自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

韓国は亡国の恨hanを晴らさずにはおかない/愛国と売国

2019-05-31 | 革命研究

韓国は、過去の加害責任にはどの国もそうだが日本同様触れたがらないが、日韓併合被害を決して忘れない。併合の当初から上海、ハワイ等で独立運動をしていた李承晩は戦後大統領として日韓会談に臨むにあたって先ず日本の謝罪を要求した。要求が通らないといわゆる李承晩ラインを設けて日本漁船をたびたび拿捕した。日本に来たばかりの私は頻繁に新聞とラジオで拿捕のニュースを見聞した。李承晩は悪いヤツという印象を刷り込まれた。日韓併合に至る条約の有効-無効と賠償の要‐不要をめぐって交渉は難行し竹島が占領された。
1960年安保闘争の最中のことだが、学生と市民による4月革命(戒厳令による弾圧で183名の死者が出た)で李承晩の独裁は終わったが、深刻な経済危機が残った。国庫は底をつき、経済力は最貧に近く朝鮮国に劣った。その深刻な状況は「春窮麦嶺越し難し」(春食糧に窮し麦の収穫まで持ちこたえられるかどうか分からない)という俚諺で語られた。
ブラジル同様ここで開発独裁が登場する。1年後に軍事クーデタに成功した朴正熙少将は1963年に大統領として日韓国交正常化をすすめ1965年に日韓基本条約を締結して、日本から約11億ドルの経済援助(無償・有償・借款)を引き出した。それを重化学工業とエネルギー・交通・学校等のインフラに投資し国策として財閥を育て、高度経済成長を達成した。日本語教育を受けて士官学校を卒業して日本人のメンタリティをもつ朴大統領は、日本を工業化の手本とし、ソ連の5ヵ年計画にならってロードマップを描いた。
かれはまた工業化の成果を農漁村改革に及ぼした。かれはまず不況対策として全国3万5千弱の村に一律にセメント300~350袋を無償で配った。そして村に各戸への分配ではなく、村人の合意により村道の拡幅と架橋、河川土手の改修、藁屋根のスレート化、井戸の改善と共同風呂・洗濯場建設、公民館や集会所の建設等に使用するように指示した。翌年優れた成果を上げた村だけにセメントとさらに鉄筋を無償で提供して「新しい村semauru」競争を刺激した。スローガンは「勤勉、自助、協同」である。低開発国が浮揚するために不可欠の国民精神である。
自助だから政府は作業、土地提供に金を出さない。耕地整理、
灌漑用井戸・用水路・道路の建設用地、等にたいする補償は、難産ではあったが「村全体の協同精神と共同負担ですべての村が自ら解決した」  中世以来土地を所有する小暴君(両班'yaŋ-ban、国民の3%)が特権と収奪を続けてきたため遅れをとった伝統社会にセマウル運動が資本主義の風穴を開けた。
これを手始めに政権主導の農漁村改革が推進され、救いがたいほど遅れた貧しくみすぼらしい村の光景は一変した。その象徴が藁屋根がカラフルなスレート葺きに変わったことである。村々に電気と水道が普及し技術の向上発展により生産者の所得が倍増した。高校、大学進学率はほぼ日本と同水準である。これらの変化がブラジルのケースと大きく異なる。セマウル運動は今日国連推奨の後進国発展のロールモデルになっている。
出典  野副伸一「朴正煕のセマウル運動 : セマウル運動の光と影 」pdf  2007年


セマウル運動 (全羅北道コチャン 1972年)  撮影 金ニョンマン
 

朴軍事政権の経済上の業績は、抑圧され続けてきた国民に「やればできる」という自信を植え付けた。これが光の側面とすれば闇の側面は一握りの財閥一族(中世以来の族姓の伝統を想わせる)と民衆との経済格差、階級対立である。

