自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

1968年夏高槻市でサッカーと学習塾を始める /69年夏甲子園 三沢高校太田孝司に魅了される

2019-10-18 | サッカー育成

当時、塾もサッカーチームも皆無だったため、どちらも上々のすべりだしになった。塾は補習塾で片手間、サッカーに情熱を注いだ。
塾の指導は自分のかつての勉強法を踏襲しただけでとくに指導法を研究したことはなかった。地方にはプロの進学塾がなかったから通用したような私塾だった。
サッカーの指導には志と夢をもって臨んだ。
サッカーはFIFAが一元統括する国際スポーツである。だから指導も世界標準を念頭においてした。まず初めにしたことは名称を高槻フットボールクラブとし日本蹴球協会に登録することである。1969.4.4正式に登録した。
世界標準に則した名称と所属を定めユニフォームを作って練習にはげんだが試合相手がない。
サッカーマガジンの「募ります」欄で少年チームを見つけて大阪市喜連瓜破、池田市早苗の森まで行った。相手チームの監督はそれぞれ中学生だった。
日常的な課題は私自身の初歩的な技術習得と総合的な理論学習であった。小学校の旧校舎の基礎壁を利用した壁パス、ビンやカンを並べてのドリブル、10回突破に時間がかかったジャグリング等を大真面目に日課とした。
サッカーマガジンで情報を得ながら、当時の日本協会長・野津Drの少年団向け指導書、毎日新聞岩谷記者のサッカー教室指導書で初歩的な学習をした。サッカー講習会があれば遠方でも参加した。1969年に来日したボルシア・メンヒェングラートバッハのコーチによる講習会に参加した。両足を使う、パスはインサイドを使うとか聞いたような気がする。
自分流のサッカー観をもつうえで決定的な影響をうけたのは、そのボルシアMGを率いる名将バイスバイラーの著書サッカーの戦術―現代サッカーの理論とトレーニング』 (1972年  講談社刊)からであった。バイスバイラー→ミケネス→クライフが創造と進歩に寄与した「トータル・フットボール」の原点、攻撃哲学が息づいていた。わがチームはすぐさまオフサイドトラップに馴染み、愛称としてブラックパンサーを名乗った。
京都と兵庫のサッカー友の会がサッカースクールを運営していることを知り教えを乞うた。両会は戦前活躍した同好の士が寄り合って事業に携わっていただけあって、日本がサッカー後進国であることを憂えて地方でやれることを先進的に実行していた。兵庫友の会は1969年3月30日、市民の支援を得て御崎サッカー場(神戸中央球技場)を完成させた。1万2千人収容できるスタンドと夜間照明を備えた日本初の天然芝サッカー場である。
わたしはここでスーパースターたちのプレイをナマで観る幸運に恵まれることになる。モザンビークの黒豹ことエウゼビオのコーナーに近いゴールライン上からのキャノン・シュートを目の前で見た。ペレのしなやかな強さ、カルロス・アウベルトの完璧なディフェンス、ベッケンバウアーの優雅なリベロ、マラドーナのラボーナ・シュートが目に焼き付いている。
私と神戸のレジェンドたちでは比べるべくもないが、やっていることに家内手工業と機械制大工業の差があった。それにもめげず私はチームと自分の技術・戦術のために試合相手と講習会を求めて京阪神を飛び回った。

969年夏は三沢高校と松山商業の決勝で記憶に刻み込まれた。わたしたちは柳川小学校で練習をするかたわら職員室の窓の下で洩れ来るラジオに耳を傾けた。延長18回0-0で翌日再試合となった。下記写真はその時のモノである。

 

 


1968年9月 借家生活と塾生募集/少年サッカー始動

2019-10-04 | 生活史

阪急住宅の端っこだった借家は広かったが、裏に大きな農業用ため池があったため湿気がひどく台所はカビだらけだった。なれない自炊でこんなことがあった。炊きあがった炊飯器の蓋を取ると裏に蒸されたナメクジが張り付いていた。ブラジルで遊び道具にしていたエスカルゴの仲間だろうからと思案して食べてみた。サザエの味がした。
裏の池ではタモロコがよく釣れた。小指ほどの魚だがコイ科らしく口の横に二本のヒゲ状触覚があった。向日町競輪場[の露天商?]を仕切っているという御爺さんと並んで釣り糸を垂れたことがあった。後日の公衆浴場で見かけた。背中一面に入れ墨がしてあった。年老いて小柄であったため倶利伽羅紋々が寂しそうにみえた。

何はともあれ塾生を集めなければならない。塾生募集の折込チラシを大量に作って新聞大手3社の配達店を通じて富田地区全域に配った。市内の塾の先駆けだったので定員を満たすのはたやすかった。そこに付け込んで抱き合わせ募集をしてサッカー少年を集めた。サッカーは無料なので抱き合わせ販売には当たらないが入塾希望がありながら断念しなければならないケースがあることは否めない。
塾が終わったあとサッカーをすることを入塾条件にしたので多すぎない程よい集まりになった。遊戯共同体とか殊勝気なことを綴りながら無意識にせこいことをやっていた。振り返って、せめてもの救いは性別と能力で差別しなかったことである。ただのこどもたちで塾に来る子はまれであった。
塾が終わると富田小学校の校庭で二つに分かれてゲーム=試合もどきをした。高槻市の校庭はどの小学校も5000平米より広い。しかもどの学校にももれなくゴールが設置されていた。明治からの誇るべき伝統に感謝したい。門柱はあるが校庭には放課後であれば夜間も自由に入れた。校庭開放という概念もなかった。集団で勝手にボールを蹴ってもとがめられることはなかった。明かりは職員室の照明である。唯一のボールは革製でわたしの私物だった。
の子は人なつっこい。サッカーをやっていると「おっちゃん、寄せて」と異年齢の地域の子が女の子までが自然に加わる。ブラジルの公園でならふつうに観られる光景である。
中に器量のいい運動万能の少女がいた。今ならすぐスカウトの声がかかっただろう。中卒のあんちゃんも上手で常連だった。よくゲームを仕切ってくれた。わたしも彼らに交じって童心にかえってボールを追っかけた。ラインもポジションもない団子サッカーだったが楽しかった。
塾の5,6年生には、運動能力が高くルールに通じていて技術にすぐれた男子が何人もいた。当時はクラスの有志が自分たちだけで放課後他校のクラスに試合を申し込むこともあった。
他校とはいっても生徒増で分離するまでは同窓だった。第一次少年サッカーブームの底流があったのだ。背景に日本代表のオリンピックでの活躍があった。
1968年10月、日本代表はメキシコ・オリンピックでメキシコに競り勝って3位に輝いた。得点王となった釜本はクラーマー率いる世界選抜の一員に選ばれた。それがどれほどの偉業であるかは、半世紀がたっても、日本代表がメダルに届かない事実と釜本ほどの世界的ストライカーを生み出していないことをみれば、明々白々である。

  値千金の先取点