自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

大学時代/1962~63年/ゼミ

2016-05-26 | 体験>知識

 
ゼミ・ピクニック

3回生になると専門課程とゼミが始まる。
教養課程では大学のカリキュラムに沿った勉強はほとんどしなかった。
専門課程ではゼミはマルクス主義経済学のHゼミを選んだ。
ゼミ以外の講義に出たかどうかあまり記憶にない。
H教授は「産業資本主義の構造理論」を出版したばかりで、現代資本主義の構造を解明して「資本論」を発展させたいと野心的な調査研究に取り組んでいた。
だからゼミの活動ももっぱら大企業の研究と調査だった。
ゼミの発表でわたしが借入金を「しゃくにゅうきん」と言ってたしなめられたことが思い出される。
実地見学では近畿の大企業の工場を、たまには泊りがけで、見学した。
見学対象は基幹産業の工場なかでも流れ作業だった。
住友金属和歌山工場_
真っ赤な高熱の厚い鉄板がシャワーを浴びながらラインをはしる様は壮観であった。
八幡製鉄所のコークス炉で塩をなめなめ働く従弟の苦労を想った。
住金が世界で初めて開発したスパイラル鋼管は会社のドル箱であるとOBが誇らしげに語っていた。
もちろん誰ひとり日本の鉄鋼産業が将来苦境に陥ると予想した者はいなかった。
日本の鉄鋼産業は日の出の勢いで世界に打って出ていた。
事情は造船業でも同じであった。
日立造船桜島工場_
いうまでもなく造船は工業全体の労働、技術を集約した最終製品の傑作の一つである。戦後復興の象徴でもある造船所を見学できたのはゼミのおかげであった。
わたしはその後造船には労働運動と就職でちょっとした縁らしいものがあった。
後の三菱自動車京都工場_
三菱重工の自動車部門が戦車のように頑丈な自動車(おもにジープ)を造っていた。数年後に自己研究することになる流れ作業「フォードシステム」の実際を見学できたのは大きかった。
オートメーションはマルクス以後の技術思想の花形であったがまだ花開く域には達していなかった。オートメのひな形にはまだ程遠いトランスファーマシンの実物を間近に見た。
翌年同じ工場で数十キロの重いエンジンを運ぶアルバイトをした。
Hゼミが教授の英国留学で休みになったので4回生はHTゼミに移った。


大学時代/大管法闘争が育んだ思想、闘士/1968年の発酵素

2016-05-11 | 体験>知識

1962.11.30 大管法粉砕全国統一行動、全都学生総決起集会〔東大安田講堂前〕に六千名結集、文部省デモ・坐り込み、京都府学連集会〔立命館大〕に二千三百名結集・市内デモ、大阪府学連集会〔扇町公園〕に千五百名結集・市内デモなど全国三万学生が決起

この大管法闘争の盛り上がりの中に6年後の安田講堂攻防戦につながる発酵素があった、と山本義隆は回想記で示唆している。旧帝大の東大、京大は学内で他大学の学生会を含めた政治集会を開催するのを禁止していた。両大学は優越的排外主義に立った「大学自治」に始終安住していた。好意的に解釈することもできる。つまり権力の介入を予防するためにいっさいの学外勢力忌避の予防線を張ってきた、と。

それに三派都学連が風穴を開けた。
国立大学協会の会長として72大学の学長を束ねる茅東大総長が大学管理を自主規制で強化する姿勢をみせて法案提出を見送らせようとボス交渉していた。それが、東大→その権威の象徴である安田講堂前全都集会のヒントとなった。ともかく画期的な発想だった。
こうした集会、ストに対して関係大学は文部省に自治能力を証明するかのように責任者処分の追い打ちをかけた。退学、停学、自治会解散。これがまた次につながる火種となった。

闘いの矛先が政府、文部省よりか大学当局に直接向かうことになり、処分撤回闘争、学問研究のあり方と大学自治を問い直す流れが深化し、メディアのいう学園紛争が深刻化し拡がりを見せてゆく。私学では授業料値上げ阻止闘争が頻発した。その中からヴェトナム反戦闘争、反公害住民闘争、東大闘争、日大闘争、全共闘運動を担う指導者と活動家が大きく成長してゆく。
後の安田砦防衛隊長今井澄、東大全共闘議長山本義隆、東大助手共闘最首悟、日大全共闘議長秋田明大...。

12.8 京都府学連集会〔円山公園〕に三千名結集、市内デモで機動隊と衝突・重傷者多数・七名逮捕、大阪府学連集会〔扇町公園〕に千名結集・市内デモ

大管法阻止の学内闘争に対して京大当局は、同学会委員長初め中執全員に停学処分、教養部自治会解散を含む七学部自治会の活動停止処分を課した。

全大学人の総意に基づく「大学封鎖」の提起はあまりにも現実離れした絵空事であったため投票ボイコットに遭って有効な投票行動を掘り起こすことができなかったが、大学自治をめぐる議論を巻き起こした。
文部省は学長と教授会をふるいにかけると脅かした。つまり文部省の言いなりにならない大学自治は承認できないということだ。
あまりの露骨さに大学人は国大協までもが反発した。
わたしの属していたHゼミの例を挙げよう。
元共産党国際派と噂されていたH教授はふるいにかけられる対象だから当然大管法阻止の立場だ。
「学生は4年で卒業するお客さんだから大学人ではない、大学管理には関われない」
これは助教授、助手、院生、学生だけでなく職員、生協職員も大学構成員と考える我々封鎖派の主張と真っ向から対立する。
このとき我々が感じた疑問と主張が6年後に東大闘争の中で画期的な展開を見せた。
加藤総長代行と7学部全共闘を除く学生集会(1969年1月10日 秩父宮ラグビー場)の間で交わされた確認書...
「大学当局は、大学の自治が教授会の自治であるという従来の考え方が現時点において誤りであることを認め、学生・院生・職員もそれぞれ固有の権利を持って大学の自治を形成していることを確認する」    

京大ブントは大学を大学人に取り戻して人民に奉仕させる、とは言わずに、いきなり1日だけだが全大学人の意志で大学施設を封鎖することを提案した。
折から高度経済成長期に入った日本経済とフルシチョフソ連の攻勢(有人人工衛星打ち上げ、キューバ危機、ヴェトナム内戦)を受けて、池田内閣は、大学に産学協同の実を上げることを迫っていた。アメリカでは軍産複合体が人民の利益を脅かすまでに膨張していた。1年後ケネディ大統領が暗殺された。
こうした背景があったから「大学封鎖」のスローガンはヴェトナム戦争の激化とともにアジアを抑圧支配する「帝国主義大学解体」の思想に容易にインスピレーションを与えた。
12. 8の大管法阻止の集会とデモ以降、関西ブントは首都でヒーロー扱いを受けた、と1961年入学の後の赤軍派議長塩見孝也は語っている。
大管法闘争は半年で終結したが、安保闘争に間に合わず欲求不満を抱えていた次世代の学生に恰好の闘争舞台を提供した。後の赤軍派の幹部連は関西から出た。