黒潮と鉛色の冬空のはざま、はるか北の地平線に黒い陸地の帯が長々と見えた。
日本列島らしい。
人々は冷たいデッキの欄干にもたれて黙々と眺めていた。
あれはどこかと指さす人もなくこどもの私には人々の感情を読み取ることはできな
かった。
船は香港から横浜に直行したらしい。
途中日中で雲がかかっていなかったら日本のシンボル富士山が見えたはずだ。
この時ばかりは歓声が上がってしかるべきだ。
記憶にないということは夜だったのか? 曇天だったのか?
それとも大人の心の闇が情動を包み込んでしまったのか?
終着港横浜!
真っ先に目に入ったのは警備に立つ米兵がかぶった白いヘルメットの黒いMPの
文字だった。
一見は百聞に勝る。
「やっぱり」
これが祖国帰還者の発した唯一記憶に残る声だった。
歓迎もざわめきもない、戦後もっとも寂しい帰国船だった。
開戦時から敗戦まで日本占領下にあった香港でも日本人乗客は上陸厳禁だった。
わたしは一人勝手に下船して岸壁でめぐりあった香港青年と言葉を交わした。
対岸の山腹に日本軍が15サンチ砲を据えて盛んに砲弾の雨を降らせてきた、と
聞いた。
香港は世界三大美港の一つと聞いていたがデッキに出てその美しい夜景を愛でる
日本人の姿はなかった。
寒さが募ってきたせいもあるが、戦中、ひそかに短波放送の大本営発表で心を踊ら
せて聴いた地名のセイロン、マレー半島、シンガポール、香港に寄港するたびに、
乗客たちは益々心が沈んで誰もが無口になって船中にこもるようになっていった。
もともと乗船した時から戦争と政治の話はいっさい出なかった。
この香港で食べた「ラーメン」ほど美味しいラーメンを今日まで食べたことがない。
日本ラーメン発祥の地久留米で育ち鹿児島から北海道まで行く先々でラーメンを
食べてきたわたしがいうのだから間違いない。
いや、食味は個人固有のモノだから余人にも当てはまるわけがない。
かなわなかった恋と同じく二度と巡りあうことがないから忘れがたいのだろう。
やや沖に停泊している船に、はしけに乗って売りに来たのは水上生活者であった。
彼らは陸上に家がない被差別民だった。
今では彼らは中国の近代化の波に乗って陸に上がったことだろう。
船上から籠を吊り下ろして買った湯気の立つラーメンの忘れがたい味!
何を出汁にしたのだろうか?
全く想像がつかないところが私にとって幻のラーメンたるゆえんである。
シンガポールに到って日本人は上陸厳禁となった。
日本人と知られると不測の事態が避けられないと船長が認識していたということ
だろう。
1942年2月シンガポールを陥落させた帝国陸軍は多民族の中から華僑だけを
選んで大粛清を行った。
その数6千(東京裁判)から5万以上までまちまち幅があるが南京大虐殺と違って
事件を否定する論調は見られない。
わたしはWEB上で調べたが原資料は当の軍人たちの証言である。
明石陽至氏の研究に負う所が多かった。
立案者の辻政信参謀は華人の半分を処分せよと誇張して督励したそうだ。
半分とは成年男子全員ということである。
将来にわたって反抗しそうなものは全員殺せ、というのが粛清のコンセプトだった。
銃を取りうる男の市民(18歳から50歳)のほかに、サーヴィス、資金を提供しうる
公務員、銀行員、資産家およびインテリが粛清対象に入れられている点が際立っ
ている。
大人たちに緊張が走る中、わたしは一人旅客部長(香港人?)に連れられて市内
に入った。
もうもうたる湯気の中から引き上げられる湯麺が印象的だった。
味は淡白でトッピングはなかったように思う。
街灯の少ない夜道、かれのアイロンの効いた真白い制服のシルエットを踏んで
無言で歩いた。
彼の心は穏やかでなかったと思うが少年の私にはそれを斟酌することなど思いも
よらなかった。