自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

関東大震災/朝鮮人ジェノサイド/四ツ木橋/名もなく遺骨もなく

2017-05-27 | 近現代史 戦前(大正時代)

  原画  山崎 巌(小学4年 1923年)

本稿は上掲書(2014年)の「四ツ木橋」に関わる部分からの抽出でほぼ成り立っている。上掲書に「四ツ木橋」周辺の証言がとくに多いのはそこが100人以上から証言を集めた
「追悼する会」の活動中心地だからである。

1910年韓国併合により朝鮮ではGDPと物価が上がり貧富の格差が増大した。細民労働者と土地を奪われた零細農民が戦争景気の日本に出稼ぎに来た。在日朝鮮人の数は、1911年には2500だったのが1923年には8万人よりも多いと云う。現場作業員として日本人より安い賃金2分の1か3分の2かで雇用された。名の知れた共済会もなくマークされるほどの指導者もいなかった。
だから指名拘束も指名殺害もなく虐殺は民族的属性だけで行われた。大震災時の朝鮮人虐殺は厳密にいえばジェノサイドである。
虐殺者は朝鮮人かどうかを発音で判別した。沖縄、奄美出身者、障碍者が殺害されたこともあった。言葉ができても教育勅語暗唱で引っ掛かることもあった。品川町ではなぜか明大生が犠牲になった。

自警団による朝鮮人狩りに勇敢に立ちはだかった日本人がいたことから始めよう・・・。
品川のある光景‐‐‐地震が発生した9月1日の夕方、大井町では往来に日本刀や鳶口、ノコギリなどを持った人々が早くも現れ、「朝鮮人を殺せ」と叫び始めた。・・・[朝鮮人13名の飯場に1日]夜遅く、警官と兵士、近所の日本人たち15,6人がやってきた。「警察に行こう。そうしなければお前たちは殺される」 [途中自警団に幾度となく襲われる。品川署も包囲されている。署内から警官隊が出動して一行を救出して署内に引き入れた]
虐殺は指揮官次第である。指揮官が極端な思想信条の持ち主であれば上で記述した「保護」は詐術による死の行進に反転する。
上記の例が示すとおり、軍と警察の極端主義者が活動を始める前の1日夜に自警団による襲撃が始まっていたことは注目に値する。また身近に朝鮮人と関わりがあった住民はその保護に当たっている。
千葉県の貧しい小さな丸山集落では自警団が集落に溶け込んだ建設労働者2人をかばって守り抜いた。5,6人で鉢巻しめて手にカマ、クワを持って他所の自警団40人位と対峙して啖呵を切ったと云う。「あの朝鮮人たちに指一本ふれさせねえぞ」 4日か5日の出来事だった。
ここで亀戸警察に連行され「騒いだから」と兵士に引き渡されて虐殺された4人の自警団員がいたことを思い出した。彼らは亀戸より南の砂町、中国人労働者が多くいた地域の飯場頭とか人夫出しではなかっただろうか? 彼らが配下の中国人をかばって殺された可能性のほうが高い。かれらの行動をとがめた警官に日本刀で切りかかったと警察は言うが、亀戸警察が管内自警団による検問を抑えるはずがない。両者は極端主義という同じ穴のムジナなのだから。
前稿の平澤計七も川合義虎も朝鮮人をかばって軍警と接触があった。
計七は朝鮮人狩りに憤慨して近衞連隊司令所に掛け合いに行った。司令所は亀戸警察の真向かいの郵便局に置かれていた。川合は朝鮮人老婆に乱暴する自警団と喧嘩して、亀戸警察に留置された。ほかの殺された組合活動家も夜警当番に参加している。朝鮮人をめぐる主義者とシンパのジレンマは察するに余りある。
横浜鶴見警察署長が庁舎を包囲した1000人の町民と町議たちを前に「鮮人に手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける」
「管理下の朝鮮人が一人でも逃げ出したら腹を切る」と体を張って朝鮮人、中国人300名を救ったという逸話は有名である。署長の胆力を前にして群衆はひるんだが、それだけならおさまらなかっただろう。
日頃から朝鮮、中国、沖縄から出て来た労働者の生活実態に触れて、彼らが陰謀団ではなく出稼ぎ労働者に過ぎないことを知っていたからこそ「デマを信じるな。 彼らは鶴見で働く労働者だ。同じ被災者だ」と効果的に説得できた。また自警団の目の前でビンの「毒液」を飲んで見せている。
町の有力者の説得には、忠君愛国の世相、世論の流れにそって、朝鮮人は天皇の赤子ではないか、と急所をついて考えさせている。また外国人である中国人を害して外交問題を起こしてもよいか、と問うて痛い所を突いている。その巧みで粘り強い説得力がなかったら300とも400ともいわれる出稼ぎ労働者を救うことはできなかったと確信する。 参照  大川常吉ーWikipedia 


