自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

前立腺肥大追加手術/後悔先立たず、早期手術のすすめ

2021-03-08 | 前立腺手術闘病記

前立腺肥大症は排尿困難で苦しむことが多い。3年前の手術では苦痛面も絡めてブログを綴ったが今回は病状と対策の経過をたんたんと記述するだけにする。
排尿困難はいつものことだが、2月にはいって力むと背中側の右腰が痛むので腎臓への影響を心配して、2月20日枚方Y病院で受診した。検査の結果膀胱に炎症があるが腎臓は異常ないと診断された。点滴を済ませて抗生物質を5日分もらって帰った。
21日 尿にうっすらと血の色
22日 朝と夕に少量の血尿
23日 3回血尿 ふわふわの血の塊と鉄さび状のものが便器の底に沈んでいる。
24日 夜中に7回血尿 朝から体を動かすたびに尿意、力むと大量の血で便器が縁まで染まる。血に尿が混じっている感じ。2回ほど手桶に受けて目視で各100ccと判断、早急に手を打たないと悶絶しそうだったので、Y先生(非番)に連絡してくれるように病院に電話した。11時ごろ電話があったが声が小さくて聞き取れなくて電話が切れた。そばで聞いていた妻が「はっきり聞こえているよ」とわたしに代わった電話し、すぐ来るように指示された。娘夫婦の車で30分後に病院に着いた。
CT検査の結果膀胱にたまった血の塊による尿閉と診断され、先生が手動で膀胱を洗浄した。出血元は前立腺で力みによって逆流した、と後日説明があった。洗浄液を噴射するたびに痛覚があるのでずいぶん長く感じた。
2本の点滴管に繋がれた状態で即入院となった。1本は抗生物質を腕の静脈に点滴する。もう1本は膀胱内に留置されたバルーン付き3wayカテーテルにつながって膀胱内を生理食塩水で洗浄するためのものである。1本のカテーテルで切れ目なく洗浄と排出をする仕組みが最初は分からなかったがトンネル内に往復2車線あると想像すると謎が解けた。
尿道から挿入して膀胱内に留置するカテーテル
出血が止まれば26日に手術すると告げられた。ほかに選択の余地が無いので「お願いします」と応じるしかなかった。
25日 寝たきり 3度の食事 出血は尿に色がつく程度 コロナ禍中につき面会不可 入歯安定剤がなく本日食事咀嚼困難
26日 朝食と水分抜き 午後1:30オペ開始 4:30麻酔覚醒 寒くて上半身がぶるぶる震えていた。
27日 持続的洗浄と排出 出血が皆無になれば退院 予定日は4日後  
前回手術にくらべて今回は術後の衰弱が無かった。PVP機器のパワーアップで手術の効率が上昇し、さらに出血が抑えられて患者の負担が減ったためと考えられる。
わたしの体力が向上していたことも一因であろう。毎日近くの公園まで歩いて行き梯子様の鉄棒につかまって腕と脚に軽い負荷をかけたエクササイズ効果が出たと自負している。
28日 上記循環が止まって堪らない苦痛、看護師が3wayカテーテルの端末に吸出器を挿して膀胱から尿と血を100ccほど吸いとってくれて楽になった。吸出器の中身をよく観なかったことが悔やまれる。
先生は、出血は前立腺からで膀胱に逆流して排出が詰まった、と言われたが、手術前の血の残片[鉄さび状のもの]なら納得できるが、新しい血なら腑に落ちない。尿道は膀胱までカテーテルが貫通していて血が流れる隙間はないはずだ。
3月1日 毎晩のことだが、痛み止めの座薬を入れても眠りが浅い。尿のピンク色も薄くなったのでカテーテルを抜いてほしいと先生に訴えた。抜くと半日後には排尿をふくめて比較的楽になった。出血もなくなったが抗生物質の点滴は続く。
2日 夜半から眠気がなく朝が待ち遠しい。点滴は昼で御終いになった。
3日 朝食を済ませて10時すぎ退院 以後順調に排尿しているが排尿痛はまだ少しある。

ぎりぎりまで手術を延ばしたため塗炭の苦しみを味わい入院期間が長期化してしまった。今は機器の進歩により早期に手術すれば2,3日で退院できる。同病の方は私と同じ轍を踏まないでほしい。


