきっかけだった。たしかに今西先生は1920年代の青年時代に生活=研究圏であった北山と芦生のシャクナゲを見ているが、その中間に位置した「八丁」には縁がなかったようだ。当時の該当地形図には等高線があるだけで、品谷山の名称と三角点、谷と川の名がない。
1970年代当時は日本シャクナゲブームで園芸店はどこもシャクナゲの鉢植えを並べて愛好者の気を引いていた。産地ごとに花と葉にわずかな違いがあることを強調して屋久島から利尻まで産地名をつけて購買心をそそっていた。
日本シャクナゲは白から淡いピンクまで気品のある花姿から花木の女王とよばれることもある。イギリス人が雲南あたりから持ち帰ったものが品種改良され今では華麗な西洋シャクナゲとして世界中で愛好されている。
わたしも、日本シャクナゲの小さな鉢植えをいくつかコレクトしたが、いずれも暑い夏を越すことができず枯れてしまった。その頃安南?原産の黄色いシャクナゲが京都かどこかの植物園で咲いたというニュース写真をみて、まだ見ぬ幻の花に憧れを抱いた。新聞の切り抜き記事がみつかったら貼り付けるつもりだ。
ほどなくして近くの植木団地で大きな鉢植えを見つけたときは心が弾んだ。しかし5千円もしたそのシャクナゲは黄色い花を見せることなく枯れてしまい、わたしのシャクナゲ愛はしぼんでしまった。高山植物であるしゃくなげの屋外鉢植え栽培は不可能と悟ったのである。
そのころ、あるできごとから私はコレクター、マニアを、ジャンルを問わず、無条件で尊敬するのをやめた。きっかけはシャクナゲだった。
廃村八丁の北に芦生の森京大演習林(今年で開所100周年)があった。周山、美山の里経由で大浜の医療グループに交じって私も入山した。大浜たちはブナや杉の大木で有名な原生林に向かった。わたしはひとりヤマメを釣りに繁みに隠れたような細流(日本海に注ぐ由良川の源流 )を遡った。
だれかに招かれて同伴していた京細工の男性は木工芸の樹木を採りに別行動をとった。分かれる際その工芸士は初対面のわたしに渓流釣り用の蓋付きの餌入れ(竹筒)をくれた。わたしは小さなヤマメが一尾釣れただけであった。
日暮れに車止めに集まったとき工芸士が語った失敗談にわたしは自分の思想を揺さぶられるほどの衝撃を受けた。かれはシャクナゲの大木の幹を切り出したが重くて持って帰るのを断念したと残念がっていたのである。
シャクナゲの大木は見たことがないがアズマシャクナゲで6m、ツクシシャクナゲで5mが最大らしい。そこまで大きくなるのに何百年か掛かったことだろう。
こういうことは工芸家であれ川漁師であれマタギであれ研究者であれ誰もがマニア、コレクターの域に達すれば陥りがちな過ちである。事業家、スポーツ愛好者も例外ではない。わたしは一途になる性格を自覚していたので自分が恐ろしくなった。
今だけ、自分だけ、金だけ、そして名誉だけ、にならないように、ときどき立ち止まって周囲、将来をみわたすべし。こんなまとめ方ができるのは、今の時勢、今の年齢だからこそであって、当時の自分は自己中心的だった。

最近の芦生研究林の見学記を読んだが天敵のオオカミが絶滅したため鹿害で若木と地表の草が食べられ再生できない場所もあって大問題になっているそうだ。
半世紀前、しゃくなげのトンネルで有名な大台ヶ原の頂きはトウヒの白骨林(伊勢湾台風の被害→苔に代わって笹が地表を覆ったことが原因)が白髪頭を連想させて痛々しかった。笹が笹を主食とする鹿の繁殖を招き、現状は一面イトザサに覆われ、さらに増えた白骨林が目立つ異様な景観となっている。植林しても鹿害(樹皮と若木を食べる)で未だに再生できないのだ。
現在環境省の生態系保全再生計画が進行中だが元の姿にするには百年かかるとも不可能とも言われている。さらなる不可逆的進行を予測する人すらいる。
山が荒れ保水力が低下すると豪雨災害が起こる。人為による地球温暖化が主因だと思うが山を荒らしているのも人間である。植物も含めて生物多様性を失わせるのは人間の活動のあり方に他ならない。

ニホンオオカミは明治末に姿を消した。最後の狼を殺したのは漁師=農民の銃か罠(駆除奨励金目当て)だが、絶滅させたのは、国民全体である。90年前の満州事変と同じパターンである。悪いのは狼であり、侮日・排日支那であり、鬼畜米英である。軍部に引きづられた政府が戦争を始めて、新聞が煽り国民が熱狂し、こどもを神の国教育で洗脳して、ついには世界平和の均衡が崩れた。


趣味/渓流魚追っかけ

2021-02-01 | 生活史

1970年頃いくつか趣味をもった。みな山歩きを発端とする。
八幡平トレッキングで川に入り水中で岩陰の大イワナと一瞬目を合わせて以来渓流魚に魅了されてしばらく渓流の天然アマゴを追っかけた。

    出典   WEB図鑑 投稿  hitomi
アマゴは西日本の太平洋側に棲息する美しい渓流魚である。日本海側と東日本に棲息するヤマメは同じサケ科であるが朱点がない。新婚旅行で訪れた北海道の民宿先に改めてヤマメ釣りに行ったが数尾しか釣れなかった。
盆休みにしか釣行の時間がないので、水温が上がる夏は北海道と云えども、渓流魚はほとんど食いが無い。筑後川上流の小国川(大分県)でも四万十川支流でも同様だった。
釣れないのに行く。それは渓流釣りの魅力もさることながら、渓谷の清々しさ、澄み切った清流の水面に映える木々の緑、耳朶にやさしいせせらぎと風の音のハーモニーが人の、少なくともわたしの、生理に合っているからだと思う。
釣り下手なのに行く。単独、日帰りで行った奥吉野は2度とも空振りだった。大浜、溝尾と行った天川村・神童子谷はエメラルドグリーンの美しい淵「釜滝」が有名で沢登りの名所であるが、大浜は大峰山登頂が目的で、私はアマゴが狙いで、いっしょに渓流を遡行した。5月の連休だったので釣れるかと思ったがさっぱりで上流の細い流れでようやく一尾釣り上げた。はじめての30センチ弱の大物だった。自慢できる尺越えに5ミリ足らなかったのが今もって残念でならない。その後は多忙で釣りに行く時間がなくなった。

