自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

転居/我が家

2012-07-27 | 体験>知識

あっという間に3学期が終わり筑後川を挟んで筋向いの草野町に移り住んだ。
そこで農地改革まで豪農か地主だった在所の農家から隠居用民家を買った。
屋敷には畑が付属していて柿木が10本ほど植わっていた。
建物は戦前に建てられた書院造だった。
床の間には床柱を挟んで左側に付書院があり明かり障子を持つ出窓と漆塗り
の黒檀のかまちがあった。
右側に床脇があった。違い棚と襖付きの天袋と地袋を備えていた。
座敷の両側に広縁があり障子とガラス戸で囲まれていた。
天井は木目が美しい流水模様の総杉板張り、欄間は透かし彫りだった。
今調べてみて贅を尽くした伝統家屋に住んでいたことに驚いている。
そして贅を秘める才能、日本文化の奥深い伝統に感じ入っている。
ウチの床の間と左右上下そっくりの画像を「大工さんの作ったホームページ」
で見てほしい。「床の間の作り方納まり」をクリックしてください。
かくして私は掘っ立て小屋で生まれて13歳で瀟洒な古民家に住むことになっ
た。
皮肉にも父母は熱愛した祖国が戦争で負けたために開拓の苦労がプレミアム
付で報われた。
固定為替レート 1ドル=360円!
そして進学率が低かった当事わたしが大学まで行けたのもそのおかげだった。


敗戦の後遺症/暮らし

2012-07-16 | 体験>知識

目に見える印しでもっとも脳裏に焼きついているのは空を飛ぶジェット機である。
空に浮かぶ一直線の白雲の先を追うとキラキラ銀色に輝く機影があった。
ブラジルでは、 聞いたことも見たこともなかった。
次に造り酒屋の蔵壁が本来は真っ白なのに縁を残して黒く塗りつぶされたままだったことである。
爆撃を逃れる目隠しのためだった。
実家の「我が家」は田舎だったので空爆を受けなかったが、久留米市は終戦真際の8月11日市街をねらったじゅうたん爆撃を受けて大きな被害をこうむった。
死者214名、ホームレス4千余名。
かねてからの目標だった久留米師団の軍事施設はまったく爆撃されなかった。
日本が降伏することがわかっていたから燃え広がりやすい市街を狙ったのか?
絵になる華々しい戦果で昇進を図った司令官による虐殺だと思う。
終戦後6年経っていたせいか私は焼け跡を見ていない。
真っ赤に空を染めて燃えるのが遠望されたと言われる大刀洗飛行場を見に行ったが夏草に覆われたでこぼこの荒地とサツマイモ畑に変貌していた。
衣食にはまだ後遺症が顕著だった。
時々アメリカからの古着が配給されていた。
6年経っても義援品が届いていたことにいまさら驚く。
小学生はカーキ色の国防服を改造した制服を常用していた。
わたしはカシミアの背広を改造したものを制服にしていた。
目立ったにちがいないが気にしたことはない。
学校給食にアメリカの支援物資(余剰農産物だから安かった)パンとスキムミルクが出た。
当時子供心にも人心の荒廃と治安の悪さが感じ取られた。
まず学校の講堂に夜巡回映画を見に行って靴箱に入れておいた新品の長靴を盗られた。
代わりにちびた下駄が残されていた。
久留米市に何かイヴェントを見に行った夜、帰り道で2人の少年に両側から首に手をまわされ建物の暗がりに連れ込まれようとした。
振りほどいて電車の駅まで走って逃げた。
2回とも従弟たちといっしょだったが、そういう危険があることを前もって教えて
くれなかった。