関東大震災から100年、追悼のイヴェントが盛況である。映画「福田村村事件」はずっと気にかけてきて観たくてたまらんが難聴で断念するほかない。百年を記念してこのブログの関連シリーズをタイトルだけ紹介したい。あまり知られていない話題を満載しているので、読んでいただけたら満足されると思う。2017年執筆の記事である。
「治安維持という名のテロ/平澤計七・川合善虎たち虐殺/関東大震災」04.21
「間島出兵/不逞鮮人/関東大震災・朝鮮人虐殺の前史」05.14
「関東大震災/朝鮮人ジェノサイド/四ツ木橋/名もなく遺骨もなく」05.27
「関東大震災/王希天暗殺/共謀して国が隠蔽」06.14
「関東大震災/中国人虐殺 なぜ?/王希天暗殺」06.30
「憲兵隊による世直しテロ/大杉栄夫妻と孫虐殺/大正社会運動の扼殺」07.23
「朴烈・金子文子大逆罪適用/義烈団爆弾事件」08.09
「早稲田の森の怪人/早大・小樽高商軍教事件/反動と抵抗」09.20
鈴木裕子編 [増補新版]『金子文子 わたしはわたし自身を生きる』(2013年) 梨の木舎
大震災の二日後「不逞社」を名乗って思想誌『現社会』(『太い鮮人』名で1,2号発行、広告が集まらないので改称)を発行していた朴烈・金子文子夫妻が「保護」検束された。不逞鮮人を公然と名乗っていたが要視察朝鮮人として尾行、監視されていただけだった。不逞社は、あえて集う者の共通点でいえば「天下国家を亡くせ」と語りあうニヒリスト、アナキストの同好会といったところだろう。
司法当局が意図して調べているうちに、朴烈が爆弾入手を不逞社の金重漢に頼んでおきながら後で依頼を取り消したため相互不信から両者喧嘩別れになったことが判明した。またそれ以前に、上海フランス租界の秘密結社義烈団と通じている金翰*に爆弾を分けてもらうために両三度ソウルに渡航していることも分かった。だが1923年2月頃、上海から持ち込まれた爆弾と革命宣言文書が押収され義烈団員等が金翰をふくめて18名逮捕されたため、朴烈の爆弾入手のルートはほぼ断たれた。
*上海からの爆弾受領・保管予定の社会主義者、元総督府警務局嘱託
義烈団は3.1独立運動の非武装路線に失望した青年金元鳳によって1919年に吉林省で結成され、上海の大韓民国臨時政府内の武闘派を構成した。押収された申采浩1923年1月起草の「朝鮮革命宣言」によると、暗殺、破壊の標的は、①朝鮮総督及各官公吏 ②日本天皇及各官公吏 ③探偵奴、売国賊 ④敵の一切の施設物 である。
義烈団は大正末まで少数精鋭による爆弾攻撃*で独立運動をリードしたが民衆の覚醒、決起という期待した効果を得られず行き詰まった。そこで金元鳳は、組織的な抗日武装闘争への転換を考えて、孫文が設立した黄埔軍官学校(校長は蒋介石)に入学した。
*釜山警察署爆弾事件(1920年9月)・密陽警察署爆弾事件(1920年11月)・朝鮮総督府爆弾事件(1921年9月)・上海黄浦灘事件[陸軍大将田中義一暗殺未遂](1922年3月)・ソウル鍾路警察署爆弾事件及都心銃撃戦(1923年1月)・東京二重橋爆弾事件(1924年1月)・北京スパイ暗殺事件[1](1925年3月)・東洋拓殖会社及朝鮮殖産銀行ソウル支店襲撃事件(1926年12月) 出典 ヌルボ・イルボBLOG
上掲書『わたしはわたし自身を生きる』(2013)には「何が私をこうさせたか」と題する文子の獄中手記が収められている。幼くして、別れた父母に見捨てられ親戚の間でたらいまわしされて世の辛酸をなめた末、運命の人朴烈に出会うまでの自叙伝である。
文子 10歳頃 https://sinkousya.exblog.jp
物心ついてしばらくして、父親が若い女を家に連れ込んだころから一家の暗転が始まる。地獄絵のような人間模様と家族崩壊、どこにも安らかな居場所がない文子の日常がつづられている。
文子は少女期の9歳から7年間近くを朝鮮の父方の祖母、叔母(父の妹)の形ばかりの養子にされ下女として扱われる。その際出生届のない無籍児だったので母方の祖父母金子家の五女として入籍された。かくて実父は佐伯文一、実の母は佐伯籍に入ってないので金子キク、キクと文子は戸籍上は「姉妹」となった。何とも複雑で無情な環境で育ったものだ。朝鮮での過酷な日常も記述できないが文子が投身自殺を図ったことだけは記しておく。
養家岩下家は総督府による「土地調査事業」で朝鮮の山林田畑を獲得して朝鮮人を牛馬の如くこき使う地主で高利貸しも兼ねていた。居場所のない文子に「麦ご飯でよかったら」とご飯をすすめてくれた朝鮮農婦の優しさが愛に飢えた文子の心にしみた。文子はまた1919年の3.1独立運動の光景を目撃した。17歳の朴烈も3.1デモに参加して独立新聞発行、檄文散布等をしている。平たく言えば学生運動のビラまきであろう。
尋問で「朴は独立運動者ではないか」と問われて文子は応えている。「私すら権力への反逆気分が起こり、朝鮮の方のなさる独立運動を思う時、他人のこととは思い得ぬほどの感激が胸に沸きます」 いわんや朴烈をや。
目撃体験は類似境遇の文子の魂に「異常な同情」と「反抗の根」を植え付けた。直後に16歳の時内地に帰った、いや用済みになったので岩下家から返された。
内地での細かいことは省く。父も母も娘を金づるにしようとしたことだけを付言しておく。
向学の志抑えがたく17歳の時上京し、苦学する。と言っても学校(正則英語学校と研数学館)に通ったのは数カ月間だけ。夕刊販売、女中奉公、石鹸粉の出店、印刷屋の活字拾い、主義者が寄ってくるおでん屋の女給・・・その過程で、主義者に出会い、耳学問や書籍、雑誌で社会主義、無政府主義、ナロードニキの知識を得る。新山初代と友達になり本を借りる。
短期間で古今の宗教、哲学の知識を学習した聡明さと理路整然とした論説の表現力に感服した。特にスティルナー、ニーチェの自我に発し自我に還る思想の影響を受けて自己の思想形成をしたようだ。分かったような物言いをしたが私は本当は哲学史に疎い。
また破戒僧、救世軍、自営社会主義者、有名社会主義者と出会った生活体験から仏教、キリスト教、社会主義を敬遠するようになる。また従順で卑屈な労働者・農民大衆の無知にも愛想をつかした。
難波大助同様金子文子もまた大正ルネサンスの思潮にもまれて主義者に変身した。
そしてただ一人魂と志を同化できたのが無名の無宿無定職の「同業者」朴烈だった。1922年朴烈の詩「犬コロ」(天に逆らう犬畜生)に共鳴した文子は自ら望んで朴烈に遭い、桜の咲くころ思想の一致を確認し合いかつ運動では女性として扱わない約束をさせて同棲した。どちらか一方が権力と妥協したときにはただちに共同生活を解消することも確認し合った。
紅葉の季節に夫婦で思想団体「黒友会」を立ちあげた。その運動誌の名は『太い鮮人』、不逞鮮人では当局の許可が下りなかったから。
1923年4月には、虚無主義に近い者が集う「不逞社」を組織した。加入者に同時検束された金重漢、新山初代(結核で獄死)、栗山一男(金子文子自伝発行推進)等がいた。
二人の活動は、思索執筆活動中心で実践活動にはほとんど関わっていない。朴烈に信濃川支流発電所工事/朝鮮人虐殺真相調査会参加と大島製鋼争議支援、文子にメーデー参加の事実があるにはある。二人とも独立運動、革命運動には共感はするが加担しない。成功の暁に誕生する権力もふくめてすべての権力に反対だから、と述べている。
金子文子尋問調書に戻ろう。爆弾入手の頓挫についてはすでに述べた。
爆発物取締罰則違反被告事件 第1回尋問調書
