自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

ところ変われば時代まで変わる

2010-09-26 | 体験>知識

出生地の農場シッチオとレンガ瓦工場オラリアは10kmぐらいしか離れていなかった。
それなのに一夜にして百姓の時代から工場の時代に移った感がする。
移動手段が馬車と馬からトラックとクルマに変わった。
走るトラックの後ろにぶら下がって遊んだ。
Y叔父に連れられて配達に行ったりお得意さんまわりをした。
そんなとき出されたドイツパンがふわふわしていて美味しかった。
ガイジンの若い労働者たちの生態の一端にも触れた。
労働はかれらにとって生活の糧と遊ぶための金づる以上のものではなかった。
定時になると体を洗い着替えておめかしをする。
土曜の夜はダンスに興ずる。
日本人はダンスに行かなかった。
ダンスと恋愛を恥ずべき悪い習慣とする家父長的儒教思想が根強かった。
夜は闇がわたしを「悪習」から遠ざけたが昼間はそれの只中に居た。
ガイジンの青年たちの下ネタがしばしば耳に入った。
ガイジンのガキどもが集団自慰するのをただ一人の日本人ガキ(10歳)がわけもなく一緒に真似た。
ところ変わって時代環境が激変しても驚かなかった。
所与のものとして良きも悪しきもごく自然に受け入れた。
良く言えば環境適応力が発達していた。
悪く言えば感受性が発達しなかった、つまり鈍感に育った。


負の日本人像/彼我の差別

2010-09-19 | 体験>知識

わたしが身を置く社会が広がると必然的に日本人に対する風評にさらされることになった。
新聞雑誌が売らんがために敗戦ネタを多く取り上げたから、ガイジンから戯画化された天皇ヒロヒトや戦犯トウジョウや槍玉に挙がった日本兵のマンガをみせられることがあった。
そこに描かれた紋切り型の日本人像は、戦闘帽に軍服、銃剣、短足に巻いた脚絆(ゲートル)、黒い丸縁メガネ、細い線のような目、出っ歯で、侮蔑と差別に満ちたものだった。
ガイジンはそれをおもしろがって読んだがわたしに対する気遣いが感じられた。
通りすがりにひとが傷つくような言葉を投げつけられることもあった。
奥目に対する浅眼(オユラーゾ)、鼻ペチャ(ナリスシャット)ジャポネス! これはこたえた。
わたしもフットボールの巧い黒人の子に「プレット」(クロ)といったことがある。
1体1で負けた腹いせから出た差別語だった。
かれが目を白黒させた記憶が消えない。
ブラジル人の日本人に対する差別は一過性でしつこくなかった。
集団による差別は体験していない。
腹黒ではなく口黒?とでもいうべきか?
日本人社会(コローニャ)のガイジンに対する差別の方がきつかった。
いわば腹黒だった。
日本人は一等民族、ブラジル人は二等国民という国粋排外主義教育に染まっていたからガイジンとの結婚はありえなかった。
ましてや黒人との結婚は考えるだにおぞましかった。
そこから交わりのない日本人女性に関するジョークが生まれた。
日本人はよくからかわれた。私もからかわれたことがある。
日本女性のワレメは縦ではなく横付きか、と。





ナイフと銃/無知による無鉄砲

2010-09-10 | 体験>知識

時代も環境も違うので一概には言えないが、ブラジルではナイフと銃が野放しでも周囲では事故も事件も見たことがなかった。

わたしは無知ゆえにぞっとするような体験をいくつかした。
折りたたみナイフは遊び道具として大抵のものが所持していた。
ナイフで決闘のまねごともした。
ほかに手裏剣の練習みたいな的当てに夢中になることもあった。
オラリアで初めてピストルを手にした。
大人たちが空き缶の的めがけて射撃していた。
こどもには重いうえ引き金がかたくて片手では発射できなかった。
ある時U叔父の寝台の裏に隠してあった実弾を持ち出して金槌で薬莢を叩き壊して火薬を取り出した。
爆発しなかったのが不思議だ。
危険に気がついて身震いしたのは何年も経ってからだった。

日本ではその場で恐怖の体験をした。来日後半年ほど経った頃だった。
鉄管で鉄砲を作る遊びが流行った。
短い鉄管に撃鉄と引き金を付け、花火の火薬で細かい鉄くずを発射する仕組みだった。
級友のAが試し撃ちに引き金を引いた。不発だったのでわたしの方に銃口を向けたまま「あれ~出ないよ」と引き金を引いた。
また不発だったがわたしは一瞬凍りついた。
奪い取るようにして引き金を引くと破裂音とともに散弾が空しく飛んだ。
教育で危険を知るのではなく、体験で危険を知る「しあわせな」時代だった。


家では邦語、外ではポ語/こども世界のひろがり

2010-09-04 | 環境>教育

大家族の共同炊事、共同食事は初体験だった。
準備ができると女たちの誰かがカランカランと鐘を鳴らした。
男たちが離れた作業所から集まってきて一つなぎの長いテーブルを囲んで食事する風景は今はまれなゴッドファーザーの世界だった。
子どもはまだ少なく一族の長女の息子であるわたしが最年長だった。
したがって外での遊び仲間はほぼガイジンだった。
わたしにとってそこは別世界だった。
リーダーはサンパウロ市から流れて来たネルソン兄弟と姉妹だった。
彼は都会育ちだけあって垢抜けしていて国内の情報に通じていた。
かつては通学もしていたに違いない。中学生ぐらいの年齢だった。
わたしの行動範囲がいっきょに広がり耳にする情報も多彩になった。
遊び仲間はわたしにとってブラジル文化そのものだった。
すぐさまネルソンがフットボールを始めた。
ワールドカップが始まったのが1930年、ブラジルはわたしが生まれた1938年の第3回フランス大会で3位に入賞、オーヴァーヘッドの名手レオニダスが得点王に輝いていた。
それに戦争中の中断を挟んで戦後最初の大会(第3回)がブラジル開催に決まっていたから、都会ではフットボール熱で沸騰していたことだろう。
わたしにはすべて初体験だった。ボールはわたしが買った。
チームで唯一の縫いボールだった。
靴下にボロを詰めたボールが子供の間では一般的だった時代に縫いボールは貴重だったが、盗まれることも脅されることもなかった。
ブラジルは平和で安全だった。
フィールドは牧場か空き地の草地だった。
キックはもっぱらトーキックだった。
裸足のトーで蹴るから足の骨と皮が丈夫になった。
ブラジル人は今でも日本人よりトーキックを上手に多用する。
ネルソンがインステップキックをみなに教えた。
大人が子どものフットボールに関わることはなかった。
ブラジル人はサッカーとサンバ(の真髄)は教えられない、という固い信念を今なおもっている。
大人は大人でチームをつくり休日に正式の(といっても木組みのゴールが立っていただけだったが)会場で試合をしていた。
われわれは観戦がてらにコーヒー園に入ってスイカ狩りをした。
野糞から生えたスイカだったので盗みの意識はなかった。
熟れているかを確かめるやり方が滅茶苦茶だった。
携帯している事が珍しくない折りたたみナイフでスイカに四角い穴をあけて回った。
われわれはこれをカッパ(去勢)とよんでいた。
熟れたスイカにありついた記憶はほとんどない。