自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

舌癌手術/診療科を間違えた

2022-01-28 | 舌癌闘病記

当時癌は避けられない死、辛い副作用を連想させる怖い病気だった。
1997年10月20日、舌に異常を感じて北摂病院で診察を受けた。ときたま罹っていた口内炎と違うな、と気づいたのは酸っぱいものが沁みたからである。1円玉ほどの白っぽい炎症に赤い芯が見えた。
老練な医者は一目見るなり表情をくもらせ、前癌症状らしいので医科大学で検査を受けるようにと促した。
次の日、医科大で診察を受け生検の予定を入れてもらった。予定日がかなり先だったので看護婦長に理由を聞いた。組織で動くので小さな手術でもそうなるとのことだった。
すぐにでも結果を知りたいので予約を取り消して数日後親友・大浜が経営している向島の病院でMRIを撮ってもらった。若い医師から白板症と言われた。小さな腫瘍はMRIやCTでは発見できなかったと考えられる。
やはり大病院で生検を受けるほかなかった。今日のように検索して調べまくる環境ではなかった。後で考えると、この時点で診療科選択を誤った。今なお歩んでいる苦難の道の始まりである。
舌癌は口腔ガンの一つであるから、口腔外科がある大学歯学部付属病院で診察を受けると、主治医がその場で舌から薄片を切りとった。三日後初期ガンと告知された。覚悟をしていたので気持ちの乱れはなかった。一週間以上通院して手術に備えた。
種々の検査をして分かったことを三つ記す。
カルテ持参で検査部に行くこともあった。カルテの生検報告書を見ると図入りで「シビアな異形細胞」とあった。
血液検査でB型肝炎ウイルスが出た。自覚症状はなく、母子感染だろうと言われた。すぐさま院内感染、家庭内感染の予防策がとられた。わたしはウイルス・キャリアとして今なお定期的に内科検診を受けている。
脂肪肝とも言われた。以後、同大学医学部内科でB型肝炎ウイルスとあわせて、四半世紀にわたって経過観察中である。
12月に入って近くの新千里病院口腔外科に移り通院2日入院13日の治療を受けた。その病院が歯学部口腔外科の手術室と病棟を兼ねていたからである。歯学部主治医は手術に立ち会い治療結果を患者に告げて次の策を指示する役だった。転院になることは前もって知らされていなかった。
さて、手術は軽かったが口を使えないので食事には難渋したはずだがどうしたかは記憶にない。VTR付TV装置を買ってきてサッカー・ビデオと家から持ってきた司馬遼太郎の小説『跳ぶが如く』で時間を潰した。
後者は西南の役で薩摩の叛乱が悲劇的に終結するまでを克明に描いた、言い伝えによる挿話の多い歴史小説である。近現代史に興味をいだくきっかけになった石光真清の回想録『城下の人』に出て来る真清少年と村田新八の出会いを想い起させる、ある小さなエピソードに衝撃を受けた。
反乱軍に15歳の少年が従軍していて明日の命も知れないのに大人にまじって喜々として戦っていたのだ。子供が死を恐れていないのに大人の自分が怖れてなるものかと深く心に刻んだ。それが以後の療養中に弱音を吐いたり泣き言を言ったりしなかった一因となった。
結果を聴く日が来た。執刀医の暗い表情をみて悪い予感がした。主治医が「周縁部に取り残しがある。年が明けて再手術をする」というのを聞いて、落ち込んだ。
年が明けて再入院し2度目の手術を受けた。前回と同じ期間、同様の治療の繰り返しにうんざりした。結果まで同じだった。「これ以上奥を切る医療機器は当院には無い。市内に手術ができる耳鼻咽喉科はないか?」 主治医の意外な言葉に啞然とした。
歯学部の500m先に医学部耳鼻咽喉科があるのになぜ真っ先に推さないのか?!  理由は翌日医学部耳鼻咽喉科を受診してすぐ分かった。口腔外科と耳鼻咽喉科は犬猿の仲だったのだ。
私が選んだ歯学部口腔外科は、のどへの転移手術、扁桃腺等のリンパ節廓清の機器がなかったから、舌癌手術に着手すべきでなかった。私は最初から口腔外科と耳鼻科と形成外科がタグを組んで手術できる大病院をできれば選ぶべきだった。
今知ったかぶりしているが、当時私は当の口腔外科を選ぶにあたって妻の同僚教師(元看護婦)に電話で相談している。当口腔外科で舌癌手術をするつもりだと告げたとき、電話の向こうで一瞬言葉につまったような感じを受けた。彼女が体験から得た知見を聞き出すべきだった。
立ち止まるきっかけがあるのにスルーしてしまう未熟さが私にはある。それが重大な結果を招くことになった・・・。
※ 記述中の医療、設備のレベルは25年前のものである。いささかも現状を反映するものではない。