震災時の朝鮮人ジェノサイドは、朝鮮、沿海州、間島における「不逞鮮人」掃討戦の、所を国内にかえた延長戦である。震災という非常時に軍警と民衆が起こした不定期戦である。こういう観点から何故朝鮮人虐殺は起こったか、私はこれまで原因追及をしてきたつもりでいる。
もう一つ、大きな原因として関東大震災特有の流言問題を追加しておきたい。
「怪鮮人3名捕わる 陰謀団一味か」 たまたま9月1日の震災発生前の東京朝日朝刊に載った小記事である。今の時代から見るとヘイト・スピーチだが当時は普通の表現だった。「怪鮮人」をタイトルにした同様の記事が震災直前までの7年間に西日本の新聞だけで100件以上掲載されていた(京大水野直樹研究室が作成したデータベース)
中央防災会議報告書(2008年)『1923 関東大震災【第2編】』は冒頭で述べている。流言は地震前の新聞報道をはじめとする住民の予備知識や[地震直後の]断片的に得られる情報を背景に、・・・[解釈の暴走]として生じた、と。

朝鮮人ジェノサイドの全貌ではなくその極端な一端にだけこれから踏み込む。フォーカスした対象区域は亀戸~習志野である。その限りでのランドマークは荒川大橋下手、今は亡き四ツ木橋(現木根川橋)である。そこは亀戸警察管内であり軍警が平澤計七たちと朝鮮人100余名を殺害してその死体を一時遺棄焼却した現場である。
そこはまた習志野近衞騎兵連隊が「すわ、皇都一大事!」と文字通り駆け抜けた場所である。後日軍警が「保護」下の1000余名の朝鮮人と多数の中国人を習志野収容所に移送した通り道である。そこはまた避難民の重要な避難ルートであり、荒川土手は1日夕方避難民15万人であふれたと小松川警察は伝えている。ちなみに対象地域は焼失地域でなかった。


四つ木橋  451m  戦車通行可 出典:関東地方整備局ホームページ

http://www.ktr.mlit.go.jp/syuto/html_gallery/m_win/m01_04.html

証言1 四ツ木橋東詰 荒川左岸土手 曺青年ほか14(女2)名 
避難していると1日夜10時頃、やって来た消防団に数珠つなぎにされ、翌朝5時頃寺島警察に向けて橋上を西へ連行された。「橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった」
証言2 「四ツ木]の橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを横から切って下に落とした。旧四ツ木橋の少し下手に穴を掘って投げ込むんだ」(永井仁三郎)

