5月3日午前0時すぎに犯人を取り逃がした警察は朝から機動隊と消防団の手を借りて鎌倉街道から南へ向かって山狩り捜策をおこなった。そして早々と自転車のゴム紐を発見して領置した。発見者は、狭山署交通課の関巡査部長である。そのご捜査本部に認められて取調補助員となって石川青年の「自白」引き出しと重要な「物証発見」で捜査本部の期待に応えた。彼はかつて菅原四丁目に居住して、石川青年がキャッチャーをつとめた菅四ジャイアンツの世話役だった。
発見場所が雑木林の端っこではなく中心部であることに意味がある。犯人が、地元不良によって強姦、殺害がおこなわれた、と印象付ける意図で工作を行なったのだ。ゴム紐発見後、当然、付近はくまなく捜策されたが、ほかには何も発見されなかった。
翌4日に、ゴム紐発見場所からさらに南西の農道で死体が発見されるに及んで、特捜本部は殺害場所を当初誰もが推定していた薬研坂の雑木林からずっと西寄りの雑木林に変更することを余儀なくされた。ゴム紐発見場所では農道から道なりで1km近く離れていて 遠すぎる。もっとも手近な「4本杉」と呼ばれた道なりで200mの雑木林が候補にあがった。
そこへ6日夕方「4本杉」前で木綿紐の切れ端発見の報が入った。発見者は県警中刑事部長である。その地点は昼間の捜索隊の山狩りで地下足袋と並んで自転車のタイヤ跡が発見された、と報道されている地点と同じ場所である。でっちあげをもいとわぬ最初の工作が6日に特捜本部長自らの手でおこなわれたと考える。
当時の県警には、あらかじめ自白強要のためのネタ(虚偽の物証、証言)を仕掛ける悪弊があった。佐木隆三『ドキュメント 狭山事件』によると、1955年の熊谷市せつ子さん殺害事件では指輪、狭山事件では万年筆、そして両事件の取調主任官は奇しくも県警捜査一課清水警部である。
8日捜査本部は、手詰まりを打開すべく捜査員210人を投入したシラミつぶしの体制で五度目の山狩りと聞き込みを行なった。「午後から死体発見現場、ゴム紐発見地点を中心に遺留品の捜索、犯人の足取り捜索を行ない」また民間ヘリコプターで航空写真を撮った(埼玉読売9日朝刊)
11日夕方死体発見現場近くの麦畑で耕作者によってスコップが発見された。スコップは捜査の的を養豚場に絞る「物証」とされた。
しかるに上記埼玉読売9日朝刊1面TOPに、被害者が「埋められていた麦畑を[8日に]捜索する機動隊員」が大写しされている。山狩り終了後二日の間に捜査本部が仕組んだとしか考えられない。再度のネタ仕掛けである。
5月23日石川青年が「筆跡一致→恐喝未遂」容疑で逮捕された。
5月25日教科書、ノート類が自転車のゴム紐が発見された場所から直線で150mほど離れた溝で草取り中の耕作者によって発見された。なぜかニュース価値がひくく、資料がすくない。県警はひたすらカバンを追い続けた。自供による「発見」に賭けているかのようである。
6月17日、石川青年がいったん保釈され、直後に本件強殺容疑で再逮捕(肩透かし逮捕)され、川越署分室(特別取調室)に移送、厳重隔離された。石川青年以外に容疑者はなく保釈すれば後がない状況での見込み捜査(筆跡鑑定書以外証拠がなかった)への大ジャンプだった。
決断に当たって警察庁、関東管区警察局、県警-高検幹部の間で議論が紛糾した。それでも決行したのは特捜本部がカバンをすでに押収していたからと推理する。
6月21日石川青年が書いた略図に基づいて関巡査部長がカバンをゴム紐発見場所から56m離れた溝で発見し掘り出した。離れた所で麦刈りをしていた人が呼ばれて掘り出された後の現場立会人にされた。4週間前のゴム紐発見者と同一人物である。実況見分作成者は関巡査部長であった。
[自供によって]発見されたされたカバン 警察が出した品触れ カバンと万年筆
写真コピーはいずれも証拠開示された物である。