「私の思想は一口に言えば虚無主義です」 不逞社は「不逞の徒の親睦を計るために組織したのであります」「不逞の徒が寄り集まって気焔を挙げそのとばっちりを持っていくのです」「同志の中の気の合った者が自由に直接行動に出るのです」「まあ貴方方お役人を騒がせることです」
第12回尋問調書
爆弾の使用対象と理由について問われて文子は長い陳述をおこなった。カストロが法廷で自分を弁護した演説「歴史は私に無罪を宣告するだろう」を想い出しながら読んだ。
「地上における自然的存在たる人間としての価値からいえば、すべての人間は完全に平等であり、したがってすべての人間は人間であるという、ただ一つの資格によって人間としての生活の権利を完全に、かつ平等に享受すべきはずのものであると信じております」
100年近く前にかくも美しい人権宣言を発した人がいたことに感動する。美しすぎる! 虚無主義の彼女に似合わない。下段の文子の脚色コメントはこの部分もカヴァーしていると推測する。
しかるに・・・「地上は今や権力という悪魔に独占され、蹂躙されているのであります。そうして地上の平等なる人間の生活を蹂躙している悪魔の代表者は、天皇[病気中]であり皇太子であります。私がこれまでお坊ちゃんを狙っていた理由はこの考えから出発しているのであります」
続いてこの狙いの民衆に対する「宣伝」効果に言及している。長くなるのでキーワードだけ拾う。
天皇、皇太子が少数特権階級の「操り人形であり愚かな傀儡に過ぎないこと」の明示
天皇の「神聖不可侵の権威」の否定
天皇に神格を付与する根拠となっている三種の神器等の因襲的伝統の否定
神国とみなされている国家と忠君愛国主義が特権階級のための機関、方便であることの明示
儒教に基づく教育勅語等の道徳観の否定
まとめると、これらの「外界に対する宣伝方面」は自分の「内省に稍々着色し光明を持たせたものに過ぎないのであって」「私の計画を突き詰めて考えてみれば、消極的には私一己の生の否認であり、積極的には地上における権力の倒壊が究極の目的であり、またこの計画自体の真髄でありました」
1923.10.20 『大阪朝日』号外「震災の混乱に乗じ、帝都で大官の暗殺を企てた不逞鮮人の秘密結社大検挙」 (不逞社同人16名の検挙、多分3名以外は不起訴)
同日、政府は震災時「朝鮮人による暴動」についての報道を一部解禁し、同時に暴動が一部事実であったとする司法省発表を行った。朴烈・金子(氏名はまだ未解禁)事件もその「一部事実」のインパクトのある証拠として利用されたのだった。
1924.2.15 朴烈、金子文子、金重漢、爆発物取締罰則で起訴
爆弾入手を相談した共謀罪容疑での起訴は、朝鮮人虐殺を招いた流言を一部正当化したい司法官僚にとって格好の弁明、世論操作材料となった。
しかし審理を重ねるうちに抜き差しならぬジレンマに陥る。大逆罪が絡んでくるからである。
1925.7.17 小山松吉検事総長、朴烈と金子文子を刑法73条と爆取罰則で起訴
名うての国粋主義司法官僚は、皇太子成婚式を狙って爆弾を投ずる空想、意図を大逆罪(刑法73条)容疑で裁くメリットを感じていなかった。パン種をふくらませてパンを焼くように、共謀をでっち上げて限られた数の無政府主義者を一網打尽にできた幸徳事件の頃とは状況が違う。韓国併合により独立を志向する反逆者は膨大な数にのぼる。すべてを極刑にできるわけがない。転向を促す法律が必要だった。
司法官僚は、大逆罪適用はむしろ大逆を意図する日本人が難波大助以外にもいるという隠したい現実が明らかになるデメリットの方が大きいと考えた。だから検事は審理中たびたび考えを改める気はないかと哀願するかのように問うて文子を苛立たせた。自然科学方面に没頭しないかとまで言っている。精神鑑定に同意させようともした。
死刑を望む主義者の出現に硬直な(一審制で極刑しかない)大逆罪だけでは対応できない状況が生じていた。柔軟で伸縮自在の治安維持法は大逆罪の欠陥を補う魔法の剣として同時期に登場した。
1925.11.25 記事解禁により『東京朝日』夕刊「震災に際して計画された鮮人団の陰謀計画」 『東京日日新聞』夕刊「震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件」
1926.3.25 朴烈と金子文子に死刑判決 4月5日恩赦で無期懲役
恩赦は二人にとって侮辱以外の何ものでもなかった。文子は恩赦状を破り捨てた。7月23日文子は刑務所で自死、朴烈は敗戦によって22年後解放された。
1926.7.31 読売新聞 見出し「共同墓地に葬った文子の死体を掘り出す 実母と同志が死体引取の交渉 謎に残る、彼女の死因」 見出し「書き遺された手帳が抹殺され、引き破られて ただ一遍の遺書すらない 当局の失態は免れぬ」
私には文子の死について見出し以上のことは何もわからぬ。ただ当局が死の影におびえている感じがするだけだ。
私は朴烈の調書を読んでいない。金子文子の調書に基づいて記述した。がまんならぬ食い違いはないと信じる。二人はパートナーの過誤をも包み込むほど一心異体の同志愛で結ばれていたのだから。判決を前にして朴は文子を入籍(朴の兄による二人の遺体引取りと埋葬の準備)した。
文子の結びの言葉「して朴にいおう。よしんばお役人の宣告が二人を引き分けても、私は決してあなたを一人死なせてはおかないつもりです、と」(最後の公判調書に添付された裁判所への長文書簡 死刑求刑の公判で朗読)
2009年09月15日 大杉栄のお墓参りと大杉栄の甥の橘宗一墓前祭
BLOG記事 by hisako kuroiwa
だが、衝撃的なのは、墓碑の裏側に刻まれた文字だ。
碑文は以下の通り(写真参照)。
「宗一(八才)ハ、再渡日中、東京大震災ノサイ、大正十二(一九二三)年九月十六日夜、大杉栄 野枝ト共ニ犬共ニ虐殺サル Build at 12th 4. 1927 by S. Tachibana 那でし子を 夜半の嵐にた折られて あやめもわか奴 毛のとなり希里 橘惣三郎」
「犬共ニ虐殺」……。可愛がっていた一人息子を殺された父の無念さが、この5文字から、長い時を隔てても伝わってくる。その碑文を、しばらく無言で見つめていることしかできなかった。[筆者黒岩比佐子は翌年『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』を遺して惜しまれつつ早逝した歴史作家である]
宗一は満で6歳、大杉栄の甥(末妹あやめの子)、米国生まれのため自動的に二重国籍となった。父と母は暗号めいた折句で加害者に怒りをぶつけた。「文目も分かぬ=思慮分別がない」奴によって「毛のとなり希里=モノとなりけり」
3人は路上から連行され麹町区大手町にあった憲兵司令部=東京憲兵隊本部=麹町憲兵分隊のどこかで絞殺され衣服を剥がれて古井戸にゴミ・ガラクタといっしょに埋められた。大杉には胸部を強打された暴行の跡があった。
この件では田中陸相の対応は迅速であった。福田戒厳司令官更迭、小泉憲兵司令官と小山東京憲兵隊長定職処分、軍法会議公開を発表した。陸軍の威信を傷つけないための軍事法廷だから真相は藪の中である。甘粕大尉と森曹長が禁固刑になったが実際の服役期間はそれぞれ3年と1年ちょいだった。
上司の命令、黙認があったかどうか不明のままであるが憲兵隊は社会主義者を敵視する思想集団でもある。本部もふくめて憲兵隊には主義者の親玉(大杉、堺利彦、山川均、吉野作造、大山郁夫等)を生かしておけないという空気がみなぎっていた。
早大建設者同盟の浅沼稲次郎が卒業を待たずに社会運動に飛び込み、関東大震災の時大学裏にあった避難先の「農民運動社」から近衞騎兵連隊に連行された事件は、どうして軍隊が名のしれていない農民運動社を狙えたのか、という疑問を提示する。内務省警保局と警視庁官房が労働争議だけでなく小作争議*にも神経をとがらせていたことが伺える。