   神童子谷  アマゴ
その晩深夜になっても大浜が戻って来なかった。軽装で懐中電灯なしでは遭難するかもと心配して、夜が明けたら救助の手配をどうするか、あれこれ溝尾と二人で思案した。日付が変わった頃彼はいつものようにニコニコ顔で還って来た。大浜を回想するときそれ以外の表情が思い浮かばないのだ。下山中に日が暮れて手と足で足下を探りながら谷を下って来たそうだ。

サッカー指導の話をからませるとつぎのようになる・・・。
わたしは部員の身体をできるだけ大きくするのも監督の務めだと考えていた。食べ物によって体が大きくなる例としてヤマメとアマゴを引き合いに出した。
孵化後渓流から海に下ったヤマメ、アマゴはそれぞれ最大70cmのサクラマス、50cmのサツキマスとなる。海の方が餌が豊富なだけ巨大化する。
人に敷衍して言えば、体の大小を決めるのは遺伝ではない。食事の質と量である。もっと突っ込んで言えば、国民の食習慣あるいは家庭の食習慣で決まる。近頃の若者の長身を見れば納得できるのではなかろうか。
これは自説にすぎないが海に下るのは餌取りに後れをとった「負け組」である。生物棲み分け理論[私流にいえばニッチ理論]を唱道した今西錦司博士、大浜が尊敬してやまなかった登山=探検家の今西先生なら、なんと言われたか興味が尽きない。
部員にこの話をして、だから毎日牛乳をたくさん飲め、としばしば勧めた。またこうも言った。牛乳はそれだけで仔牛が育つ完全食である。玄米はビタミン、ミネラルに富む完全食品であるが白米は米を白くした粕である。食材は消化できるなら丸々食べよ、丈夫な体を作るには骨皮筋衛門(ほねかわすじえもん)が良い。


子育て/自己評価67点でからくも合格

2021-01-01 | 生活史

1973年マンションに引っ越して3日後に長男が生まれた。妻は教員、私は自営塾の「先生」・・・こういう家庭環境では公立の保育所、幼稚園に入れてもらえなかった。結局そのご生まれた長女、次男をふくめて3人の子育てを昼間はわたしがやるほかなかった。そのころはまだサッカーの仕事はそれほど詰まっていなかった。
育児と云っても、大変なのは妻であってわたしではなかった。妻は土曜日は午後、日曜日は全日休みになるほか、ウイークデイも育児のない教員より早く定時に引けていた。私は入れ替わりにサッカーの指導に出た。少年サッカーは土、日と休日つまり学校が休みになるときが忙しい。

妻は5時に引けたとしてスーパーに寄って買い物をして帰宅し、家事一切と育児をする。幼子の育児は夜のそれが一番きついことは容易に想像できると思う。夜中に2,3度哺乳しなければならない。わたしはそんな苦労を免れていた。
妻が8時前に家を出たあとが私の育児当番である。哺乳、げっぷ出し、おしめ替えなどふつうに必要なことは何でもやった。離乳食の世話、日光浴と遊びを兼ねた乳母車散策、公園巡り、絵本読み聞かせもした。220戸超のマンションだったので育児中のお母さんたちと砂場で触れ合うこともあったが一度も不快な思いをしたことがない。
一番気を使ったのは子供だけになる4時過ぎから6時前の時間帯である。私はグラウンドに出かける。妻が帰宅するのは早くても5時半であろう。私はその間子供を寝させた。妻に最近育児で一番つらかった思い出を訊いてみた。やはり親が不在になる空白時間帯の子供の安全だった、という。校長も心配して早く帰れと言ってくれたそうだ。
隔年で子どもが殖え1歳、3歳、5歳の3人が枕を並べて寝る年もあった。制度が変わって3人とも5歳から幼稚園に通った。妻が送り私が迎えに行った。こどもが成長するにしたがって私の育児時間は短くなった。指導の現場に連れていくこともあった。
このころになると子供たちは寝たふりをしたあと起きて遊ぶこともあったと振り返っている。それでも無事に過ごせたことに私は満足している。同時に自分に人を支配する悪才があることを反省している。人は服従するものだ。服従させる人の通称は権力者である。わたしは家庭内の小権力者だった。
最近のことだがネットで以下の記事を見た。ソースをメモしなかったのでクレジットがない。筆者のご寛恕を乞う。<全くポリコレでは無いけど、イヤイヤ期の子供を「効率的」に育児するには、放置と強権発動とナマハゲの3つが必須なんですよね。向き合って大人扱いしたら大人が倒れる。>
共働き子育て女性の苦労が煮詰まっている重い言葉である。私は「効率的」に育児をした。上述のとおり放置した。寝ることを押し付けた。脅した自覚はないが長男にはその気おくれにいらいらして暴力をふるった。忘れて思い出せないだけかもしれないが、泣かれたりイヤイヤされたりして困ったことは記憶にない。なぜ子供たちが昼間従順だったのか分からない。多分わたしのコントロールする悪才がそうさせたのであろう。

幼い自分はどうであったか父母からあまり聞いていない。父母は農作業で多忙だった。母は弁当をもって父より遅れて家を出ていた。途中でイヤイヤして泣いて置き去りにされた記憶がある。その記憶だけは鮮明だ。道端に大木フィゲイラの切り株があった。イヤイヤは通じないと思い知らされたと思う。母に連れられて農園に行くのが当たり前だった。
一人っ子だから家でも一人遊びをするほかなかった。今でいう核家族である。両隣の農場に友達がいたが幼児が一人で行ける距離ではなかった。犬が身近な友達だった。
赤ん坊のころは畑で木陰に寝かされていた。近くで蛇がとぐろを巻いていたことがあった、という話を母はよくしていた。
私はたびたび子守をされている。乳児のとき近くに住む母の妹(叔母)が裁縫見習いを兼ねて来ていた。幼児の時は遠くに住む父方の従兄姉が泊りがけで来ていた。何も記憶が無いが写真で分かる。