証言3 「敵は帝都にあり」 習志野の近衛騎兵連隊が亀戸に到着したのは2日午後の2時頃だったが、そこは罹災民でハンランする洪水のようであった。 手始めの「列車改め」で「朝鮮人はみなひきずり降ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民のなかからは嵐のように沸きおこる万歳歓呼の声―国賊!朝鮮人を皆殺しにしろ! ・・・その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやりだした」(元連隊兵士 越中谷利一) 
徒歩編成部隊は午後1時に、機関銃隊は夜に亀戸に到着した。
帝都は常時第一師団と近衞師団が警備していたが、天皇と皇居を警衛する近衞連隊(歩兵、砲兵、工兵等)がもっとも精鋭で思想的にコアだった。だから最初から「不逞の輩掃討」「鮮人鎮圧」に燃え、自警団の先頭に立った。心底からそれが忠義だと信じた行動だった。
証言4 四ツ木橋西詰では銃殺が行われた。西詰に部隊屯所が設けられた。部隊屯所の西側に大きな池、通称温泉池があり、追われて池に飛び込んだ朝鮮人が7~8名自警団に猟銃で撃たれて死んだ、という証言(仮名 井伊)もある。
「二列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。その虐殺は2,3日続いたね」(仮名 高田)
西詰河原では「10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」(浅岡重蔵) トロッコは荒川放水路工事の土砂を運ぶためのもの。多くの朝鮮人がその工事に従事していた。
多分同じ現場だと思われるが「大ぜいの人が橋の下を見て居ますから私達[兄弟]二人も下を見たら韓国人の人(女一名)10名以上が兵隊の(キカンジウ)でころされたのを見ておどろいてしまいました」(篠原行吉 80才) 9月5日(水曜)の出来事だった。
証言5 内務省、警視庁、師団は、「朝鮮人暴動」がそもそも存在しないことを知って3日以降部分的に軌道修正を始めた。4日午後10時第一師団司令部(石光真臣師団長)命令で、各隊はその警備地域の朝鮮人を「適時収集」して習志野捕虜収容所(大戦中は独軍捕虜収容所だった)に移送することに決まった。5日以後亀戸警察からも1000人が徒歩移送された。皆これで助かると安心したことだろう。
5日、羅漢寺(西大島駅北東角)隣の銭湯でトリック私刑が行われた。「針金で縛って連れてきた朝鮮人が8人ずつ16人いました。さっきの人たち[1000人に近い列]の一部ですね。憲兵がたしか2人。兵隊と巡査が4,5人ついているのですが、そのあとを民衆がぞろぞろついてきていて、いきり立っているのです。<渡せ、渡せ><俺たちのかたきを渡せ>って、いきり立っているのです。
銭湯に朝鮮人を入れたんです、民衆を追っ払ってね。・・・それで帰ろうと思ったら、何分もしないうちに、<裏から出たぞー>って騒ぐわけなんです。何だって見ると、民衆、自警団が殺到していくんです。・・・ちょうど夕方4時半かそこらで、走った血に夕陽が照るのが、いまだに60何年たっても目の前に浮かびます」(浦辺政雄)
証言6 習志野収容所では収容人員が点検で「1日に2人か3人ぐらいづつ足りなくなる」(渡辺良雄巡査部長、舟橋署から派遣) 軍の極端指揮官が将来の「禍根を除く」ため選んで間引きを命じたと考えられる。6日には戒厳司令部から「之に暴行を加へたりして、自ら罪人となるな」と強い調子の注意が出ていたので周辺の複数自警団に毎日数人ずつ引き渡して始末させたのだ。
8日「又鮮人を貰いに行く 9時頃に至り二人貰ってくる 都合五人 (ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事を決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと・・・」(千葉県高津住民の日記) 
高津地区の住民は「子や孫の代までこの問題を残してはならない」と遺骨6体を掘り起こして観音寺に納め99年に境内に慰霊碑を建てた。

軍警は3000人以上の朝鮮人、1700人弱の中国人を収容した習志野収容所を10月末に閉鎖した。

高津で慰霊碑が建ったきっかけは中学生の郷土史クラブが古老たちに昔のことを聞き取りしたことだった。
同じころ足立区の小学校の絹田幸恵先生が授業のために荒川放水路について古老たちに聞き書きしていて「大変なことを聞いてしまった」ことがきっかけで「追悼する会」ができ、四半世紀余りかかって2009年「四ツ木橋」のたもとの堤防下に殉難者追悼之碑を建立した。下図参照。なお亀戸署は図面外左方向に在った。

追悼碑の周りには朝鮮の故郷を象徴する鳳仙花が植えられている。碑に手を合わせた後で「私の父は当時、朝鮮人を殺しました」と〔ほうせんか〕会のメンバーに打ち明けた人もいたという。


間島出兵/不逞鮮人/関東大震災・朝鮮人虐殺の前史

2017-05-14 | 近現代史 戦前(大正時代)

 出典  厚生省『援護50年史』 満州国行政区画と各省別日本民間人死亡者数 

朝鮮独立運動(本部上海)の国外根拠地は浦潮(沿海州)と間島(満州)であった。浦潮新韓村はシベリア派遣軍による四月惨変で壊滅した。
間島琿春掃討を観てみよう。間島は満州東端にあり東の国境を越えるとロシア領沿海州で浦潮に至る。南の豆満江を渡ると朝鮮(日本国)である。
元々朝鮮人が多い地域だったが韓国併合後朝鮮人難民の避難地として人口が急増、朝鮮独立軍の根拠地になった。一応奉天軍閥・張作霖の支配下にあった。日本軍が越境討伐の機会を狙っていた。沿海州から撤退した今、朝鮮独立運動の芽を摘むことが軍の至上命令になった。

