自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

2.26事件/磯部浅一と社会革命/不屈の革命家に変身

2018-08-24 | 近現代史

革命とは順逆不二なり。国賊でも忠臣でもないのだ。これなるかな、これなるかな   (磯部獄中日記 最後のページ)

 末松太平『私の昭和史』1963年 中公文庫で再販中

磯部浅一と村中孝次は東京と豊橋(対馬勝雄)の首魁だけで決行し、ほかには声をかけなかった。「君側の奸」に対する三大テロは、大洗グループ+学生=10余、海軍青年将校+士官学校生+愛郷塾=20余、陸軍青年将校+下士官・兵士=1400余、と動員数を増幅させながらも、共通して、軍事衝突とクーデター(政権目的の武力行使)に至らないように、動員範囲をふくめて諸制約をみずからに課していた。2.26事件をエリートクラスの中央幕僚が軍首脳部と約束済みで計画し未遂に終わったクーデター(満州事変前後の3月事件、10月事件)と同列に並べて論じることはできない。叛乱軍でないという彼らの悲痛の叫びは一理ある。
そういうわけで鹿児島の菅波三郎、和歌山の大岸頼好、朝鮮の大蔵栄一、青森の末松太平は蹶起に参加していない。昭和維新の主だった同志達と親しい末松が史料的価値の高い体験的青年将校運動史を遺してくれた。この稿では磯部を軸に青年将校運動の首魁たちの思想と行動に焦点をあてたい。
末松は門司の没落農家の出身で広島幼年学校では西田税と大岸、磯部の後輩である。満州事変の前、青森の第5連隊に相沢少佐と大岸中尉と末松少尉が、弘前の第31連隊に対馬少尉が配属されていた。旭川の村中と共にかれらは1930~35年の大凶作地帯を背負った青年将校首魁として2.26事件の渦中に登場することになる。

1934年4月、末松が満洲出征から帰還する前後のころ、首魁間で北の改造法案をめぐって思想の違いが表面化して確執が起こった。維新工作経験豊かな西田(民間)と思想遍歴に富む大岸(陸軍)が対立し、両者の仲が険悪になった。
末松の回顧に従って対立点を整理しよう。末松は満州を離れる時自分の問題意識から菅波に、北の改造法案は金科玉条かそれとも参考文献か、とたずねた。菅波は金科玉条と見るわけにはいくまい、とあいまいに答えて「一応いい案だと思う」と言って「皇
[正しくは政]維新法案大綱」を出した。十月事件前に大岸が印刷し同志に配布した私案[三期まで遷移したうちの一期]だった。
末松は凱旋後西田の家で同志たちに会った。内部分裂の事情を知らない末松は同じ質問を皆に投げかけた。談笑がとだえて座が白けた。西田も口をつぐんだままだった。しばらくして磯部が「金科玉条ですね」とだけ言った。
次に末松は大岸を和歌山の連隊に訪ねた。大岸は、磯部君は俺を殺すとまでいっていたそうだ、と末松に語った。両者の間が険悪だったことが知れる。大岸もあまり触れることを好まなかったが末松が北の改造法案の対案を求めると、将軍たちがえらく改造法案を嫌うんでね、と言って、草稿「皇国維新法案」を見せた。二期私案である。タイトルの「皇国」「維新」が多くを語っている。大岸は将軍の動向について情報通であったことを付記しておく。

大岸はマルクスから本居宣長まで思想遍歴したと冗談めいて言ったことがある。幼年学校時代に西田に無政府主義者と決めつけられたことに始まり大正期の未分化社会主義と昭和期の北と権藤の改造案に接触したあと遠藤友三郎の『天皇信仰』に傾倒した。そして今共産党転向者[本人にすれば日本主義への回帰]の中村義明と月刊『和魂』を発行している。発行に当たって満洲から菅波が資金を提供した。

西田を激怒させたと末松がいう「皇国維新法案」を概観する。
①「上天皇の絶対と下万民の平等」の「家族体国家」という国体観
②神(至尊)人(至親)による「祭政一如の御親裁」と有司による「絶対輔弼」、臣民赤子による「絶対奉戴、絶対脇翼」
を骨子とし、外交では、東洋平和と世界福祉を目的とする「創造的世界革命の聖戦鴻業遂行」をうたい、方針として満州の独立保全、亜細亜連盟結成を主張し、対ソ英強硬路線の先にシベリア、豪州の皇化を遠望した。対米決戦論を迷妄として退けている。ちなみに2.26以後対支戦争拡大の是非と北進か南進かをめぐって軍首脳の内訌が深刻化する。
皇国維新法案が印刷はされたが公開されなかったー相沢事件のガサ入れで当局はその存在を知ったー理由はつぎの条項で明らかになる。
「外来立憲君主政体」を翻案し、天皇の祭祀大権を無視、経済大権を否認した「赤化大憲章」たる帝国憲法を廃する。[原文:〇〇〇〇]
祭祀大権にふれるゆえ信教の自由を禁止する。宗教神道を廃し神社神道を是正する。国体即政体の原理にもとる議会主義、政党内閣制、個人搾取資本制経済を廃絶する。

