5月23日別件逮捕、家宅捜索
6月17日釈放、すぐ殺人容疑で逮捕、18日家宅捜索
6月23日「三人共犯」自供、26日家宅捜索・万年筆発見
1963年6月26日毎日新聞朝刊に「逮捕一週間前に会った石川」会見記が記者2名の名入りで掲載された。会見は5月15日の夜のことである。仕事帰りの石川さん宅にあがって石川さん、兄六造さん、父富蔵さんとテーブルを囲んで約1時間雑談した。いろいろ事件のことで水を向けたが特に変わったことは聞き出せなかった。
「私たちが帰るさい、石川はワザワザ玄関まで立ってきて≪どうもご苦労さん≫とカモイに手をかけていったとき、影になった彼の顔はすごく陰うつに見え、1m67~8cmの背丈のある彼から、背筋がゾーッとするほど冷酷なものを感じた」
私がこの記事を掲載したのは、事件の最重要物証である万年筆の発見場所とされたカモイの場所と高さを示すためである。この件の「カモイ」は引き戸の上枠を指す。粗末な石川さんの家は、現代の家と違って、鴨居に手をかけて外に身を乗り出して声をかけることができた。ちなみにわたしの家は築23年だが、玄関の鴨居は背伸びしても届かないが、勝手口の鴨居はその上を手でかろうじて探れる高さである。
警察は逮捕まで二度家宅捜査をそれぞれ12名、14名で2時間以上かけてやったが何一つ証拠になるものを発見できなかった。裁判官は現場検証をしないで、一審判決では低くて「もし手を伸ばして探せば簡単に発見し得るところである」からかえって見落としたと云い、控訴審判決では背の低い人には高くて見えなかったという。誰しもこんな世間知に欠けるエリートに裁かれて冤罪で処刑されるのは御免だろう。
3度目の家宅捜索(たった15分の3名による家庭訪問)で勝手口の鴨居の上(床から176cm)から万年筆がみつかった。兄石造さんは捜査員から手渡された石川さんが描いた稚拙な図面(お勝手に同居する風呂場と文字「をかてのいりぐち」のみ記載)にしたがって勝手口の鴨居を見るとピンク系の万年筆があった。警部に促されて素手で万年筆をとった。これで捜査本部はその万年筆に喜枝さんの指紋も石川さんの指紋もついてないことを知っていたと疑われている。
石川家は、一雄さんたち地区の若者が少年野球チームの指導で世話になった近くに住む関巡査部長を疑った。川越署移送後も着替え下着等の受け渡しにたびたび石川家に来ていたからである。関部長は取り調べ室では石川さんの唯一の味方役を演じ最初の自白(3人共犯)を引き出した。また重大物証である自転車のゴム紐とカバンの「発見」に始終かかわった。
1970年の現地検証時に撮影 万年筆が在った鴨居
1992年元警察官の証言
「後になって鴨居のところから万年筆が発見されたといわれまったくびっくりしました。発見された所は私が間違いなく捜して何もなかった所です」[責任者をふくめて証言者は7名いる]
このころ、私と知り合う前のパートナーが地区子供会を引率して上記現場を訪れている。石川さんの富蔵・リイご両親の表情をなくして沈みこんだ姿と何もしゃべらないことに、教師も子供たちも強烈なショックを受けた、という。「石川さんを返せ」と燃えている意識の高い行動的集団と対等に語るコトバを、ご両親はまだ獲得していなかったのであろう。
マルクスの歴史的評価を左右する「経済決定論」では貧困が向上心の程度を決定する。当時の石川家はその典型であった。石川さんは手ぶらで学校に行ったという。高学年になるほど出席が少なくなり、6年の出席は78日、成績は5段階評価でオール1、IQは平均値100であった。家計を助けるため仕事はしたがいっぱしの不良にもなった。
貧困の環境でも親の意識が高いと子供もシャンとなる例がいくらでもある。本人は憶えていないと想うが、狭山事件の現主任弁護士中山武敏さんは私が中学生の時小学生だった。目がくりくりと輝いていた利発な子だった。夜学で勉学し弁護士になった。その兄はわたしと同級でたがいに一目をおいていて仲がよかった。勉強ができ発言が明確だったからクラスの中で尊敬され指導格だった。
父親の影響であろう。お父さんは町長の不正事件を訴えてハンガーストライキを決行し、町民大会にこぎつけた。その後選挙で町長になった。私は父親に連れられてその大会の熱気にふれたことを憶えている。
中山兄弟のお母さんはリヤカーを曳いて廃品回収をしていた。よく我が家の縁側でわたしの親と歓談していた。何か買ったり売ったりした場面はみたことがない。わたしの父はあとで後ろ指をさす差別心理があったが、母が人を選ばない、誰とでもつきあう質だったので立ち寄りやすかったのであろう。
人間は国籍・人種を問わず貧しい人ほどひとを疑いひとを信頼する。その美徳は、恩義に厚く情に熱いことである。石川一雄さんはそれゆえに嵌ったと思う。石川さんは公判廷での無実宣言後もしばらく関巡査を信頼し続けた。
さて、押収された万年筆は被害者が当日も使用していた万年筆であろうか。被害者の所有物と証明されたならば、万年筆は石川さん有罪を決定づける物証となる。その逆であれば、公権力(県レベル以下の警察と検察)が冤罪をフレイムアップした証明になる。
被害者の兄は妹に買ってやって自分も時折借りて使ったものだと証言した。その際書き味*で確かめるために押収万年筆で書いたアラビア数字の羅列が同一物を否定する反証となった。
*「ペン先のかたさですね、そういったもの間違いなく善枝のものです」
押収された万年筆のインクはブルーブラック、善枝さんの日記帳、ぺん習字浄書の文字はライトブルーだったが、高裁は善枝さんが途中でブルーブラックのインクを注ぎ足す機会があったと推定して、実証せず、強引に無期懲役(死刑から減刑)に処した。最高裁は上告を退けた。
ところが第三次再審請求で証拠開示がすすんで科学的鑑定*が実施されると、善枝さんのインク壺インクと事件当日善枝さんが書いたペン習字からクロム元素が検出され、押収された万年筆で書かれた数字(兄の調書)からはクロムが検出されなかった。数字からは鉄分が検出された。補充可能性があったとされた善枝さん友人のインクと立ち寄り先郵便局のインクからもクロムではなく鉄分が検出された。
*「弁護団はインクで書かれた文字を分析したらどうなるかと考え、絵画や文化財などの顔料や資料を蛍光X線分析している下山進・吉備国際大学名誉教授に鑑定を依頼。検察庁へ閲覧手続きを申請し、検察庁へ蛍光X線分析装置を持ち込み保管されている証拠品」を分析した。
出典「えん罪 狭山事件」 https://sayama-jiken.jimdofree.com/