自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

サンカに関心

2021-01-15 | 近現代史 サンカ

 箕miのイラスト  原作者あり  転載しないでください

1970年前後、反体制運動はおおむね地域闘争であった。パリの五月革命、日本の全共闘運動は学生地区の運動であったし、沖縄闘争、水俣闘争、三里塚闘争は地域に降りかかった難題を全国的な政治課題にしようとする地域闘争だった。
レーニンの都市革命路線が中国革命、キューバ革命によって乗り越えられた情勢を受けて社会活動家の眼は地域の個別の問題に向けられるようになった。辺境に革命根拠地を設ける辺境革命論すらあったが、国内では有機農業、地域医療・介護、ゴミ・CO2・放射能等の環境問題、国外辺境における医療支援、用水確保のための社会活動が今も続けられている。マイノリティの人権を守る運動も盛んでアイヌ問題、入管問題等エシカル・イッシューに事欠かなかった。
戸籍と家財を持たない幻の漂泊民として喧伝されたサンカに対する関心もにわかに高まり、わたしも興味をもって、三角寛の論文『サンカ社会の研究』(1970年刊)を読んで、著者にじかに会うためか『サンカの社会資料編』を求めるためか、今では動機を思い出せないが、雑司ヶ谷の三角邸を訪問した。
サンカ小説で一世を風靡した三角寛が亡くなった直後だったので1972年のことだと思う。主人は亡くなって居ないので文芸座に三浦大四郎氏を訪ねるようにとアドヴァイスされた。そして此れしかないがと云ってサンカ全集既刊分の2冊を下さった。
 1970年刊

 そのやややつれた女性がどういう人であったかは、今回三浦寛子著『父・三角寛  サンカ小説家の素顔』(1998)を読んで分かったが、本筋からそれるので割愛する。
文芸座に行ったが三浦氏(舞踏家寛子さんの夫=婿養子、映画人)は不在で映画館内を見せてもらっただけで帰った。後年大四郎さんが猟奇的な作品を排除して選集を出版した。それは1885年の萩原健一主演の映画『瀬振り物語』、五木寛之の小説『風の王国』が切っ掛けでサンカに対する関心と研究が高まったせいだと思う。
その後も関連書籍がたくさん出版されたが、サンカブームが始まるころ私の関心は薄らいでしまった。サンカの掟、神代文字、秘密結社とかの存在を自分の生活体験から非現実的と感じたからである。
サンカとは他称である。古い川柳をもじって言えば「サンカとは俺のことかと箕なおし言い」である。サンカの主な生業は農家に無くてはならなかった箕作とその行商、修理であった。ほかに、竹細工や川魚を行商した。
我が家も一度行商人から篭花入れを買ったことがある。中学生だったのでサンカとか頭に浮かばなかった。その人の職業を何と呼べばよかったのか、今思案している。竹細工やと呼べばいいと思うが、地方、地域にはそれぞれの名称(方言)があったようだ。まともな他称は箕作、箕直、篭やであるが、河原や橋の下を仮の宿にするから今ならホームレスというところだが戦前は身なりから河原乞食(九州、四国では乞食の代わりにホイト)とさげすむ者もいた。
サンカと記された文献の初見は江戸末期であると研究書にあるが、他称であり、読み書きのできる知識人(役人、僧侶、神主、学者)が概念化したコトバである。当の集団が何と自称したのかは不明だが、そのこと自体が、自称が伝承されるほど集団が根を張っていなかった傍証になると思う。
所有権が確立した明治時代になると森や河原に小屋掛けし、勝手に竹や樹の皮を盗る不法居留者として警察の要監視対象になった。警察が当て字にした「山窩」が山賊を連想させ、警察資料にヒントを得た三角寛の山窩小説とあいまって、「サンカ」の存在とグレーなイメージが国中で知られるようになった。
実際の箕作は奥山ではなく里山、河原で「セブリ」(仮小屋に居住し)、材料と商機を求めて「テンバ」(転場)した。冬場は多分商い先の村の神社仏閣の拝殿、お堂の片隅か床下に身を寄せる代わりに、堂守等の雑用で報いた。得意先の農家との関係は持ちつ持たれつで良好であった。竹を採らしてもらい竹細工で還した。年老いた箕作が森番、池番とかして村内に居つくこともあった。
明治4年の戸籍法制定以降「サンカ」は官憲の圧迫を受け続け、国家総動員体制下の1940年の国勢調査で定住と義務(納税、応召)を課されて消を消したが、とどめを刺したのは高度経済成長の始まりであった。箕と篭が代用品と機械に駆逐されたのである。
コロナ禍により、山中、田舎の暮らし、自然の中でのシンプルな暮らしに関心を向ける都会人が増えている。何かの足しになれば、と今回利用した限りで必読書をあげておく。
三角寛『サンカ社会の研究』 毀誉褒貶の多い研究書であるが小説とは裏腹に「サンカ」のピュアで律儀な姿を垣間見させてくれる。その後のサンカ・ブームと実証研究の道しるべとなった基本書である。
『歴史民俗学』誌NO.20,22「サンカの最新学」 「サンカ」の記憶と足跡をリアルに足を運んで探索した諸研究の集成本(2001/2003)である。
上掲イラストの作者による肥後・馬見原の箕作に関する研究論文『滝下小史』(2019年) まさか直近の研究が在ると思っていなかったので、しかも若き竹細工アーティストから研究文書の提供を受けて、久しぶりに感動した。素晴らしい出来である。是非ネット上に公開してほしい。