*1922年結成の日本農民組合の指導の下小作争議はまもなく大正革新運動の一翼として最高潮に達する。同じころ部落民も水平社の下に団結して官憲および国粋会ときには村民と衝突する。
米国籍6歳児虐殺と華工排斥・王希天事件は、それぞれ米国における日本人移民排斥、中国の日貨ボイコット・反帝国主義運動を募らせた*。それぞれの背景に日本を見据えたフィリピン米国植民地防衛問題、中国・満州をめぐる中日米市場・国益問題が姿を現しつつあった。
*1924年 排日条項ふくむ米国新移民法可決
1925年 上海、青島の日本紡績工場でストライキ続発 青島虐殺事件(駆逐艦2隻派遣)および上海共同租界虐殺5.30事件(鎮圧のため日英米等陸戦隊上陸) 事件は広州、香港に波及、労働者のゼネスト長期化 総称5.30運動は国共合作下の反帝運動史上画期的な事件
1923年11月10日 国民精神作興ニ関スル詔書
為政者はそれに我慢ならず大震災を機に皇国精神の引き締めを始めた。
天皇の名において曰く「浮華放縦」の風俗をただし「質実剛健」におもむけ。曰く「軽佻詭激」[浅はかな詭弁過激な民本主義、共産主義]をためて「醇厚中正」[皇国主義]にかえれ。この動きは国体明徴運動、国民精神総動員につながる。
1923年12月27日 難波大助、皇太子(のちの昭和天皇)をステッキ仕込み銃で狙撃 虎の門事件
24歳青年のおこした大逆事件である。大震災時に軍警が労働運動指導者と社会主義者を虐殺した。革命家たちは、幸徳秋水が処刑された時もそうであったが、その間なんら革命行動を起こさなかった。それに憤慨して、明治の道徳(忠実・忠義)から抜け出しきれなかった難波大助が、帝政ロシアのテロリストに倣っておこした個人テロだった。
決行前日書いた新聞社への手紙でこう宣言した。天皇一族の存在は革命の「最大妨害物」につき我々共産主義者は「死を決して天皇一族鏖殺の為に力を尽くすべき事を宣す」 明日の銃声こそ「惰眠を貪れる社会革命家への警告であり、反動の暴力の前にびくつける組合労働者への奮起の合図である」
山本権兵衛内閣は総辞職した。田中陸相、平沼司法相は下野し、警視総監湯浅倉平、同官房主事兼警務部長正力松太郎は懲戒免官になった。世論はあらためて「主義者」を恐怖し警戒するようになった。
難波青年の個人史をたどれば明治と大正の精神史が分かるような事件だった。祖父は長州藩維新の志士、父は家父長の典型そのもの、厳格で一汁一菜、質素倹約にやかましい独裁者、周防村では年貢で小作を泣かす殿様とよばれた大地主、さらに皇室尊崇の県会議員、兄達は東大、京大卒で久原、三菱財閥のエリート社員、つまり大助は名家の家柄に生を受けた皇国青年だった。
折から小遣い銭をおしむほど締まり屋の父が大金を注ぎ込んで志もなく只名誉のために衆議院議員になった。自分も国民も騙されていたのではないか?
選挙前に傍聴した帝国議会に大助は深く失望した。本会議に上程された普通選挙法修正案は原敬首相の声明(普選は国体の基礎を危うくする、選挙で民意を問う)と衆議院解散の詔勅によって審議もされずに流された。そのとき日比谷公園には普選を熱望する群衆が参集していた。選挙権のない民衆である。
無産者に選挙権がないのはなぜか? 組合の自由、言論の自由がないのはどうしてか? 政治集会が立ちどころに官憲によって蹴散らされてよいものか。彼の政治的覚醒が急速に進む。反財閥、反皇室、反政府・・・無産者共産革命。
彼の特異な点は徒党を組まないところである。当時の数少ない主義者並みにその方面にかんする内外の情勢と思想に詳しいが主義者の友人は居らず読書と体験から得たものである。大逆罪だから幾人かは共謀、予備の罪をでっち上げられるところだが為政上の理由で翌年単独処刑された。懐柔(昭和の言葉でいえば転向)を拒否して判決直後傍聴席に向き直って、日本無産労働者・共産党、ソヴィエト・ロシア、コミンテルンのために3度万歳を叫んだという。
中原静子『難波大助・虎ノ門事件 愛を求めたテロリスト』(2002年)は本格的な研究書である。大助の長文の父宛の遺書と唯一の親友Uへの折々の手紙が収録されていて読み応えがある。難波大助が勤皇のメッカ長州出身だから起きた、明治の精神と大正デモクラシーの自由の精神がぶつかりあった事件である感を深くした。テロリズムを抜きにすれば大助の個人主義的思想は戦後昭和の思潮に近い。
虎ノ門事件は国民の国体意識を揺さぶり、為政者の国民精神作興運動の普及を助けた。大助の意図とは反対の結果つまり反動を招く一要因となった。
1924年3月 日本共産党解党決議
1924年4月 大川周明「行地社」結成 日本精神、アジア主義鼓舞
1924年5月 司法界の帝王・平沼騏一郎「国本社」設立 国粋主義を掲げ国体思想宣伝
1924年9月 アナキスト和田久太郎、戒厳司令官福田大将狙撃失敗
震災一周年記念日に背後から射撃、厚着のため弾がポロリと落ちたと昔読んだ書物には書いてあった。虐殺は「福田戒厳司令官及び時の警視庁官房主事正力松太郎の使嗾に出づ」との認識に基づく行動だった。
当時のアナキスト、ニヒリストは社会通念にも法律にも縛られない自由人なので、することなすこと破天荒で面白い。これまた記憶が定かでないが関連事件で死刑になる中浜哲(だと思う)が、しかつめらしい裁判官をハメる無邪気な悪戯を一つ。外套を着て出廷し判事に促されて脱いだらスッポンポンだった。
1925年3月 議会で治安維持法と普通選挙法可決
一見すれば飴と鞭の抱き合わせを想わせるが、長期的に見れば大正期内外事件史の結節点であったことはこれまでの論述で明らかにできたと思う。
皮肉にも3年前過激社会運動取締法案に反対した護憲派が政権につくや大した反対運動も受けず成立させてしまった。
前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
委員会の質疑応答は先だっての共謀罪審議と似たり寄ったりで歴史は繰り返すと想わざるを得ない。いくつか注目すべき議論を記録しておく。
最初の発言者は与党の自由主義者星島二郎君。我が国の法文に初登場の「国体」、それから「政体」と「私有財産の制限」という概念はいかようにも解釈できる。「もし司法当局が裁判官が狭く広く此文字を自由自在に使はれた際に於いては、お互は非常な脅威を感ぜざるを得ないのであります」
万一「反動内閣」が天下を取ったら言論を圧迫して、自分なら、「大部分の結社を踏み潰すことができる」
成文では「政体」は削られたが歴史は星島議員の恐れた方向に向かった。誤解だ、ごうも考えていない、という政府答弁は昔も今も空文句と嘘で何の担保にもならない。
委員会審議で出た懸念もすべて同様の歴史をたどった。学問研究の自由、労働・農民組合の自由、集会出版表現の自由、思想信条信教の自由・・・。
法案審議の委員会には前回過激法案時の反対委員が巧妙に外されていたため議論が低調かつ僅少だった。前回は法の執行が「警察官検察官及び司法官万能主義」によるから否という厳しい批判があったが今回は現場警察官が法律を誤用する恐れがあるという不安が述べられただけであった。
天皇主権に触れることを回避した大正デモクラシーは、自由平等を基調に自由民権主義、自然主義、科学主義、立憲主義、民本主義、組合主義、社会主義、自由主義、無政府主義、虚無主義・・・と虹の7色のごとく百花繚乱の思想を配列していた。極端は共産主義でそのロシア型がボルシェヴィズムである。日本の主義者はそれを輸入した。難波大助は「極端の極端」を誇りにした。
