自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

狭山事件/万年筆が捏造の物証になった/三つの家族のエピソード

2020-07-21 | 狭山事件

5月23日別件逮捕、家宅捜索
6月17日釈放、すぐ殺人容疑で逮捕、18日家宅捜索
6月23日「三人共犯」自供、26日家宅捜索・万年筆発見 

1963年6月26日毎日新聞朝刊に「逮捕一週間前に会った石川」会見記が記者2名の名入りで掲載された。会見は5月15日の夜のことである。仕事帰りの石川さん宅にあがって石川さん、兄六造さん、父富蔵さんとテーブルを囲んで約1時間雑談した。いろいろ事件のことで水を向けたが特に変わったことは聞き出せなかった。
「私たちが帰るさい、石川はワザワザ玄関まで立ってきて≪どうもご苦労さん≫とカモイに手をかけていったとき、影になった彼の顔はすごく陰うつに見え、1m67~8cmの背丈のある彼から、背筋がゾーッとするほど冷酷なものを感じた」 
私がこの記事を掲載したのは、事件の最重要物証である万年筆の発見場所とされたカモイの場所と高さを示すためである。この件の「カモイ」は引き戸の上枠を指す。粗末な石川さんの家は、現代の家と違って、鴨居に手をかけて外に身を乗り出して声をかけることができた。ちなみにわたしの家は築23年だが、玄関の鴨居は背伸びしても届かないが、勝手口の鴨居はその上を手でかろうじて探れる高さである。
警察は逮捕まで二度家宅捜査をそれぞれ12名、14名で2時間以上かけてやったが何一つ証拠になるものを発見できなかった。裁判官は現場検証をしないで、一審判決では低くて「もし手を伸ばして探せば簡単に発見し得るところである」からかえって見落としたと云い、控訴審判決では背の低い人には高くて見えなかったという。誰しもこんな世間知に欠けるエリートに裁かれて冤罪で処刑されるのは御免だろう。
3度目の家宅捜索(たった15分の3名による家庭訪問)で勝手口の鴨居の上(床から176cm)から万年筆がみつかった。兄石造さんは捜査員から手渡された石川さんが描いた稚拙な図面(お勝手に同居する風呂場と文字「をかてのいりぐち」のみ記載)にしたがって勝手口の鴨居を見るとピンク系の万年筆があった。警部に促されて素手で万年筆をとった。これで捜査本部はその万年筆に喜枝さんの指紋も石川さんの指紋もついてないことを知っていたと疑われている。
石川家は、一雄さんたち地区の若者が少年野球チームの指導で世話になった近くに住む関巡査部長を疑った。川越署移送後も着替え下着等の受け渡しにたびたび石川家に来ていたからである。関部長は取り調べ室では石川さんの唯一の味方役を演じ最初の自白(3人共犯)を引き出した。また重大物証である自転車のゴム紐とカバンの「発見」に始終かかわった。


1970年の現地検証時に撮影 万年筆が在った鴨居
1992年元警察官の証言 
「後になって鴨居のところから万年筆が発見されたといわれまったくびっくりしました。発見された所は私が間違いなく捜して何もなかった所です」[責任者をふくめて証言者は7名いる]

このころ、私と知り合う前のパートナーが地区子供会を引率して上記現場を訪れている。石川さんの富蔵・リイご両親の表情をなくして沈みこんだ姿と何もしゃべらないことに、教師も子供たちも強烈なショックを受けた、という。「石川さんを返せ」と燃えている意識の高い行動的集団と対等に語るコトバを、ご両親はまだ獲得していなかったのであろう。
マルクスの歴史的評価を左右する「経済決定論」では貧困が向上心の程度を決定する。当時の石川家はその典型であった。石川さんは手ぶらで学校に行ったという。高学年になるほど出席が少なくなり、6年の出席は78日、成績は5段階評価でオール1、IQは平均値100であった。家計を助けるため仕事はしたがいっぱしの不良にもなった。
貧困の環境でも親の意識が高いと子供もシャンとなる例がいくらでもある。本人は憶えていないと想うが、狭山事件の現主任弁護士中山武敏さんは私が中学生の時小学生だった。目がくりくりと輝いていた利発な子だった。夜学で勉学し弁護士になった。その兄はわたしと同級でたがいに一目をおいていて仲がよかった。勉強ができ発言が明確だったからクラスの中で尊敬され指導格だった。
父親の影響であろう。お父さんは町長の不正事件を訴えてハンガーストライキを決行し、町民大会にこぎつけた。その後選挙で町長になった。私は父親に連れられてその大会の熱気にふれたことを憶えている。
中山兄弟のお母さんはリヤカーを曳いて廃品回収をしていた。よく我が家の縁側でわたしの親と歓談していた。何か買ったり売ったりした場面はみたことがない。わたしの父はあとで後ろ指をさす差別心理があったが、母が人を選ばない、誰とでもつきあう質だったので立ち寄りやすかったのであろう。
人間は国籍・人種を問わず貧しい人ほどひとを疑いひとを信頼する。その美徳は、恩義に厚く情に熱いことである。石川一雄さんはそれゆえに嵌ったと思う。石川さんは公判廷での無実宣言後もしばらく関巡査を信頼し続けた。