そして大岸は2.26直前1935年10月『和魂』の付録として「皇政原理の一考察」を発表した。三期目の改造論だが、改造も維新も政治運動的日本主義すらも止揚され、現人神信仰にまで純化された天皇信仰がすべてになった。大岸は、「いわゆる維新」とは信仰である、と言い切っている。維新[天皇機関説を具現している君側の奸を討つ蹶起行動]からの離脱である。
政治は現人神だけの祭事[天皇の大権ではなく祭事]となり臣民の輔弼は欧米流法治によらず支那流徳治によらず「神への融合参加」つまり奉仕活動となるべきで「祭即政」ということになる。キリスト教新教の「勤労即神への奉仕」が思い浮ぶ。
二期の天皇絶対、絶対奉戴、絶対協翼等々、同調圧力を感じさせる政治的君民一体論が三期では悩める心を癒す現人神信仰に大転換した。祈り、祭となれば、どんなに貧しくとも、参加を、奉公を、労苦を、
献身、自己犠牲さえもいとわないばかりか、無私、没我、悦楽、陶酔の世界にひたることは争えない。
大岸の到達点が家族とお祭りをモデルにした国体観であったことに西田も磯部も憤慨の後に落胆したことだろう。それがいずれの民主主義とも無縁の人格なき祭政全体主義思想の極致であり、
維新運動に否定的な思想であったからである。私は大岸のこの私案に、来たるべき国民精神総動員の空気のなかで創作された愛国行進曲(1937年)は大岸の作詞ではないか、と疑いたくなるほどの天皇信仰のほとばしりを感じる。
♪ 臣民我等 皆共に 御稜威に副はん[miitsu ni sowan]  大使命 往け 八紘を 宇[ie=家]となし 四海の人を 導きて 正しき平和 うち建てん
大岸は三期の「皇政原理一考察」について述べている。「私は軍務と維新を一元的に考えるのは間違って居る、直接行動に出づるが如きは外来思想で、奉公そのものが維新だと思う」 大岸は、政治、社会、経済第一主義とその実践である国家改造、維新から遠ざかり、2.26事件に参加することはなかった。大岸はみずからの思想遍歴と軍首脳工作の末に革命不可能の結論に達した、と私は観測している。大岸は同志相沢の決意には同意しなかったがその公判闘争には積極的で、その限りで両派の共闘があったことを付記するのは無駄であるまい。

大岸の諸私案を史料として考証し、しかるべき位置づけをして青年将校運動史に貢献した福家崇洋氏の論考「二・二六前夜における国家改造案 : 大岸頼好『極秘 皇国維新法案 前編』を中心に」に感謝する。大岸の三私案の内容を知ったことによって西田・磯部と大岸の対立の深刻度がわかり、重要な疑問点が氷解した。何故北・西田と磯部・村中・対馬ら20人が死刑になり、大岸(和歌山)が刑をまぬがれ、同じ首魁の菅波(鹿児島 5年)大蔵(朝鮮 4年)末松(青森 4年)の刑に等差がついたか、 何故彼らに蹶起の声がかからなかったのか?  いろいろ理由があったにせよ根底に思想的距離(地理的距離だけでなく)があったことがわかった。

