自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

東日本大震災/原発大事故/ドライベント

2011-03-29 | 子育て

事態が急を告げるあまりBLOGテーマも先回りを余儀なくさせられる。
ドライベント!
今初めてみたこの言葉に接して、絶句した! 何 これ!
想像では、DRY VENT・・・これならVENTの意味(ポルトガル語で風)を知っ
ているから何が起ころうとしているか記事を全部読まなくても想像がつく。
日本人が英語が不得意なのは英語をカタカナ英語に代えてしまうからだ。
前回主な情報源にジャーナリストをあげなかった。
危険な原発結界を越えてあるいは厚い情報隔壁の中から重大な情報を探り出した個人ジャーナリストを知らなかったからである。
居た!居た!! 木下黄太(福島第一原発)
http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927
“緊急速報”ドライベント検討。大気中に100倍の放射能も。
2011-03-25 16:57:57

「申し訳ありませんが、情報ソースは明かすことはできません。
勿論、当局者です。
現在の作業がうまく行かない場合、近日中にドライベントをおこなう可能性を示唆されました。
関東は数日、好天で雨が降らない可能性が強いこともあります。
破局をむかえるよりは、もちろん、よい方策ではありますが、結果的には大気中に最大で100倍程度の放射能が出る可能性があるともいわれました。
圧力がここまでになり続けている以上、やるしかないでしょうが、僕の知り合いの福島原発に過去に携わった技術者は、容器などの破損などがおこる迄にやった方がよかったとはいっていました。少し遅すぎると。

周囲100キロの退避は、かなり現実味をおびてきていると僕は感じています。
もちろん、ドライベントはこちらが意図しておこなうことですから、風向きなども最大限配慮しておこなうとは思います。
全て計算どおりにはいかないとしても」

ドライ ベント
英語:dry vent
原子炉の圧力容器から放射性物質を外部へ排出する際に、水を通さないで排出すること。
通常、原子炉内で発生した放射性物質は、水を通してを外部へ排出される。
ウエット ヴェント、これにより、放射性物質の量が減るとされる。
ドライ ベントでは通常の排出方法よりも多い放射性物質が一挙に外部へ排出される。

ドライ ヴェントが発令されてもじたばたせんとこう。
風下と雨雲を避けて一時的に遠くに旅行をしよう。
3箇所ほど旅行プランを持っておけば安心だ。

2014年5月21日追記・・・。
今朝の朝刊によれば、東電は3月14日早朝3号機がウエット ヴェント操作でも圧力が下がらず危機的状況にあったためドライ ヴェントを準備していた。
迫る危機「住民知らされず」 保安院「絶対知らせるな」吉田所長調書「そのうち建屋が爆発してしまって何か圧が下がってしまったんですね」


東日本大震災/原発大事故/放射能汚染情報

2011-03-28 | 子育て

このブログは子育てに関わっている、あるいは子育てにこれから関わる人をメインターゲットとしている。
原発大事故シリーズは、体験は知識に優る、というスタンスを後ろに下げて知識を全面に押し出したい。
今は応急手当てが求められている。生き方、考え方ではない。
私も大勢のサッカー部員の安全を預かる立場から広く原発に関する情報を集め整理しなければならない。
今回からは今日までに蒐めた情報をお届けしたい。
まず情報処理術から・・・。
主な情報源はTV,新聞であろう。
ただこれはメディアが原発タブーに屈して来たことを割り引かねばならない。
タブーに触れるゲストは敬遠され言動は消される。
次に当事者東電の発表は、発表したいことだけを発表して、人々が求める情報は、調査、発表を怠るか、隠蔽している。
3月24日に原発内現場で被曝した「協力」会社の従業員は安全管理外に放置され、その所属会社名はプライバシーを理由に隠蔽された。
重大発表のたびにTVに出て来る原子力安全・保安院は2001年に新設された。
下記の理由で信用が置けない。
それまで総理府のもとに原子力委員会(推進部)と原子力安全委員会(規制部)があった。
御用機関でもじゃまだということで経産省のもとに安全・保安院を設置した。
安全・保安院が実態である。
名称にだまされてはいけない。
原発施設認可権を握る経産省の機関つまり推進派の奥の院はここだ。
このとき親友Mをはじめ多くの原子力科学者が原子力安全委員会の弱体化を心配し内閣府による安全管理の一元化を求める提言書に署名したが無駄だった。
案の定安全規制は緩められ今日に至った。
ではより信頼度の高い情報をどこにもとめるか?
推進派がTVで流す圧倒的な情報を参考にしながらWEBサイトで検索するほかないであろう。
そこにはタブーに挑んだ異端専門家のリアルな発言がいくつも出ている。
武田邦彦 http://takedanet.com 
小出裕章http://hiroakikoide.wordpress.com
今中哲ニ http://www.youtube.com/watch?v=9U1FKpWiVmg
広河隆一http://sumisumirinjin.blogspot.com/2011/05/blog-post_15.html  
私は小林圭二の講演を23日に聴いて来た。
大阪府の辺境熊取に京大実験原子炉がある。
小林たちは万年助手の肩書きのため俗に熊取六人衆と呼ばれている。
後日かれが推進派名誉教授と対談した記事を参考のために追加する。
http://blog.goo.ne.jp/humon007/e/c2b0e642644c3a6fb13cf4beda9ca27a


