自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

ノモンハン事件=ハルハ河の戦い/世界大戦の舵を切った限定戦争

2021-11-14 | 近現代史 世界大戦の前哨戦

♪ホロンバイルの華(1940.01  Victor )
ジンギスカンの裔sueの子よ
外蒙兵よ目覚めよ、と
敢然立ちてこがねきし[黄金騎士]
ビンバー大尉の雄々しさよ

わたしはこの曲を戦後11歳の時世話になっていたブラジルの叔父幸長の家の蓄音機で聴いた。日米戦争の直前に輸入したレコードであろう。
ビンバー大尉はリュシコフと同じ頃外蒙(モンゴル、ソ連の衛星国)を脱出して内蒙(ハルハ河以東の蒙古、関東軍の支配下にあった)騎兵隊に身を投じた。
上記歌曲は「散華」した大尉の武勇をたたえる軍歌である。音源が国会図書館にしかないので「こがねきし」の意味を確認できなかった。推測で「黄金騎士」とした。
なお、北海道に養子として残されたもう一人の叔父勇は他ならぬノモンハンで戦死した可能性がある。ノモンハンでの旭川第7師団戦死傷者3481人(派遣軍10618人中)。叔父幸長がこのシングル盤軍歌を所持していたことからの類推である。

  フルンボイル 地名の由来は図中フルン湖とボイル湖

ノモンハン事件は、数多くあった偶発的国境事件の単なる一つではなかった。4ヵ月にわたってフルンボイル大草原の砂丘で繰りひろげられた宣戦布告なき戦争、しかも我が国の為政者が戦史から抹消したい負け戦であった。勝者のソ連はハルハ河の戦い、モンゴルはハルハ河戦争と名付けている。
発端は1939年5月始めにハルハ河東岸ノモンハン付近で起きた満洲・モンゴルの警備隊間の発砲騒動である。満州国は河を国境とし、モンゴル国は10数キロ河を越えた清朝時代のランドマーク遺跡を国境としていた。未確定の国境線が背景にあった。ノモンハン戦争が第二次世界大戦の起点と密接につながることは本稿時系列の最後に明らかになる。
本国から満洲ハイラルに移駐を終えた第23師団の初仕事は捜索部隊に「満蒙国境線」を偵察させることであった。ソ連・モンゴル側の周到な準備については後述する。
戦いは満洲とモンゴルの警備隊の間で5月11日に始まりやがてソ連と日本(というより関東軍)の間の師団戦に発展した。
ノモンハン戦争と独ソ戦争の研究はロシアのアーカイヴ公開で飛躍的に進み、日本でも毎年新しい書籍が出版されている。わたしはあまり読んでいない。
経緯とか記録的なことではなく、日中戦争=太平洋戦争における敗戦、コロナ&デジタル「戦争」における政治の敗北を回想しながら、ノモンハン戦争を巨視的に、指導者の戦略的能力を問う形で、描きたい。

1937年7月7日、盧溝橋事件=日中戦争勃発。
同11月、日独伊3国防共協定。
同12月、日本軍、首都南京占領。蒋介石、武漢に疎開。
1938年1月、近衛文麿首相「国民政府ヲ対手[相手]トセズ」と声明。日中戦争手詰まり感。
3月、ナチス・ドイツ、オーストリアを併合。
同9月、英国のさらなる譲歩(ミュンヘン協定)により、ヒットラー、チェコスロバキア・ズデーテン地方を併合。
同10月、日本軍、武漢三鎮を占領。蒋介石、奥地重慶へ脱出。
同11月、ソ連・ポーランド相互不可侵条約締結。
1939年3月、ヒットラーは英仏とのミュンヘン協定を無視してチェコに侵攻し占領した。次のターゲットはポーランドである。
同5月、ノモンハンで軍事衝突。

こういう状況で、英仏はポーランドに軍事援助を約束し、ソ連とは同盟交渉に入った。チャーチルは海軍大臣に復帰し軍備増強に務めたがまだ首相ではない。それぞれインド、インドシナを植民地とする英仏両国は南方ルートから蒋介石(重慶の国民党政府)を支援した。
スターリンは、ミュンヘン協定でドイツの東進をスルーした英仏に不信感を抱き、主体的に、英仏との同盟よりかナチスとの対決を回避=遅延する路線を選んだ。1939年8月23日の独ソ不可侵条約である。
ノモンハン「東岸」の第23師団陣地を包囲攻撃するソ連の大攻勢は8月20日に開始された。独ソ不可侵条約との連動は偶然ではなく計画的だった。独ソ提携を確実にしたスターリンは独ソ間秘密協定に基づいて西進(ポーランドを分割)するために背後の後顧の憂いを断ち切る決断をしたのである。#スターリン西進路線決定
独ソとも二方面作戦をさけるのが本筋であるから、両者が状況次第では手をつなぐことは日本も英国も予見すべきであった。出し抜かれた日英はホゾを噛むことになった。
独ソ不可侵条約締結の一報に国粋主義の御大・平沼騏一郎首相は「欧洲の天地は複雑怪奇なる新情勢」の一語を残して内閣を投げ出した。国粋主義者は案外純粋というか井の中の蛙というか世界を知らず、だ。
元老西園寺公望、内大臣木戸幸一 、首相近衛文麿・東条英機にしても、スターリン、蒋介石、チャーチル、ルーズベルトに比して、戦争指導者として情けないほど見劣りする。それは自立的個人を育てない、活かさない、今なお顕著な集団主義的システムの弊害であろう。