現人神は矛盾する存在である。機関命令か大御心かの間で動揺する矛盾である。磯部たちはその矛盾に正面切って考え抜かないまま、大権の発動をもって維新を進めようとした。事態収拾に向けて陸軍参議官と団交をもった深夜、しょっぱなに荒木大将に「大権を私議する」気か、と反論されて、グーの音も出なかった。参議官たちもふくめて「お互いに口がきけなくなって」事態解決策を腹蔵なく話し合うことができなくなった。幕僚の一部から出て来た皇族内閣説に対して抗弁するのがやっとだった。団交はウヤムヤに終わった。説得に務めていた皇道派将軍(山下奉文少将と真崎、荒木両大将)と革新幕僚(参謀本部作戦課長兼戒厳参謀石原莞爾と元永田軍務局長部下鈴木貞一両大佐)はやがて弾圧(自決勧奨→逮捕)の当事者になる。
磯部はこれを「維新派の敗退の重大な原因」に上げた。改造案を暗唱できるほど読み込んだ磯部ではあったが、改造案が内包する致命的欠陥を突かれて絶句したのだった。天皇を動かさないと維新できない、動かすには実力者=特権者[君側の漢または奸]による上奏を経なければならない。この構造的障壁に磯部はたじろいだのだった。このとき大岸の存在が磯部の思考をよぎったかどうか知るすべはない。建設案に至るまでの端緒で挫折した磯部は新規蒔き直しを決意した。
「明らかに云っておく、改造方案以外の道[下記]は日本を没落せしむるものだ」
国体破壊の恐るべき内容からなる「官僚、軍幕僚の改造案」[前掲陸軍パンフレット事件参照] 共産革命への道
②「高天ヶ原への復古論者」による「公武合体的改良」[一部の幕僚が出してきた皇族内閣案] 復古革命への道
磯部は、北・西田裁判の証人用に村中と共に1年余り生かされていた間に獄中で煩悶苦悶しながらも絶望の淵から起ち上がってしかと日本の将来を見据えた。つまり①軍部主導の全体主義的政治の現れを2.26以降身をもって体験、現認した。そこでは天皇はあるときは御稜威元首としてあるときは大元帥機関としてかつがれる存在である。
この体制を末松太平は幕僚ファシズムと表現して、統制派を「一にも二にも統制統制で諸般の事務を革新までも含めて処理する」とし、その指導原理は皇道でなくてもよく、ナチズムデモ、マルキシズムでもよいのだ、と批判した。
蹶起将校が叛賊の烙印をおされると将軍、幕僚は時機到来とばかりに全国の不穏青年将校を一掃して軍内部の支配を固めた。たとえば東条英樹関東軍憲兵司令官は東京の公判情報を取り寄せて満洲での粛清を徹底した。
安田優少尉は粛清によって軍が幕僚の天下になることを予言して「軍は自らの手によってその墓穴を掘った」と公判で叫んだ。弱冠21歳の林八郎少尉は鋭い洞察を遺書に記した。「結末は吾人等を踏み台に蹂躙して幕僚ファッショ時代現出するなるべし」 かれはまた今次の一挙は「恃むtanomu
べからざる」軍部を恃みにして失敗したのだから次は「何の遠慮かあらん、一手に引受くるべし」とラジカルな総括をした。
磯部は、君側の奸切除から軍部主導の全体主義打倒へ、と路線転換をよぎなくされた。「軍部の提灯もちをする国民と、愛国団体と一切のものを軍閥と共にたおせ、軍閥をたおさずして維新はない」

千々に乱れる考えの中から編み出された再起のための結論はこうだ。「日本改造方案は一点一画一角一句悉く真理だ、・・・、余は方案の為には天子呼び来れども舟より下らずだ」
駐 杜甫が酒の仙人李白を謳った詩:天子呼来不上舟
磯部は思想の舟を天皇と軍閥と戦争熱でたぎる国民が乗った一枚岩思想の舟から北・西田、菅波・大岸が同乗した思想混在の舟に乗り換えて革命の延命、永続を願望した。
維新の遺志を誰に託するか?
大岸は天皇崇拝を信仰にまで高め、天皇大権を改革に利用する不遜と矛盾に気づいて、たぶん蹶起が絶望的であることを予見して、維新行動から遠ざかりつつある。西田は特権層の有力者相手に根回しと工作を好むが常に慎重で中心になって司令することはない。菅波は大岸の同人紙誌発行を援助しているが維新の志は不動である。互いに水と油で協調しがたい。3人三様に国体観も主張も違うが変革の志を将来も曲げることがない、と磯部は3人との付き合いで体感し確信した。
2.26失敗の最大の原因は機運を読み時宜にかなった戦術を駆使できる大西郷のような「大政略家」がいなかったことだと磯部は悔しがった。磯部はこの3人と思想家北に将来の革命の夢を託した。この四人しか想い浮かばないほどに四面楚歌の情況に陥っていた。生き残ったある青年将校は「国民が一番怖かった」と語った。さらに前へ進もうとする青年将校共通の実感だろう。

すべて始めから練り直しだ。打倒すべき対象の見直し、変革の遺志を託すべき人物、そして何よりも大事なのは革命の聖典である。どの時代状況にも通用する金科玉条などあるはずがないが、情況が絶望的なとき心の支えになるのはバイブルである。磯部が将来の団結のために改造法案に固執したのは賢明であった。次に述べるように改造案には八方円満におさまる落としどころがあった。