朴政権は日本に亡国被害の賠償を安売りした「売国奴」という追及には戒厳令による過酷な弾圧で応え、政敵である民主化闘争のシンボル・金大中の日本からの拉致、知識層に対するスパイ狩りと拷問等で、カーター大統領にブラジルとならんで最悪の人権侵害状況と非難された。
彼の長期政権はKCIA部長が放った銃弾により突然幕を閉じたが、韓国の民主化運動に対する弾圧は朴正煕亡き後の全斗煥大統領とその後任の盧泰愚大統領によっても過酷に行われた。この二人も、「
反乱(1979年のクーデター)と内乱(1980年の光州事件)、秘密資金の疑いで1995年に逮捕され、1997年にそれぞれ死刑と無期懲役が求刑された」(辺真一)
民主派政権が追及対象にしているのは軍事政権の直近の非道と腐敗だけではない。戦前の親日協力の過去まで深く追及している。朴の場合日韓基本条約の国辱的締結が非難されたが彼が志願して歩んだ満州国軍の軍歴が火に油を注いでいることは疑いない。
日韓政府の最たる争点は何か?  朴は、併合条約とそれまでの条約は「もはや無効」である、と妥協した。韓国内の歴史認識では併合条約は「はじめから無効」である。もはや無効、では併合は合法だった、という日本側の主張を容れる余地が残る。合法であれば併合請求権は消える。対立は韓国内の世論を二分した。
軍事政権は前を向いてアカ狩りをし民主派政権は後ろを向いてクロ狩り[わたしの造語]をした。植民地化に際してはいずこにおても強制されてあるいは進んで協力する者(中国の例では漢奸)が現れるのが常である。コリアンが裏切りの追及を続けるのは、協力行為が条約の合法性を主張する日本サイドに根拠を与えるからであるが、それだけではない。
コリアンには独特の恨hanという気風がある。そして政治レベルでは恨イコール愛国である。だから日本に徴兵された兵士、徴用された軍属、労務者や性奴隷は愛国者だが、志願した軍人、労働者、慰安婦は顧みられない。
現在の文政権が日韓基本条約が「完全かつ最終的に」消滅させた対日請求権に個人の請求権は含まれないと強硬に主張する背景には、親日裏切り政権が結んだ条約は改定して当然だという思いが伏在している。日本政府と世論を刺激している韓国内の謝罪と補償を要求する現行の運動は、水面下の条約改定運動にほかならない。

愛国と売国は単純には割り切れない。日韓を隔てる歴史認識はひと飛びでは越えられない。
      

 


ブラジルの軍事独裁/それもいいじゃないか、という学生が増加

2019-05-17 | 革命研究

私には祖国が二つある。2018年末、わが生国ブラジルは軍事政権による軍政令AI-5 発令50周年を迎えた。もし私が当時ブラジルに居たら30歳の私はどうなっただろうか。軍事政権反対の運動をしていた学生、知識人が日系人を含めておおぜい拉致され拷問され殺され「失踪」とされた。大統領は憲法の権利差し止め権をもち、大統領の権限が憲法を凌駕した。議会は1年間閉鎖された。人身保護令は停止され恣意的拘禁、拷問が日常化した。拉致、拷問後の殺害、死骸隠滅は特別の雇われ工作集団によって巧妙に行われ、「失踪者」の行方は杳として知れなかった。同時期の朝鮮国による日本人拉致に酷似している手口が多い。
  無法の全体像が想像できる好著  花伝社  2015年刊