趣味/キノコ/山の保水力の低下を実感

2021-03-03 | 生活史


スギヒラタケ 出典  東京都福祉安全局「食品衛生の窓」
1970年代後半期、余暇=趣味の時間が少なくなり、大浜との登山も絶えて、遠方の山登りは単独行となり、それも3度で終わってしまった。近場の朝日の森(財団法人1979~2003 現=くつきの森)が山行代わりとなり、キノコ探しの行きつけの里山となった。サッカークラブの合宿、川遊びピクニックでも利用したことがある。
多忙は罪だった、失ったものが大きかった、と最近反省することしきりであるが、きのこ愛好は例外と云ってもよく、2003年まで息抜きに年に1回ほど出かけている。なぜそれが分かったかというと、このたび野外ハンドブック『きのこ』(山と渓谷社、1981年第5刷)が見つかって、それにメモ書きされていたからである。
キノコとの最初の出会いは、朝日の森で開催されたキノコ教室だった。昼間野外で講師の指導のもとでキノコ狩りをし、夕方研修所で採り立てのキノコを並べて講習会がもたれた。
食用になるか有毒かが講義の中心テーマだった。採集されたキノコがあまりにも少なく、夕食に供されたはずだが記憶に残っていない。チャナメツムタケとクリタケが姿かたちから美味しそうで記憶に刻まれた。マツタケは研修所員が前もって用意した萎びた親指ほどの大きさのものが一本あるだけだった。
帰る途中道から見上げたクマザサの藪にシイタケほどのキノコが見えた。駆け上がって探すと数本採集できた。これがわたしのキノコ愛に火を点けた。キノコ図鑑でしらべるとマツタケ並みの希少価値のあるシメジだった。
「香りマツタケ味シメジ」のシメジを偶然見つけたことから、柳の下のドジョウならぬシメジを狙って次の年再度現場を訪れた。そして近くの藪の中で数十本の大きなシメジを見つけた。
隣に住んでいた寿司屋の小父さんにおすそ分けした。さすがはプロ、モノの値打ちを知っていた。数日後大きなカニとなって還って来た。
この小父さんにはうちの子と年齢が違わないこどもたちがいた。ある日うちの子を誘って子供たちを載せて遊園地かどこかに行った。そこで何かクルマのことで他の客とトラブルになってボコボコにされた。かれは子供たちの安全を考えてその場を我慢してしのいだ。
後日、相手方にひとりで乗り込んで土下座させた。小柄だったがその迫力に相手がおびえたのだと思う。男気に感動するとともに私の知らない世界をかいまみた気がした。

朝日の森には毎年通ったが、年々めぼしいキノコが採れなくなった。まずシメジが姿を消しチャナメツムタケ、クリタケが採れなくなった。かわりにスギヒラタケが食卓をにぎわすほどに採れた。
それは、戦中をはさんで伐採跡に植林されたスギが陽の射さない森林帯となった証左であり結果である。足を踏み入れると分かるが、暗いスギ林は生物多様性を喪失した人口の密林である。
杉の古い切り株や倒木に生えるキノコだから行けば手ぶらで帰ることはなかった。香りが無く純白上品で、淡白な味と歯ごたえがよいので和洋どちらの料理にも合い、産地では人気のあるキノコである。
2004年秋「スギヒラタケで死者」の新聞記事に目を見張った。優秀なキノコとして日本海側の雪国で重宝されてきたキノコが突然毒キノコとみなされるようになったのだ。その年北国で59件の発症例があり、うち17人が急性脳症で死亡した、と統計にある。
急に毒性をもったというのではなく、前年サーズ・コロナウイルス対策として感染症法が改定され、急性脳症の症例を全数報告することになったため、毒に当たる高齢者、腎機能障害者が浮かび上がった、ということではなかろうか。
スギヒラタケの成分に、ウイルス等の脳侵入をはばむ血液フィルター「血液脳関門」を害する効能がある、という研究結果がある。こうした研究が進んで、毒をもって毒(ウイルス)を制す、画期的ウイルス対策が開発されないかなぁ、と夢みたいなことを考えている。

時間はあるが体力がない今の私にはキノコ探しは夢のまた夢になってしまった。叶わぬ夢の中でもひときわ心残りのキノコがある。
駒ケ岳からの下山道で樹木の下で見つけた、図鑑に載ってないキノコである。近くの高校に勤務していた上田俊穂先生に観てもらったが判らないということだった。上田先生著『きのこ図鑑』(保育社)掲載のソライロタケにそっくりだが、純白でさわやかな芳香に富む。わたしは勝手に芳香オシロイシメジとよんで、華やかに舞うバレリーナを連想している。

   ソライロタケ  写真:井沢正名氏

2003年の秋、わたしは三国峠のブナ林観察会に参加した。最後の山歩きである。ブナの根元に黄金色の大笑い茸が叢生していた。指導員の「地球の平均気温が1度上昇するとブナは絶滅する」という言葉が耳に残っている。