東日本大震災/原発大事故/タブーと戦った学者達

2011-03-21 | 体験>知識

60年日米安保条約反対を闘った同志3名が生涯原発に関わった。
お圭ちゃんと海老ちゃんは京大熊取原子炉に勤務し原発の安全性に警鐘を鳴らし続けたため出世することはなかった。
彼らは伊方原発訴訟で活断層上の伊方原発の全電源喪失の可能性を訴えたが最高裁でも敗訴した。
判決を書いた判事は後に原発村に天下った。
親友のMは原研に勤務し原子力の最先端の研究開発に従事した。
もんじゅ、プルサーマル、六ヶ所村・・・どれも事故続きで迷走している。
推進科学者の苦悩も相当なものだろう。
だいぶ前京都に学会で来たから会おうと誘われたが多忙で会わなかったことが悔やまれる。
お圭ちゃんは原発反対運動で突出し、時の科学技術庁長官田中真紀子と会見した。
真剣に耳を傾けた稀有の大臣だと評価していた。
チェルノブイリ事故のあとお佳ちゃんに原発銀座で事故が起きたときの危険度を示す同心円図を送ってもらった。
風向き次第では大阪でも即刻避難を要するとそのとき確信して今に至る。
農学部出身の同志Kは若狭湾の海藻汚染を調べていた。
海水の温暖化に言及していたが当時の私にはピンと来なかった。
今回の事故で連続放水冷却の映像と小出裕章氏(京大原子炉勤務)の講演録を読んで目から鱗が落ちた。
《日本にある55基の原発全体からは、1年間に1000億トンの温かい水が排出されます。
日本全土に降る雨の量は1年間で6500億トンで、そのうち川に流れるのは4000億トンです。
つまり原発は、毎年日本の川を流れる水の4分の1に相当する量を7℃温めて海に戻しているのです。
温暖化対策を真剣に考えるなら、炭酸ガスを問題にする前に真っ先にこの「海温め装置」を止めるべきです。》
核燃料は制御後も燃え続けエネルギーの70%を温排水として海に流さざるをえない。
(電気エネルギーとして利用されるのは30%)
道理でJ-villageに行ったとき選手たちと泳いだ福島第2原発の夏の海は陸が霧で寒いのに生温かった。


東日本大震災/大津波/言い伝え

2011-03-18 | 体験>知識

かつてブログに海や川での体験を書いた。
生き残りたければ流れに逆らうな、と。
今回はTVでリアルタイムで観た漁船のサヴァイヴァル術を紹介しよう。
チャンネルは前回同様NHK?
固定カメラが気仙沼港を撮り続けていた。
穏やかな海面を2隻の漁船が滑るように出て行った。
岬の陰に消える直前に港に入って来るより大きな漁船とすれちがった。
岸壁を歩いている人もいた。
この人達は遭難するなと思ったところで記憶が消えた。
津波が来た所からの中継に画面が変わったのだろう。
津波に向かって行った漁船は無事だったに違いない。
その実際の消息は知らないがTVでそのようにして助かった漁師にインタヴィユーしているのを見た。
津波が来ると想ったら沖に逃げよ、という言い伝えに従って命拾いした、と答えていた。
言い伝えは、先人が体験から得た知恵の集積である。
学問的知見でも水深50m以上の沖合では波は感じられないことになっている。
そもそも津とは港のことだ。


