自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

プーチンのウクライナ侵攻を近現代史で読み解く

2022-02-27 | 近現代史

TVをつけると、どのチャンネルでも専門家を招いてウクライナ危機を論じている。共通しているのは上っ面をなでるような現象面の解説である。
それに満足できない視聴者に必要なのは、手軽に得られる答えではなく、みずからが答えを出すために役立つ近現代史の論文、書籍ではなかろうか。

手前味噌になるが、私の近代史論集(ブログ)には答えを導くヒントが用意されている。
最近の論文「ノモンハン事件=ハルハ河の戦い/世界大戦の舵を切った限定戦争」では、ポーランドが今日のウクライナに相当していた。ポーランドがソ連領ウクライナと国境を接していた。ヒットラーが向きを変えて東進しポーランドをターゲットにした時、スターリン、チャーチル、蒋介石、ルーズベルトはどのように行動し、成功戦略を編み出していったか、詳述がある。

あるいは、2016.9.17付の論文「キューバ危機/世界核戦争瀬戸際の恐怖」では、世界核戦争の危機が
ケネディとフルシチョフという第2次世界大戦の体験を共有する二人の指導者の英知によって回避され、副産物として平和共存路線が敷かれた、という叙述に続いて、2014年のロシアによるクリミア併合に至る経過と原因が以下のように綴られている。
・ソ連は核ミサイルをキューバから撤去し、アメリカは以後キューバに侵攻をしないと約束した。
同時に、アメリカはソ連が求めているトルコからの核兵器撤去を、キューバからミサイルが撤去された後に、行う、と口約束した。これはケネディの立場を護るための密約である。
・私が心配するのは、ソ連崩壊後、西側が遠望深慮を欠いて戦争の種をまいたことである。ソ連は崩壊してロシアになりワルシャワ条約機構も解体したが、対ソ同盟のNATOは存続し、ソ連から独立した東欧諸国の加盟を進めて、東方に拡大した。
・そして隣国ウクライナのEU接近。キューバがアメリカの内庭ならばウクライナはロシアの横っ腹であろう。それが米ロ対立の大きな火種と火薬庫となった。

昨26日の朝日新聞「ひもとく」欄にロシア史研究家・下斗米伸夫教授が「なぜウクライナか」を寄稿して、数冊の好著と数人のロシア大使、歴史家の発言を引用しつつ、NATO東方拡大批判を展開している。ぜひ一読されたい。とくに気に入ったセンテンスを引用しておく。
・米国内の論調は一枚岩ではなかった。「だが東西和解の合意に抗して、クリントン政権が選んだのは同盟拡大というロシアを凍らせる選択だった。」
・ひ弱な民主化派が退潮すると元NATO担当の情報将校が登場した。「春秋の筆法で言えば、クリントンがプーチン政権を誕生させたのだ。」
・「米国のINF(中距離核戦力)条約破棄で、東西双方から見捨てられたゴルバチョフだが、彼の至言<核戦争に勝利者はない>が、交渉の原点に据えられたのは救いだ。」


舌癌手術/医師とミスマッチ

2022-02-19 | 舌癌闘病記

1998年、松の内は家で過ごし、8日から19日まで再入院して歯学部口腔外科で追加手術を受けたこと、さらなる追加手術が必要だが歯学部口腔外科ではできないことは前節で綴った。その先に進む・・・。

21日に手続きをして2月20日までの間、医学部耳鼻咽喉科に通院しながら、もろもろの検査を受け再々手術に備えた。
エリートの雰囲気がある主治医と初めて対面した時の第一声にまず啞然とした。「どうしてそんな所に行った。歯医者は医者でない」と耳を疑うようなことを言った。死に至る歯科の病があることを私でも耳学問で知っているのに・・・、と前にいる主治医の社会常識を疑った。
ここでハイさよならができなかったことを一生悔やむことになる。癌の進行を恐れていたことが判断を鈍らせた。
またしても長期間通院で前と同様の検査が繰り返された。

1ヵ月通院して主治医から、麻酔医をふくむ3人の医師立ち会いの下、手術に関する重要事項の説明を受けた。
①左辺縁扁平上皮腫瘍切除(舌を3分の1切除)と左口蓋底リンパ節郭清を行う。
癌の悪性度が低く検査で分からなかったのか、病状について詳しい説明はなかった。今ならステージ2とか3とか告げられる。
②喋りづらくなるから舌の再建手術を行う。左前腕から皮弁(筋肉と神経・血管)を切り取って舌に移植する。
はじめて聞く施術にどう応えてよいか分らず、すがる思いで、立ち会っていた医師たちの顔を見た。三人とも無言、無表情で何らかの意思を読み取ることはできなかった。わたしは経過観察のため6年間この科に通ったが主治医以外としゃべったことがない。
結局自分の無知と無力で一生意味のない重荷を背負うことになる。主体的に動くのに必要な知識と情報収集力がぜんぜん足りなかった。PCも携帯電話も導入作業中であった。
③口を使えないので2週間鼻からチューブで流動食をとる。
➃喉仏の下で気管切開をして気管口にカニューレという器具を装着して呼吸する。
⑤1週間ベッド上で安静にする。その間、頭は装具で固定し、両腕は身体に装着した種々のチューブが抜けないように拘束してベッドに固定する。チューブ類は2週間装着する。
⑥移植後血管が詰まれば緊急手術を行う(確率10%以下)。
どんな手術か訊けばよかった。うっかりしていた。
⑦全身麻酔でおこなう。咽喉科4時間、形成外科6時間、計10時間の予定である。
再建手術を担当する予定の形成外科で、若手医師たちの雑談を聞くともなしに聞いていたら、大先生なら血管吻合を30分で出来る、と言っていた。3時間の聞き違いであろう。

