自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

「朝が来た」/百鳥爭鳴/原敬政党内閣

2016-01-19 | 歴史認識

原敬内閣の時代1919~1921は勉強に値する。
それは大戦後バブルの最中に始まり戦後不況の開始で終わる。
終戦は内外に緊張緩和をもたらし、1910年の大逆事件[幸徳秋水、菅野スガ等12名処刑、ほかに獄死5名]以来続いた社会主義、個人主義の暗い「冬の時代」に光が差し始めた。
天皇制が踏絵になって言論人、文人、学者が苦悩した閉塞の時代がやっと明けた感じ
だった。「労働」「社会」の字句が禁句でなくなった。
天皇主権を横目で見ながら民本主義、自由主義、キリスト教、トルストイ主義、社会主義、サンディカリズム、マルクス主義、国家社会主義等の新思想が研究され論壇をにぎわした。
民主主義は天皇制の対立概念で無政府主義同様弾圧対象であった。
普通選挙にあずかれない無産の階級、階層の運動が活気づいてきた。
労働運動、婦人運動、小作争議、騒擾。
そしてそれに学者、学生が目を向ける傾向が顕著になった。
国権対民権の対立もやや緩んだ。
両極端の主義と運動すなわち天皇制全体主義と国際共産主義の主張はまだ遠雷の如く注意しないと聞こえない。

1918.8.12 成金財閥の象徴鈴木商店が米の投機買いで民衆に焼き打ちにされた。
バブル景気とシベリア出兵で米価は1升50銭ほどに高騰し、重労働の労働者の日給に相当した。

1918.8.25 白虹事件
 米騒動報道禁止に反対する「内閣弾劾関西新聞記者大会」を報じた朝日新聞が内乱
 を暗示する故事成語「白虹日を貫けり」を用いたことで新聞紙法で発行禁止の危機
 にさらされた。国家主義団体・黒龍会、浪人会が村山社主を襲撃、みずから「大阪
 朝日新聞破壊運動」と称した。
 朝日新聞、幹部更迭、記者退社、国家権力に屈服、以降政府批判の筆鋒にぶる。
 新旧思想対決の幕開けである。  

1918.9 原敬内閣誕生
「ビリケン(非立憲)内閣」とやゆされた寺内内閣が米騒動のあおりで退陣した後山県主席元老の指名で原敬内閣が誕生した。
あいかわらず首班は元老の鶴の一声で決まった。
両内閣の閣僚をくらべると、寺内内閣は貴族院出が、原敬内閣は政友会出が多く、対
照的だったため、最初の本格的政党内閣として民衆の期待を集めた。
陸相と海相が軍部の指定席であることは変わりようがなかったから軍部がごねて大臣
を出さないと内閣がつぶれる仕組みだった。
原敬内閣は大戦景気で増大した税収入を梃子に積極財政政策をとり、産業貿易振興・
交通整備・教育振興・国防充実の四大政綱を掲げた。

産業貿易振興は財閥中心で大正財閥が勃興した。原敬自身古河財閥出身だった。
帝国主義の経済基盤が整った。
レーニンの帝国主義論にしたがえば日本はまぎれもない帝国主義国になった。
侵略戦争に傾くか否かは国際情勢と政治の問題、政策次第となった。

交通通信と港湾河川のインフラ、高等教育の拡充は、世界市場に躍り出た経済界の要望に応える政策だった。

現在ある有名大学の多くがこのころ創設された。理研もその一つ。
大学高校の増加は治安上の不安を政府にいだかせた。
文相が学生の普選運動参加を防止するよう通達を出した。

軍事予算で軍部を引き寄せ国際協調路線に乗せた。
それは軍部をワシントン軍縮会議のテーブルにつかせることにつながった。
シベリア出兵では引くに引かれず出るに出られず桁外れの大軍[最高時7万3千名]
が大義名分のないまま5年間も駐留するにまかせた。
このことはアメリカに対日不信感と警戒感を抱かせた。
極東に関する日米摩擦は「平和的」となるはずの国防方針で、日米がたがいに相手国を仮想敵国とする結果をまねいた。
ワシントン軍縮会議は英国と入れ替わってNo1大国に上昇した米国が、No3にのし上がった日本に太平洋と極東でタガをはめる、米国主導の枠組み作りだった。
会議の議題は戦艦軍縮、太平洋と中国大陸、シベリアであった。