 コーヒー園にて  1940年頃

親として、育児にイヤイヤ期や小1の壁があることも意識したことはないが、親離れしようと羽ばたきを始める小4の自立期にはしっかり対応できた。小4まで自分のクラブでサッカーをさせていた長男と長女が面白くないからやめたいと意思表示をした。強制された習い事から解放されて二人は自分の道を歩み始めた。次男はサッカーを続けて6年の時全国大会に出場した。
子育てには受験のサポートも入るが、我が家では親の考えで3人とも塾に行っていない。通いたいという声もなかったが、出世街道を好んでない両親の気持ちを忖度していたのかもしれない。孫たちが塾通いをしていることから判断するとそうだと思う。3人とも市内の公立高校に進学した。
結果論だが3人が職住近接で身近に住んでいる幸せを今ほどありがたく思ったことはない。身内共助でコロナ禍をのりきる自信と安心を得ている。

 あまびえ 孫(4歳)の描画

 


長男誕生/ハイセイコー、第一次競馬ブームの立役者

2020-12-18 | 生活史

1970年代に小学生以上であった人は競馬フアンでなくてもハイセイコーの名を記憶にとどめていると思う。高度経済成長の波に乗って地方から都会へ、なかでも東京に、夢を求めて多くの人が流れ込んだ時代である。しかもその年はオイルショックの直撃で高度経済成長の先行きに不安をおぼえる世相だった。マスコミが「地方競馬の怪物」と囃し立てていたこともあって中央競馬で人気が爆発した。
1973年、中山競馬場での初戦、弥生賞当日、改修前の競馬場は12万超の観客であふれかえった。実際に金網越しに芝生にこぼれ落ちた人も出た。次戦スプリングステークスもふくめて勝つには勝ったがフアンの熱狂をよそに不安視する競馬通のコメントが見られるようになった。
そして迎えたクラシック3冠レースの第一戦皐月賞。ハイセイコーは懸念された東京競馬場の重馬場を無難にこなし2馬身差で勝利した。地方競馬上がりでは史上初だった。ジャパンドリームが成った瞬間だった。もともと血統も良く育成中から大成を期待されていた馬だけに、地方とか公営とかを売り言葉にするのはどうかと思う、という評論に私も同感である。マスコミと大衆が共感しあい一体となってブームを演出したのだ。
NHK杯では東京競馬場に新記録の17万弱のファンが入場し、ブームは頂点に達した。ここでハイセイコーの連勝記録は公営を入れると10連勝に達した。
いよいよダービーである。大本命ハイセイコーは直線で伸びず5馬身ほど離されて3着に沈んだ。私はそういう敗戦の渦中にいたことがないのでその時の場内の雰囲気を表現できない、ただ想像するだけだ。
3冠レース菊花賞はよく記憶している。日赤の病院で長子の誕生を待つあいだ待合室のTVに釘付けになって観戦したからである。妻が顔に内出血するほどに力んで苦しんでいるとき競馬放送に夢中になっていた、と私は今なおデリカシー不足を責められている。もちろん長男の誕生にまさる興奮と感激はほかには代えられない。
その菊花賞であるが、直線で10馬身ほど前を独走していたがぐんぐん迫る長距離馬タケホープにゴール・ライン上で捕まった。ハイセイコーのサクセスストーリーは成らなかった。
ハイセイコーは2400m以上の距離は不得意で有馬記念も天皇賞も優勝できなかった。それでも勤勉、懸命に走り続けたハイセイコーに自分の姿を投影したのかフアンは「怪物くん」と親しく呼んで負けても最後まで熱い声援を送り続けた。
不況の中、いや不況ゆえに、73年の中央競馬の売り上げは前年比33.5%増だった。「競馬の大衆人気化への大きな貢献」(競馬をギャンブルからレジャースポーツにした功績)を買われてハイセイコーは競馬殿堂に入った。ハイセイコーの初年度産駒のカツラノハイセイコが日本ダービー・天皇賞を制して父の無念を晴らしている。


画像拝借 「さらばハイセイコー  ikuleeのブログ」
馬像と碑文を入れた値千金、最高のアングル !!!

 

 

 


トウメイを偲ぶ/アーモンドアイ、GⅠ史上初 9冠の快挙

2020-12-04 | 生活史

わたしはG1レースは観るが競馬フアンではない。1970年頃一時競馬場に足を運んだことがある。きっかけは友人に誘われて京都競馬場に行ったとき大観衆の正面を馬群が地響きを立てて駆け抜けるド迫力に圧倒されたことである。1点だけ買った連勝式馬券がハズレ万馬券(不人気馬を当てて人気馬を外した)であったことも後を引いた。
競馬の魅力は出走馬を分析総合して推理し予想する知的作業にある。さらに、ひいきの馬ができたら、その馬の物語を、まるでアイドルを追っかけるように、追い続け、一生忘れることが無い。私にそんな馬、「愛しい馬」ができた。

