1963年正月帰省を終えて水俣に様子伺いに行った。
183日間にわたる長期争議が終わろうとしていた。
総評、組合が熊本県地労委の斡旋を受け入れたことにより闘いは「和平」の段取りに移っていた。
水俣闘争は合理化の波が化学産業に波及してきた以上の意味をもっている。
わたしは日経連の機関誌と労働運動情報誌を購読していたから一連の労働争議を合理化に隠れた階級闘争として認識していた。
資本側の参謀本部日経連には前田一専務理事がいた。
かれが一貫した目標と里程標にしたがって右翼の支援を受けつつ指導していた。
三池闘争では、労働者に階級教育をおこなっていた向坂教室と闘争の中で育った三池労組の職場活動家の排除を標的にしていた。職場では安全と公平を求めて活動家が職制と日常的に対峙していた。もちろん日経連は炭労、総評の弱体化まで射程に入れていた。
大正闘争では、田中社長が手持ちの金がなかったから妥協しなかったのではない、金は都合をつけようと思ったら付けることができた、と負け惜しみにも聞こえる発言を後日している。
田中社長の言動には「赤色革命の火の手」を封じ込めるために非妥協的に戦うのだ、という強い意志が読み取れる。「私が損得を離れて、とにかく”この一線”を頑張り抜いたのは筑豊を革命の手から救い、石炭業界の安泰を願う一念からにほかならなかった」と振り返っている。*田中直正著『大正鉱業始末記』
新日本窒素水俣闘争・・・
会社は組合の賃上げ要求に対して4年間の春闘休戦と「安定賃金」を回答した。
春闘相場を超える「安定賃金」を保証するから統一春闘から抜けろ、というわけだ。
所属合化労連を分断し、春闘の統一と団結の要石を崩して、総評を無力化する戦略のテストケースだった。
ちなみに総評太田議長は合化労連委員長。「安定賃金」による攻撃は根拠地を攻める極めて戦略的な布石だった。
日経連前田専務理事が三池闘争、炭労政策転換闘争で余力を失くした総評に追い打ちをかけた戦いだった。
総評太田議長は売られた喧嘩、買わないわけにはいかない。現地への動員とカンパで対抗した。
支援部隊では三池の労働者(のべ4,200人参加)の手慣れた戦いぶり、思想性と士気の高さが際立っていた。水俣の活動家はそれに刺激を受けて日々成長しているようにわたしには見えた。
総評議長は最初から落としどころを探っていた。関ケ原の後の大坂方みたいなものだ。
三池で煮え湯を飲まされた斡旋にふたたび渡りに船とばかりに飛びついた。
斡旋結果は「安定賃金」撤回、争議指導者代表2名「自発退職」だった。
組合員は指導者の事実上の懲罰解雇に涙をのんだ。
後日この地労委自身による不当労働行為の盛り込みは太田議長が闘争終結のため涙ながらに地労委に持ち掛けて実現したことが明らかになっている。
ちなみに争議終結時の組合員数は2400対1000名、本組合が多かった。
生産阻害者とされた職場活動家の解雇は免れたが、職場復帰の日から会社側の猛烈な不当労働行為、差別待遇が始まった。
元の職場に戻った者は25%、指導的活動家は工場外に新設の施設5課でプレファブ小屋に通勤させ道路整備、溝さらえ等をさせた(ほぼ18%)。
一般組合員は、配置転換するとか、雑作業部で草むしりや窓ふきをさせるとか、虚弱体質の人を炎熱3交代のカーバイド工場で働かせるとか、後にJRが国労労働者に対してやったような人権侵害を、チッソは執拗に行った。
会社は新採用者の本組合加入を許さなかったから、差別、嫌がらせと「希望退職」攻撃に耐え抜いたとしても、最後の一人が定年を迎えたら組合は消滅する運命にあった。2004年3月26日組合は退職者をまじえて名誉ある解散大会をもった。
驚くべきことは、会社側の卑劣な揺さぶりにもかかわらず第2組合への脱落が少なく圧制に耐えながら労働者が成長し最後まで頑張ったことである。
会社による差別と嫌がらせが水俣労組を三池労組と並ぶ高みに押し上げた。
わたしが行っていた当時、組合は水俣水銀病患者と共闘していなかった。
1959年11月不知火海の漁民2000余が大挙してチッソ構内になだれ込んで怒りにまかせて大暴れした話は青行隊員から聞いたが、抗議を受ける側のかれらの中に共感者がいたかどうかはわからない。
組合は漁民の工場操業停止要求に反対の決議をした。
その数か月前熊大研究班の有機水銀説発表と細川Drによるネコ400号廃液投与実験で病原物質が工場廃水の有機水銀であることがわかっていたが、政権がそれを認めるのは9年後の1968年9月である。その間チッソはメチル水銀の垂れ流しをつづけ被害地域を不知火海全域に広げた。
長い間、会社はいうに及ばず、行政も政府も医学者も、そしてマスコミも原因不明の奇病とみていた*ので、患者は伝染病もちとして孤立し差別の只中にいた。
*一方で地元の医学者・学生、文化人を中心に全国の有志が支援に動いていた。
初めのころはムラ八分どころではなかった。公共の機関からも拒まれて隔離病舎から遺体を線路伝いに家族が背負って帰ったこともあった。
水俣労組は仕事に復帰した後言語に絶する差別を受けて、はじめて水銀患者の苦難に共感した。
組合は無為を反省し1968年8月末定期大会で「恥宣言」を決議した。
*自治労大会も同月に物心両面による支援を決議していた。
そして公害反対ストを実施しチッソ正門前で犠牲者合同慰霊祭をもった。
水俣病裁判では会社の就業規則違反覚悟で6人が証言をした。
裁判勝利に貢献した画期的な企業内部告発である。
私はこの稿を書くにあたって証言者の一人石田博文氏の自伝的著書『水俣病と労働者ーチッソ水俣の労働者は水俣病とどう向きあったのかー』(2013年 自主出版)に大きく依拠した。
石田青年は安賃闘争当時機関紙部員として隣室にいたが面識はない。
「学卒」でなく組合活動に興味がなく会社サッカー部の活動に熱中していた一青年が戦いの中でたくましく成長していくさまは感動的である。
かれの不屈の生きざまを通して一人だけでなく大勢の組合員が語り合って手を取り合って困難に打ち勝っていくさまが目に浮かぶ。
組合員と退職者の人間的成長と連帯、さらに水俣病裁判への共鳴に深く敬服する。