民政化後2014年にようやく真相究明委員会が報告書を提出した。それによると軍事政権のトップから兵士までの337名が人権侵害に加わった。新たに施行されたアムネスティ法により誰一人罰せられなかった。「434名が軍事政権に殺害され、失踪させられた。その他、8,300人以上の先住民が殺害された。しかし、同委員会は、実際にはこの数はもっと多いと認めている」 出典:齋藤功高「ブラジルの移行期における軍事政権下の人権侵害の清算」pdf
下線部分の数字がブラジル軍事政権の性格、正体を物語る迷宮入口の鍵となる。軍事政権は単なるアカ狩りと治安維持ではなく開発独裁を目的とした開発戦体制であった。つまり禁じ手で資源開発をして産業近代化を図る革命的デザインの下に陸・海・空三軍が一体となってクーデタを起こしたのだ。そのデザイン「全国統合計画」の作成と推進は高度プロフェッショナル(ソ連時代の概念でいえばテクノクラート)に委ねられた。そのイデオロギーは、キューバ革命の防波堤を意図したケネディの「進歩のための同盟」である。
禁じ手とは、反対者をテロリストとして、あるいはコミュニストのシンパとして、反対運動のすべてを抑え込むことである。その結果アマゾンの密林と周辺州に、地下資源、原木資源、牧場開拓地を求めて野心的企業家とギャングが押し寄せた。いつの時代でも開発は道路のインフラから始まる。アマゾンを横断して高速道路がベネズエラに達した。上記のジェノサイドを想わせる犠牲者の数は反対運動の指導者もろとも殺されたインディオの数であろう。

文明人の入ったことのない秘境で何が起こったかは知るすべがないが、その一端を物語る二人の生き残り男性の生と死の日々が先日放映された。現場周辺の密林で発見された壮年兄弟の言葉は全く未知の言語で今日まで通話ができない。動画撮影時点では保護先で一人だけ生き残っているが他の先住民と交際ができなくて引きこもっている。保護士に向かって頻繁に発せられる恐怖を表現するコトバとジェスチャーから察せられるのは稲妻様の何かの襲来であった。彼は家族も身寄りもなく記憶を文明人に伝えるすべもなくこの世界で一人死を待つだけである。
私事にわたるが、そのころアマゾン周辺の奥地で大牧場を経営する日本人の実業家が日本にサッカーチームを連れて来たことがある。その人が所有する南部パラナ州のプロ選手養成のためのサッカー場と宿舎を見学したこともある。両国のサッカー界で名の知れたボスは不在だったが日本からの留学生が案内役を務めてくれた。
サッカー場があったバンデイランテス市は、独身時代の父が姉夫妻のもとで働いた因縁の地であり、訪れた私を父方のいとこ達がおおぜいで歓迎してくれた。1991年の帰郷時の出来事である。

軍事独裁政権は政党、労働・農民・環境運動等の反対勢力を恐怖で抑え込んで日本を含む米国中心の外資導入の地ならしを推進し工業化に成功した。ブラジルは世界有数の鉄鉱石と鉄鋼、航空機輸出国になり、2000年代初頭にはBRICの一角に名を連ねて工業先進国に仲間入りした。
1984年
に222%以上のハイパー・インフレとなり経済が破綻して翌年ブラジルの軍政は終わった。産業近代化には成功したが貧富の格差と自然破壊が耐え難いまでに拡がった。多国籍企業を含む大資本による土地集積と機械化された大農場は農業労働を一変させ土地、仕事を失った農民が都市に流れ込んだ。人口の集中で都市景観は激変し、近代的ビルとスラム(ファヴェーラ)の併存が富の不均衡を象徴している。
ブラジルの治安はさらに悪化した。金持ちの家は高い塀か鉄柵に囲まれている。富豪の豪邸は銃を携えたガードマンに守られている。わたしはそれを見てブラジルでは富裕層も「塀の中」に入っているという妙な感想をもった。
わたしの少年時代にはブラジルは治安が良かった。逆に日本の都会は夜歩きできないほどに悪かった。

昨年ブラジルでは揺り戻しが起きて軍政を賛美する歴史修正主義者が大統領に当選した。拷問と殺害、人種・性差別を容認する発言で「ブラジルのドゥテルテ、トランプ」と評されるボルソナーロ大統領である。その最初の仕事は「天然資源を繁栄に一変させるグローバル採鉱会社」(vale社HP)の鉱滓ダム決壊事件(犠牲者350名?)への対応だった。

グローバリズムと市場原理主義が世界を覆ったために世情が急展開しつつある。東京のいくつかの大学で軍事独裁のレクチャーがあった。授業後に学生の感想を聴くと、治安改善や産業近代化のためには軍事独裁もありの意見が「どちらかというと」を含めると半数近くあったそうである。