 


子育て/自己評価67点でからくも合格

2021-01-01 | 生活史

1973年マンションに引っ越して3日後に長男が生まれた。妻は教員、私は自営塾の「先生」・・・こういう家庭環境では公立の保育所、幼稚園に入れてもらえなかった。結局そのご生まれた長女、次男をふくめて3人の子育てを昼間はわたしがやるほかなかった。そのころはまだサッカーの仕事はそれほど詰まっていなかった。
育児と云っても、大変なのは妻であってわたしではなかった。妻は土曜日は午後、日曜日は全日休みになるほか、ウイークデイも育児のない教員より早く定時に引けていた。私は入れ替わりにサッカーの指導に出た。少年サッカーは土、日と休日つまり学校が休みになるときが忙しい。

妻は5時に引けたとしてスーパーに寄って買い物をして帰宅し、家事一切と育児をする。幼子の育児は夜のそれが一番きついことは容易に想像できると思う。夜中に2,3度哺乳しなければならない。わたしはそんな苦労を免れていた。
妻が8時前に家を出たあとが私の育児当番である。哺乳、げっぷ出し、おしめ替えなどふつうに必要なことは何でもやった。離乳食の世話、日光浴と遊びを兼ねた乳母車散策、公園巡り、絵本読み聞かせもした。220戸超のマンションだったので育児中のお母さんたちと砂場で触れ合うこともあったが一度も不快な思いをしたことがない。
一番気を使ったのは子供だけになる4時過ぎから6時前の時間帯である。私はグラウンドに出かける。妻が帰宅するのは早くても5時半であろう。私はその間子供を寝させた。妻に最近育児で一番つらかった思い出を訊いてみた。やはり親が不在になる空白時間帯の子供の安全だった、という。校長も心配して早く帰れと言ってくれたそうだ。
隔年で子どもが殖え1歳、3歳、5歳の3人が枕を並べて寝る年もあった。制度が変わって3人とも5歳から幼稚園に通った。妻が送り私が迎えに行った。こどもが成長するにしたがって私の育児時間は短くなった。指導の現場に連れていくこともあった。
このころになると子供たちは寝たふりをしたあと起きて遊ぶこともあったと振り返っている。それでも無事に過ごせたことに私は満足している。同時に自分に人を支配する悪才があることを反省している。人は服従するものだ。服従させる人の通称は権力者である。わたしは家庭内の小権力者だった。
最近のことだがネットで以下の記事を見た。ソースをメモしなかったのでクレジットがない。筆者のご寛恕を乞う。<全くポリコレでは無いけど、イヤイヤ期の子供を「効率的」に育児するには、放置と強権発動とナマハゲの3つが必須なんですよね。向き合って大人扱いしたら大人が倒れる。>
共働き子育て女性の苦労が煮詰まっている重い言葉である。私は「効率的」に育児をした。上述のとおり放置した。寝ることを押し付けた。脅した自覚はないが長男にはその気おくれにいらいらして暴力をふるった。忘れて思い出せないだけかもしれないが、泣かれたりイヤイヤされたりして困ったことは記憶にない。なぜ子供たちが昼間従順だったのか分からない。多分わたしのコントロールする悪才がそうさせたのであろう。

幼い自分はどうであったか父母からあまり聞いていない。父母は農作業で多忙だった。母は弁当をもって父より遅れて家を出ていた。途中でイヤイヤして泣いて置き去りにされた記憶がある。その記憶だけは鮮明だ。道端に大木フィゲイラの切り株があった。イヤイヤは通じないと思い知らされたと思う。母に連れられて農園に行くのが当たり前だった。
一人っ子だから家でも一人遊びをするほかなかった。今でいう核家族である。両隣の農場に友達がいたが幼児が一人で行ける距離ではなかった。犬が身近な友達だった。
赤ん坊のころは畑で木陰に寝かされていた。近くで蛇がとぐろを巻いていたことがあった、という話を母はよくしていた。
私はたびたび子守をされている。乳児のとき近くに住む母の妹(叔母)が裁縫見習いを兼ねて来ていた。幼児の時は遠くに住む父方の従兄姉が泊りがけで来ていた。何も記憶が無いが写真で分かる。

 コーヒー園にて  1940年頃

親として、育児にイヤイヤ期や小1の壁があることも意識したことはないが、親離れしようと羽ばたきを始める小4の自立期にはしっかり対応できた。小4まで自分のクラブでサッカーをさせていた長男と長女が面白くないからやめたいと意思表示をした。強制された習い事から解放されて二人は自分の道を歩み始めた。次男はサッカーを続けて6年の時全国大会に出場した。
子育てには受験のサポートも入るが、我が家では親の考えで3人とも塾に行っていない。通いたいという声もなかったが、出世街道を好んでない両親の気持ちを忖度していたのかもしれない。孫たちが塾通いをしていることから判断するとそうだと思う。3人とも市内の公立高校に進学した。
結果論だが3人が職住近接で身近に住んでいる幸せを今ほどありがたく思ったことはない。身内共助でコロナ禍をのりきる自信と安心を得ている。

 あまびえ 孫(4歳)の描画