東日本大震災/指示はシンプルに、「稲むらの火」を灯せ

2011-03-17 | NEWS/現実認識

自分の考えを押し付けようとは思わない。
脱線ブログから一時退避されても構いません。

地震、津波は強度にしても規模においても先例があった。
チリ、唐山、スマトラ沖、四川、ハイチ・・・。
ただ映像を流し見た程度の観察で終わってサヴァイヴァルに必要な術までは誰も私も学習しなかった。
私はブラジル土産の瑪瑙の風鈴様吊り飾りが鳴って家の横揺れで地震を知った。
TVは休止電源が入っていたが自動では起動しなかった。
教訓1 自動警報のTV,ラジオがあれば万単位の犠牲者は出なかった。
TVを起動すると、マグニチュード8.8の表示はあったが震源については何も出ていなかった。
画面は予想される津波の強度を色分けした日本地図と高台の固定カメラによる気仙沼港の映像一色で、あとはアナウンサーが避難を訴え続けるだけだった。
予想される津波はどこかは高さ6mでどこかは3m,といった地名と数字の羅列が字幕で流されていた。
教訓2 TV,ラジオを視聴していたとしてもこれではミスリードされると後で知った。
自分だけかもしれないが、地名が出ない所のひとは、たとえば仙台は大丈夫と思い込んだのではなかったか。
まもなく大津波が寄せて来ます、できるだけ早く遠く高い所へ逃げてください。
これで十分だったのではないか? 
後知恵だが、平地なら海岸から5km離れていても安全とはいえない。
淀川河川敷なら枚方高槻あたりまで増水すると推測する。知人の河川レンジャーに話すと言下に否定された。

私は永年少年サッカーの指導をしているが、個人力指導のコンセプトを練りに練って4つのキーワードにまとめて選手に伝えている。
これに対応するチームプレイのキーワードを足しても8つのキーワードでサッカーのすべてを網羅して説明できる。
多弁は駄弁、1を聞いて10を知る演繹法を採る。


サントス&リオ/さらば母国

2011-03-17 | 体験>知識

サントスはサンパウロの外港である。
州の産品コーヒー積み出し港として栄え、またコーヒー園で働く日本人Ⅰ世がブラジルでの第一歩を踏み出した記念の地である。
日露戦争後の1908年のことだった。
第14埠頭(現在名第8埠頭)近くには第1回移民船笠戸丸乗船者名簿記念碑が建っている。
ちなみにロンドリーナ市には父母の名も刻んだ開拓者記念碑が建てられた。
母は1932年に入植したことになっている。
1951年ブラジルを去るにあたって父母の感慨は如何ばかりであっただろうか。
最初の一歩と最後の一歩の間の長い道程と苦楽を走馬灯のように思い巡らしたに違いない。
わたしには日本人経営の旅館で食べた美味しい純和食の刺身の記憶しかない。
アジはサントスに尽きる、というほど美味しかった。

リオ・デ・ジャネイロは世界三大美港の筆頭である。
コパカバーナ・ビーチ、コルコヴァードのキリスト像、ポン・ヂ・アスーカ(砲弾を立てた形の岩山。頂上までケーブルカーが通っている)、椰子の木立が美しい島々と円弧を描く湾岸を彩る夜景、それらは絵葉書や映像で世界に知られている。
残念ながら夜だったので、寄港したのか通過したのかさえ記憶にない。
夜景が美しかったのだけ目に焼き付いている。
総じて、故国を去る感慨も日本に行く不安もなかった。
わたしは生来鈍感なのか、はたまたコスモポリタンなのか、自分でも決めかねている。


サンパウロ/盗難事件

2011-03-04 | 体験>知識
サンパウロ市のコンゴーニャ空港に降り立った。
10日ほど滞在して出国と旅行の手続きを済ませ観光バスで名所見物もした。
ブラジルの内陸は大方海抜700m前後の高原になっている。
だからサンパウロ市から船が出るサントス港に行くにはバスで急峻の坂道を
いっきょに60kmくだらねばならない。
次の目的地はサントスだ。
だがその前にわが家族がブラジル生活の最後に体験した衝撃的な盗難事件を
語らねばならない。
サンパウロの宿に貨物列車で送った複数の大トランクが荒らされ帰国土産の
高級毛布等金目の物が抜き取られてしまった。
旅館の主人はブラジルの恥だ、新聞に載せると息巻いていた。
父母は落胆のあまりやはりブラジルは日本に比べて2等国だったと納得し一刻
も早く出国したいと思ったに違いない。
しかしこの事件ははからずもわが家族の数十年の生活と体験がきわめて局地
的で限定的だったことを明らかにした。
盗ってくださいと言わんばかりの牛革仕立ての立派な大トランクをなぜ作ったか。
そのトランクは大きな革を貼りあわせて鋲留した特注品でハリウッドの俳優なら
移動用に作ったかもしれないような代物だった。
ブラジルは斉一ではない。
北と南では違う。大都会と田舎では違う。
サンパウロとロンドリーナではもっと違う。
だからわたしのブラジル体験記も北パラナ国際植民地ロンドリーナ市体験記と
読み替えて読んでほしい。