病を治すことに必死になって集中していたから最悪の事態を考えて無気力になったり動揺したりはしなかったが、想像を超えた手術の手順を聞いて、身体が正直に反応した。耳鳴りである。
一瞬も途切れることなくセミが「ジー------」と鳴く。検査では異常なしだった。以後意識しなければわからないが今も鳴り続けている。

2月25日手術のために入院した。最上階の病室だった。部屋から河内平野が一望できた。病棟スタッフの担当責任者(SドクターとHナース)に挨拶した。

  
出典 https://kigyou-pt.hatenablog.jp

心臓に近い、太い深部静脈(上大静脈)に輸液ルートをつくる穿刺を、主治医が行ったが、うまく刺さらず(エコー画像を観ながらの施術ではなかったと思う)、30分位苦悶した、と記憶する程時間が長く感じられた。
歯を喰いしばって脂汗を流しながら激痛に耐えた。ナースが、見かねて、我慢できないときは声を出してもいいのよ、と同情してくれた。昨今は腕から静脈内にカテーテルを上大動脈まで通す方法が一般的である。

主治医に、手術のために下あごを切り開くので、歯学部で手術部位付近のブリッジを切り離してもらって来い、と指示された。やはり口腔外科の協力は不可欠なのだ。
複雑な思いに駆られながら、かなり離れた歯学部に手術後もふくめると数回通院した。ちょっと横道にそれるが、ブリッジの金属が舌を慢性的に刺激して細胞を癌化させた直接の原因だと今でも信じている。
下顎を正中線で切って、さらに顎の下を耳の下まで横に切って、ドアを開けるかのように、下顎を左に開く!  オペがしやすくなる空間ができる。聞くだに怖ろしい手術だ。
そして舌と歯茎と頬粘膜にかぶせた自家移植皮弁の血管を頸の太い血管に吻合する。リスクの多い手術とわかるので、大袈裟だが、覚悟を決めた。頸動脈の吻合痕は大きな瘤となって今も力強く脈打っている。

2月27日主治医に無理を言って一時帰宅して後事に備えた。
同居の老いた母には癌であることを秘した。こどもをふくめてサッカー関係者にはありのまま伝えた。
妻と子には遺言状を書き、必要な時に発見されるように保管した。
サッカークラブの父母代表格のK氏にも同様のことをした。3月は新年度会費を入金する月である。もしものことがあればそっくり返金するように遺言した。すでに2年間も会計簿の整理がなされてなかった。雑務から運営、外交まで一人でやっていたので、私が急に居なくなればクラブの従来通りの継続は不可能と判断して、年度節目の清算を良しとしたのである。
練習と試合はブラジル人のルイスコーチ(セミプロ)と選ばれたお父さんコーチ(休日ボランティア)が私の入院中、立派に指導をしていた。3月も同じようにやれるだろう。
家族以外の者は、サッカー関係者も例外なく、すべて面会謝絶にした。
その間、誰が、会議に出たり会場を確保したりして練習や試合の段取りを決めて電話とFAXで連絡するのか、運営上の心配事は山ほどあったが、私の指示にしたがって、私の長女(会社員)が6年のお母さん世話役Oさんと相互に連絡し合いながら、見事にすべてをこなしていた。改めて女性の諸事万端にわたる処理能力に敬服し後事を託した。
私との連絡方法は限られていた。携帯電話は入手したが使うにいたらなかった。私が病室外を歩けるときは病院から家に電話をかけた。たいてい妻か娘が来院の時にメモを持ってきた。サッカー関係者からの電話が集中して家族は応答に苦労した。

3月1日(日)病院に復帰した。明日、癌切除と再建手術を行う。それまでに体毛剃りと浣腸を行う。
癌の悪性度不明のまま、再建手術の必要度未確認のまま、全身麻酔で手術するのは大きな不安である。
3月2日、手術着一枚でストレッチャーに横たわり、家族に見送られて8時30分に手術室に入った。煌々と照明が輝く広いホールだけしか印象にない。間をおかず麻酔薬を嗅がされ深い眠りに落ち入った。
3月3日、覚醒すると、白衣姿の医師たちが回復室(ICUでなかった)に入りきらないほど詰めていて、みな私に視線を向けていた。主治医はもちろん耳鼻咽喉科医、麻酔医、形成外科医、・・・みなが心配して見守るほど再建手術が困難を極めたのであろう。

外は白々と夜が明けかかっていた。10時間予定の手術が20時間を超える時間を要したのだ。手術プランのどこかに無理があったことは疑いない*。
一睡もしないで病室内で生還を待ち続けた妻は気が狂わんばかりだっただろう。
*舌癌の診断と手術の進歩は著しい。今時これほど無茶な再建手術は行われていない。失敗は進歩の基、わたしの苦難がすこしでも役に立ったのであれば救われる。