他方個人主義の対局にある国家主義は、自由国権主義、国家社会主義、アジア主義、国粋主義、極端は天皇を神格化した全体主義である。
天皇教全体主義の淵源は明治維新である。王政復古で種を撒かれ明治憲法で弾け(ジェルミナール)、日露戦争、第一次世界大戦で根を張り、大震災で勢いづき治安維持法という究極的武器を得た。
政党議会政治と市民的自由が、最初は真綿でやがて細紐でついには麻縄で喉首を絞められていくが、結果を知っているからこういえるわけで当時の人々は例外はあるだろうが誰も予見できなかった。
仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』は1993年に出版された。それは1965年ごろに始まる先行研究を集大成した観がある。
付録 巻末に王兆澄調査、中国公使館調査、中国外交部調査、温州同郷会調査、仁木追加分による犠牲者700弱の氏名、出身地、被害日、現場、凶器、犯人属性、報告者名を記入した名簿が掲載されている。失われた金銭の記載も見られる。シベリアの兵士がそうであったように民間人までが「戦利品」を私物化している事実に高揚した参戦気分が感じられる。
わたしはその間自分のためにロシア革命を研究して自分の進むべき道を求めつつ少年サッカーの指導にほぼ没頭していた。その頃は中国人虐殺があったことすら知らなかった。それだけに同期間の仁木の日中両国を跨にかけた活躍と成果には畏敬の念を抱いてしまう。
仁木は大島に居を移して調査をした。犠牲者の9割以上を出した温州に3度旅行し日中共同研究を実現した。海抜1000mほどの高地に点在する電気の無い山奥の貧しい村々24カ所を訪ねて高齢の生存者と遺族80余人から聞き取りをした。会った家族はその何倍かになる。
「何故?」の解明のため仁木の本から関係証言だけを抜粋する。
174名集団で只一人の生き残り黄子蓮(連ではなく何の因縁か蓮池の蓮だった)の「娘」黄碎乃(1990年 79歳)の話・・・
彼女は、実は子蓮の兄志森の娘である。幼くして母を亡くし継母に育てられた。まず志森が先に渡日し送ってきたお金で弟子蓮が渡日した。兄は殺されて帰らなかったが「黄子蓮は人に送られて同郷会[温州同郷会]からもらった慰問袋ひとつ持って帰ってきた。耳をたち切られ、頭にも大きな傷があって、傷口は化膿していた」
わたしの素人判断では多分敗血症である。働けず医者にもみせられず全身がはれて吐血して2,3年後に死んだ。帰ってきたときは、遠方からも身内の消息を求める同郷人がおおぜい弁当持参で訪ねて来た。
仁木は二日がかりでようやく兄の娘が弟の「娘」でもあることの理由(秘密ではない)を知った。中国人単純労働者入国禁止の日本に、特産の石彫と番傘の行商人として、入管に示す見せ金70円を借金してまで渡日する温州農民の貧しさの深淵を、この一事で私は納得できた。
わたしの父は長男でありながら13歳で貧しさ故に伯父一家に加わってブラジルに移民した。黄兄弟の貧しさに比べたら物の数ではない。黄兄弟は妻を共有した時期があったのだ。
志森の娘も子蓮の遺児(震災当時零歳)も写真がある。血縁では従姉弟同士の二人は、ともに純朴で可愛い顔である。忘れ形見順斌(66歳)は坂下の川べりまで「ごはんを食べて行ってよ」と著者を見送った。
生存者たちの証言・・・
それぞれ氏名、1990年時の年齢と顔写真、村名が可視化されている。仁木のヒューマニズムは奥が深い。
・[陳崇帆 94歳] 地震のとき、[大島]八丁目にいたが南千住へ逃げて数日たって帰ってみたら八丁目の人はみな殺されていた。
中国人の人夫頭はピンハネしなかった。[多くが同郷人で集団で生活していた]
・[林瑞昌 90歳] 南千住に住んで浅草で砂利かつぎをしていた。
私は地震の時、日本人の親方の家に逃げて助けられた。
・[林賢巧 89歳] 日本の警察は当時、毎晩二回調べ[特定犯罪集団に指定され監視されている]に来た。地震後半月して日本人の親方はわれわれを連れて道路工事に出かけた。日本人は親方が我々を連れて強盗に行くのかと思ってかれを斬り殺した。朝六時だった。我々は九人じゅずつなぎにされて横浜の警察へ連れて行かれた。親方のおくさんは23歳だったよ。
・[陳国法 88歳] 地震の時は宿舎[南千住の同徳昌客桟]にいた。大島八丁目のことは聞いているよ。同郷の者六人も殺されたよ。
王希天はね、ころがっている死体をいちいち中国人かどうか調べて歩いたよ、だから自分が殺されてしまったのだと聞いているよ。
・[林献忠 92歳] [9月1日大島の友達の宿舎で地震に遭った]その晩警察と土方の親分が来て、明日は東京は大水が出るから千葉へ行けという。[深川寄りしか焼けなかった大島町には本所、深川(富川31番地に100余の木賃宿と東京最大の寄せ場があった)からの避難者が溢れていた。日本人が野宿しているのにシナ人が屋根の下に居るのはナマイキダ、出て行けという差別の表れと思われる] [大島のシナ宿は数日後すべて避難民に入れ替わった]
[2日三河島の自分の宿舎に帰って]二分もたたないうちに、駅の方で悲鳴が聞こえて多くの中国人が殺されはじめた。しばらくして警察と土方の親分が王公和宿舎に来て、われわれに出て行けという。宿舎の女主人は、この人たちはおとなしい法律をまもる人だから、私が保証するから連れて行かないでと頼んでくれた。その結果、警察とボスはわれわれの人数を数え、二七人、宿舎の外へ一歩も出るな、一人ふえても、一人へってもいけないといった。[1918年夏以降の監視指揮系統 総元締め=内務省警保局長 警視庁官房主任⇒特高課・外事課⇒特高警察・外事警察⇒中国人監視]
中国人の工賃がひくくて、日本人はおまんまの食い上げになるといっていたよ。王希天を殺したのは日本政府の責任だよ。
・[葉錫善 91歳] [青森での雨傘行商から帰ると地震で自分が経営していた客桟は空になっていた。在庫の傘400本もなくなっていた] 商売の外に労働をして蓄えた金で、この宿舎を開いたよ。王希天はよくこの宿舎へ来て、労働者を集めて話した。バクチをしてはいけない。衛生に注意しなさいなど。警察がくると労働者は不安になるが、王希天がくると安心する。
・[朱木坤 92歳] 九月一日は横浜で。川崎の橋の上には多くの死体が横たわり河面にも死体が浮いていた。
日本人は外で人さえ見れば殺した。家の中もくまなく探し、床下にかくれている者もひきずり出して殺した。私は日本人の親方の家に住んでいた。かれはわれわれに外へ出るなといって、人を見張りに立たせた。
王希天は知っているよ、集会に出たこともあるよ。かれはカンフーができたよ。かれはみんなのためにつくして死んだ。日本人はかれをボスだと認めているから、政府はおおっぴらに殺すことができず、暗殺したのだと思うよ。
・[朱友典 89歳] [日本語ができたので共済会を手伝った] 共済会の事務所は大島三丁目の木造家屋の二階にあった。一階は医務室や日本語学校の教室。[会員に対する日本人鈴木某の傷害事件を裁判で解決した事例の証言があるが省く]
地震の時、私は目黒にいた。目黒では100人余りの中国人労働者が仕事をしていたがだれも殺されなかった。土地の人は華工に対して比較的よかった。
八丁目の人たちは石炭かつぎをしていた。かれらは日本人の「人夫頭」とトラブルがあった。中国人労働者は賃金がひくいので、すぐ工場の鉄門内に入って仕事をはじめる。[これを目の当たりにした日本人「人夫」の胸の内が推察できる][経営者にとっても集団でまとまっている華工のほうがばらばらの寄せ場人夫よりも使いやすかったと思われる]
日本人は仕事ができなかった。中国人労働者を殺したのはそれらの日本人だというよ。