牝馬(ひん馬、おんな馬)のトウメイである。馬体は小柄で最高で430kg(有馬記念)だった。外見はまことに貧相な馬で「ねずみのようだ」と形容されることもあった。セリでの落札価格は破格の安値165万円だった。曲折有って栗東で調教されることになったが、気性が荒く人にも馬にも懐かなかったため引き受ける厩務員がなかなか決まらなかったそうだ。
私がTV観戦を通してトウメイを知ったのは一番人気を背負って走った1969年の桜花賞(2位)とオークス(3位)からである。そのときからトウメイのフアンになったのは、馬の実力に惹かれたというよりも、その生い立ちとぞんざいな扱いを受けた下積みからのシンデレラ・ストーリに惹かれたからだった。
トウメイの長所は、雑草の根性である。負けず嫌いで気が強く、アスファルトを突き破って顔を出す勁草のように、強靭な身体もあわせもっている。胃腸や歯が丈夫でよく飼葉を食べたという。心身ともに物怖じしないようにできていたのである。
短距離走者と長距離走者では筋肉の質が違うことはよく知られている。トウメイは(強い心肺機能=エンジンに加えて)両能が均衡する筋肉をもっていた。持久力が要る長丁場でも最後の直線で後ろから差し切った。それが31戦16勝、しかも一度も賞外(6位以下)なし、という見事な成績を残した由縁であろう。
最終年1971年のG成績は凄かった。
GⅡ マイラーズカップ 1600m 阪神 良 斤量55kg
GⅢ 阪急杯 1900m  阪神 不良 58kg
GⅢ 牝馬東京タイムズ杯 1600m 東京 重 59㎏ 
GⅠ 天皇賞(秋) 3200m 東京 良 56kg
GⅠ 有馬記念  2500m 中山 良 53kg
距離の長短、ハンデ、馬場の良・不良に関係なくすべて指し切ってG戦を連勝した。天皇賞では菊花賞馬アカネテンリュウ、ダービー馬ダイシンボルガードを下した。懐かしい馬名である。
私はトウメイを直接見る機会がなかったが、有馬記念はひとしお思い出深い。京都競馬場までわざわざ馬券を買いに行った。場内のモニターで中山競馬場でのレースを実況していた。
そのころ馬インフルエンザが猛威を振るっていた。有馬記念も開催が危ぶまれた。9頭立のレースで2頭が出走取消になった。無事これ名馬の格言通りトウメイが優勝し年度代表馬に輝いた。
2か月間東京開催ができなくなって、トウメイはやむなくそのまま引退し北海道で繁殖馬になった。7年後産駒の牡馬(ぼ馬)テンメイが天皇賞馬になった。史上初の天皇賞母子制覇である。穏やかな長寿を送り1997年32歳で永眠、今は無き幕別牧場に立派な墓碑があり公開されている。


先日(11月29日)GⅠジャパンカップがありアーモンドアイ(牝5歳)がGⅠ史上最多の通算9勝目を有終の美で飾った。無敗の三冠馬コントレイル(牡3歳)、無敗の三冠牝馬デアリングタクト(牝3歳)がそれぞれ2,3位に入って、世紀のドリーム・レースを繰り広げた。牝馬の大飛躍にトウメイを想う。


参考書 吉永みち子『旅路の果ての名馬たち』 1994年
第一章 テンポイント 第二章 ヒカルイマイ
第三章 トウメイ・テンメイ母子 第四章 プレストウコウ




往く年の涙/嗚咽と爆笑/大浜の死と孫の成長

2019-12-26 | 生活史

親友大浜のパートナー正子さんの電話で彼が8月19日に他界したことを知った。脳中枢の麻痺で数年間昏睡したまま寝たきりだった。覚悟はしていたが我分身を失った感覚に襲われた。喪失感は次第に薄まるが罪悪感は終生消えることがない・・・。
彼とは気が合うのか衝突したことがない。自然に同調しあっているので会話しても行動しても気持ちが安らぐ。
彼との付き合いは卒業直後に始まった。山や川や海にいっしょに行ってよく遊んだ。日常からの脱出、束の間の気晴らしである。
登山のルールと楽しみは彼に教わった。最初上高地から槍に登ったときは背中のザックが重くてついていくのがやっとだった。その後、剣・立山、八ヶ岳、北岳、御嶽等に登った。
 剣山荘にて

かれは病院の医師だったからそこの看護婦、職員を連れ出すことが次第に多くなった。大勢の中でわたし一人部外者だったこともあり、また彼らの歩行ペースが遅かったこともあり、二度目の槍に登ったとき私は団体のルールをわすれて、文字通り一気に駆け上がってしまった。向上した体力を自慢したいというけしからぬ気持ちがあったと反省している。大浜は病院の医師、わたしは少年相手とはいえサッカークラブの監督、体力が逆転して当然だ。
その後二人とも登山どころではないほど多忙になった。私は全国大会を目標にサッカーにのめりこんだ。大浜は日本有数のマンモス団地近辺に大きな病院を建設して院長として切り盛りした。バブル時代である。銀行の押し貸しで病院も自宅も自己資金なしで建てたようだ。
多忙は罪である、とつくづく思う。バブルが終息する頃まずわたしにツケが来た。舌癌である。功名心の強い医者の過剰医療(形成移植失敗)で死の淵を見た。阪大病院まで京都伏見の病院から彼は駆けつけてくれた。
2005年末労作性狭心症手術で自家移植した動脈2本と静脈1本を血流不足で失った。このときも相談に乗ってくれて阪大病院まで来てくれた。退院見舞の時はわたしが退院した後だったので、ナース・ステーションが見舞のメロンの始末に困ったと後日通院した際に聞いた。

その後大浜に会っていない。数年後彼が発病して車椅子を使用している、正子さんが世話していて見舞を断っている、と井ノ山敏江さんから電話があった。今思うに多忙の中、わたしが面会謝絶とつごうよく解釈したのではなかったか?  三者は家族づきあいだから面会謝絶にわたしが含まれる筈がないではないか?  後悔の念はつきることがない。
次に敏江さんから聞いた時には寝たきりで昏睡状態だった。そして数年経った。2016年春サッカーを引退したから多忙で行けなかったという自己欺瞞的弁解は通じない。昨年母を亡くした。ようやく押しかける決心がついた。
東福寺の桜が見頃をすぎた今年の春、電話しても返信がないのでアポなしで向島病院に行った。正子さんも院長の史朗君も気持ちよく迎えてくれた。身動き一つしない大浜はかなり太って見えた(若いころは塾の子にキューリさんと呼ばれていた)が血色は悪くなかった。何か奇跡がおこらないか、とあれこれ思案しながら帰った。
そしてこの秋、正子さんから訃報と偲ぶ会の案内が同時に届いた。非日常の友人代表として前で追悼の言葉を述べた。上に記した内容のことを喋って恩返ししてない、と言いかけた途端嗚咽がこみ上げて来て顔を覆って引き下がった。正子さんとしばらく思い出話をして帰った。

