自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

労作性狭心症/カテーテル・ステント留置術

2022-04-15 | 狭心症手術闘病記

自分の血管で冠動脈にバイパスを作る外科手術は失敗に終わった。2本の動脈と1本の静脈を無駄にした。また振り出しから始めなければならない。
心臓血管内科でステント留置の手術をすると告げられた。それができないから心臓血管外科でバイパス手術をしたのではなかったのか。セーフネットの3本目の移植まで失敗してなお打つ手があるのだろうか。
当時わたしは、外科失敗→内科で再手術を別個の治療と受けとって憤慨したが、今回調べてみると、医療側は循環器診療科による一体の治療として、最初から内科と外科の合同体制を組み、起こりうるリスクに対応できるバックアップ体制を取っていた。担当外科、内科それぞれ3人、署名人は外科執刀医、ほかに麻酔医。
カテーテルを使ったステント留置は、内科の仕事である。

 
イラスト画像 hochi.co.jp

図の通り大腿付け根から動脈血管にカテーテルを入れて左冠動脈主幹と回旋枝にステントを留置した。幸いなことに病変は左前下行枝には及んでいなかった。及んでいたら更なるバックアップ治療法はあったのだろうか。
ステント留置は大した手術ではなかったが私は大手術の後なので長期間入院をよぎなくされた。医療上必須ということで1週間ほどは無料の特別室に居た。その後は差額ベッド代がかかった。
どういうケアを受けたかあまり記憶にない。カテーテルで傷ついた患部に出血を抑えるために重たい「砂袋」を載せられた。看護実習生が私の生活習慣を聞き取って、高脂血症対策の食事指導ノートを作成してくれた。6ページもある長文で今読んでも間違いがない。
開胸部は順調に接合して痛くなかったが、大腿部内側が内出血で右下腹部まで紫色に染まった。長くそれによる激痛に苦しんだ。
カテーテルが血管を痛めて失血死する医療事故がつい最近ニュースとなった。すいすいとカテーテルを挿入する医師のなれた手付きを眺めていると簡単に見えるがやはりリスクを伴う手術であることをあらためて知った。
12月5日に退院した。通院から退院まで2か月半かかったことになる。

退院後17年経つが予後順調である。自転車で堤防を越えることもできる。ただ労作すると胸が苦しくなるので狭心症であることには変わりない。2,3か月に1回定期検診を受けスタチンとバイアスピリンを欠かさず服用している。
両薬は効果てき面、LDLコレステロールは平常値になり、動脈硬化は進行していない。飲み続けることが肝心! バイアスピリンの思わぬ副次的効果もあった。手術後、頭痛が100%なくなった。 

世の中何が幸いするか分からない。バイパス手術が成功していたら今頃移植血管の老化と劣化に苦しんでいるかもしれない。当時、移植静脈は10年もたない、ステントのほうが耐久性が高い、という評価だった。今はバイパスもステントも寿命が延びていると考えられ

# 手術失敗で得た人生訓 嘆くまい、失敗は成功の縁enishiである。

 


労作性狭心症/オフポンプ・バイパス手術の失敗/2005年11月

2022-04-09 | 狭心症手術闘病記

発病発見のきっかけは突然だった。サッカーの練習を河川敷の運動場でやっていたので、往き帰りに堤防を越えなければならなかった。堤防を自転車で上がりきると息切れがして同時に空咳が出た。
数回そういうことがあったので阪大病院で診察を受けた。その外来記録に「2005、9/20 運動負荷心筋シンチ」とある。種々の検査を経て循環器内科で労作性狭心症と確定診断がついた。

原画像 BostonScientific

左冠動脈主幹白抜き辺りの血管が90%詰まっている、身内なら即入院と循環器内科の佐藤Dr.に脅された。過去に心筋梗塞を起こしたことがあるのではないか、とも言われた。
舌癌を手術した際の失敗がよみがえって、すぐ国立循環器センターのセカンドオピニオンを受けた。やはり即入院と言われた。
2005年11月7日阪大病院に入院した。
奇しくも前日未明、歌手本田美奈子が急性骨髄性白血病で亡くなったことを病院のTVで知った。これから手術を受ける身でなかったら一歌手の訃報として見過ごしたと思う。彼女が病室でアメイジング・グレイスを無伴奏で歌う映像が特番で繰り返し流された。その時からアメイジング・グレイスと本田美奈子の名は私の闘病記の記念碑的存在となった。