華工たちがなぜ、誰に、計画的に虐殺されたのか、瞼に浮かぶような様子が、加害者の胸中にも分け入って、明らかにできたと思う。
私は日本人の間に対中蔑視観があったことはもちろん知っている。ただそれだけで「未開の土人」視していた華工(苦力とよばれていた)を虐殺できるだろうか。背景に利害の絡まりがあるはずだ。上記で明らかになった現場の利害対立だけでなく、国家間の利害対立があったはずだ。イデオロギーの対立もあって当然だ。これが今回中国人虐殺問題に深入りする動機である。
中国人虐殺に至る日中関係前史も観たくなった。
幕末の阿片戦争まで日本人にとって中国はまさに文化的にも文明的にも「中華」そのものだった。稲作も漢字も、絹も仏教も建築も、ということは国の仕組み、官僚制度も、中国から採り入れた。
幕末の学者、志士たちは、阿片戦争の結末に衝撃を受けた。英国を中心とする帝国主義に侵蝕されながら抵抗する術を知らない因循姑息な大帝国の貴族、官僚と奴隷状態の惨めな民衆の姿を観て、いっきに中国観を大転換し中国人を見下すようになった。
日清戦争で勝利したころからチャンコロという蔑称が国民の間に広まった。語源は知らないが弱兵のクセに、という感じがする。わたしも父が子守唄がわりに歌ってくれた「勇敢なる水兵」(1995年)で清兵=弱兵のイメージを刷り込まれた。5年後の義和団事件では日本は露西亜と共に帝国主義列強連合軍の主力となって鎮圧に活躍した。
ライバルとなった露西亜との間で「支那とり」が始まり、満州を戦場にして日露戦争が戦われた。やがて中国の民衆が次第に日本の国益の最前線に抵抗者として現れ出す。満州では馬賊として、都市では日貨排斥運動の担い手として。
日中間の問題を日本が武力を背景にゴリ押しで解決しようとするたびに日本商品のボイコット運動が起こり、その度に拡大、檄化していった。
1908年 武器密輸船第二辰丸拿捕事件 最後通牒に清朝政府屈服 民族資本中心の日貨排斥 商店、荷役労働者のストライキ 広東から香港に波及(香港暴動)
反清朝革命派と留日学生は日貨排斥に反対だった。
1909年 満州の安東-奉天鉄道改築問題[安東:改名して丹東]
東京の留学生が本国の主要新聞社に檄文を発送し「朝鮮を観よ 侵略は鉄道から始まる 満州を失うな」と警鐘を鳴らして日貨排斥を呼び掛けた。
留学生の先駆的活動によって日貨排斥運動が南から北まで全国化し、とくに奉天で激しかった。運動の担い手も学生、商人、官吏、軍人、農民、労働者と厚くなった。
満州問題を国家存亡の危機と捉える主張は反清朝革命運動に反帝国主義の油を加えた。反帝国主義の看板と日貨ボイコットの手段が国民の支持を得ること、反清朝革命の道筋を照らすことを革命派は知った。
日本政府は留学生に警戒の目を向け始めた。
1912年 辛亥革命 清朝滅亡し中華民国成立
1915年 対華21か条要求で最後通牒
ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること(第1条)他の諸要求 日貨排斥運動再燃
旅順大連租借地、満鉄・安奉鉄道租借の期限99年間延長は、中国国民のナショナリズムをさらに刺激、助長した。袁世凱政府が受諾した5月9日は国恥記念日となった。
このあと王希天18歳は東京に留学し中華YMCAにかかわることになる。
1918年 日支共同防敵軍事協定
ソヴィエトロシアを仮想敵国とする秘密防共協定(出兵直後シベリア・満州・蒙古を戦域とする協定が追加された) 日本政府が莫大な借款供与と引き換えに段祺瑞軍閥政府と結んだ日本軍の自由行動を保障する協定
一高予科の王希天「我々は国家の興亡に責任がある」 留日学生救国団結成 情宣帰郷を決議 5月6日中華料理店「維新号」で会議中40数人全員逮捕、翌日釈放 帰郷運動盛り上がり留学生3000の内2000帰国 密約撤廃の大請願運動 王希天、天津に救国団支部をつくり、上海と呼応しながら日貨ボイコット運動を展開
この運動は五・四運動の下地(学生による組織的な愛国政治運動)をつくった、と仁木は評価した。
出典 仁木前掲書 樸山=朴山
1919 五・四愛国運動
北京の大学生3000人、パリ講和会議の動向(日本がドイツから奪った山東省の権益を容認)に反発 天安門広場からヴェルサイユ条約の山東条項反対・対日交渉要人罷免要求の街頭デモ 段祺瑞政府による弾圧 反日・反軍閥政府の国民運動(学生、商店、労働者のスト)に発展 政府折れて学生釈放・ヴェルサイユ条約調印拒否 中国近代化の転機を画した大事件
5月7日 留日学生、五・四運動を受けて中国青年会に集まって中国公使館に向かってデモ 36名検挙 王希天ら学生救援に動く 田中陸相、私的に王希天らを招いて会談
それ以降王希天らは警保局の要視察人リストに載り警視庁の尾行がつく。王希天の素行記録が積まれてゆき暗殺前日の亀戸署員は「排日の巨頭なれば注意」と佐々木大尉に告げている。ついで署長から素行に関する書面が佐々木に提出され旅団司令部に報告された。
中国では、五・四運動に参加した若者はそれ以前の思想革命の洗礼を受けていた。知識人による新思想運動は「デモクラシー、サイエンス」を旗印とし、儒教批判、人道主義、民衆が読むことのできる文字と文学を主張した。その活動は大正ルネサンスを想起させる。
新思想運動のリーダー陳独秀、李大釗と影響を受けた周恩来、毛沢東等五・四運動参加者は、やがてマルクス主義とロシア革命に革命ヴィジョンのモデルを見出し、中国共産党(1921年創立)の創始者または指導者に成長してゆく。また孫文は民衆運動の実効性を見てとり中華革命党を改組して中国国民党を結成した。
他方王希天は日本でキリスト者の社会事業家を目指した。震災直前にはアメリカ留学が決まり共済会長職を王兆澄に譲っている。キリスト教界の著名人はもちろん学者、実業家、社会主義者、無政府主義者、社会派新聞記者とも交流をもった。あえて交流者の共通点をあげればコスモポリタンであろうか。賀川豊彦、堺利彦、大杉栄等ブラックリスト上の有名人が多くいた。要視察人吉野作造との接点いかんについて私は知りたい。
1923年 旅順・大連回収要求運動
日貨排斥運動が深刻化し日本の最大の輸出市場と日本権益の根幹満州を脅かして政府、世論に衝撃を与えた。それは、中国共産党のイデオロギーを反映して,経済絶交運動と名を改め、このあと止めどもなく続くことになる。満州は経済戦争の舞台となる。
このころ日中両国の興亡に関わる交渉が軍閥抗争下の中国で進行していた。コミンテルン(実質はソ連共産党)指導の下に国民党と共産党の合作交渉である。日本が恐れていたロシア共産主義の南下が現実のものとなってきた。
以上が、中国人と王希天虐殺の背景にある日中間の国益ならびにイデオロギーに関するスケッチである。日本国内の共産主義は芽生え始めたばかりであったが、軍警を中核とする極端主義者は大震災と戒厳令を奇貨として利用して大日本帝国の禍根となりそうなイデオロギーに共産主義、無政府主義、労働組合主義、キリスト教人道主義の区別なくテロを加えた。戦時には自由主義までもがテロの対象になったことは歴史が教えるところである。
折しも戦後不況と軍縮不況が重なって華工たちは官憲に帰国を強いられていた。日貨ボイコットに反感をいだいていた者がどれほどいたかは不明だが、荷役人夫による華工ボイコット運動が起きた。旅費工面のため猶予期間を願って王希天は共済会代表として関係官庁と掛け合った。堀田警視総監は東京に限って黙認、後藤警保局長不在、労働総同盟の鈴木文治不在、(財)協調会添田博士不在。神奈川・大阪は勅令タテに強硬回答。日華学会、日華実業協会は華工に同情。