三つ子の魂百まで、オレはわがままだ。君に謝りたいが君はそんなこと気にもしていないだろう。君は結婚式に母を呼んだだけだったと記憶している。どうしてオレをよばなかったのかと訊ねると君の答えが振るっていた。「結婚は二人おれば足りる」 この伝でいくと「死は自分ひとりおれば足りる」 と君らしく達観していたかもしれない。 


つい先ごろ、3歳といっても正月には4歳になる孫娘がまだ母親のオッパイを吸っているので、いつまでもオッパイにぶら下がっていると、ママのオッパイが垂れ下がるぞ、とひやかしたところ、即座に「サッカーばかにはいわれたくないわ」と返された。
わたしは自他共に認めるサッカー馬鹿である。あまりの図星にあっけにとられて爆笑し涙が出た。誰に聞いた、と問うと、ユーチューブと答えた。

孫たちの家族が集う我が家の新年会はこの話題で盛り上がることだろう。だが、笑う門に福来たる、と笑ってばかりはいられない。疑似体験から得た知識と実体験由来の知恵は違う。自然と疎遠なデジタル優勢世界の将来に不安を覚えるこの頃である

 


1968年9月 借家生活と塾生募集/少年サッカー始動

2019-10-04 | 生活史

阪急住宅の端っこだった借家は広かったが、裏に大きな農業用ため池があったため湿気がひどく台所はカビだらけだった。なれない自炊でこんなことがあった。炊きあがった炊飯器の蓋を取ると裏に蒸されたナメクジが張り付いていた。ブラジルで遊び道具にしていたエスカルゴの仲間だろうからと思案して食べてみた。サザエの味がした。
裏の池ではタモロコがよく釣れた。小指ほどの魚だがコイ科らしく口の横に二本のヒゲ状触覚があった。向日町競輪場[の露天商?]を仕切っているという御爺さんと並んで釣り糸を垂れたことがあった。後日の公衆浴場で見かけた。背中一面に入れ墨がしてあった。年老いて小柄であったため倶利伽羅紋々が寂しそうにみえた。

何はともあれ塾生を集めなければならない。塾生募集の折込チラシを大量に作って新聞大手3社の配達店を通じて富田地区全域に配った。市内の塾の先駆けだったので定員を満たすのはたやすかった。そこに付け込んで抱き合わせ募集をしてサッカー少年を集めた。サッカーは無料なので抱き合わせ販売には当たらないが入塾希望がありながら断念しなければならないケースがあることは否めない。
塾が終わったあとサッカーをすることを入塾条件にしたので多すぎない程よい集まりになった。遊戯共同体とか殊勝気なことを綴りながら無意識にせこいことをやっていた。振り返って、せめてもの救いは性別と能力で差別しなかったことである。ただのこどもたちで塾に来る子はまれであった。
塾が終わると富田小学校の校庭で二つに分かれてゲーム=試合もどきをした。高槻市の校庭はどの小学校も5000平米より広い。しかもどの学校にももれなくゴールが設置されていた。明治からの誇るべき伝統に感謝したい。門柱はあるが校庭には放課後であれば夜間も自由に入れた。校庭開放という概念もなかった。集団で勝手にボールを蹴ってもとがめられることはなかった。明かりは職員室の照明である。唯一のボールは革製でわたしの私物だった。
の子は人なつっこい。サッカーをやっていると「おっちゃん、寄せて」と異年齢の地域の子が女の子までが自然に加わる。ブラジルの公園でならふつうに観られる光景である。
中に器量のいい運動万能の少女がいた。今ならすぐスカウトの声がかかっただろう。中卒のあんちゃんも上手で常連だった。よくゲームを仕切ってくれた。わたしも彼らに交じって童心にかえってボールを追っかけた。ラインもポジションもない団子サッカーだったが楽しかった。
塾の5,6年生には、運動能力が高くルールに通じていて技術にすぐれた男子が何人もいた。当時はクラスの有志が自分たちだけで放課後他校のクラスに試合を申し込むこともあった。
他校とはいっても生徒増で分離するまでは同窓だった。第一次少年サッカーブームの底流があったのだ。背景に日本代表のオリンピックでの活躍があった。
1968年10月、日本代表はメキシコ・オリンピックでメキシコに競り勝って3位に輝いた。得点王となった釜本はクラーマー率いる世界選抜の一員に選ばれた。それがどれほどの偉業であるかは、半世紀がたっても、日本代表がメダルに届かない事実と釜本ほどの世界的ストライカーを生み出していないことをみれば、明々白々である。

  値千金の先取点

 


寺小屋/自然が呼んでいる/アユの伝統漁に一驚

2019-03-22 | 生活史

1964年、卒業と同時に自活のため学習塾を始めた。西陣の大きな寺の一室を借りて折りたたみ式座卓を並べ黒板を正面に置いただけの畳部屋の教室だった。明治以前の寺小屋の場景に近かった。
対象学年は6年生以上だったと思うが定かでない。ニューホライズンの英語教科書と数学のプリントを使ったことを覚えているから中学生がいたことは確かだ。
学習塾と言っても生計のために始めたことで教育上の志があったわけではないので何も自慢できることがない。家業で忙しい両親に代わって子供の面倒を集会場で看ているという感じだった。母親たちとは入塾申し込み時に会ったきりで教育相談を受けたこともない。予習中心の塾であったが受験塾ではなかった。伝統産業の町西陣はまだ受験競争の圏外にいた。また子供たちは昔ながらに「過保護」からほど遠い境遇でのびやかに生活していた。
付き合った期間が短かったのでその一端しか記憶にないが・・・。
男共は身近な卒業生たちが結成してやがてスターダムに伸し上がるザ・タイガースの前身バンドとエレキギターに夢中だった。ビートルズ来日前後のことである。
女の子たちは町の子らしく早熟で男の子の話題が多かった。たわいない下ネタを投げかけられて返答に窮したことは忘れられない。大人をからかう風景など今でも見られるのだろうか? 女の子もおしゃべりで積極的な良い子だったが、女王様のまわりに同心円の結束をしていて扱いに気を使った。女王様が塾をやめたら周りの女の子は皆やめたことだろう。

