自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

初めての授業/失敗したことは忘れない

2012-06-30 | 体験>知識

情報過少の世界で育ったせいか、答えをしくじった事についてはいまだにはっきりと憶えている。
最初の日若いかっこいい男先生がわたしを囲む自己紹介と質疑応答の時間を設けてくれた。
教会の鐘はどんな風に鳴るか、と先生に聞かれて答えに窮した。
教会には見学に入って、ヴィクター犬の宣伝用陶器像を連想させる十字架上のキリスト像には強い印象を受けていたが、鐘の音は聴いたとしても記憶が定かでなかった。
ブラジルで行き詰まった算数の通分約分は1回説明を聞いただけでできるようになった。
俳句の宿題が出たが経験のない悲しさ、少年雑誌上の投稿句をコピーして提出した。
木枯らしや梢に揺れる柿一つ
こんな感じの句だった。
先生にこの句を詠んだ情景を聞かれて、たちまち体が熱くなって見る見る顔が真っ赤になった。
理科の回答でモトールと書いてXをもらった。
motorはブラジル語ではモーターとは読まない。
仕方のないことだが、〇X教育の最初の洗礼だった。
実生活では〇とXの間に無数の図形、イメージがある。
多様な世界を単純化すると効率と成績が上がる。
しかしそれでは世界が激変する時、臨機応変に対応できなくて滅びる。
変わり者と突然変異が生き延びる。
わたしは知らず知らずに詰め込み教育の陥穽に陥っていく。
想像力の摩滅、スポイルの第一歩はこうして始まった。
もちろんそれに気づいたのは不惑を過ぎてからである。
遅すぎた。


学校生活/肥えタゴ

2012-06-16 | 体験>知識

初めての学校生活が始まった。
ただ一人の日系ブラジル人として珍しがられ注目された。
南も北もアメリカとして理解されていたらしくあこがれのアメリカ人として扱われた。
方言しか使われないところで「きれいな標準語を話す」と先生に褒められた。
全国から方言が集まる移住地では共通語がうまれる。
そのことは明治維新後東京でも北海道でも同様だった。
みな好意を持って受け入れてくれたが特別待遇はなかった。
肥えタゴ当番は無知も重なって苦痛であった。
学校の便所の糞便を大きなひしゃくですくってタゴ桶に入れ一杯になると桶の下げ縄に太い竹の棒を通して二人一組で所定の場所まで運んで桶を空にする。
当然桶が重さでゆさゆさ揺れると糞便が担ぐ者にかかる。
お百姓が取りに来て野菜と土にやはりひしゃくを使ってかける。
どこの国にも外国人に笑われる糞尿譚があるが「肥え」だけは嫌で笑い事ではなかった。大人も子供も田舎香水と言って笑っていたが...。
葉野菜は食べたくなかった。
占領軍は清浄野菜を導入奨励し調達した。
「肥え」は寄生虫蔓延の原因にもなったが、今のわたしには理想的なリサイクル肥料としてありがたみがわかる。
ブラジルのY伯父が発した「わざわざ肥えタゴ担ぎに日本に行くのか」の意味を実体験で理解できた。