発見されたカバンは、一見しただけで、品触れと型が同じである。5月8日付けの品触れカバン は「濃い茶色の革製カバン」となっている。5月2日父親が狭山署員に供述した調書では「カバンは薄茶色の一見革製に見えるチャック付と申しましたが、これは学生用のものでなく、家にあった旅行カバン」となっている。
二つのカバンが同一物であるかないか、弁護団が検証すれば容易に判る。品触れには擦りきずが明瞭である。同定の鑑定がなされると立ちどころに石川さん再審無罪の新たな証拠となる。
一説に「長兄が東北旅行で[のために?]買ってきたものを被害者が使っていたと云う」のがあるが、出どころを確認できない。発見されたカバンが被害者の物であると長兄が後に確認している。
6月25日上田県警本部長、石川青年の単独犯行自供を正式発表。「自白にもとづいてカバンを発見したということです。」
この間、特捜本部は、再逮捕後かん口令を敷き捜査の状況・方針が洩れないよう有形無形の壁を作っている。狭山所長(特捜本部次長)の電話機に録音機を取り付けたほどである。
5次以上にわたる山狩り捜索で発見に至らなかったカバン・・・。
捜索隊は当初から、消防団本部長から地元の事情に即した「根除け堀を見ろ」「芋穴を見ろ」と云った細かい注意を受けていた。漫然と「場所」を捜索したのではなく「地点spot」を重点的に探していた。
カバンが発見された溝は、雑木林の木の根が畑に伸びないように掘削された堀(ヘッジ)である。「堀」は百姓の知恵の産物である。経験のない者には解らない。
捜索隊の重点捜査でも発見されなかったカバンが捜査本部チームによって発見された。カバンは捜査本部によって埋められ掘り出された切り札的ネタだったという疑惑が浮かぶ。
バラバラの「地点」を視覚化した写真と「地点」間の距離を示す図面を掲げて、本題に移る。
捜査本部が拠り所とする「物証」は私にとっても犯人を推定する物証となる・・・。
犯人は、不都合なメモが入っているリスクを回避するためにカバンを開いて万年筆、筆箱、手帳、財布もろとも不老川に流した。前章で私はそのように推理した。それを承けて推理の是非を検証する。
一審公判で開示された中身の教科書・ノート類目録(発見当日の押収記録)について殿岡氏の分析を借りる。[]内は私の考えである。殿岡駿星『狭山事件50年目の心理分析』(2012年)
当日の教科
1時限目 ペン習字 ペン習字教科書(全員が買い当日使った「ペン習字手本」)がない。代わりに堀兼中学3年時の硬筆練習帳(署名等あるも本体は未使用)があった。[署名=被害者名 以下同じ]
[警察が当日の担当教師に提出させた「習字浄書」だけが本物である。開示された浄書を使って、弁護団がインク成分を科学分析した鑑定書を第3次再審請求の一環として高裁に提出して現在に至っている。
浄書のインク成分にはクロムが入っている。石川青年宅で「発見」された万年筆が被害者の所有物であることを確認するためにそれを使って長兄が試し書きした数字12345・・・のインク跡にはクロム成分が無い。証拠の万年筆は特捜本部が仕掛けた別物である。]
2~4時限目 料理実習(カレー) 「教科書(家庭一般)*」に挟まれていた献立表らしきメモに堀兼中、署名。
5時限目 音楽 「教科書(高校の音楽)*」 音楽用ノート(補修用、3年、署名)
6時限目 英語 「中教出版の教科書」(中学3年時のもの)
「NEW START ENGLISH*」 [ 検索すると☞ 開隆堂 1962年 1963年度入学と矛盾しない。]
「ユニバース英語辞典*」[検索☞高校・一般用『ユニヴァース英和辞典』稲村松雄・梶木隆一共編 小学館 1960年 634P これも矛盾しない。]
[2年定時制で普通科なみの英語教科書、辞典を使うだろうか、疑問である。]
ほかに「女学生の友」5月号*とノート5冊。その内の一つ「ルーズリーフ」裏側の袋に歯科医による堀兼中学校長宛証明書が入っていた。
これらの物が被害者のものであることを長兄が一審公判で支離滅裂の理由をつけて確認している。