親子がべったりでない環境であったから、休日には遠方まで、ときには泊りがけで、子供たちを連れ出すことができた。これも私に何か期するところがあったからではない。自分がいちばん行きたかったのである。受験勉強と学生運動で8年間封じ込められていた欲求がほとばしり出たに違いない。ある男の子が山行中に「自然が呼んでいる」と藪かげに駆け込んだが、本来の意味で自然が呼んでいるから私は少年少女たちを海や湖に、山や川に連れ出したのだった。
大学院生の白石と大浜が学習面もふくめて手伝ってくれた。友情以外に動機があるはずはない。長身の大浜には女の子が早速あだ名をつけ親しみを込めてキュウリさんと呼ぶようになった。

1964年秋 宇多野YH合宿 塾生と教育・院生の白石

 
1965年夏 琵琶湖水浴


1965年夏 塾生と医学・院生大浜 場所は下掲

 1965年夏 京北山国の家合宿
廃校小学校を利用した合宿所、管理人夫婦は隣接の農家の人だった。運動場で遊び調理室で自炊した。夜は卓球台を囲んだ。前の道を小塩川に沿って遡り峠を越えると廃村八丁の裏口に至る。4年後に塾生たちと辿った登山道である。今回は保津川-大堰川が小塩川とT字型に合流する山国井戸の「水泳場」で遊んだ。
バス停「井戸」の正面に清流の淵と浅瀬があった。土曜日にはよく太ったウグイとアユが群れていた。日曜日の午前にはアユが捕り尽くされていた。土曜日の夜からキャンプしていた一団が夜明けから箱眼鏡か水中めがねで魚を追いながら一匹残らず釣り上げたのだった。
この辺りではアユの解禁日が捕り方によって異なるようだ。友釣りが最初で水中眼鏡漁が最後らしい。投網で捕れない岩陰のアユまで捕り尽くすからであろう。
解禁日を8月1日とするとわれわれが観た光景は土日のことだったとわかる。
この釣り方は初めて見たので名称を知らなかった。弾性ラインのついた針を竿先に固定した竹竿をしゃくってアユを引っ掛ける漁法である。アユがかかると針が竿先からはずれ、アユが暴れてもバレない仕掛けである。
水中では竿の自由が利かない。アユは速い水流にもまれるように動く。2, 3年の練習で修得できる技ではない。数台の車で来てトロ箱にアユと米ぬかを詰めて持ち帰ったあの集団は何者か?

この漁法はしゃくりといって稀に残っている地方があるようだ。荒っぽい引っ掛け漁が一般的だが、わたしが見た名人芸は短い竿に1本針をつけてアユの動きを追いながら勝負するものだった。かつての川漁師は、友釣りの囮用のアユを傷めないように、この方法で背びれの際を引っ掛けて釣った、と聞いたことがある。
ダムができるまで国内トップクラスのアユ漁を誇った三重県宮川流域に伝わる仕掛けの一例を作者の了解を得て紹介する。
出典  ブログ「奥伊勢ななほ農園」

1965年の写真がないので4年後廃村八丁に行った際の写真で「水泳場」の一端を紹介して終わりとしたい。

 大岩のある淵

 周りの浅瀬


田沢湖~乳頭温泉郷~八幡平~陸中海岸/三陸大津波の教訓

2019-03-05 | 生活史

  八幡平トレッキング

大浜は登山愛好者で登山に詳しかった。山行に興味を抱き始めた私を八幡平トレッキングに誘った。初めて聞いた地名だった。登山ではなさそうなのでOKした。すべて彼が計画した。わたしは言われるままに登山用ザックを買ってキャンプに必要な物をこれまた指示に従って詰め込んだ。山行に不相応なわたしの身なり(上掲写真)がすべてを語っている。服装がまるでなっていない。運動靴を手にもって裸足で歩いている。大浜は100mほど先を歩いている。大浜の気持ちを察する余裕はわたしにはなかった。半ば後悔しながら、てくてくついていくしかなかった。
山歩きの出発点は田沢湖だった。日本一深い湖とも知らず水浴びした。

  秋田県田沢湖  1965年頃

 乳頭山  これも私の撮影

乳頭温泉郷は、まもなく秘湯ブームが来て不動のランクを占めたが、当時宿は多分一軒しかなく農閑期の湯治場であった。室町時代の市場の絵巻物にあった小屋の連なったような一棟の長屋という印象をもった。木の皮葺きの屋根、土間に板を敷いたような低い床...。
当時この温泉の由緒を知っていたら私の脳裏には対象そのものから得た別のイメージが刻印されたにちがいない。ここは江戸時代秋田藩主の湯治場で、私が見た長屋は警護の武士が詰めた茅葺き屋根のしっかりした長屋であり、今では「本陣」の名称で登録有形文化財になっている。

  乳頭付近  川湯?野湯?

幡平では小さな池塘が散在する湿地帯に苦しんだ。今のように木道がないので足をとられてザックが肩に食い込んだ。テント、ホエーブス・ストーブと白ガソリン、水・食料等共用物を分けて背負っていた。私の負担は大浜の半分位だったが未熟錬の悲しさ、口もきけないほど疲れた。
山を越えて滝上温泉(現在の滝の上温泉)に出た。一軒の家も人影もなかった。少し上に地熱発電所があった。一帯は地熱が高く、川岸に窪みを掘ると熱い温泉が湧いた。川の水を引き入れて温度を調節した。もちろん手造りの温泉で疲れを癒した。

  手造り温泉

もう一つそこで将来の趣味につながる体験をした。さして大きくない渓流に潜ったとき岩陰でトラ猫と鉢合わせになったと一瞬思った。猫ほどに大きなイワナだった。釣り道具を持参していれば・・・と悔やまれた。これが後に渓流釣りに嵌るきっかけとなった。
雫石では柱状節理の岸壁に見入った。振り返ると雄大な岩手山がガレ場を赤っぽく染めていた。ガレ場とは石がゴロゴロの斜面をいい、石が一つでも転がるのを見たらラク[セキ]と叫んで周囲に危険を知らせるのが山のマナーである、と大浜に教えられた。このように山行に必要なことはすべて彼から学んだ。
雫石市からバスで盛岡市に向かい何らかの交通手段で陸中海岸の浄土ケ浜に出た

 ここは浄土ケ浜の何処?