さて、押収された万年筆は被害者が当日も使用していた万年筆であろうか。被害者の所有物と証明されたならば、万年筆は石川さん有罪を決定づける物証となる。その逆であれば、公権力(県レベル以下の警察と検察)が冤罪をフレイムアップした証明になる。
被害者の兄は妹に買ってやって自分も時折借りて使ったものだと証言した。その際書き味*で確かめるために押収万年筆で書いたアラビア数字の羅列が同一物を否定する反証となった。
*「ペン先のかたさですね、そういったもの間違いなく善枝のものです」
押収された万年筆のインクはブルーブラック、善枝さんの日記帳、ぺん習字浄書の文字はライトブルーだったが、高裁は善枝さんが途中でブルーブラックのインクを注ぎ足す機会があったと推定して、実証せず、強引に無期懲役(死刑から減刑)に処した。最高裁は上告を退けた。
ところが第三次再審請求で証拠開示がすすんで科学的鑑定*が実施されると、善枝さんのインク壺インクと事件当日善枝さんが書いたペン習字からクロム元素が検出され、押収された万年筆で書かれた数字(兄の調書)からはクロムが検出されなかった。数字からは鉄分が検出された。補充可能性があったとされた善枝さん友人のインクと立ち寄り先郵便局のインクからもクロムではなく鉄分が検出された。
*「弁護団はインクで書かれた文字を分析したらどうなるかと考え、絵画や文化財などの顔料や資料を蛍光X線分析している下山進・吉備国際大学名誉教授に鑑定を依頼。検察庁へ閲覧手続きを申請し、検察庁へ蛍光X線分析装置を持ち込み保管されている証拠品」を分析した。
出典「えん罪 狭山事件」 https://sayama-jiken.jimdofree.com/

万年筆は被害者のものではなく、捏造された物証であることが科学的に証明された。2年経ったが現在のところ検察は、推測と可能性に始終する反論はしたが、反証の鑑定をできていない。 

狭山事件/脅迫状筆跡「時」の鑑定で浮かび上がった犯人像

2020-07-01 | 狭山事件

 左が真 中が偽 右が石川さんの時もどき 


わたしがブログで取り上げた事件はわたしが何らかの関わりをもった事件ばかりである。安保には教養部自治会役員として没頭したし、三池、水俣、三里塚には何度か足を運んだ。狭山も同様である。
狭山事件にかかわった経緯から始めよう。
私が少年サッカーの指導に有望な立地として選んだ学区がたまたま同和地区だった。同和教育指定校の校庭で職員室からもれる薄明かりに助けられて、塾の後に二組に分かれてボールを蹴った。おっちゃん、よせて、と地区の小中学生も加わった。わたしは教組青年部の教師たちの眼に「変な大人」がしょっちゅうボール遊びをしている、と映ったにちがいない。その中に3年後パートナーになる女性がいた。
当時、戦前からの水平社運動の流れをくむ部落解放運動がようやく政府と自治体を動かし、1969年に成立した同和立法を受けて、同和地区の生活環境改善と同和教育が燎原の火のように全国に広がっていった。それに油を注いだのが狭山事件の部落に対する集中見込み捜査と荒唐無稽の自白に基づいた死刑判決であった。
富田小学校は運動の渦中にあった。解放同盟大阪府連が呼びかけた「石川青年を返せ」の集会とデモがあり、同校の青年教師が地区の子供会と大人の識字学級を支援した。
大学時代部落研に関心がなかったわたしであったが、いつしか解放同盟発行の事件関連本と新聞で研究するようになり、三里塚に行ったのと同じ70,71年頃狭山に行った。案内者は情況社の三里塚の場合と同じ編集者だった。
地方紙『週刊埼玉』を営んでいた亀井トム氏と市職員の案内で、上赤坂の被害者宅と同じ並びに在る篤農家を訪ねて入植以来のムラの出来事、習わし等を訊いた。亀井トムさんは最初の本格的調査研究者で解放同盟による裁判批判の初期の筋書きに民俗学的影響を与えた。
『週刊埼玉』をとおして亀井トムさんとは10年間ほどコンタクトがあったが、すでに故人である。プライバシーの関係で彼が公表しなかった「証拠」話もふくめて、もっと詳しい話はおいおい織り込むつもりだ。
犯人追究の視点で思いつくまま献立を考えるが、アイテム間には時系列的あるいは論理的関連はない。