原敬は税増収分を使って上記積極策を地方への利益誘導につなぎ鉄道敷設等で政友会支持票田を広げ選挙で圧勝した。
「我田引鉄」と呼ばれる利益誘導政治は現代につながる。

原敬は普通選挙法に反対した。
小選挙区制と納税額3円以上で選んだ資産者だけの選挙法を制定した。
選挙資格者は倍増したがそれでも300万超に過ぎなかった。
何千万の無産者と女性、新中間層は選挙権がなかった。
 

1918.9 トルストイ主義の共同体「新しき村」誕生
   〃   京都に労学会結成、10月に東西大学連合弁論大会を開催

1918.11 吉野作造対浪人会立会演説会 
 白虹事件の仇を討って、学生、労働者2千以上「デモクラシー万歳!」を叫ぶ。
 大仏次郎、興奮して吉野に抱きついてキス。 

1918.12 社会政策学会、初めて婦人労働研究発表
   〃    首都に黎明会結成
   吉野作造、福田徳三、麻生久、それに白虹事件で朝日新聞を退社した大庭柯公を
 中核に、学者言論人多数参加。
 民本主義に基づく国体の学理的研究、前近代頑迷思想撲滅を掲げて講演会を諸所で
 開催し、三・一運動(朝鮮)、五・四運動(中国)で政府を批判した。
 普通選挙法制定運動、治安警察法第17条(ストライキ禁止)撤廃運動を推進し黎
 明会員森戸辰夫筆禍[学問を司法が裁く]事件の弁護にかかわった。 

1918.12 東大法学部自治会緑会弁論部中心に新人会結成
 黎明会ジュニアともいうべき団体。啓蒙活動を実践的活動につなげた民本主義学生
   運動。
 OBの麻生久も加わり、帝政ロシアのヴ・ナロードにならって労働者街に仮住まい
 し友愛会労働運動と接触。後の社会運動家、共産主義者多数を輩出。         
 綱領 =「人類解放」+「現代日本の合理的改造」

1919・1  広岡浅子没
 キリスト教に改宗していた浅子、死の直前に、軍国主義より民本主義を支持、と婦
 人雑誌で語る。
 この頃の活動家にはキリスト教を経て社会運動にかかわる傾向が顕著だ。

1919.1.18~8.10 大戦の後始末パリ講和会議
 
国際連盟設立、日本常任理事国。

1919.2 東京、名古屋、京都で普通選挙期成大会
 友愛会労働者と学生多数参加。 

1919年~  社会問題を扱う研究所、雑誌、論文目立つ
   大原社会問題研究所設立、河上肇「社会問題研究」創刊、 堺・山川等「社会主義研
 究」創刊、総合雑誌「我等」「改造」「解放」創刊。        
 高畠素之訳「資本論 第1巻」
 
1919年~  労働争議、小作争議頻発、借家騒動頻発

1919.5  出版法改正(取り締まり強化)
        〃    平沢計七、知識人グループによって友愛会指導部から追放される。
 
1919.10 ヤクザの国家主義全国組織‣大日本国粋会結成

1919.10   警保局、労働運動内情探索(スパイ活動)を指示
 この間友愛会指導者平沢計七には常尾行がついていた。
 労資協調労働団体といえども監視対象だった。

1919.10 知識人グループの改革派に友愛会を追われた平沢計七、純労結成
 城東労働組合員を割った320名で構成。新労働組合の自治、自主という性格は、
 その名称⁼純労働者組合に表れている。    
       
1919.11 借地借家人協会設立
   大都市では著しい人口流入による家賃値上げ、敷金をめぐって家主vs借家人の騒動
 が頻発した。

1919.12 財団法人[労資]協調会設立(渋沢栄一、副会長)
 渋沢栄一は友愛会も後援した。

1920.1  満川亀太郎、北一輝、大川周明ら国家社会主義運動・猶存社結成
 政治潮流の伏流となっていた自由民権運動が自由国権運動と民本主義に分裂して
 歴史の舞台に再登場。
 「上から」の合理的国家改造、アジアの民族解放、道義的対外政策の遂行を綱領と
 した。当時の思想界の基調は右も左も「改造、革新」であった。
 北一輝「国家改造案原理大綱」発行頒布禁止。 