キャンプ地の写真である。背景は日出島である。ネットで調べたが写真に写っている自分達の居場所を解明できなかった。
浄土ケ浜の思い出は地元の暮らしにいくぶん触れたことである。山行ではそういうことは全くなかった。午前中に渡し船で島か半島に渡った。夏休みだったので昼間は水遊びの親子連れがかなりいたが夕方には迎えの船でみんな引き揚げてしまった。キャンプについての記憶が失われてしまったので、その「島」で一泊したとは言い切れない。
「島」では自給自足の真似事を経験した。中学生らしいグループが潜って岩礁域にいるアイナメを鉾で突き刺してとっていた。ご飯だけ持参しておかずは現地調達の焼きアイナメである
。われわれも大きな牡蠣を堪能した。どこかの養殖棚から縄がちぎれて海底の窪みに流れ着いたものである。海水温18度は泳ぐには冷たすぎると知った。


われわれが浄土ヶ浜にキャンプしたころ同じ宮古市の田老地区に最終的には総延長約2.4km,海抜10mになる大防潮堤がX字型の右脚部を残して完成した。
過去明治と昭和2回の大津波で人口の83.1%1867人、32.5%911人の犠牲者を出して津波太郎の異名をとった田老悲願の大事業を人々は「万里の長城」とよび、誇りにしかつ安住した。
ところが平成の大津波でも田老地域は人口の約4%181人の犠牲者を出した。それでも流失・全壊・撤去*棟数83.8%を考慮すると防潮堤の命を守る効果は大いにあったと評価できる。
*高台移転のためをふくむ。

 防潮堤右腕部が全壊  出典 河北新報

 堤防右腕部の跡形、確認困難

へそ曲がりのわたしはすぐ戦時中日本が高唱した大帝国「大東亜共栄圏」を連想してしまう。津波についても歴史から教訓を学びたい。

巨大防潮堤の過信、これが第一の教訓(ハード面)である。集落の高台移転がベストと分かっていたが適地が少なく、国の予算と生計の都合ですったもんだの末大堤防の建設となった。巨大堤防を過信して逃げ遅れた人がかなり出たと思う。
対照的なのは、浄土ケ浜の対岸・重茂omoe半島の姉吉漁港である。重茂地域のほかの7漁港同様姉吉漁港も壊滅したが、高台の姉吉集落(11世帯40人の小集落)は無事であった。重茂地域全体の犠牲者数は49人である。
姉吉の海から800m海抜60m辺りに昭和大津浪記念碑がある。
碑文「此処より下に家を建てるな 明治二十九年にも昭和八年にも 津浪は此処まで来て は全滅し生存者僅[わず]かに前に二人後に四人のみ* 幾歳経るとも要心何従[なにより]」 今回姉吉を襲った津波の最高遡上高度は40.5mで観測史上最高記録を競っている。
*それぞれ人口60人、100人以上。

 出典 『岩手県東日本大震災の記録』

第二の教訓も田老に関するもの(ソフト面)である。田老で生まれ育った田畑ヨシさんは、明治の大津波を経験した祖父の教えを守って昭和の大津波で8歳ながら山に逃げ命拾いをした。成人して紙芝居を活用した防災語り部として「津波てんでんこ」の普及に努めた。もちろん平成の大津波も生きのびて、多くの人に津波が来たら「てんでに」早く高いところに逃げる重要性を訴え続けた。田老地域が物理的に壊滅的損害を被った割には犠牲者が少なかったのは田老地区がこうした防災教育、訓練に熱心であったゆえでもある。

第三の教訓は浄土ヶ浜に関わる船舶避難についてである。観光名所・浄土ケ浜には遊覧船が3隻あった。2隻は流されたが、沖へ逃げるチャンスにめぐまれた1隻は2日後帰港できた。「動ける船は沖へ」は、私が知っていたぐらいだから、船長たちの間では常識であった。それでも一番津波の到達が早く波浪が高かった本州最東端・重茂漁協は所属船814隻中798隻を流失した。

最後に重茂漁協の逞しい復興物語を・・・。
重茂漁協は全漁港施設の機能を喪失した。切り立ったリアス式海岸の狭い浜はえぐられガラクタで船の置き場もない。倉庫も冷蔵・加工施設も、養殖設備も漁具も、すべて流失した。茫然自失していては、いつになるかわからない公的支援を待っていては、その間に若者が流出してハマが潰れる。見通しを立てねば離漁者が出る。
津波から29日後の4月9日漁協は全組合員400人余の集会で速やかに海に出ることを宣言した。「船は漁師の飯茶碗である」 流された船を集めて修理し、また日本海側に人を派遣して中古船を調達した。無事だった船をふくめて漁船をすべて漁協徴用とした。働けるものは共同作業に出た。費用は漁協持ち、収益は頭割りで分配した。一家に一隻船が行き渡るまでの応急措置である。いわば非常時共産制である。
早くも5月21日70隻ほどで天然ワカメ漁を再開させて全国ニュースになった。新造船も加えて船数はどんどん増加して、2年後には目標の400隻に達した。見事な自助、共助である。