1904年~ 「韓国=緩衝国」期 
日露戦争は韓国争奪戦であった。日本は、日韓議定書、日韓協約を武力を背景に韓国に呑ませて同国を保護国化した。

1907年伊藤統監と長谷川好道司令官は韓国軍を強制解散させた。元韓国軍将兵と民衆による「義兵闘争」が頻発し、日本軍はその間「掃討」に苦慮し、戦闘地域の村落を焼夷した。
日本による討伐の実態を、ロンドン『デイリィ・メイル』の特派員、
カナダ人ジャーナリスト・マッケンジーが戦闘地域に潜入して貴重なルポとして遺した。百聞は一見に如かず。彼が撮影した写真と多分類書のない記事を観てみよう。The Tragedy of Korea, NY, 1908. 渡部 学 訳に拠る。1907年の秋口の田舎の風景から始まる。
ソウルを馬とロバで発つと眼前に稲と大麦が実り豊かに穂を垂れた「絵のように美しく平和な」村々があった。どこで訊いても「日本人は利川にいる」と同じ答えが返ってきた。山の峠に立つと、利川に向かう渓谷の村々は「すべて灰の山と化している」のを見た。利川はそうとうに大きな町だった。みな山に避難していた。
「小さなこの地方[忠清道]だけでも、その数一万から二万にも達する人びとが、自分の家をこわされたり、あるいは日本軍の乱暴に恐れをなして、山やまに避難していたのである」
義兵に冷淡か同情的であるかに関係なく殺されたり強姦されたりするので山に隠れる。強姦の「話をいくつも聞いた」「一人の日本兵が野菜売りの妻女を犯すあいだ、他の兵士は着剣した銃でその家を見張っていた」 「部隊の例外的な連中に限られたものであったろう」が村々の女性を山へ追いやる結果を招いた。 
忠州や原州のような都市も破壊され略奪されていたが「しかし、堤川の大破壊とはくらべものにならなかった。ここ堤川は、文字どおり完全に破壊しつくされていた」 「堤川は地図の上から消え去った」
堤川は「人口二千ないし三千を擁し、高い山やまに囲まれた盆地に美しいたたずまいをとっていた」 瓦葺の大きな家が建つ高官貴族の保養地だった。記者はイギリスのバース、チェルトナムを引き合いに出している。負傷して逃げられなかった男5人、婦人1人と子供1人が燃やされた。討伐軍の数人の戦死者に対する報復と見せしめだった。
(下) 見渡す限り焦土と化した堤川の街路

いよいよ義兵たちとの遭遇である。原州を過ぎると奇襲と隠れ家に適した「大部分が、切り立った絶壁のある狭くて曲がりくねった渓谷」があり、日本軍が迫りつつあるがまだ焼かれていない楊根(現在の楊平)があった。無人に見えた楊根だったが女性を除く大人と子供が寄って来、続いて義兵6,7人が現れる。
かいつまんで記述する。組織はない。資金は富裕層が出している。引率指揮は元将校、下士官がとっている。兵士は労働者、上流階級の青年[儒生?]・・・都市から来ている、変わり者は山の虎狩の古老である。歩哨は置いていない、住民が見張りの代わりになる、と言うが、その晩の宿泊を拒否されて住民と言い争いを続けている。記者は負傷兵の手当てを頼まれるが何もできない。まんじりともせず朝を迎えた。義兵たちは伝令を出して「イギリス人」に発砲しないように前方に伝えたあと出立した。
記者は彼らに迫る運命に同情した。基本になる銃が先込め銃*なのだ。
*わたしは幼少のころ大人が筒先から火薬と弾をさく杖で詰めるのをみたことがある。また13歳のころ手製でおもちゃの先込め銃を友達とつくって鉄片を発射して遊んだ経験がある。だから先込め銃が手間暇のかかる単発銃であることをよく知っている。
前日200の義兵が20の日本兵と戦い4名殺害した、味方の犠牲は2人と成果を義兵たちはこもごも語ったが、住民の話では死んだのは義兵5人(そのうち2人は負傷し呻いているところを銃剣で刺殺された)で日本兵は一人が刺傷を負っただけであった。
この地方の総指揮官が幕僚を連れて面会に来て武器弾薬の購入をとりもってほしいと懇願したが断った。また日本軍による包囲網の重要情報を前線の大佐から得ていたが提供しなかった。政治記者の徳義をまもったのである。従者のある者は見ておれない、護身用の銃をやってくれと記者に頼むのだった。
「日本の奴隷として生きるよりは、自由な人間として死ぬほうがよっぽどいい」 死を覚悟した青年たちは礼儀正しく、目に輝きと微笑を溜めていた。かれらはまだ民主主義、社会主義のイデオロギーに染まっていない。根底に儒教思想があって、国と家を侵略者から護る大義は勝敗にまさる、と得心しているのだろうか。ヴィジョンがなくても義に生きる、だから義兵なんだ。そんな日本人が幕末にはいたことを想いだした。
それからあまり遠くない岩と砂ばかりの河原で著者が出逢った義兵を撮った世紀のスクープ写真がこれだ。「その写真は千万言の記述よりもずっとよく彼らの様子を示していると思う」