今回は、犯人の脅迫状と石川さんの上申書2通を比べて筆跡を鑑定する。

5月23日逮捕直後に書かされた上申書

出典   殿岡駿星『狭山事件50年目の心理分析』2012年

5月1日に届いた脅迫状 揺るぎない唯一の物証

wwwd.pikara.ne.jp/masah/symj009.htm 
上記、石川さんが逮捕された5月23日に筆跡を比べるために書かされた上申書と犯人が書いた脅迫状とをくらべると、検察がそれまで47年間開示しなかった理由が判然とする。
犯人の脅迫状は無知を装っているが筆者が事務で文書を書き慣れていることがバレている。
一方、石川さんは文章を書く知識がまるでなかったことがわかる。まちがいだらけ。普段必要とされる住所氏名は何とか書けたが番地二九08と名前一夫(正しくは一雄)は不正確。上申書の「書」、入間市の「間」、12時の「時」のように 画数が多いと見本をみて書いても奇怪な形になる。24才は書けたが、金20万円は、かね20まいん、きんに10まんいと2回とも間違った。日付5月23日は五月2  ❙3にちと書いた。上記の「に10」を引きずった「に13」の反映である。
7行の本文が句読点も段落もなくお経のように切れ目なくワン・センテンスになっている。行間はまちまちだが各行は直線並行でなく乱れて右下がりになっている。
本文で使用された漢字は五月二日12🈑と女の6文字のみ。🈑は時のつもりだが晴に似た時もどきである。これだけで石川さんは「時」を書けなかったとみてよい。

捜査本部が逮捕の根拠にした石川さんの時もどきは逮捕前のアリバイ書に綴られた三字である。

5月21日逮捕2日前のアリバイ上申書
wwwd.pikara.ne.jp/masah/symj009.htm 
捜査本部は、前々日5月21日に石川さん宅にてこの上申書を書かせて、すぐさま筆跡について科捜研の見解(鑑定が出たのは6月)を訊いた。そしてクロ説にもとづいて23日に逮捕した。決め手としたのが「時」の字である。左が脅迫状、右が上申書の時もどきである。

これを報じた東京新聞26日号は、違うともらしている科捜研の技官もいるというから、「よほどの特徴が無い限り絶対のキメ手とはいえず」とコメントしている。

これまで検察側、弁護側が比較鑑定して筆者の同一性を争った文字「時」は上記の二つのもどきタイプだけであったが、今では第三のタイプ(正しい字)が浮上している。

筆跡印影指紋柳田研究所の工学博士・柳田律夫鑑定人は、長年の日本刀銘鑑定でつちかった技に、最新のデジタル科学技術をプラスした鑑定法によって、脅迫状冒頭(左上)のカラスの巣状に抹消された箇所を解析し、消えていた「少時」の時の文字を鮮明に可視化した。

掻き消し痕跡調整写真  

第三次再審請求の為の柳田鑑定書から   www.kantei110.com/case.html

一目瞭然、この草書体の時こそ石川無罪を証明し真犯人の真の姿を映し出す物証である。[END]


上記の筆跡鑑定に関する一文に同意される方にお願いします。
前任者の退官を受けて着任した
大野裁判長に、脅迫状に浮上した偽りなき一字


に着眼していただくよう、一筆書いていただけたら嬉しいです。なお、当ブログ名、URLを付け加えても構いません。

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