亀戸署管内では日華労働者間に利害対立があり、王希天は華工の代表者として亀戸古森署長(元警視庁官房・高等課労働係長)と同署高等係刑事蜂須賀等数名の憎悪をかっていた。王希天の僑日共済会は平澤計七の純労働組合、川合義虎の南葛労働会同様危険視され監視されていた。3人とも同署に検束されたことがあった。亀戸署長は共済会事務員に日本人も入れろと要求していた。内務省警保局の諜報方針に沿っていることは明らかである。
9月12日の王希天暗殺は内務省警保局長、警視庁官房主任、第三旅団長、戒厳司令部参謀長の黙認の下で実行された軍警のテロであった。
9月3日の大島での中国人虐殺は亀戸警察の署長、特別高等係刑事たちと人夫手配師たちが共謀して計画し、配下の人夫と戒厳部隊の一部が実行した犯行である。大島にはまだ自警団が結成されていなかった。
仁木は手配師の親分として焼け出された人足寄せ場富川(大島町の西方現森下3丁目にあった)の大寅こと平井寅吉の名をあげている。真偽不明だが勝海舟が江戸焼尽の準備をさせた新門辰五郎の流れを名乗っていた。
仁木はまた大島シナ宿60数軒への道案内をしたのは警察とつながる地元消防組の頭たちであろうと言う。「彼らの大部分は鳶職であり、土地の名家であり、土木建築業者をかねていた」
1982年 三一書房
本稿の記述はこの研究書に負うところ大である。
作成者 加藤直樹
1981年春、ジャーナリスト田原洋が遠藤三郎元中将を訪ねたときのことである。遠藤は第一師団(長は石光真臣)第三旅団第一連隊の第3中隊長として「江東地区警備の第一線にいたと語った」 遠藤は気鋭の大尉で陸軍きってのエリートだった。当時金子旅団長の参謀挌として上掲図旅団司令部に出入りしていた。
「<大杉栄が殺されましたね≫私が会話のつなぎのつもりで、なにげなく応じると、遠藤は<大杉どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ≫と言いだした」
「オーテキンという支那人労働者の親玉[華工共済会代表]を、私の部下のヤツが殺ってしまった。朝鮮人とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽したんだ」[引用原文には必要な傍点、フリガナが振ってある]
外交問題化しそうな事案だけに国、軍警の関係中枢部が真剣に動き、その分上層部の責任もあらわになった。これまで現場にしぼっていた論述をできれば上層部にまで広げたい。
関東大震災において、日本人相当数100と中国人多数400が朝鮮人として殺されたと理解していたが、今回調べてみて、将来有望の一中国青年の殺害が日本人主義者殺害同様、軍警*によるブラックリストに基づく指名暗殺であることを知った。
*私の造った短縮語。軍隊と警察の意で、軍事警察、憲兵の意ではない。
まずは第一師団野戦重砲兵第3旅団(金子直旅団長)第1連隊第6中隊(佐々木平吉中隊長)の一等兵久保野茂次日記から。(佐々木)中隊長初めとして、王希天君を誘い「お国の同胞が[習志野収容所で]騒いでいるから、訓戒をあたえてくれ」と言ってつれだし、逆井橋の処の鉄橋の処にさしかかりしに、期待[待機]していた垣内中尉が来り、君等何処にゆくと、六中隊の将校の一行に云い、まあ一ぷくでもと休み、背より肩にかけて切りかけた。そして彼の顔面及手足等を切りこまさきて、服は焼きすててしまい、携帯の拾円七十銭の金と万年筆は奪ってしまった。・・・右の如きは不法な行為だが、同権利に支配されている日本人ではない。外交上不利のため余は黙している。[10月19日 記 犯行は9月12日未明]
佐々木大尉は「支鮮人受領所」において9日以来王希天に「支那人の受領、護送」事務を手伝わせていた。久保野一等兵はその仕事を王希天と一緒にするなかで、かれに好感をもった。
久保野は後にカミングアウトを報じる『赤旗』の記事の中で語っている。
「いつもきちんと蝶ネクタイをしめた好男子。落ちついたらアメリカに留学すると楽しそうに話していた。無学なわれわれは王希天君と呼んで尊敬していた。お茶もよく一緒に飲んで世間話をしたことを憶えている」
「よくも殺しやがったな。ふざけやがって、畜生と、腹わたが煮えくりかえる思いがした」
吉林省長春出身 社会事業家 享年27歳 出典 田原上掲書
犯行前日「旅団内で、朝鮮人、中国人を保護検束する仕事の責任者」中岡弥高第7連隊長が第1連隊(長は中村興麿大佐*)の佐々木中隊長につぎのように話を持ち掛けた。中岡は当時大佐、浦潮派遣軍広報部長の経歴をもつエリート軍人。
*もともと兵器開発の技術将校で、部隊指揮官向きではなく、発言力が弱かった。翌年軍縮を機にさっさと予備役に退いた。法政大の中村哲総長の父親。
「遠藤が先走って、戒厳本部に飛んでいった。[習志野移送で]王の身柄を守るつもりらしいが、そうはさせんぞ。佐々木大尉、王は五・四運動いらいの闘士だ。秘密党員かもわからん。ヤソ教の仮面をかぶってアメリカとも連絡がある得体の知れんやつだ。古森[亀戸署長、前身は警視庁特高課労働係長]からくわしい調書を出させるのだ。あいつをやれば、手柄だぞ」
12日未明、金子旅団長の黙認のもと佐々木大尉署名の受領書で王希天は亀戸警察署から連れ出された。軍官僚制のエリートは、関与しても署名しない責任逃れの手口をこの度も利用することに抜け目がなかった。
殺害には同じ第1連隊の剣の達人垣内八州夫中尉が指名された。
新月の夜だった。遺体は切りこまさかれて星明りだけの暗い中川に流された。
著者田原洋は、遠藤はもとより垣内にも取材して上記の記述を成し得た。しかしながら処刑までの王希天の表情、生の声を聞きだすことはできなかった。たまたま大島に友人の安否を尋ねて来て亀戸署に拘引留置された周敏書が王の声を聞いている。「王希天、貴様を習志野へ護送する。早くしろっ」「どうしたんです。理由を聞かせて下さい。私、もう軍隊のご用はないはずです。・・・それに、そんなにしばると、痛いっ」
事件の後始末つまり隠蔽工作の一部始終は遠藤大尉に任された。佐々木大尉が王希天に好意を抱いて独断で解放したことにした。戒厳司令部阿部信行参謀長、内務省後藤文彦警保局長、警視庁正力松太郎官房主事、外務省出淵亜細亜局長が事件のストーリと隠蔽方針を共有し、口裏を合わせることになった。
11月7日朝、読売新聞から王希天の記事が削り取られた。「危いところで削除→白紙のまま発行」(後任の岡田警保局長)となった。その日急遽関係5大臣会議*がもたれ隠蔽を正式決定した。その夜以降幾度となく警備会議(実務者会議)がもたれ隠蔽に遺漏なきよう綿密な意思統一がなされ、中国側との会談前には想定問答が練られた。
*後藤新平内相、田中義一陸相、伊集院彦吉外相、平沼騏一郎司法相、山本権兵衛首相 「本件ハ諸般ノ関係上、之ヲ徹底的ニ隠蔽スルノ外ナシ」
他方中国国内は10月12日上海入港の送還船山城丸で帰還した黄子連と王兆澄*によって事件の概要を知った。
*黄子連は下記大島町事件で右側頭部を切られた。死んだ振りをして生き延びたが帰国後刀傷が原因で死亡した。王兆澄は王希天、周恩来の留学生仲間で親友だった。王希天と共に華工共済会を設立した東大学生である。
「とつとつと生き地獄の体験(大島町事件*)を語る黄と、科学者らしく正確詳細に親友の失跡(王希天事件)を語る王の談話は、いずれも中國紙が大きくとりあげるところとなった。黄が、自分の見聞した〔174余人〕の虐殺だけを報告したのに対し、王は氏名住所まであげて〔死者275人〕〔在京浜同胞6000のうち消息不明が2000人**〕といい、日本当局は<極力、隠蔽しようとしている>と注意を促した」