循環器科で「狭窄部分を迂回して」バイパスをつくる手術か、循環器科で狭窄部分に「ステント(網目状の円筒)を留置する」手術か、チョイスするため、冠動脈にカテーテルを入れて造影検査をした。
検査は循環器内科の医師たちが担当した。検査台上で聞くとはなしに聞いていると「外科が喜ぶぞ」と言うのが耳に入った。なぜ喜ぶ? 俺は実験動物か・・・。嫌な予感がした。あの時と状況が似ている。
動脈の主幹部で患部の病変が二股分枝に掛かっていそうだ、二股ステントは無い、だからバイパス手術という結論になった。
画像診断の進歩にも関わらず、どっちに傾くか、辺縁部では「微妙」(当時のはやり言葉)な状態であった、ということだろう。11月9日撮影の画像を掲示する。



外科手術の執刀医≠主治医が決まった。3年前に博士課程を修了して助手となった、地味な風貌の真面目そうな医師だった。通院当初から退院まで始終彼が書類に署名し、主治医の署名は入院診療計画書に1回だけ、主治医と会ったかどうか何の記憶もない。
追加の検査やらインフォームドコンセントを受けて11日の午後手術室に入った。妻と娘が入口まで見送ってくれた。
手術時間最大4時間と聞いていたのでサッカーのコーチにその旨伝えておいた。
全身麻酔によるオフポンプ冠動脈バイパス術だった。これは心臓を止めないでする手術で、心臓を止めて人工心肺ポンプに心臓の代用をさせる従来の方法にくらべて、患者の体の負担が軽い。
胸骨を切って胸を開く。左右2本の内胸動脈を切り取って、それぞれの移植片(上図のグラフト)を冠動脈の患部を跨ぐバイパスとして血管に吻合させる。フェイルセーフのため太股の内側から切り取った長い大伏在静脈でもバイパスをつくる。そして実際に血液が流れるかを観る。
私の場合3本とも血流不足だった。失敗である。失敗をカバーする手筈までが狂って医師団は青ざめたのでは?  5%と言われたリスクにまたしても嵌ってしまった。
3本の移植片はやがて体に吸収されると聞いた。
今考えると、私が失敗とみなした手術は、循環器学界では想定内の事故で、前もって、次に打つ手まで用意されていた感じだ。冠動脈バイパス手術をネットで調べると、細い血管に血管をつなぐ術者の手技の重要性がもれなく強調されている。執刀医の助手が切りとる移植用血管の状態も手術の成否に影響する、とある。
技術は精度とスピードと同意語である。これが足らなかったことが考えられる。佐藤Dr.はたびたび外科病棟に様子を見に来られた。ひと言「へたやな~」。佐藤先生にはその後数年間定期検診でお世話になった。ガンバ大阪フアンで二川の活躍を喜んでくれた。その後開業された。
私見では、私の手術はキャリア助手の「卒業試験」だった。執刀医は私の手術を最後として循環器センターへの転勤の内示があった。出世である。
それから何年か経った頃、次の一手つまりステント留置を施行したと思われる二人の循環器内科医が私の循環器内科定期検診担当医になった。二人とも憶えていて「あの時は大変だったね」と言葉をかけてくれた。その内一人はしばらくして東北大に転勤になった。

わたしが病室で麻酔から醒めたとき時計は夜の11時を指していた。手術は4時間と聞いていたコーチは夕方5時ごろから妻にジャンジャン電話を掛けて来た。妻は長時間胸が絞め付けられる思いであっただろう。
私には、循環器内科ができないと判断していたカテーテルによるステント留置手術が待っていた。担当はもちろん循環器内科である。