ルイス号は大きな貨客船だった。
船尾から船首まで優に100mあったと感じている。
小僧どもにとって船内は未知の探検遊びの場だった。
船底の貨物室には入れなかったが客室階は乗員室から食堂までくまなく探検した。
乗客担当の船員はみなチャイナ系だった。
上級船員とも炊事担当とも仲良くなり航海中よくしてもらった。
ところで言葉は通じたのか?
通じたことは確かだが、意思疎通の方法については何も覚えていない。
乗船者が共有する船内生活の忘れられない思い出に食事がある。
来る日も来る日も同じ中華風メニューで大人たちはうんざりしていたようだ。
中でもみなが毎朝手を付けなかったのは、腐乳である。
この豆腐のピリ辛漬は、とっつきにくいが、食べ続けているとやみつきになる。
食い意地の張った私がそうだった。
当時は感じなかったが成人して再び出遇った時その美味に驚いた。
今でも中華街に行くと食材店を覗いてみる。
毎朝ミルクティーが出た。
ミルクコーヒーに慣れ親しんだ日本人にはこれは美味しくなかった。
船上最初の朝、目覚めると船がかなり揺れていて、手すりにつかまりつつ甲板に出てみると、すでにかなりの人々が島陰一つない海原を眺めていた。
子供たちは船酔いから覚めるとすぐ集団で船上を駆けまわった。
年長で体がでかかった二人で男の子たちの大将になった。
女の子のグループについては何の記憶もない。
恋する年齢の乙女たちのお喋りにちょっかいを出して大恥をかいたことがあった。
彼女たちはすぐにチャイナ系船員たちと打ち溶けてお喋りするようになった。
「大和撫子」のそんな積極性が「明治男」のわたしにはゆるせなかった。
あとでたまたま甲板で二人になったときにD家の次女に、恥ずかしくないの、と憎まれ口をたたいた。
番茶も出花の彼女、とっさに「君、素敵よ」とからかった。
思わぬカウンターパンチにあっけに取られて退散した。
体は大きくても12歳はまだこどもだった。
D家の三女についてはすでに書いた。
蚕棚のような二段ベッドの上で、日本では英語の勉強があると教えてくれた彼女である。