何ヲッ! 殺されてたまるか、余は[法華経の]祈りが日々激しくなりつつある、優秀無敵なる悪鬼になるべく祈っているのだ、必ず志をつらぬいてみせる、同志よ、日本国中を火の海にしても信念を貫け! 「革命家を量る尺度は日本改造方案だ」 法案をコーランとせよ。何故これほどに北の改造法案にこだわるのか、さらに考えよう。
軍事法務官は北の参画容疑を執拗に追及した。蹶起は北と改造案に従ったものであろう、と。磯部は否定する。思想的影響は受けたが計画で相談したことはない。青年将校中改造案を理解しきった者は数少ない。むしろ統制派の改造案が広く読まれた。軍首脳部と法務官は北の改造論の本質は民主主義革命[西欧流]である、私有財産制限は赤化思想だ、と攻めた。磯部は北と西田の極刑を回避するために懸命に否定する。
註 それぞれ()付の民主主義である。
だがかろうじて獄外に漏れ出た獄中手記ではこう「云い残して」おいた。民主主義といわれてもそうでない、と逃げ口上を云うな、「特に日本が明治以後近代的民主国[天皇中心の]なることを主張して、一切の敵類を滅亡させよ」「革命日本の為に同志は方案の真理を唱えることに始終せなければならぬ」
磯部は強調するあまり改造法案を一字一句修正してはならぬとくりかえしたが、文脈からも先行き真っ暗の情況からも最大公約数的に民主主義革命が「方案の真理」として浮かび上がる。北の改造論には戦後の民主化で実現した重要な概念がすくなくない。

国民の天皇 3年間憲法停止 華族制度の廃止 国家改造議会 普通選挙 国民自由の恢復 皇室財産の下附 私有財産限度 土地処分 大資本処分 労働者の権利 国民の生活権利 国家の権利

磯部は維新の入り口で挫折し叛徒とされて悲憤慷慨、苦悶した。囚われる前に支那に逃げて再起を考えるほど生にこだわった。死刑を宣告されると死後も肉体は滅んでも魂が「永遠に抗し無窮に闘い」続けることに光明を見出した。
一連の体験で磯部は「尊皇討奸」の奸が国全体を覆ていることを身にしみて感じた。「元老も重臣も国民も軍隊も警察も裁判所も、天皇機関説ならざるはない」 天皇の大御心は見えなくなった。磯部はこの認識をえて「日本国の朝野悉く吾人を国賊反徒として容れずと雖も、吾人は別に信念の天地、真大日本を有す」ことでみずからの魂を救済した。ここから民主主義革命家への変身までは一瀉千里である。日本的民主主義革命のほかに磯部が志を貫く天地はなかった。
原理的な話になるが、外来思想にもとづく象徴天皇制は、北の改造論も大岸の維新=信仰論も夢想だにしなかった国体観の180度大転換であるが、双方の尊王思想が妥協
できる落としどころでもあった。磯部がそこまで意識することはなかったが、私が展開した論理の帰結として、磯部が辿り着く「別の天地」は維新=象徴天皇制民主国家であっても矛盾はない。
北は天皇を人格化し大権をもつ機関とした。磯部は天皇の現実(人間ゆえ失政もある大権機関)と理想(大御心による親裁)の矛盾に悪戦苦闘した。政治機関でなくなった象徴天皇は磯部と北の尊皇思想に叶う制度である。

磯部の死の淵での願望は届かなかった。希望を託した改造法案派は死刑になり壊滅し、生き残ったのは改造法案を金科玉条としえなかった大岸、菅波、大蔵と末松だった。彼らは戦中は国民の眼と憲兵の監視下にあった。1993年末松が永眠したとき「公安」が香典を持って訪れて「永らくお世話になりました」と挨拶して香典を置いていったとご子息がブログに書いている。

青年将校たちのいわゆる維新は、天皇機関説とその現実(特権階級による政治、2.26以後は軍部主導全体主義国家)の否定であった。その国家を征服したのは外国連合軍だった。軍部全体主義を一掃して象徴天皇と国民主権を抱き合わせた日本国憲法を実現させたのは占領軍の武威だった。
天皇の大権を否定して天皇を「機関」から解放したのは磯部の遺志を継ぐ者ではなくGHQだった。連合軍=解放軍! この民族的屈辱に革命家に変身した磯部浅一は幽界で地団太を踏んでいる。

火種は燃え続けている。解体した軍と財はよみがえり、格差の拡大と世代を超えた固定で労働者が子孫を再生産できる社会の持続が危機にある。国家の権利の中に交戦権と徴兵権がない。象徴天皇は戸籍も姓も人権もなく公務に縛られている。天皇の重要な公務である祭祀と無関係に靖国神社がある。日米地位協定が憲法に優先し米軍基地は治外法権である。

折しも愛郷者=愛国者翁長知事がヤマトンチュの沖縄支配の歴史に異議申し立てをし自治権を主張して辺野古基地新設抵抗運動中に斃れた。

軍事と政治の近現代史に取り組んできて石光真清から磯部浅一まで青年将校の一部に民衆に対して、露朝満台の民衆に対しても、同情、同心する軍人がいたことを知った。歴史の底流で翁長知事の志に繋がる志士たちである。2.26義軍事件は「誰のために」・・・これが次稿のテーマである。