日本が日米戦争にのめり込むまでには幾つかの要因があった。陸軍の若手将校が力で国家革新を図った79年前の2・26事件も一因とされる。弘前市に住む波多江たまさん(100)の兄で、陸軍中尉だった対馬勝雄さんは、同事件に関与した者として20代の若さで処刑された。波多江さんは兄の優しさに今でも思いを寄せつつ、誤った教育が過ちの原因になると警告する。
 一家は田舎館村出身で、子どもの高等教育に有利と考え青森市へ移ったが、父親の営む鮮魚店が大火で焼けて没落。きょうだいは同市相馬町のバラックで育った。波多江さんは「とにかく貧乏で、海辺で拾った流木などを干し燃料に使っていた。裸一貫同士が助け合って暮らしていた」と思い出す。
 成績優秀な勝雄さんの進路も、家計の状況に左右された。両親は学費負担を嫌い旧制中学校への進学もためらったが、小学校の先生の懇願に折れた。「母が父の軍服を手縫いで直し(学帽風に)染めた帽子で通った。兄はずいぶん笑われたが『貧乏は苦じゃない』と平気な顔だった」。
 それでも内心では家計への負担を苦にしていた。「学費がただ」といううわさを耳にし、難関の陸軍幼年学校を13歳で受けて合格した。
 幼年学校や士官学校の教育を通じ、勝雄さんは軍人としての意識を深めた。士官学校の校長は強固な尊皇思想の持ち主で、決起将校に影響を与えたとされる真崎甚三郎だった。
 入校後も妹らには優しく、冬休みの帰省時に「奉書で“ひねくれるな、今が辛抱”という意味の歌を渡してくれた」というが、一方で「軍人とは死ぬことなり」の思想が育まれた。父親は長男を失いたくない本音と、身内の戦死を喜ぶべきとする建前のギャップに苦しみ、酒を飲むと荒れた。
 軍人となった勝雄さんは、軍規に厳しいが部下思いだった。「50人を戦地で率い、お金は出すから人数分の栄養のある食料や物資を送ってくれという手紙が届いた。戦死者の実家に香典を贈り、給料は残らなかった」という。部下の大多数は岩手県の農漁村出身。東北では貧しさのために娘が売られた時代に、境遇の近い部下の心に寄り添っていた。
 その兄が2・26事件に参画した。報道管制が敷かれ、波多江さんは「事件直後に新聞に書かれた後は一切情報が出ず、7月7日の号外で死刑と知った。5日間だけ面会を許された」。銃殺刑の後、気持ちの整理がつかない中、頭部に包帯が厚く巻かれた穏やかな顔のまだ温かい遺体と再会した。
 その後、遺族は反乱分子の家族として監視下に置かれた。一般市民との接触も妨げられたが「近所の人たちがいろいろな理由をつけて実家に来て、こっそり励ましてくれたのはありがたかった」。戦後もひっそりと慰霊を続けたが、勝雄さんの思いを後世にとどめたいと、夫らの協力を得て、遺稿などの記録集「邦刀遺文」を24年前に自費出版した。
 決起の背景について波多江さんは「派閥事情で銃を持った人もいると思うが、兄の場合は士官学校から政治の裏側を見て、部下の実家の生活事情も知り、我慢できなくなった」とみる。クーデターの企図は間違いだったと思うが、軍の政争という面が強調されるのにも拒否感が残る。
 戦後70年を経ても、プロレタリア作家の弾圧に反戦演説の糾弾と自由が制限された時代の記憶は鮮明といい、再びそうならないためには人づくりが大切と語る。「教育勅語があって国のために死んでも仕方ないという時代、兄は13歳から軍の空気しか知らず、陛下と国のためにという考えにのめり込んだ。そういう教育は恐ろしい。中学校辺りからの教育は、本当に大切なことだと思う」。


波多江たまさんは私の母と同じ1914年生まれです。あるお願いでお手紙を差し上げたところ転倒で両手不如意ながら丁寧な長文のご返事をいただきました。さわりだけ披露します。「昔の教育は、今とは全く違って、国と天皇だけでした。考えられない時代です。兄達の事件を追っている人々が大変多いのにも驚いています。有難う御座います」
後記1 波多江たまさんは2019年6月29日104歳で永眠されました。ご兄妹の冥福をお祈りします。
後記2 画像のリンクが切れました。代わりに(失礼!)寺島英弥氏「引き裂かれた時を越えて・・・〈二・二六事件〉に殉じた兄よ」(Foresightに連載)をおすすめします。対馬中尉の古里と家族の歴史が詳しく描かれ画像も豊富です。さらに安田少尉についても同様です。