*「第一回ハ同日[3日]朝軍隊ニ於テ青年団ヨリ引渡シヲ受ケタル二名ノ支那人ヲ銃殺シ、第二回ハ午後一時ゴロ軍隊及ビ自警団(青年団及ビ在郷軍人団等)ニ於テ約二百名ヲ銃殺マタハ撲殺、第三回ハ午後四時ゴロ約百名ヲ同様殺害セリ」(警視庁外事課長広瀬久忠による外務省への公式報告)
黄子連が日本人宿主林某もろとも大島8丁目蓮池跡地に連行され軍警と自警団に殺害された(黄は生き延びた)のは第二回の虐殺だった。実行部隊は岩波清貞第一連隊第二中隊長以下69人および三浦孝三近衞騎兵第14連隊少尉以下11人。岩波少尉は「三日昼、大島で200人やった」と吹聴していて隊内では「岩波には金鵄勲章が出るそうだ」と噂されていた。
**消息不明2000という数字はでたらめではない。市中壊滅状態の横浜では中華街で2000の中国人が死亡した。王兆澄は尾行を受けながら大島、習志野で王希天を探しつつ中国人の被害状況を調査した。隠蔽工作者たちは尾行をまかれて国外に逃げられたことを後悔した。
中國世論は沸騰し外交問題になった。後輩張学良*が船津奉天総領事に捜査を依頼した事実もある。宗教家中心の民間調査団が来た。入れ替わりに王正廷北京政府調査団も来た。かれらは現地調査をしたが監視されている公開の場で証言をする者が居るはずもなかった。
*奉天軍閥のプリンス張学良は5歳年下だが、同郷同窓のよしみで王希天と親しかったと想像できる。希天の孫・王旗は「西安事件」70周年に合わせて吉林省文書館に張学良遺物を献贈している。「革命烈士王希天的孙女王旗女士向吉林省档案馆捐赠了张学良先生的部分遗物」 http://news.sina.com.cn/s/2006-12-08/134610717295s.shtml
かれら調査団が会った関係要人の名だけ挙げておく。湯浅倉平警視総監、田中義一陸相、元戒厳司令部阿部信行参謀長、山本権兵衛首相、後藤新平内相、平沼騏一郎司法相。外務省出淵アジア局長は職掌柄始終調査団に付きっ切りだった。
このメンバー揃え(現首相+後の首相3人)がすべてを語っている。最大限の「懇遇」で迎え、支障のないかぎり「便利」をあたえて調査妨害の疑念を起こさせない徹底ぶりだった。調査も外交交渉も日本側の一枚岩のように堅固なガードを崩すことはできなかった。中国国内の動乱と不統一もあって真相追及と賠償請求はうやむやの内に消滅した。
わたしは、日本側の言い逃れを目的とした意思統一と共謀行為の完璧さに空恐ろしさを感じた。戒厳令のせいにする向きもあろうが、その後の歴史と今日の政情を知る年寄には全体主義の黒雲が見える。
法秩序ではなく上意下達の慣わしで官僚組織が軍事、政務を身内びいきで実行する。感心するのは軍警では尉官クラスが佐官の意を忖度して発案、実行し、佐官が将官の黙認を得る、という上下関係のモラル(勤務意欲向上と責任の取らせ方)がごく自然に出世主義と共存していることである。
法治の体裁をとっているから平沼騏一郎法相の名がならんでいる。最右翼極端主義者平沼の役割は、ひとつには軍警に対して司法権を行使しないこと、二つ目は、社会主義者に厳しく「憂国」テロリストに優しく対処することであった。
12月20日神田の救世軍本営で王希天の追悼式が行われた。王正廷等中国代表、志立日本興業銀行元総裁、陸奥廣吉伯爵、真相を追究した布施辰治弁護士、丸山伝太郎牧師、小村俊三郎読売記者(削除された読売記事執筆者)、河野恒吉朝日客員記者(陸軍予備少将)等出席。知らぬ存ぜぬで押し通した日本側責任者は誰も参列しなかった。
救世軍の山室軍平弔辞「四、才智アリ学問アリ、力量アリシモ、尊キハソノ人格ニアリ。YMCA時代ノ半分ノ給料デ、アノ苦シイ事業ヲナシヌ。陸奥伯爵ガ共済会ニ興味ヲ持タレシモ、彼ガ中心ニアルヲ見テナリ」
遠藤も垣内も王希天が社会主義者でないことを戦後知って心を痛め、遺族に真実を伝えたいと願っていた。
1962年6月、周恩来、邓颖超到吉林视察工作时,曾接见王朴山遗孀杜丽棠及其女儿王晓苏、养女王晓蕴及王希天的亲属,并合影留念。
私は中国字が読めないのでWEBの原文をコピペした。周恩来、王朴山、王希天の3名は天津、東京で学友であったばかりでなく「好友」であった。
从左至右:于毅夫、王晓苏、邓颖超、王晓蕴、周恩来、王振圻、吴德
出典 http://ysws.yushulife.com/index.php?c=article&id=561
1990年、王希天と中国人労働者の虐殺を日中両国内で調べた仁木ふみ子が王の遺児王振圻(写真 周恩来の右横)を探し出して真相を伝えた。2013年9月「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」に遺族が来日参加している。王の孫王旗が悼辞を述べた。
「何故中国人を?」については、紙数も時間も尽きたので次稿で。
数年前にこのブログで大正は現代の母型であるという観点から大正デモクラシー、社会運動の勃興、大正ルネサンスを論じた。暗い閉塞の時代から抜け出した明るさのなかに自由な生命の躍動とモダンな生活の放縦が垣間見られた。それは戦後期昭和の母型を想わせる。
自分史で一息入れた後、大正の戦争「シベリア出兵」を投稿した。宣戦布告のない、兵士にとってすら意味不明の、市民に積極的に支持されていない戦争であったが、戦争指導と現地の様相は昭和前期の日中戦争のそれにオーヴァーラップする。昭和の戦争はよく15年戦争と表現されるが、実際は、同一の、ときには代わり映えのしない指導者によって、ずるずると反省もなく大正時代から30年間続けられた長期戦争の後半部だった。
これだけでは大正時代を大まかにもカヴァーできない。大正デモクラシーとシベリア戦争は相反する事象で、それゆえにシベリア戦争後に起こる両者の相克と反動を特別に論じなければ昭和の軍国主義と戦争、ひいては現今の戦争に傾く世相を理解することはできない。扱う期間は大正の最後の三分の一1922~1926年である。
1922年、日本軍はシベリアから撤兵した。その前年二つの暗殺事件があった。単独テロであったが北一輝の日本改造法案と響きあうかのような決起だった。
1921年9月28日、安田財閥創始者安田善次郎が大磯別邸に訪ねて来た朝日平吾(31歳)に刺殺された。斬奸状に曰く「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ」
犯人は大陸浪人上がりの政治ゴロだった。貧民救済、「労働ホテル」建設を口実に財閥に寄付を強要していた。
大戦景気は財閥を増殖し新たな貧困を産み出し貧富の格差を拡げた。そこに戦後恐慌による不景気がかぶさった。革新、改造が左右を問わず時代のキーワードになったゆえんの一つである。
現場で自殺した朝日の葬儀は労働組合員も加わって盛大になった。37日後の原敬暗殺を誘発したと云われる。
11月4日、原敬首相が東京駅頭で刺殺された。暗殺犯中岡艮一(18歳)は山手線大塚駅の転轍手。尼港事件で政治問題に目覚めたと供述した。やはり反財閥、普通選挙支持の改造トレンド。
中岡は異例のスピード裁判で無期懲役となったが10年で出所した。調書、公判記録等が亡いのか真相究明がなされていない。
原敬の平民宰相の看板は色あせていたと考えられる。一国の首相が暗殺された事件の決着にしては裁判が軽い。まるで首相が間接的に裁かれているかの様だ。
1922年・・・
2月23日、普通選挙請願の民衆、警官隊と衝突。
6月、ワシントン海軍軍縮会議、戦艦空母の保有比率を英5:米5:日3に決定。軍縮で戦艦7隻建造中止。造船不況で解雇、失業、争議。
8月、陸軍、約5個師団を縮減。現役将校の失業対策として中学校以上に軍事教練導入浮上。したたかな陸軍、転んでもただでは起きぬ!