1920.2 八幡製鉄所ストライキ(2万3000人、溶鉱炉の火消える)
 西田健太郎、浅原健三指導の8時間労働制、賃金手当増額等の嘆願に端を発する
 45日間の未曽有の大争議。場内デモ、ロックアウト、憲兵と警官隊出動、切り崩
 し、御用組合と国粋会利用。解雇、検挙、刑事罰で労友会壊滅。          

1920.2.11 東京で111団体、数万人規模の普通選挙要求大デモ
 あわせて治安警察法廃止要求を掲げた。治安警察法というのは、集会・結社・言論
 などの政治活動の制限、労働者の団結権・ストライキ権の制限などを規定した民主
 主義弾圧法。

1920.3 平塚雷鳥、市川房江ら新婦人協会設立
 婦人参政権、集会結社の権利を要求。そのため選挙法と治安警察法第5条(集会
 結社禁止)改正運動に力を入れた。

1920.3 株価大暴落、戦後恐慌の始まり

1920.5.2 日本最初の労働祭(メーデー)

1920.5.10 総選挙で政友会圧勝
 新たに導入した小選挙区制も圧勝を後押しした。

1920.7 八八艦隊総予算成立
 戦艦長門竣工、陸奥進水。

1920.8 日本社会主義同盟結成
 友愛会・信友会などの各種労働組合や学生団体、社会運動家らの思想団体を網羅
 して結成。社会主義者が公然と大同団結したことは画期的だった。
 政府も弾圧に転じ1年後に結社禁止で解散させた。 

1921.2 第一次大本教事件(不敬罪、新聞紙法で弾圧)

1921.3 奈良県で前身・青年同志会結成

1921.4 伊藤野枝、堺真柄、山川菊枝、女性社会主義団体・赤瀾会結成
 日本初の女性による社会主義団体。

1921.7 神戸川崎・三菱両造船所3万人ストライキ
 友愛会のクリスチャン賀川豊彦等が指導。組合加入の自由、工場委員制度を要求。
 10日3万7千人の市内大デモ、延々8km長蛇の列。驚愕した当局、労働歌とデ  
 モ集会禁止、憲兵隊と軍隊を動員。争議団、参拝と称して各地神社集団詣でで対
 抗。警官隊と衝突、負傷無数、抜剣で1名死亡、検挙300超。
 組員、第2組合もどきの動員、支援団、全国オルグ、行商隊、解雇千余名といった
 要素が戦後の三池闘争を想わせる45日間に及ぶ戦前最大の争議。

1921.8 暁民共産党結成 反軍ビラ事件で一斉検挙(40名、12月)
 ロシア革命から4年、ようやく共産主義出現。

1921.9 安田財閥創設者安田善次郎暗殺

1921.10 白蓮事件 炭坑王VS新人会出弁護士
 この時代、都市で個人主義発達、女性の権利主張、恋愛スキャンダル、目立つ。

1921.11 友愛会、日本労働総同盟と改称
 麻生久等新人会出身指導者の影響もあって友愛会は急進化[階級闘争志向]し、労動
   側の要求も厳しくなる。8時間労働制、不況下の労働条件悪化阻止、そのための団
 結権、団体交渉権を求める。                     

1921.11.4 原敬首相暗殺
 鈴木商店の焼き打ちで幕を開けた原敬内閣は、財閥の政治部代表の暗殺で幕を閉
 じた。
 大戦景気は新興の富豪と新たな貧困を対照的な双生児として生みだした。
 そして百家争鳴の新思想は左も右もひとしく一握りの富豪を排撃していた。
 世直しの機運が兆すとともにやがて共産主義と侵略主義国家主義が台頭して来る。 

多彩な主義主張、思潮、団体、運動、事件が一気に噴出した原敬時代。
羅列されたキーワードはとりもなおさず次の時代のインデックスである。
次の時代の様相がほのかに垣間見える。
次の第二次大戦、その次の次の大戦の芽生えを探している自分がここにいる。