なぜこういうことが可能になったのか?
重茂地域の特殊性に因るところが大きい。陸の孤島のような狭い僻地に1700人弱の住民。山と海だけで農地がないので生業が漁業だけ、しかもサッパ船(船外機で走る小型の磯船)で養殖ワカメとコンブ、ウニとアワビを採る家内漁業。船が無ければイエもハマもたちまち潰れる。
重茂漁協HPによれば藩政時代に先例があった。「音部地区では漁船が少なかったこともあり、コンブ、わかめ、鮑など共有の船で採捕し、生産物はひとまとめにした上で、民に分割し、平等に消費する共同経営体的な漁場利用がおこなわれていた」
共同体には精神と掟が不可欠である。重茂
には「人は人中」精神があった。人は人間、と言い換えてもよい。説明は不要であろう。
相互扶助の精神があるということは伝統的共同体が生きていたということでもある。それが漁協だった。競争と利潤追求の会社ではなく漁民の協同組合である。
それにしても一丸となれる漁協があって平時と非常時にそれを正しい方向にまとめ上げる人物(船で言えば船長)がいたということは何と幸せなことだろう。初代組合長は「天恵戒驕」という、縄文以来の先人の教えに通じる漁協訓を遺した。それに従って重茂漁協は代々「人と環境」にも留意して森と海の資源を守ってきた。自然との共生である。半島で一番高い十二神山は遺伝子保存林、55kmの長い海岸線は魚付き保安林として、原生林の伐採規制を維持している
。また合成洗剤使用反対、核燃料再処理工場稼働反対にも地域をあげて取り組んでいる。

こういうことができる漁協だから重茂漁協は生産から販売まで事業の一貫化、総合化にも成功して復興に備える資金の蓄えがあった。更に、拡大復興にも挑戦して新商品の開発により高齢化と後継者不足問題でも全国の先駆けとなっている。OMOEブランドを思えておきましょう。

 


廃村八丁・幻の土蔵/北山行

2019-01-23 | 生活史

恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉 
和泉市信太森葛葉稲荷神社に伝わる葛の葉子別れ伝説から。葛の葉は白狐の化身、子は「安倍清明」。江戸時代、浄瑠璃や歌舞伎となって庶民に親しまれた。今でも、きつねうどん、稲荷ずしを「しのだ」ということがある。[前頁問題に対する回答]

自分史への復帰にあたって起点と軸になる人間関係を明らかにしておく。
1964年春、卒業式後数日して親友溝尾を京都北方の岩倉に訪ねた。そう、岩倉具視が籠って討幕の陰謀を練った、あの岩倉である。そこで、そのご無二の親友となる大浜と初めて出会った。やがて医者になった大浜は岩倉に新婚の巣を設けた。訪れる度に通り抜けた路地の入り口に名刹実相院があるが私は一度も拝観しなかったことが今になって惜しまれる。
やがてわが師友・井ノ山さん一家も岩倉のさらに奥まった新興住宅地に伏見桃山の税務署官舎から移り住んだ。
私もまた下鴨北園町に離れの勉強部屋を借りて転居した。
こうして私の紹介で井ノ山、大浜両家族が出会い、それに家族を持った私の一家も加わった、三つ巴の家族的付き合いが始まるが、それはずっと後のことである。

大浜と溝尾の付き合いは下宿が同じだった?からと思われるが定かではない。二人の趣味が登山だったことは確かである。私の山行は二人に感化されて始まった。最初の山行は廃村八丁だった。京阪三条から京都バスで北上し広河原で下車、一泊用の装備を担いで登山開始、海抜770mのダンノ峠から海抜600mの八丁に至る。
5家族がようやく生計を維持できた谷間の小盆地である。八丁山は森林資源が豊富だったから古くから北と南の村が入会権をめぐってたびたび争った。
一番古い記録は1307年である。歳月が流れて明治維新による地租改正で地権の確定が施行されたとき代々山番をつとめていた5家族の共有となった。訳ありの隠居・元会津藩士の原惣兵衛が知恵を貸して5家族共同経営方式に加えて分家は山を下りるというちょっとした掟を導入して共倒れを予防したという伝説が残っている。明治維新で有力者が代表署名して田畑、山林、原野を私物化した歴史事実をかんがみると感嘆を禁じ得ない。土蔵も一つを5家族で共有していたと想像できる。これは必要が生んだ小さなコミューンではないか。

近代化が原因で太平洋戦争までに八丁は消滅した。1934年初頭に3mの大雪で盆地が埋まったことがダメ押しとなったといわれている。京大の山田名誉教授が過疎の語源は八丁にありとする論文をPDFで発表しているらしいがネット上で検索したが見つからなかった。
私たちの山行でかろうじて記憶に残っている印象を記す。ダンノ峠を過ぎると自然林のトンネルがあった。今は森林浴推奨スポットになっているのではなかろうか。さわやかな樹木の香りと枝葉のざわめきが涼しい風にのって身体を包む感じは幼いころのジャングル体験とはまた違った感覚を呼び覚ますものだった。ジャングルではサルや野鳥の鳴き声があちこちから木魂し積もった落ち葉の蒸れた匂いがひんやりした空気に充満していた。
登山者、ハイカーを引き寄せた土蔵は、ほかの建物が朽ちて背の高い雑草に埋もれる中ひっそりと建っていた。この土蔵ゆえに廃村を実感できたが現地は明るい開けた盆地にすぎず無常の野とか秘境とかを感じさせるものは何もなかった。私たちは土蔵の屋根裏に上がって一泊したが幽鬼に眠りを邪魔されることはさらになかった。
土蔵を有名にした最大の原因はその7,8年前に白い外壁の一面に描かれた高層ビルと街路の壁画である。今では熱心な研究者によって作者も作成時期も、土蔵の倒壊時期すらも解明されている。参照HP:柴田昭彦氏「廃村八丁の土蔵の歴史」

廃村八丁には4,5回行った。最初の時1966.7写真を撮っていれば、と悔やまれる。今回掲載した写真は1969年夏に撮ったものである。その時にはもう、心ない輩が焚火にしたのか外壁下部の板張りが剥ぎ取られて土壁が露出していた。
土蔵が亡くなって廃村を偲ばせるシンボルがぜんぜん無いにもかかわらず、名ばかりだが「廃村八丁」は山行コースの目玉として生き続けている。せめて写真で往時を偲んでほしいのでこの写真に限り自由に(できればソースを明示して)使って頂きたい。