この年、日本共産党非合法結成、赤化防止団結成。
民権と国権、両方に極端主義イクストリーミズムの兆し。
1923年・・・
6月5日早朝、警視庁(高等課長正力松太郎指揮)による共産党幹部一斉検挙。治安警察法容疑で29名起訴。
9月1日正午、関東大震災が発生し東京、神奈川に死者・行方不明 10万5千余人、家屋滅失数十万戸という空前絶後の災厄をもたらした。
戒厳令と治安維持令が発せられた。ともに天皇の勅令である。軍と警察が治安維持と被災者救済にあたった。
9月3・4日、亀戸署は、労働争議が熾烈な管内でかねてから目を付けていた活動家*川合義虎、平澤計七ら10名を連行し習志野連隊に引き渡した。
*1919.10 警保局、労働運動内情探索(スパイ活動)を指示。平沢計七には常に尾行がついていた。計七はまた争議指導者として2度亀戸署に検束されたことがあった。
以下木村愛二氏*の論考に便乗させていただく。電網木村書店「関東大震災に便乗した治安対策」からのコピペである。
亀戸署管内では、別途、それに先立って、中国人大量虐殺の「大島事件」と、反抗的な自警団員四名をリンチ処刑した「第一次亀戸事件」も発生している。署長の古森繁高は、社会主義者らの生命を奪うことに「使命感すら感じていた」という点で、「人後に落ちない男」であった。古森は、「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」のである。
社会主義者の検束に当たって古森が「とびついた」のは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣*」が発した「訓令」の、つぎのような部分であった。
「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」
つまり、社会主義者が朝鮮人の「暴動」を「悪用」する可能性があるから、注意しろという意味である。
*世間は広くて狭い。木村愛二氏は当ブログ「樺美智子さん死の真相」の映像に瀕死の樺さんを抱えるキャップを被った青年として写っている。石光真臣は真清の弟である。
砂町の自警団4人の殺害についても木村氏による記述に従う。
この四名の自警団員の場合は、道路で日本刀を持って通行人を検問していた。警官が検問の中止を勧告したところ、「怒って日本刀で切りかかった」のだそうである。本人たちは、警察が流した「朝鮮人暴動説」に踊らされていたわけだから、中止勧告が不本意だったのだろう。留置場内で警察の悪口を並べ、「さあ殺せ」とわめいたりしたようである。
ここからは私見である。真相不明の殺人である。自警団員言動の元ネタは古森署長の報告書。騒いだから鎮圧のため軍に引き渡した、という言い訳は、計七達の場合も同様である。
城東区(現江東区)は北から亀戸、大島、砂の3町からなる。言わずと知れた南葛魂の街である。人情と義侠心に厚く、権力者に媚びへつらったり怖れたりしない反骨精神から砂町のお兄さんは何か「曲がったこと」をとがめて警察ともめたのではないか。今後の課題として保留しておく。
計七達社会主義者、共産主義者の殺害は、権力側がその危険度に敏感に反応した結果だと思う。南葛は「赤化」労働運動の震源地と見られていた。江東区の労働団体は、殺された10人の内9人までが20代の労働者であることから分かるように、ひ弱なインテリが逃げ出してしまったほどに戦闘性が際立っていた。国家権力の危機意識は相当なもので末端官憲まで浸透していた。
計七ら10名は惨殺され闇に葬られた。ようやく10月10日以降に当局の発表があり、軍の武器使用は戒厳令下適正だったとされた。犠牲者遺骨の回収と判別を不可能にする目的で警察と憲兵は荒川放水路四つ木橋下手の堤防下から朝鮮人百余人の遺骨を掘り起こしてどこかヘ搬送した。計七たちの遺骨もそれに混じっているのでどうにもならないとされた。
文末に平澤計七の斬首遺体の写真を掲載する。惨たらしいので不用意にスクロールしないでほしい。
川合義虎(旋盤工、21歳)は結成されたばかりの日本共産青年同盟の初代委員長で「南葛労働会」の若い指導者だった。日本社会主義同盟に関わって検挙歴あり。平澤計七は「準労働者組合」の組織者である。元は友愛会城東支部(代表平澤計七)で一緒だったが当時は分裂して対立関係にあった。川合義虎は計七が追求していた労働組合の総連合設立に反対しなかった節がある。ボルシェヴィキとアナキストの対立で総連合は流産した。
平澤計七は、元鍛冶工で東京府下の有数の工場街である亀戸と大島に「労働者の共生空間」を創った。労働夜学校、労働演劇、生協、労働金庫の先駆者である。八面六臂の活躍をした大正ルネサンスの巨人と云えよう。
藤田富士男・大和田茂『評伝 平澤計七』(1996年)
そこに至るまでの経歴をたどってみよう。弁と筆が立つ計七は友愛会の本部書記、出版部長を務め、争議指導に文芸活動に、と東奔西走した。
友愛会の幹部を大学卒が占めるようになり同時に若手労働者の指導者(渡辺政之輔、山本懸藏)が育って来ると、友愛会は創始者鈴木文治排斥と階級闘争への傾斜を強めて行った。やがて名称も労働総同盟に改称した。
改革派は計七が争議処理たとえばボス交渉等で労働者に不利な妥結をしたと弾劾決議案を提出した。
敗れた計七は友愛会を脱退して城東連合会のほとんどの会員300余名を引き連れて1920年10月「純労働者組合」を結成し大島労働会館に事務所を構えた。
綱領「資本主義に代わる総ての人類に平等なる幸福を来たらしむるの新社会の建設を労働者の団結の力をもってなすこと」「また地方自治を重んじ人類愛をもって総てに対すること」
計七は、緩やかで地域的な革新の道を歩もうとしたが、その前に皇国主義とマルクス・レーニン主義の新旧思想と権力、権威が立ちはだかって道を断ち切った。
1922年、計七は、総同盟系と非総同盟系の統一行動実現に尽力した。弁護士山崎今朝弥経営、平澤計七編集の労働界唯一の新聞『労働週報』がセンターとなって、治安維持法の前駆である「過激社会運動取締法案」反対運動の共闘組織「全国同盟」が結成された。
1923年2月11日、全国主要都市で演説会、デモが行われ、東京では106人が検挙された。同法案は、震災を挟んで、「治安維持法案」として復活した。
平澤計七 遺体写真 享年34歳