政治は軍部に牛耳られ、その軍部は陸軍と海軍が反目しあって不統一、陸軍は参謀本部が関東軍本部と前線派遣軍の跳ね上がり将校の無謀な作戦に引きずられるほどに無能、作戦参謀は情報参謀など眼中にないほどに大和魂一本槍、・・・つまるところ戦時に国に政治と軍事にわたる一元的に責任を持つ統合戦略本部と有力な司令塔がいないということに尽きる。イギリスもチャーチルが登場するまでは対独宥和政策をとって迷走していた。

一方中国では1928年12月26日に張学良が奉天城に青天白日旗を掲げた時点で、中華民国による中国統一がほぼ完成した。
それに至る北伐の途上の5月、前述した通り、軍閥軍が北に去り蒋介石軍の一部が入城した済南城を、出兵中の日本軍師団が攻撃し、圧倒的な火力により難なく占領した。中国側に多くの死傷者が出た。これを日本側は済南事件と言い中国側は五三惨案という。思いがけない展開に蒋介石はそれ以降日本を敵と認識し、日本敗戦まで日記の冒頭に「雪恥」と記し続けた。#蒋介石抗日路線決定
蒋介石は、日本が満蒙に対する突出した野心を抱いていて中国単独ではそれに対抗できないこと、勝利のカギは満州の門戸開放と機会均等で日本の動向に敏感なアメリカの介入と援助にかかっていることを、確信して戦略化した。
蒋介石は、アメリカに宋美齢を派遣しロビー活動と世論工作をする一方、なりふり構わずスターリンに軍事援助を乞うた。
結果から見て、かれの持久戦略と外交路線は成功を収めた。ちなみに内戦で民意を得て蒋介石軍を打ち負かした毛沢東の「持久戦論」は遊撃戦法のバイブルであるが、わたしはサッカーの戦術を考えるうえで大いに参考にした。

   依拠本 2019年  講談社現代新書

さて主題のノモンハンの夏であるが、日本もソ連もそれぞれ対中戦争と対米英仏外交、対独防衛外交という国運のかかった難問題に直面していたから、ノモンハンで、それぞれが引いた国境線を越えて、あえて戦火を広げる危険を冒す意図はまったくなかった。したがってノモンハン事件は懸案のハルハ河東岸を争奪する限定戦争と言える。
日本は参謀本部が関東軍に対応を丸投げし、関東軍は作戦参謀の言いなりになって何となくハルハ河を越えた。
一方スターリンは、満州事変後シベリア開発に囚人労働を投入して重化学工業と鉄道等インフラの底上げに努めて日本軍の北進に備えた。信頼するリュシコフの極東派遣は対日防衛強化の一環でもあった。
またモンゴル政府に圧力を加えて相互援助条約を結び進駐赤軍に自由行動の道を拓いた。蒋介石とも相互不可侵条約を結んでその抗日戦争を軍事支援した。蒋介石は5000kmの旧シルクロードを通って自動車で運ばれたソ連製の武器弾薬で抗日戦を戦ったと言っても過言ではない。
スターリンがノモンハン事件までに用意周到に戦略的に満蒙包囲網を張っていたことは特筆すべきことである。