1909年秋、日本軍は 2 ヶ月間にわたる「南韓暴徒大討伐作戦」を全羅道で展開し、3期のローラ作戦「攪拌的方法」と焦土作戦で義兵団を壊滅させた。米作地全羅道では東学農民戦争の伝統が日本人農業移民に対する怨嗟で呼び覚まされたのだろうか。

この討伐戦は日清戦争時の東学農民戦争*の繰り返しのように見える。満州、沿海州に逃げ込まないように、ソウルから遠ざけるように、忠清道から南へ追って包囲網を縮めて最後は全羅南道沿岸と島々で息の根を止める。義兵の思想的基盤となった新興宗教東学は、このときには親日的な一進会と独立志向の天道教に分裂していた。もちろん天道教徒がキリスト教徒と共に独立のために戦った。
*東学教徒の死者が日本軍の日清戦争中の戦死者2,3万を上回ることは知られていない。川上操六参謀本部次長は「東学党に対する処置は厳烈なるを要す、向後悉く殺戮すべし」と命令した。捕虜、家族まで殺す皆殺しの報復は日清戦争に始まる。中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本 もう一つの日清戦争』 2013年

義兵損害数  
年  度   殺  害   捕  虜  
1906        82       145

1907     3,627       139
1908   11,562    1,417
1909     2,374       329
1910        125         48  典拠  朝鮮駐箚軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』

1909年10月26日 安重根、ハルピン駅で伊藤博文暗殺
日本軍の苛烈な掃討により義兵運動は下火になる。沿海州、満州に逃れた義兵が細々とゲリラ戦で抵抗した。最後の一暴れは安重根による前統監伊藤博文暗殺であった。安重根は刑法ではなく大韓義軍「参謀中将」として「万国公法」で裁くよう要求した。彼に接した刑務所長と看守、一検事は心打たれて個人的に彼を義士として遇した。

1910年 韓国併合 「韓国=植民地」期
日韓併合後、朝鮮の憲兵司令官に就任した明石元二郎は、総督の寺内正毅と共に憲兵警察制度を充実させ反日運動弾圧を行った。以後軍部と官憲が「不逞鮮人」なる合成語を発信、新聞報道で拡散して流行語になった。天皇直隷の朝鮮総督統治下では独立運動は謀反を意味し「大逆」視する向きもあった。不逞鮮人は国賊と同意語として使われた。 

1919年 2月8日東京留学生 「独立宣言」 「3.1独立万歳事件」暴動を伴いつつ全国に波及 犠牲者数千人 
3~4月 水原郡堤岩里教会放火虐殺事件 この事件は、原敬首相のかねての懸念どおり、米領事、宣教師、APニュース通信員が知るところとなり、現地視察のレポート"the Cheam-ri Incident"が世界に向けて発信された。軍警が報復として村民たちを教会に閉じ込めた上放火虐殺したという内容である。英領事も視察に入ったりで、英仏でも報じられた。米国では2カ月間に40回報道された。
日本軍有田小隊は避難していた邦人製米業者(デモ隊に家を焼かれた?)の案内で堤岩里村討伐を開始した。4月15日に名簿に沿って、デモに伴う騒擾容疑男子24人(メソジスト教徒12名、天道教徒11名)を教会堂に集め、尋問を始めた。逃亡を図った一人を斬り殺したのがきっかけで騒ぎが起こり軍が乱射、23名死亡、1名脱出。教会をふくむ33軒を焼き払い妻女2人、隣村天道教徒6人を殺害した。近村まで入れると「焼失戸数328・死者45名・負傷者17名」(総督府調査)
「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ尠カラザルコト火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(朝鮮憲兵隊司令官児玉惣次郎より4月21日大臣宛電報)
虐殺についても「抵抗したるを以て殺戮したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜十二時散会す」(宇都宮太郎朝鮮軍司令官、日記)
堤岩里事件は軍警がキリスト教徒と天道教徒の指導者に目星をつけて殺害した事件だった。
全国的には同様の事件がいくつも起きているが国際問題として浮上していないので資料*が少ない。
*ほかに7件の大事件と500名余の犠牲数が知られている。韓国史事典編纂会・金 容権編著『朝鮮韓国近 現代史事典』日本評論社