中学3年時の物は各時限に1点ずつ在るが、確かに高校時に使用したと証明できる高校向けの物はノートをふくめて1点もない。署名も書き込みもつまり使用の痕跡が無いのである。*印の物は街で買い求めることができる。
以上をもって、これらの物が被害者の家にあったこと、そして被害当日カバンの中にあって死体埋没後隠滅された真正被害品の代用物にされたことを明らかにできたと思う。
以上の点検から、不都合メモが出る危険回避のため、教科書、ノート類は犯人によって5月1日にカバンと一緒に川に流された、とした前章の推理は、一点を除いて、妥当だった、と結論できる。
カバンについては修正をしなければならない。カバンは犯人が死体埋没のあと、後始末の一環として車内座席にリスクの有りそうな中身を出して、カバンだけを現場に放置した、と推理する。
現場のどこかについて伊吹隼人氏が深く長く追及している。まず伊吹氏がブログに掲載している週刊朝日(1977.8.26)の長文記事を紹介する。死体発見者として公判で証言した消防団員は記者の問い「法廷で証言していますね」に「穴を見つけたっていったことですからね。あとは何にもわかりません」と答えている。自分は掘り返していないし死体を見ていない、と言っている。おのずとダミーであることを語っているかのようである。
仕方なく記者は紙幅を埋めるため一審での証言を掲載している。応答が長いので要約する。地表の地割れを見つけ、30センチぐらい手で堀って腕がちょっと見えたので中止した、と証言している。下線部は実情と食い違っている。
一方最初の発見者として現場と捜査本部で2度供述した消防団員は発見の経過から現場保存の実行まで記者の問いに臨場感あふれる返答をしている。荒縄を引っ張ると手が出てきた時の「ワァー」とか、現場保存後ペアを組む機動隊員が吹いた呼子の音色「ピー」とか、読んでいて情景が目に浮かぶ。
その中に「私が見つけたのは見てすぐ[被害者]の持ち物だと思わせるようなものだった」、「カバンだったか、上着だったか・・・」と言葉を濁した一節がある。前の秋、佐木隆三氏のために現地取材をしたルポライターの栗崎ゆたか氏に「イモ穴にカバンがあって、警察が保管してあった」とはっきり答えている。その証言の反響の大きさを気にしたのか言葉をぼかしている。
後年(事件46年後78歳)伊吹氏自身のインタビューに応じたときの2度にわたる証言では、イモ穴か茶垣の根元かでブレがあるが、カバンがあった、中身は見ていない、機動隊員が一緒だったから、と言っている。
警察官に2度供述した彼が調書を残さず検事側の証言者として呼ばれなかった理由はカバン目撃者であるからだと誰しも思うに違いない。
以上の検証で、「発見された教科書、ノート類」は「発見」の日を入れて25日間、カバンは52日間、雨が降ると小川のようになる堀に埋められていたのではなく、偽物の教科書、ノート類は犯人の手元に、カバンは特捜本部の手中にあった(土中を排除しない)、と云える。最初のネタ仕掛け(カバンが農道で押収され品触れに使われたことを指す)が5月4日死体発見日にまでさかのぼることになる。自作ストーリの驚愕の結末にわれながらぞっとする。
そして、捜査の進展とシンクロして、偽物の教科書、ノート類は雑木林に見付かりやすいように並べて置かれた。教科書、ノート類は石川青年を身代わり犯人にするために、カバンは犯人をでっち上げて、失態で失った警察の信用を回復しその威信を保つ奥の手として、雑木林に仕掛けられた。
雑木林で図らずも完全犯罪と権力犯罪とが3次元的に交差したと結論する。
それぞれのブツの出どころが、完全犯罪の犯人と権力犯罪の犯人をあぶり出している。時間と司法の壁によって犯罪者達が罰せられることは永遠に無い。被害者の無念と石川さんの人生を思いやりつつ終章を閉じる。いつの日か小説「完全犯罪 狭山事件」のヒントになってくれたら・・・、と秘かに願っている。