スターリンは後日、ヒットラ―がパリまで電撃的に進行した後の対英戦手詰まりを対ソ開戦で打開しようとしたとき、もしくはその前かもしれないが、西の産業施設をウラルの裏に、つまり西シベリアに疎開させて、将来の反攻に備えた。歴史上のモンゴルの侵攻とナポレオン戦争の教訓を生かしたと言える。
わたしはスターリンを軍事の天才とか名元帥とか言って持ち上げているわけでない。スターリンは、ヒットラ―の対ソ侵攻計画の情報(ゾルゲ情報をはじめ百件以上あった)を前日まで信じようとせず、ヒットラーを刺激することを怖れて防衛前線に警戒命令を出さなかった。
そして侵攻の一報に呆然自失して別荘にひきこもり、モロトフたち側近にクレムリンに連れ戻された、というエピソードは広く知られている。準備ができていなかったソ連軍は、スターリンのせいばかりではないが、570万人の捕虜を失い、その半数以上が死亡した。統計は最新のロシア側史料に基づく大木毅『独ソ戦』2020年による。                              
スターリンの戦略の核心をなすキーワードの一つは距離と移動である。第二シベリア鉄道=バム鉄道建設しかり、50万日本人捕虜のシベリア移送計画しかり、島国日本人の想像力をはるかに超えている。
ノモンハン戦争でもしかり、関東軍は圧倒的な機動部隊が700kmの道なき道を通って兵站線を維持しつつハルハ河西岸の台丘の裏側と後方に集結しているとは夢想だにしなかった。ソ連側の用意周到な作戦準備の秘匿と情報攪乱があったにせよ、もともと日露戦争を除けば日本軍は情報戦力に限界があった。
関東軍の派遣部隊は目の届かない台丘後方から発射される重砲弾と新たに投入された新型の戦車(火焔放射戦車もあった)と軍用機に完膚なきまで打ちのめされハルハ河東岸を失った。関東軍虎の子の戦車は東岸戦場で70台の内およそ半分が使用不能になり、戦車部隊は闘い半ばに早々に満州に撤退して壊滅を免れた。
ちなみに大戦中ソ連をふくむ連合国は次々と近代兵器を戦場に送ったが、日本はゼロ戦、戦艦大和の例を見れば分るとおり、国力の限界で後が続かなかった。
関東軍のもう一つの誤算は、かの大粛清でトハチェフスキーをはじめ古参高級将校の首を刈り取られた赤軍は弱体化しているはずだという読みだった。さにあらず、赤軍の将校は若返り、より効果的に近代兵器と新作戦術*に適応してノモンハンの戦場に姿を現したのである。[独ソ戦劈頭では逆に未熟を露呈し大損害をこうむった]
*ジューコフがノモンハンで採用した戦法は、ソ連で36年に発布された「赤軍野戦教令」にあるものだ。重砲や航空機、歩兵と連動した戦車部隊の活用を攻撃の主軸に置き、防御に三重四重の陣地を構える「縦深戦術」と呼ばれた手法は、「赤いナポレオン」と呼ばれた同国のトゥハチェフスキー元帥の発案による。編集委員・永井靖二  www.asahi.com  から転載。

ノモンハンの英雄ジューコフはやがて独ソ戦で救国の将軍として世界史に登場することになる。ジューコフがノモンハン戦後スターリンに引見されたときの問答を下記に掲載する。上掲書からの転用。
「君は日本軍をどのように評価するかね。」[これがスターリンの作戦目的の一つ、威力偵察だった]
「日本兵はよく訓練されている。とくに接近戦闘でそうです。」[ソ連兵は日本兵の執拗な夜襲で混乱し多くの死傷者を出した]
「彼らは戦闘に規律をもち、真剣で頑強、とくに防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。若い指揮官は決ったように捕虜として降らず[戦陣訓はまだなかった]、”腹切り”をちゅうちょしません。士官たちは、とくに古参、高級将校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切型の行動しかできないようです。」

第23師団の壊滅的惨敗で参謀本部は停戦協定を急ぎ天皇の「大陸命」(8月30日)で関東軍の抵抗を抑え込んだ。#北進論の鎮静化、南進に舵切る要因
スターリンにも急ぐ理由があった。9月1日、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、英仏が対独宣戦布告を発して世界大戦が勃発した(実際は8か月間以上陸戦が行われなかった「まやかし戦争」)。モロトフ外相は、スターリンがヒットラーとの8月23日の密約に基づいてポーランド東部への侵攻のタイミングをはかっている間は、東郷大使の面会要請に頑として応じなかった。
それが9月15日の深夜の面会となり夜明けまでに対峙中ラインで停戦協定をまとめた。後日の交渉でソ連は、モンゴル主張の国境線の一部(アルシン地区)を譲歩して、国境を停戦ラインで確定した。
ちなみに、日ソ間の緊張緩和は1941 年4月の日ソ中立条約の締結をもって頂点に達した。そしてソ日ともそれぞれ後顧の憂いを払拭して独、米との全面戦争に突入した。
ノモンハン戦争の勝利で日本陸軍の北進気運にとどめを刺したスターリンは、1939年9月17日、ポーランドに侵攻した。大使も武官も情報機関もその秘密動員に気が付かず、日本はまたしてもスターリンに出し抜かれた。結果的に、ノモンハン戦争はスターリンの予備戦争となった。