3・1独立運動にたいする日本軍の弾圧は、その苛烈さにおいて、大戦後の世界的な不戦ムードと大正デモクラシーという環境とあまりにも対照的であった。 寺内正毅に代わって首相となった原敬は3月11日に長谷川好道朝鮮総督に対し「今回の事件は内外に対し極めて軽微なる問題となすを必要とす」(原敬日記)と訓電している。
この事件を契機に武断的統治が「文化的」統治に変わったという。教育を重視し産業を振興すれば・・・と、日本の統治者は維新モデルで朝鮮のヴィジョンを描いたが、現今のGDP信仰同様、格差を拡大させ、流浪民を増大させた。内鮮一体とか美しい看板が掲げられたが文明開化を自負する日本人のほとんどは朝鮮人を「品性低劣なるは蛮民と遠からず」(長谷川好道)と見下していた。

1920年春 尼港事件*、沿海州4月惨変。派遣軍、沿海州朝鮮人パルチザン、独立運動家「掃討」 
*「日本人全部は主として支那人及朝鮮人に因り惨殺セラレタリ」(参謀本部『西伯利出兵史』)  軍部では両民族に対して国民の警戒感を高め敵愾心を煽ることが常態となっていた。 

1920年秋 間島事件 馬賊数百人、琿春領事館襲撃(警察署長、朝鮮人巡査、在郷軍人、子ども含む居留民等十数名殺害)、放火略奪
原内閣(田中義一陸相)は馬賊にロシア人5, 朝鮮人100, 中国人10が混じっていたとしてパルチザン=朝鮮独立軍討伐のための間島出兵を閣議決定した。
馬賊襲撃は出兵口実づくりの謀略、自作自演(親日馬賊を使った)と韓国、中国は主張している。
朝鮮軍(大庭二郎司令官)の一部が独立軍の主力と衝突したが数日のうちに独立軍が撤退したため以後は散発的な小規模戦闘がみられただけであった。討伐行動を数カ月続行したが独立軍諸隊の捕捉には失敗した。独立軍はロシアに逃れた。
討伐行動は焼夷と掃滅と同意語である。長老派協会の医師マルティンにより世界に発信された巌洞(ノルバウィゴル)惨変にだけ触れておく。獐巌洞はキリスト教徒の村で日本軍のいう「不逞鮮人の策源地」の一つであった。
「この間、母親、妻子たちは村の青年達が処刑されるところを強制的に目撃させられた。家屋を全部燃やし、村は煙で覆われ、その煙は龍井村でも見えた。・・・教会堂は灰だけ残り、学校の大建築も同じ運命を辿った。新たに作った墓を数えてみると、31個であった。・・・他の二つの村を訪問した。私たちは燃えた家19軒と墓または死骸36個を目撃した」 マルティン『見聞記』 

日本軍は日清戦争(1894~95年)以来ゲリラ戦に対して司令官が全村焼夷と皆殺しを恫喝したり命令したりし、一部現地軍が実行した。列強の目を気にすることはあったが、当の列強が例外なく植民地、支配地で同じことをやっているのだから一時的減速にはなったがブレーキにはならなかった。
ゲリラは、軍にとっては賊の類であるばかりでなく、それ以前に文明に遅れた野蛮人であった。土人なる差別語が普通につかわれた。不逞鮮人とは皇恩に叛逆で報いる大罪人という意味を加味する思想用語である。
不断の戦争と報道と教育によって民衆は軍人同様に中国、ロシア、韓国の人々を見下す心理を深層に共有するに至った。
マッケンジーは上掲の著書で、軍と共に韓国に入って来た数千の小商人と労務者の夜郎自大な振る舞いを嫌悪をこめて取り上げている。日本刀を振り回す、殴る、殺す、奪う等、にわかには信じがたい乱暴狼藉は、大震災時の民衆の行動を彷彿とさせる。行政の顧問に居座った官吏の汚職と悪政には両班(高麗、李朝時代の官僚₌地主階級)もかくやと想わせた。さらに総督府は日本商人に阿片の商いを許可したのである。

間島出兵に至るまでの長い道のりをわざわざ追体験したのは、祖国と同胞をおとしめるためではない。関東大震災時の、自警団、青年団、在郷軍人会の信じがたい朝鮮人虐殺がパニックによる偶発事件ではなく、30年間の大陸進出で脳底に焼き付いた記憶が異常時に誤動作を招いたことを納得するためだった。