#漢書由来語録 百の見聞、一験にしかず。
華僑、バイキング、倭寇の逞しさ、進取の気性を象徴するにふさわしいコトバである。
永いスパンで歴史を観ると、クニを追われて先祖代々苦難の移動を体験した少数民族は団結力に*優れ個人としても意志が勁い人が多い。客家・ユダヤ人・倭人の子孫など。
*長江上・下流の稲作民族をさげすんで漢族が優越的に命名した卑称。小柄な民族だったのだろう。倭人は圧迫されて東方および南方に移動し、呉、越にも容れられず山東方面に移動した集団が韓国南部と北部九州に稲作を伝播した。倭人は日本人と韓国南西部のルーツの一つである。種本  鳥越憲三郎『倭人・倭国伝全釈』(角川文庫  2020年)


資料大整理/行き詰まりを突破したい

2022-01-01 | 資料整理

年賀はがきの売り出しが始まったので滅多にないことだが早々と30枚購入した。書く段になって捜しまわらなくて済むように保管場所に気を使った。
次のブログを書くための資料を揃えるために、家の中のあちこちに雑然と積み重ねて埃をかぶっていたノート、コピー、切り抜き、プログラム、小冊子、書信、写真等をカテゴリーごとに仕分けした。これが大掃除より大変で本日元旦に至ってもまだ終わらない。

その間にせっかく買った年賀はがきの束が行方不明になり年賀状を書く意欲も失せてしまった。いつになるかわからないが出て来た時「ご機嫌伺い」として送ることにした。受け取った人がどう思うかいろいろ想像している。

さてブログの件だが、自分史的体験記の時系列を飛ばして、しばらく舌癌闘病記を綴りたい。その次には心臓冠動脈手術の体験について書きたい。
その間少年サッカークラブの監督をしていたのでその関連語録を、毎回思いつくままに、ブログの末尾に追記して、自分史の欠落部分を補いたい。


#サッカー指導語録 足は蹴ることができない。ボールを蹴るのは精神である。
日本代表選手としてデュッセルドルフ近郊のスポーツ・シューレにキャンプした川渕三郎のちのJリーグ創設功労者が感動した碑文「目は見ることができない。ものを見るのは精神である」から意味借用した。
かれは日常的に老若男女が集い種々のスポーツを享受しているのを観て感動し、そのための最高の環境を創った思想の淵源に哲学があることを脳裏に刻み込んだ。

2022年は、Jリーグ前哨戦(ヴェルディ川崎vs清水)30周年である。Jリーグ創立の立役者はキャプテンこと川渕三郎であるが、そこに至るまでの長い道のりには有名無名の先人のたゆまない活動と
願望があった。その熱望がどれほどだったか、一例として兵庫県の有志とともに神戸フットボールクラブ(サッカー関係社団法人化第一号)を設立した加藤正信ドクターのエピソードを紹介しよう。
日本リーグの人気が長期低迷していたころのある夜半過ぎ、熟睡中に電話が鳴り起こされた。天然芝の大小サッカー場と西欧型クラブsocioを模範とする会員制地域サッカークラブとを創った先達として尊敬し、度々試合をさしてもらっていた加藤先生からの電話だった。話し込むような間柄ではなかったので驚いた。
挨拶もそこそこにプロサッカーの必要性を一方的に長時間説かれた。神戸で目標を達成した先生が日本リーグのプロ化を次の目標に掲げて切歯扼腕するのが目に見えるようであった。わたしは相槌を打つだけだった。先生は1990年2月1日、念願がかなう3年前に急逝された。プロ化の目途がたっていたことがせめてもの慰めだった。
わたしはサッカー狂だったが、漢字学の泰斗・白川静先生の分類によれば「癡」(「痴」の旧字体)の類であった。加藤先生の狂いっぷりは最高位の狂(=賛辞)である。